カルロス・クライバー 逝去 2004.07.13
今朝 7/20 ローカルニュースを確認していたら、神奈川新聞のサイトで、カルロス・クライバー逝去のニュースが出ていて驚いた。
その後、yahoo ニュースでも確認できた。共同通信のニュースを流したようだが、「ベートーヴェンとブラームスの全曲演奏で有名」という、少々外したコメントが寂しさを感じさせてくれた。ただ、このニュースは、ドイツ系の日刊紙(フランクフルターアルゲマイネなど)では、評伝系の大きい扱いになっていたが、お膝元のYahooドイツでも、ロイタードイツでも、英国ヤフーにも掲載されていないようだ。それが日本では各紙、各サイトでもニュースになっているのが不思議だ。以前のフリートリヒ・グルダの逝去の際にも日本ではすぐにニュースになったが、欧米ではヤフーなどでは見つけられないことがあった。日本ではそれだけ、欧米の巨匠の人気が大衆化しているからだろうか?
カルロスもすでに74歳だったという。母親の故郷のスロベニアで病死とのこと。→ 母親の故郷はアメリカで、近年亡くなった夫人の故郷だったとのこと。夫人の墓の傍らに埋葬されたようだ。
生公演に接することができるほど恵まれていなかったが、自分が1970年代クラシック音楽に目覚めた頃、過去のヴィーンフィルの演奏の伝統を打ち破る清新な指揮という宣伝文句で、華々しくベートーヴェンの第五と第七がレコード発売されて以来、自分にとっても注目の指揮者だった。しかし、なかなか彼のCDは購入しなかった。皆が凄いと騒ぐと逆に天邪鬼的に敬遠する性格なのだ。
7/20帰宅後、手持ちの上記の二曲がカップリングされたCDと、ブラームスの第四、DVDのバイエルンでの「薔薇の騎士」を追悼の意をこめて拝聴した。ベートーヴェンの二曲はあまりに生命力に溢れ、故人を悼むというより、故人に鼓舞される趣だった。ブラームスは購入当初からあまり好みが合わなかったが、今回も流線型過ぎる点と細部のアンサンブルの甘さが、自分にとってのデフォルトであるセル/クリーヴランドの録音とどうしても比べてしまい不満が残った。セルのは非常に明快で切れがよく、最終楽章のパッサカリアが大伽藍のように雄大かつ精密に積み上げられている様子がよく分かる演奏なのだ。(トラックバックされた記事にリンクされた記事を読むとクライバーのこの録音を評価する人も当然のことながらいるのが分かった。)
7/23 小遣いも乏しいのに「トリスタンとイゾルデ」のCDを購入してしまった。6000円強。確か大学生のとき、バーンスタインの録音と踵を接するかのようにして発売されたもの。当時はまだLPが主流だったため、曲の途中での盤面切り替えにフェードイン、フェードアウトを加えていて、そのようなトリビアルなことが結構賛否を呼んだのを思い出す。それ以来これまでずっと聴く機会はなかったが、今回思いきって購入してみた。1枚目を聴き始めたところだが、オーケストラパートの雄弁さには驚く。ドレスデンの少々地味で素朴な音色が、人工的な退廃の世界から救済しているかのようだ。これがヴィーンやベルリンの両フィルハーモニカーだったら、華美、妖艶過ぎていたことだろう。
クライバーの演奏は、ブラームスの第四で違和感を覚えたことに象徴されるが、生命力がその最たる特徴だろう。特にディオニソス的な性愛肯定、賛美的な面が感じられる。トリスタンとイゾルデの前奏曲を聞いて、臆面もないまさに男女の性愛の描写だと感じた。また、薔薇の騎士の序曲のホルンの突き上げるような楽想は、オクタヴィアンの興奮を象徴するものと言われているが、フライング気味とされるその指揮姿とともども、お上品で隠微なロココ劇ではとうていなくなっている。父エーリヒが残した「フィガロの結婚」は、ヴィーン情緒に溢れた名盤で、LPで所有しているが、子カルロスの「フィガロ」「ドン・ジョヴァンニ」などがもし上演されていたとすれば、刺激的で面白いものだったろうと想像してみる。
なおディオニソス的な生命力肯定といえば、フルトヴェングラーもそのような傾向があったようだが、彼にはその一面がありながらより深遠で高尚な形而上的な音楽を奏でてくれた。(オールドファンには、対極的な存在としてアポロン的トスカニーニがいたわけだが)。カルロス・クライバーはその点、徹底的に形而下的、現世的な音楽だったのではなかろうか?
なお、クライバーの第一線で活躍するようになってからのその狭いレパートリーについて、吉田秀和氏が、朝日新聞夕刊の音楽展望の休載の挨拶で、書きたいことのひとつとして挙げられていたが、吉田さんの再開を待ちたいものだ。
20040816 遅くなったけど、トラックバックくれた方ありがとう。
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