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2006年7月 4日 (火)

あるプロサッカー競技者の引退表明をきっかけに考えた

中田英寿(ひでとし)というサッカー競技を職業としている若手競技者がプロ競技からの引退を自分のインターネットサイトで発表し、マスメディア、ネットが大騒ぎになっている。今日の日本の全国紙も一面に大きな写真入りで記事を掲載し、スポーツ面、社会面でも紙面を相当費やして、経歴、各界の反応を記事にしている。

マスメディアの扱いに違和感を抱いた。彼は、一般紙が一面トップで引退を惜しむほどの、それほどの選手だったのだろうか?そこまで凄い実績を残した競技者だったのか?それほど大きい社会的な意味があるのか?

今回の彼の引き際を潔いとたたえる向きもある。しかし、ドイツワールドカップの最終戦敗戦後に大勢の観衆の前でグラウンドに大の字で寝転がり号泣したというのは、彼の真意は分からないが、潔くない惨めな情景だった。何を意図したパフォーマンスだったのか?異様なアピールだった。

1970年代にドイツのブンデスリーガーで活躍した奥寺氏を別とすれば、彼は近年外国の一流リーグでもっとも活躍した日本人競技者だったことは誰しも否定できないだろう。イタリアのセリエA(アー)のペルージャに移籍後、素晴らしい活躍を遂げたことは記憶に残っている。そして、ローマに移籍したシーズンには、久しぶりにローマがチャンピオンになる(スクデットを獲得するというらしい)のに尽力した。一時期はローマの王様とまで称されたほどだった。しかし、その後は、次第に存在感を失い、故障もあり、ワールドカップ前にはイングランド・プレミアリーグのボルトンにレンタルされ、鳴かず飛ばずの状態だったようだ。

日本代表としては、77試合に出場し、11得点を挙げたというのが数字的に残っている。節目節目のアトランタオリンピック、フランスワールドカップ、シドニーオリンピック、日韓ワールドカップ、そして今回のドイツワールドカップ、その間のコンフェデレーションカップなど大舞台にも出場している。中田がいなければ、どうなったかというゲームも多かったかも知れない。

29歳というまだ現役続行が可能な時期に現役を引退するのは本人の自由ではある。しかし、これまで蓄えた人脈、財産をテコに次の人生に踏み出そうとする部分はもはやスポーツ競技とは無関係だ。大学に入り、実業界に乗り出すというが、それはそれでいい。マスメディアはその部分をなぜちやほやもてはやすのか?競技で大きな結果を残せず、単に競技に見切りを付けるだけではないのか?サッカーという競技を本当に愛していたのだろうかという疑問はぬぐえない。

また特に最近の言動は解せなかった。確かに本人は懸命にプレーしたのだろうが、チームメートに対して、「これでは勝てない」、「真剣さが足りない」とマスコミを通じてアピールするというのは、誠実さの不足を感じさせた。客観的な立場にいる人物の発言ならば分かるが、その渦中にいる者がすべき発言ではない。それも、本人たちに直接語りかけるならばいいが、それを外部に漏らすのはおかしい。「それでは、あなた一人が勝つ能力があり、真剣さが欠けていなかったということに聞こえるが、チームの一員として責任はないのか」と聞きたいほどだ。キラーパスも結構だが、チームメイトが追いつかないようなパスを出さないと勝負にならないのか?意欲は分かるのだが、周囲を生かすという大きさは見られなかった。自らも語っていたようだが、チーム競技向きの性格ではなかったのかも知れない。

彼に比べれば、自力でUSAのメジャーリーグに乗り出し、大活躍をし、その後ベテランとなり故障を抱えながら競技者生命の続く限り競技を続けようと苦闘する野茂英雄投手の方に共感を覚える。それは愚直とも言える生き方だが、小利口な生き方に比べてどちらが価値があるか。人生観の問題だ。

ただ、マスメディアが今回のように彼を大きく取り上げることには、直接彼には責任はないと言うこともできることを言っておかねばフェアではないだろう。これは、日本のマスメディア(国民性)の問題だろう。

なお、中田英寿氏がマスコミへの不信感を持ったのは、某新聞がアトランタオリンピックのときに掲載した記事により、日本国内で政治団体の圧力を受けるようになったためだという。それがきっかけで、ネットのホームページで自ら情報発信をするようになったとされる。

以下余談だが、今回のワールドカップサッカー大会で、日本チームと優れたチームとの動きを見ていると、日本の場合には、いわゆる有機的な連携がとれていないように思う。それに役割分担も明確ではない。ボールを受け取るととすぐに誰かに渡そうとするが、局面を打開しないような苦し紛れのパスが多い。得点シーンでも、誰かが勇気をもってディフェンス陣に切り込みをかけ、それを起点に周囲のプレーヤーが連携的に動き、細かいパスをつなぎ得点を挙げるというシーンが見られたが、日本は中盤でパスを回してゴールに迫っても、そこから突進するような動きとそれに連携する攻撃陣の動きがほとんど見られなかった。実力差といえばそれまでだが、どうも全体と個の動きの質というものが、意志のある動きという点で大きな違いがあるように思えた。近代社会の組織的な動きという点では、日本国に住む人々はそれなりに優れていたために、企業組織としての活動が世界的に活発なのだろうが、その点少々ルーズだと思われる中南米、アフリカなどの諸国のチームがチームとして有機性を持った組織で動いているのには、その先入観とのギャップがあり、驚いた。

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