« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »

2006年11月の37件の記事

2006年11月30日 (木)

IE7.0からIE6.0に戻す

バグがあるらしく、私のPCではIE7.0が使用中にエラー報告の表示が出てしまい、そのボタンをクリックすると終了してしまう現象が毎日のように出る。

仕方がないので、IEのサポートサイトを見ると戻し方が出ていた。XPの場合はIE6が不可分なので、簡単に元に戻せるらしい。

http://www.microsoft.com/japan/windows/ie/support/default.mspxQ Internet .

Windows XP で Internet Explorer 7 をアンインストールして Internet Explorer 6 に戻すには

    1. [スタート] をクリックして [コントロール パネル] をクリックします。
    2. [プログラムの追加と削除] をクリックします。
    3. ダイアログ ボックスの上部の [更新プログラムの表示] をチェックします。
    4. 一覧を下にスクロールして現在使用しているバージョンの Internet Explorer 7 をクリックし、[変更/削除] をクリックします (3 月 20 日以降にリリースされた Internet Explorer 7 ベータ 2 プレビュー版を実行している場合、[更新プログラムの表示] をチェックする必要はありません)。
  • 途中で、ダイアログで削除するかどうかを聞いてくるので、はい を選ぶとそのままアンインストールが進み、再起動すると、IE6.0が復活していた。これで、いつエラーになるかを心配しながら作業することも減るだろう。 タブブラウザとフィードは便利だったが、仕方がない。

    P.S. 参考記事 IE7のインストール

    追記: 2008年3月 1日 (土) Firefox 2 の使用感はなかなか で、IE7.0に代わるFirefox 2のことを取り上げた。タブブラウザ、RSSフィードなど便利な機能が安定して使えている。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    ショスタコーヴィチ 交響曲第15番 バルシャイ/WDR交響楽団

    Shostakovich_s15_barshai ドミトリ・ショスタコーヴィチ Dmitry Shostakovich(1906-1975)

    交響曲第15番 イ長調 作品141

    バルシャイ指揮 Rudolf Barshai

    WDR交響楽団  WDR Sinfonieorchester

    〔1998年6月15,20日、ケルン・フィルハーモニーでのディジタル録音〕
    8:19/11:43/3:53/13:58

    今年生誕100年のショスタコーヴィチ。つまり日露戦争終結の翌年の生誕ということだ。当時はまだロシア帝国だったということか。そういえば、例のバルチック艦隊の司令長官はロジェストヴェンスキーという姓で、かの辣腕指揮者でショスタコーヴィチの演奏も得意にしていた指揮者と同じ姓だが、何か関係があるのだろうか? 

    さて、ショスタコーヴィチが1975年に逝去した直後だったと記憶するが、父がコンドラシン/モスクワフィルによるこの曲のLPを購入してきた(1974年5月27日録音だという)。それを時折聴いたので、第5番に次いで早くから親しんだ曲だった。といっても、比較的聞きやすい第1楽章に馴染んだ程度だが。このコンドラシンの全集は、このLPの録音は結構鮮明(もっとも室内楽的な小編成のためかも知れないが)で、最近まで録音状態の悪いCDが出ていたというが、ソ連末期の混乱のためだったのだろうか?(最新のCD全集は結構いい音がするという。)

    ショスタコーヴィチの最後の交響曲。1971年完成。第13番のバス独唱とコーラスによる『バビ・ヤール』、第14番のソプラノとバスの独唱による『死者の歌』とも呼ばれる交響曲に続くこの交響曲は、純音楽的な器楽だけによる交響曲になっている。演奏時間も40分弱と比較的規模が小さい。息子マキシムの指揮により1973年初演。

    第1楽章 Allegretto
    トライアングルの音から開始。途中、ショスタコーヴィチが少年時代聴いたというロッシーニの『ウィリアムテル』序曲の行進曲の部分が引用。

    第2楽章 Adagio-largo-adagio-allegretto
    ブラスの合奏に続く、チェロ独奏のモノローグ、ブラス合奏、またチェロ。ブラス。ヴァイオリンソロ。木管合奏。トロンボーンとチューバのデュエット。トゥッティでのクライマックス(7:00あたり)。シロフォンや拍子木が鳴らされるのがいかにもショスタコーヴィチらしい。

    第3楽章 Allegretto
    皮肉な調子のクラリネット、ヴァイオリンソロで始められる短いスケルツォ楽章。

    第4楽章 Adagio-allegretto-adagio-allegretto
    この楽章の冒頭はヴァーグナー『ジークフリートの死』の運命のライトモチーフが引用されている。このほかグリンカの歌曲、ヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』、マーラーの第10交響曲も引用されているという。第1楽章の冒頭主題が回想される。おもちゃのような打楽器で静かに終結。

    ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、マーラーなど、最後の交響曲はいわゆる畢生の大作というイメージが強いが、このショスタコーヴィチの場合には、どうも第9番での肩透かしや死を十分意識していたこの第15番でも同じく過去の偉大なシンフォニカーと比べて斜に構えていたように思える。そこが、むしろショスタコーヴィチという作曲家の特質なのかも知れない。どこか皮肉っぽく、はぐらかしを用意しているようにも感じられるところがある。

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    2006年11月29日 (水)

    ドヴォルザーク 交響曲第9番『新世界から』セル/CLO

    Dvorak_s9_szell アントニン・ドヴォルザーク Antonin Dovrak(1841-1904)

      交響曲第9番 ホ短調 作品95『新世界から』

    ベドルジーハ・スメタナ Bedrich Smetana(1824-1884)

       交響詩『モルダウ』 (連作交響詩 『我が祖国』第2曲)

    ジョージ・セル Georg Szell 指揮 
    クリーヴランド管弦楽団 Cleveland Orchestra
    〔ドヴォルザーク:1960/3/20,21 スメタナ:1962/7/19 クリーヴランドでの録音〕

    ドヴォルザークが1892年から2年間滞在した新世界アメリカは、南北戦争を終結し1862年の奴隷解放宣言を経たアメリカだった。その地で、ドヴォルザークは、もちろん同郷のチェコ人のコミュニティーなども訪れたようだが、音楽院の院長としてネイティヴ・アメリカン(旧称アメリカ・インディアン)やアフリカ系アメリカン(いわゆる黒人系)の学生などから彼らの独特の音楽をも学んだようだ。現在最も愛好されている彼の傑作、この『新世界』交響曲および『アメリカ』弦楽四重奏曲、チェロ協奏曲は、意外にもこのアメリカ滞在中に作曲されている。

    ところで、そのアメリカ合衆国(「合州国」という訳語は未だに広まらないが)オハイオ州クリーヴランドという町の名は、エジソンの伝記にでも関心がなければ、恐らくあまり耳にすることのない町だが、ジョージ・セルのおかげで、音楽愛好者にとっては、現在でも世界有数のオーケストラの所在地として、あまりにも当たり前の地名になってしまっている。

    Wikipediaでクリーヴランドを読むと、デトロイトと並ぶような自動車工業の町だったらしいが、1960年ごろまではひどい環境汚染に見舞われていたところのようだ。

    20世紀はアメリカの世紀であり、その繁栄の原動力となった五大湖周辺の重工業地帯で、自らの出自(母方はチェコ人かスロヴァキア人らしい)の一つでもある国を代表する音楽『アメリカからのヨーロッパへの挨拶』を演奏するというのは、逆にヨーロッパから自らの意思ではなく、亡命してきたセルのような指揮者にとっては、どのような感慨のものだったのだろうか?

    そのような部外者の興味関心とは大きくかけ離れて、CBS録音のセルのドヴォルザークは(EMI録音とは違い)純音楽的なアプローチにより、オーケストラの透明な音色と緊密なアンサンブルとソロ楽器の安定した上手さを用いてすっきりしたボヘミアの音楽を奏でている。それでもあまりにも有名な第2楽章のコールアングレーのソロはそっけなく演奏しているのではないかという予想もこれまた外れて、情緒のある演奏になっている。また終楽章で熱狂的に盛り上がる部分も一糸乱れないが、冷たくはなく熱い演奏になっている。ドヴォルザークのオーケストレーションは、あまり上手くないオーケストラの演奏だと鳴りがよくないのだが、その点この演奏だとそのような心配はまったくない。

    スメタナの『モルダウ』は、ライヴ録音などを聴くとアンサンブルを整えた精密な演奏は非常に難しいようで、冒頭の源流の部分などアンサンブルをあわせるのが大変そうだが、このセルとクリーヴランドは水の音楽でありながらまさに「水も漏らさぬ」完璧な演奏を繰り広げている。クーベリックにはボストン響との『我が祖国』全曲の見事なスタジオ録音のほか、全曲録音をいくつか残しているが、セルには全曲録音はないのだろうか?

    ところで、このカップリングは、LP時代にも買い求めたもので、音盤としては重複になる。そのLPの前に購入したノイマンとチェコフィルのアナログ録音盤も同じ組み合わせだった。特に『新世界』はノイマン(前に記事を書いたCDの前の録音)で聞きなれた音楽だったが、セルのを聴くと、吉田秀和氏の「大工業地帯の機械が精密に動くような精緻なフレージングが冒頭から聞かれる」という趣旨の評の通り、ボヘミア的な鄙びたラプソディックな音楽ではなく、洗練された大交響曲として立ち表れる感じだ。そこには、すぐに感じられる「懐かしさ」のようなものはないが、底流としてはこの音楽の愛が感じられるように思える。多分自分とセルの音楽との相性の問題だろうが、いわゆるあまりにも有名すぎて聴き馴染んだ音楽(といっても「通俗名曲」とするのは、どうだろうか?受けを狙った迎合的な音楽ではないと思うので)だが、このセル盤を聞き始めると途中で飽きることがなく、つい最後まで聞いてしまう。(フルニエ、BPOとのチェロ協奏曲もまったく同じだ。)

    録音は、残念ながら少々古びた感じで、ヒスノイズや強奏での濁りが多少あるが、それほど聴きにくくはない。

    【手持ちのタイミング比較】
    セル/クリーヴランドo.     〔1960〕 8:39/12:08/7:51/10:55
    ケルテス/VPO               〔1961〕  9:44/11:46/7:39/11:05
    小澤/サンフランシスコso. 〔1975〕 12:36/12:00/7:45/11:35 (第1楽章提示部リピート)
    ノイマン/チェコpo.           〔1981〕 9:36/11:34/8:17/11:22

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    2006年11月28日 (火)

    ブルックナー 交響曲第9番 ブロムシュテット/ゲヴァントハウス管

    Bruckner_s9_blomstedt_lgoアントン・ブルックナー Anton Bruckner (1824-1896)

    交響曲第9番 ニ短調

    ヘルベルト・ブロムシュテット Herbert Blomstedt 指揮

    ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
    Gewandhaus Orchester, Leibzig

    Ⅰ- 24:43   Ⅱ- 10:07  Ⅲ- 25:28

    〔1995年1月、ライプツィヒ、ゲヴァントハウスでの録音〕


    『のだめカンタービレ』の原作にもテレビドラマにも登場しない作曲家は、結構いるけれども、恐らくブルックナーは登場しない最右翼ではないかと予想する。

    なぜか女性でブルックナー好きは非常に少ないようだ。本当になぜか。もともとブルックナーは長い間ドイツ・オーストリア圏以外ではほとんど演奏されたり聴かれたりすることのなかった作曲家だったらしい。しかし、いまや世界的にみても人気作曲家の一人であり、ドイツ三大Bとしてブラームスの代わりにブルックナーを入れる向きもあるほどだという。

    ところで、少々極端な話だが、現在名を残している作曲家の多くが天才と言われるある特定の分野に異常な才能を発揮した人物だが、それらの天才には、今でいう広汎性発達障害(アスペルガー症候群、高機能性自閉症なども含む)と言われる精神的な特徴を持つ人物が(多いとは言わなくとも)少なくなかったようだ。彼らはいわゆる対人関係(とりわけその場の空気を読むということなど)を苦手としているが、ある特定の分野については、尋常でない興味・関心を示し、また実際に常人ではなしえないような着想、発想、構想や集中力、記憶力を持つこともあるようだ。その広汎性発達障害を持つ比率は圧倒的に男性の方が多いという。

    伝えられるエピソードから、大作曲家の中では、ブルックナーは多少なりともこの性質を持っていたように思われる。浜辺の砂粒(河原の石?)を数えようとしたという逸話や、自作への限りないほどの改訂癖、そして乱暴な言い方を用いれば、交響曲の形式と内容的には、その他の交響曲作家と異なり、どの交響曲もいわば金太郎飴的な類似性を持ち、それを深化させようとする追求をやめなかった点など。

    自閉症などについては今ではテレビドラマでも取り上げられるなど相当社会の理解も広くはなってきてはいるとはいえ、人付き合いが苦手ゆえに変人とみられがちだ。しかし偉大な仕事もする可能性のあるそのような性質を、現代社会は未だに矯めたり差別したりしがちでもある。このような性質を受容できるかどうかは、社会の成熟を測る一つの試金石であるかも知れない。(この辺りは、非常にデリケートな問題だが、いわゆるいわゆる広汎性発達障害によく見られる「空気を読める、読めない」、「社会性がある、なし」についてはこのブログが的確なことを書いている。また、実際ブルックナーをそのような例として取り上げた精神医学の普及書もあるようだ。高度に社会化しすぎた現代社会ゆえに余計そのような特徴が病的だとしてクローズアップされがちなのかも知れない)。

    そのブルックナーが残した未完の大作がこの交響曲第9番 ニ短調だが、奇しくもベートーヴェンの第九と同じ調性を取っている。

    ブロムシュテットは、ドレスデン・シュターツカペレ(SKD)の常任指揮者時代からブルックナーの演奏に定評があったが、このCDは、2005年にも同じコンビで来日した名門ライプツィヒ・ゲヴァントハウスGewandhausorchester Leipzig  との録音である。1990年代からブロムシュテットがすでにこのオーケストラの常任指揮者だったということをまったく知らなかった。そしてつい昨年の2005年秋にはシャイーがこのオケの常任になったのだという。

    ハイティンクの場合、SKDの後シカゴ響に就任したとも聞くが、この辺の事情にはすっかり疎くなってしまった。大物指揮者と名門オーケストラの門出でも(ボストン響とレヴァインも同じだが)20世紀のように新録音で披露されることがあまりなくなったことも大きいように思う。いまや誰がどこにいるのかよく知らない。

    ともあれ、メンデルスゾーンが指揮した名門で、シューマンとも関係が深く、その後もニキシュ、フルトヴェングラー(この時代にミュンシュがコンサートマスター)、ワルター、アーベントロート、コンヴィチュニー、ノイマン、マズア等が指揮してきたが、あまりブルックナーとの縁はなかったのではなかろうか?(マズア時代があまり評判がよくなかったこともあるかも知れない)

    前置きが長くなったが、ブルックナーの最高傑作とされる第9番は、これまで音盤としては、ショルティ指揮シカゴ響の録音しか聞いたことがなく、あまりよく知っている曲とはいえない。ブルックナーを得意としているブロムシュテットと、かつての名門ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるこの曲だが、デッカレーベルの最新録音でも、このオーケストラの音色はややくすんだものに聞こえる。同じ旧東ドイツの名門と言ってもシュターツ・カペレ・ドレスデンの衰えを知らない管楽器のソロとアンサンブルと独特な音色に比べると、残念ながら一聴してすぐに魅力にとらわれるというものではないようだ。

    それでも、聴いているうちに、ヴィーンフィルやベルリンフィル、ドレスデンやシカゴ、コンセルトヘボウ、クリーヴランドのような洗練されたオケによるブルックナーもいいが、このオケによるブルックナーは噛み続けると味が出るような感じで、この音色的には質朴な音楽も悪くはないとも感じられてくる。

    | | コメント (3) | トラックバック (0)

    2006年11月27日 (月)

    TVドラマ『のだめカンタービレ』 Lesson7

    今晩は、子どもたちの宿題も終り、生放送で全編を楽しめた。

    BGMが出るたびにメモしてみたが、ちょっと自信のないものもあった。

    1.シベリウス『フィンランディア』冒頭
    2.メリーさんの羊(マザーグースより)
    3.ショパン 幻想即興曲
    4.グリーグ『ホルベアの時代』(これが自信なし)
    5.オッフェンバック『地獄のオルフェウス』序曲
    6.ショパン『別れの曲』
    7.オープニングのベト7
    8.フィンランディア
    9.モーツァルト オーボエ協奏曲第1楽章
    10.ホルベアの時代
    11.コダーイ『ウィーンの音楽時計』(ハーリ・ヤーノシュ)
    12.チャイコフスキー弦楽セレナードのワルツ
    13.オーボエ協奏曲
    14.メンデルスゾーン ヴィオリン協奏曲(三木清良のソロ練習)
    15.オーボエ協奏曲
    16.『ラプソディー・イン・ブルー』
    17.ドビュッシー『亜麻色の髪の乙女』(谷岡先生と千秋)
    18.ドヴォルザーク スラヴ舞曲ホ短調 作品72の2
    19.ヘンデル シンフォニア(シバの女王の入場)
    20.おなら体操(のだめピアノ)
    21.ヴェルディ『レクィエム』より『怒りの日』
    22.ブラームス交響曲第1番(ミルヒーのCD)
    23.ホルスト『木星』
    24.ブラームス交響曲第1番(R☆Sオケ)
    25.ラフマニノフ『ヴォカリーズ』
    26.モーツァルト交響曲第25番ト短調冒頭
    27.J.S.バッハ 小フーガ ト短調
    28.エンディングのラプソディー・イン・ブルー

    今回は、ハリセンがプリゴロタのフィギュアでのだめを手なづけるシーン(もじゃもじゃ組曲第12番はドラマでは作曲されず!)、R☆S(ライジングスター)オケの本格始動が主だった。原作の千秋が母征子の実家(横浜)にのだめを連れて行くエピソードで重要な「のだめは先生向きではないと宣告するシーン」「飛行機の胴体着陸事故での音楽好きの老人の薬瓶が千秋の手の先を転がっていくシーン」は、音楽大学内のシーンとして演出されていた。また、理事長がからむオケの公演のホールのシーンではもうほとんど出番が無いはずの彩子が登場し今後も登場する予感。コンクール参加のためオケの連中の気持ちが上の空というのはあまりその経緯が描かれていなかったので原作を知らない人には少々唐突だったか?

    ハリセンの指導によりのだめのコンクール出場はドラマでは描かれるのだろうか?オクレール教授がのだめの弾くピアノを聴く場面が結構好きなので是非見たいのだが。

    P.S.  4, 10の グリーグの『ホルベアの時代』かと思ったのは、シベリウスの『カレリア』組曲からだったようだ。残念!

    | | コメント (0) | トラックバック (1)

    ブラームス 弦楽六重奏曲 アマデウス四重奏団、他

    Brahms_sextetnr12

    ブラームス Johannes Brahms (1833-1897)

    弦楽六重奏曲第1番 変ロ長調 作品18

    弦楽六重奏曲第2番 ト長調 作品36

    アマデウス弦楽四重奏団 Amadeus Quartet
    アロノヴィッツ Aronowitz(2ndVa), プリース Pleeth(2ndVc)
    〔第1番:1966年12月、第2番:1968年3月、ベルリンでの録音〕

    最近、DGレーベルの往年の名盤がThe Best 1000(税込み定価が1000円ジャスト)というシリーズで発売された。この一枚はそれに含まれていたもの。

    第1番は、第2楽章が映画音楽に使われたこともあり、ポピュラー分野でも歌詞が付けられて歌われたりもしているほど有名な曲(元トワ・エ・モアの白鳥英美子の『Amazing Grace』という1987年発売のアルバムに『Heartland』という題名で歌われている)。

    LP時代には、バルトーク四重奏団が中心になった非常に響きの濃厚な演奏で親しんだ。

    アマデウス四重奏団には、ブラウやコッホとの共演によるモーツァルトの四重奏曲程度しか縁がなかったのだが、音楽嫋々・クラシック名演奏CD&レコードこだわりの大比較。理想の感動体験への旅。の一連のアマデウス四重奏団の記事を拝読し、聞いてみたくなっていた。ちょうど、上記のシリーズで、この四重奏団に有名なヴィオリスト アロノヴィッツが加わったブラームス、それも第2番(こちらはこれまで聞いた記憶がなかった)も併録されているものが目に留まったという次第。

    第1番は、1860年に作曲されたもので、非常に柔軟な表情のブラームスだ。まだ比較的若い頃の作品だけあり、バロック的な陰鬱な変奏曲はあるものの、田舎、田園を連想させるような若やいだ表情の音楽になっている。そのような楽想と構成をアマデウス四重奏団は、華やかな第1ヴァイオリンの歌を中心にしてうまく表現しているように感じた。

    第2番は、アガーテ・フォン・ジーボルトという女性に関係する曲だとされる。彼女とは相思相愛の仲だったそうだが、なぜか煮えきらぬブラームスの態度に、アガーテの方が心を残しながら、婚約を解消したという。これが1858年のことで、この曲はそれから6年後の1864年に書かれたため、Agathe  A-G-A-(T)H-E を第1楽章の162-168小節のヴァイオリン声部に織り込んだのはどういう意味があったのか?曲想的には、手痛い失恋を悔やむというよりも、過去となった思い出を微かな痛みとともに追憶しているかのようだ。

    (ベートーヴェンとブラームス、ドイツ圏が生んだ二人の大作曲家は、恋多き人生を送ったが、結婚という形で実らなかったというのは単なる偶然なのだろうか?)

    この第2番は、『ドイツ・レクィエム』の直前に作曲されたものだという。ト長調という明朗な調性を持つ曲だが、冒頭から半音階的なたゆたいの表情を見せ、比較的シンプルな第1番との違いを示すかのようだ。この第1楽章では、チェロに出る第2主題がブラームス的な旋律美を示し印象的なものになっている。それでもテンポはアレグロ・ノン・トロッポ(第1番はアレグロ・マ・ノン・トロッポ)で、ゆったりとした広がりのある音楽で、眼前に広やかな光景が見えるような音楽になっている。第2楽章は、スケルツォだが、主部は非常に慎ましやかな音楽になっている。ブラームス的な対位法が曲に奥行きを与える。ところが、通常のトリオの中間部が突然忙しく動き出す。第3楽章は、Poco adagio。Pocoというあいまいな指定がいかにもブラームスらしい。「やや」「ちょっと」「少し」。しかし単なるアダージョ楽章ではなく、フガート的な動きの激しい部分も登場し、少々面白い。第4楽章 Poco allegroは、第1番と同じく主調の明朗さよりも曇ったような調性的な特徴を示す。無窮動的な動きをするヴァイオリンに引っ張られて全楽器がスケルツァンドな不安定な音楽を奏でる。それでも最後には明朗なト長調の和音で終結する。

    第1番では、少々聴きなれたバルトーク四重奏団とは音程的に微妙な違いを感じる部分があったが、こちらは初めて聴く曲でもあり、そのような違和感がなかった。弦楽六重奏は、ブラームス以前には著名な作曲家の作品はないそうだが、四重奏、五重奏よりも中低音が充実するせいか、豊かさや広がりを感じさせてくれる。

    なお、The Best 1000は、オリジナルジャケットを使っているようだが、必ずしもオリジナルカップリングではないようだ。また、ライナー部に詳しい録音データがあるのが普通のDGだが、ケース裏面以外にはデータは記されていないようだ。

    ところで、先日ブラームスのクラリネット・ソナタを聴き、クラリネット・トリオ(クラリネット三重奏曲)も聴きたくなり昨晩聴いた。この春に購入して記事にしたときには、あまり心に沁みてこなかったのだが、この晩秋の夜更けに聞き入ると、なぜか心に響く。春は、フランス近代が耳に適うのだが、秋はブラームスというのは、まことに適切だと思った。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2006年11月26日 (日)

    クリュイタンス/BPOのベートーヴェン 交響曲全集の簡単な感想

    Disky盤の クリュイタンス指揮ベルリンフィルによるベートーヴェンの交響曲全集を聴くのは楽しかった。

    Andre Cluytens/Berlin Philharmonic Orchstra

    ◆第3番。クリュイタンスの『エロイカ』がこういう演奏だとは思わなかった。不意打ちで驚いた。スリムで引き締まった軽快な『英雄』像だ。フルトヴェングラーのベルリン・フィルがこのようなアポロン的なエロイカを演奏したとは非常に意外だ。その直後のカラヤンの録音よりもこちらの方に共感を覚える。

    ◆第7番は、第1楽章の主部はとにかく遅く感じる。躍動感が感じられない。吉田秀和『世界の指揮者』では、クリュイタンスのこの録音が俎上に乗せられ、アゴーギクがディナーミクに結びついていないことに強い違和感を呈している。それには遠くから近づきまた遠ざかるく汽車の比喩を使われている。フルトヴェングラー的なアゴーギクとディナーミクの結びつき(ストリジェンド)のよしあしもあるように思うが。そこでは、あのセルでさえ、第4楽章の長い持続的なクレッシェンドでは、アッチェレランドを伴っていたと指摘されている。しかし、クリュイタンスの第4楽章は結構好きだ。これがインテンポによる迫力(吉田氏)によるものかは分からないが、執拗なリズムの反復の積み重ねによる効果がよく分かる。

    ◆第5番は、第1楽章の第2ヴァイオリンの強調が不意打ちでびっくりした。セル、ライナーのコーダでのホルンでのモットーの拡大の強調は聞かれなかったが、明晰でもたれない古典的なプロポーションを保った演奏だと思う。

    ◆第6番は、世評が高いため意識して聞きすぎたのかも知れないが、あまりピンと来なかった。先の記事にも書いたが、少々第一楽章でのアンサンブルの微妙なズレが気になるし、ヘ長調の弦楽器の鳴りが少々耳につく。これはワルター/コロンビアの名盤でも感じた。その点セルの録音は、少々人為的な感じがするが、特に第一楽章の安定したテンポとアンサンブルは見事だし、音色的にうるさくなく慎ましやかで好みだ。

    ◆第9番の合唱は凄い。特に自分が歌ったことのあるベースが右チャンネルから明瞭に分離して聞こえる。しかし、オーケストラの音は芯がない音というのか、冒頭のホルンと弦の刻みの上にかすかにきらめくはずのヴァイオリンの音がよく聞こえないほど。全体に夢の中のような演奏だ。それなのに第四楽章の歌手と合唱の実在感が奇妙に思う。合唱は聖ヘドヴィッヒ教会(大聖堂)の合唱団という団体で、これはフリッチャイがほぼ同時期に録音したときと同じ団体。調べてみるとこの団体は名合唱指揮者の指導により名合唱団として名を馳せたものらしい。歌手はフリッチャイが、F=ディースカウを初めとしたドイツ系の名歌手揃いだが、クリュイタンスはゲッダを除いて知っている歌手がいなかったが、著名な歌手たちらしい。

    WIKIPEDIA英語版の外部リンク集ではベートーヴェンのマニュスクリプトも一部見られる。)

    ◆第1番と第2番。LPで聴いた曲だが、CDの方がしまった演奏に聞こえる。LPの方がもっと弦が分厚い響きで飽和気味だった。編成の大きさが違うと思えるほど聴いた印象に差がある。CDの方がコンパクトで、古典派交響曲的なすっきり感があり好ましい。

    ◆第8番は、これをモノーラルにして音質を劣化させ、フルトヴェングラー/BPOの幻の録音として世に出されたこともあったという。洋泉社Mookの『名盤&裏名盤』では、口の悪い評論家によってこのクリュイタンスの録音はただ音を並べただけだと酷評されている(他の指揮者の録音についてもルサンチマンのような悪口を並べているのだが)。それほどひどい演奏だとはまったく思えない。簡素に見えてアンサンブル面で非常に演奏が難しい作品だというが、そのような点を微塵も感じさせず高潔で気品がある演奏だと感じた。

    ◆第4番は、ここでも最後に聞くことになってしまった。自分の中ではやはり影が薄い曲だ。しかし、クリュイタンスとBPOによる録音は聞いていて楽しかった。フルートはニコレだろうか、クラリネットは、オーボエは、ファゴットは、ホルンは・・・。管のソロが実に美しい。カラヤンの楽器になる前のベルリンフィルだが、今聞いても(オケの上手い下手はよく分からないのだが)、各パートとも非常に充実している。クリュイタンスのバランスなのだろうが、それほど低音を強調していないため、全体的にクリアに聞こえるため余計それがよく分かる。そしてマスとしての全体の響きの豊かさがなんともいえない。解釈としては、カルロス・クライバー以降の流行りになった雄渾で火の玉のような第4ではないが、男性的な音楽が繰り広げられる。

    ◆序曲では、『プロメテウスの創造物』、『エグモント』、『フィデリオ』(Op.72b)が収録されている。

    録音会場は、ベルリンのグリューネヴァルト教会での録音とのこと。Disky盤は、録音データはいまひとつ明らかではなく○Pマークと西暦が印刷されているだけだが、世界のネットでは流石に詳しいディスコグラフィー(韓国の人らしい)があった。

    それによると以下の通り。

    第1番 19th Dec. 1958, Grünewaldkirche, Berlin

    第2番 15,16th Apr. 1959, Grünewaldkirche, Berlin

    第3番 Dec. 1958, Grünewaldkirche, Berlin

    第4番 May 1959, Grünewaldkirche, Berlin

    第5番 10,11,13th Mar. 1958, Grünewaldkirche, Berlin

    第6番 2,3,9th Mar. 1960, Grünewaldkirche, Berlin 何とこの前の1955年に同じベルリンフィルとのモノ録音もあるという!(Testamentから発売 Testament SBT 1182で、下記の『未完成』とのカップリング!

    第7番 Feb. 1957, Grünewaldkirche, Berlin

    第8番 Dec. 1957 & Mar. 1960, Grünewaldkirche, Berlin

    第9番 Dec. 1957, Grünewaldkirche, Berlin

    プロメテウスの創造物序曲 Mar. 1960, Grünewaldkirche, Berlin

    エグモント序曲 Mar. 1960, Grünewaldkirche, Berlin

    フィデリオ序曲 Nov. 1960, Grünewaldkirche, Berlin

    p.s. 東芝EMIのセラフィム盤のLPでは、定番の『運命・未完成』にするために、同じコンビでシューベルトの『未完成』交響曲も録音されていたことが分かる。ベートーヴェン全集でこのようにまとめられてしまうと、せっかくの『未完成』が消えてなくなってしまい少々残念だ。

    と書いたが、25th Nov. 1960, Grünewaldkirche, Berlin録音のこの「未完成」が Testamentの SBT 1182 というナンバーのCD で上記『田園』(1955年のモノ録音)とのカップリングで入手可能らしい!

    | | コメント (1) | トラックバック (0)

    2006年11月25日 (土)

    シューマン ピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲 デムスとバリリ四重奏団

    Schumann_pfquartet_quintet

    ロベルト・シューマン(1810-1856)

    ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44
    ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品47

    イェルク・デムス(ピアノ) Jörg Demus
    バリリ四重奏団  Barylli Quartet

    〔1956年 ヴィーン、コンツェルト・ハウス、モーツァルトザールでの録音、モノーラル〕

    イェルク・デムスのピアノとヴィーンフィルのコンサートマスターだったバリリが主宰した四重奏団によるシューマンの室内楽曲。米ウェストミンスターレーベルによる一連のヴィーン録音だが、日本人の手により録音当初のマスターテープ(原盤?)が発見され、それにより音質がよみがえったとされる再発売もの。このCD以外にも多くの室内楽を録音したバリリは、よみがえった録音を聞き、自分の当時の音がすると言って感涙にむせんだと伝えられている。文春新書の『クラシックCDの名盤』p.197-198 中野雄氏の大絶賛「レコード界不朽の名演」に興味を持ち、数年前に購入した。(『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』p.270にも「レコード界の至宝」とこれまた最大級の賛辞。)

    先に『シューベルティアーデ』というタイトルのCDで触れたデムスは、ヴィーン派のピアニストという先入観を裏切るほどの意外にも非常に広いレパートリーを持ち、シューベルティアーデのCDの帯には、膨大なリストが掲載されている。J.S.バッハの「ゴルトベルク」「パルティータ」「平均律」「イギリス組曲」、モーツァルト、ブラームス、フランク、そして何とドビュッシーも録音しているほど。

    それでも、デムスは、特に1950年代から1960年代が全盛期で、独奏曲よりもアンサンブルの名人として現在でも名盤の誉れの高い録音を残しているようで、フィッシャー=ディースカウとの『詩人の恋』などは、未だに歌手自身が最良の歌唱としているほどのものだという(その後エッシェンバッハと録音したCDも名録音の評判が高いが)。その中にあり、このCDはもっとも素晴らしいものの一つかも知れない。(訪問させてもらっているブログのいくつかではすでにこの録音を取り上げられている。)

    さて、今年没後150年のロベルト・シューマンの生涯と作品、評論は今でも非常に興味深いものがある。岩波文庫で読める『音楽と音楽家』(吉田秀和訳)もすでに何度も話題にしたが、同時代の作曲家で現在もその作品が愛好されているものなど、当時それについてシューマンがどのように感じたのかがよく分かる。(ただ、モーツァルトのト短調交響曲など前時代の古典派については少々首をかしげる理想化が行われているようだ。この本では見つからないのだが。)

    シューマンのこの2曲のピアノを伴う室内楽曲のうち、ピアノ五重奏曲は、R.ゼルキンとブダペスト四重奏団の往年の名演をたまたま学生時代にエアチェックでうまく録音でき、ラジカセでよく聞いた思い出の曲だ。その頃、シューマンの交響曲や歌曲、ピアノ独奏曲もあまり知らずに、(トロイメライを別にすれば)最も親しんだ曲が、このピアノ五重奏曲だ。後に、ブラームスやフランクが同編成の曲を残すが、意外にもこの編成は古典派時代にもないようで、比較的珍しいものらしい。(ピアノ四重奏曲といえば、モーツァルトが傑作を残しているが。)

    五重奏曲は、第1楽章の輝かしいアレグロ。第2楽章の陰鬱に歩むような音楽と、動きの激しい鮮烈なスケルツォが印象的だ。そして主調が変ホ長調というのに、主に短調で奏でられるフィナーレもユニークで、コーダで第1楽章が(循環主題的に)再現する効果はなかなか素晴らしい。

    四重奏曲は、このCDで初めて聞いた曲。五重奏曲と同じ調性を取ったところは、何か考えがあったのだろうか?第1楽章は、序奏を持つ。主部は、モーツァルトを少し連想させる。第2楽章はスケルツォ。五重奏曲とは違い短調。同時代の妖精的なメンデルスゾーンとは違うが、この少々野暮ったいところがシューマン的で好きだ。第3楽章は、『アンダンテ・カンタービレ』、そのまま歌曲に転用できそうなロマンチックなメロディーが夢見心地に歌われる。フォーレの『夢のあとに』が連想されるし、メロディーの終結が、フリースの『モーツァルトの子守唄』に似ているようだ。中間部がもっと一般受けするようなつくりなら、もう少し人口に膾炙したかも知れないなどと思った。主部の再現は変奏になっている(この辺り少々演奏の音程が不安定なのが惜しい)。第4楽章は、長調でフーガ的に開始する。これもモーツァルトからヒントを得ているようにも思えるが、シューマンは、クララとともにバッハのフーガを相当研究したというから、その成果がこの2曲にはよく出ているのだろう。(『クライスレリアーナ』でも対位法がところどころ用いられていた。和声音楽よりも長い歴史を持つ対位法音楽ゆえ、個人的には、その要素を持つ音楽は、衒学的というそしりはあるだろうが、音楽に高みと深みを与える不可欠な要素であり、それを欠くものはどこかしら満足できないのかも知れない。)

    デムスとバリリの演奏は、中野氏の言うような「不朽の名演、至宝」かどうかは分からないが、思い出のゼルキンとブダペストのものより柔軟な表情であり、また活気にも欠けていないものだ。デムスもこの当時は、その後指摘されるようになった不安定な演奏の気配はまったくなく、ブゾーニコンクールの覇者らしく、メカニック的にも安定して聞け、バリリ四重奏団との息もぴったりで、うまいアンサンブルというものはこういうものかということを味あわせてくれる。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2006年11月24日 (金)

    テレマン ヴィオラ協奏曲、ターフェルムジークなど

    Telemann_vilolaconcerto

    ゲオルク・フィリップ・テレマン(テーレマン)
     Georg Philipp Telemann(1681-1767)

    ヴィオラ協奏曲ト長調

    リコーダー組曲 イ短調

    ターフェルムジーク(食卓の音楽)より
     3つのヴァイオリンのための協奏曲 ヘ長調

    2つのホルンのための協奏曲 変ホ長調 

    リヒャルト・エトリンガー Richard Edlinger 指揮
    カペラ・イストロポリターナ Capella Istropolitana
     〔1988年6月、スロヴァキア、ブラティスラヴァ、モイゼス・ホール録音〕

    テレマンと言うと、在世時は、同時代の大バッハやヘンデルよりも国際的に有名な作曲家だったと必ず決まり文句のように言われる。しかし、現在、彼の作品は主に『ターフェルムジーク』という題名にまとめられた合奏曲集の名前はときおり聞かれるが、その全貌(膨大な器楽曲のほか、オペラ、宗教曲も多数)は綿密な作品表でいつもお世話になっている クラシック・データ資料館 にも、この作曲家の作品表は掲載されていないほどで、吉田秀和の『LP300選』ではミヨー、プーランク、ヒンデミットに通じる魅力があるとはされているが、ほんの1、2ページが割かれているに過ぎない。なお、彼は、ハンブルクで、大バッハの息子C.P.Eバッハの前任者だった。

    これまで、NAXOSのCDで、『ターフェルムジーク』の抜粋1枚と今回のこの合奏曲集の1枚しか音盤としては所有しておらず、偉そうなことはいえないのだが、当時それだけ人気があったというだけあり、非常に魅力的なことは確かだ。

    食卓音楽に使うなどというのは、当時は実際に楽団を抱えている領主や貴族でなければなしえないことだったが、現代の私達はそのような贅沢が再生音楽のおかげで許されている。勤労感謝の夜、このような音楽を聴きながら食事をするのも乙なものだった。

    特に、ヴィオラ協奏曲は、気品のある第一楽章から始まり、普段目立たないヴィオラに活躍の場が与えられる佳曲。リコーダー組曲、ターフェルムジークの2曲もいい曲だ。バロック後期であり、その後の疾風怒濤時代と古典派のちょうど橋渡し的な存在ではあるが、いわゆるギャラント様式(「小さく切り刻まれた華奢な音楽」(キルンベルガー))も示し、深くはないが耳に快いものになっている。

    ブラティスラヴァは、ヴィーンのすぐ東隣。地図で確認したらあまりの近さに驚いた。直線で70-80km程度。エトリンガーはそのオーストリア(オーストリーという表記を墺太利国大使館は薦めている)の出身の若手指揮者。演奏団体はこのブラティスラヴァのオケのメンバーのようで、穏やかな演奏を繰り広げている。

    | | コメント (6) | トラックバック (2)

    2006年11月23日 (木)

    アルゲリッチの『クライスレリアーナ』

    ロベルト・シューマン Robert Schumann (1810-1856)

    Schumann_kreisleriana_kinderszenen_alger 『クライスレリアーナ』 Kreisleriana 作品16

    マルタ・アルゲリッチ Martha Algerich

    〔1983年4月、ミュンヘン プレナーザール、ディジタル録音〕


    1.Äusserst bewegt 最高に激しい動きをもって
    2.Sehr innig und nicht zu rasch 非常に親密感をこめて、あまり速くなく
    3.Sehr aufgeregt 非常に激しく
    4. Sehr langsam たいへんゆっくりと
    5. Sehr lebhaft  きわめて生き生きと
    6. Sehr langsam 大変ゆっくりと
    7. Sehr rasch 非常に速く
    8. Schnell und spielend  急速に、戯れるように

    アルゲリッチのピアノ演奏は、かつてドイツグラモフォンのLP『鍵盤の競演』というオムニバスものにショパンの『英雄』ポロネーズ、リストの『ハンガリアン・ラプソディ』第6番が収録され、子ども時代から長らく聞いていたこともあり、大胆不敵で豪快なピアノ演奏家というイメージが強い。しかし、その後、取り立てて彼女のピアノ演奏の音盤を購入しようと思ったことはなかった。このCDのほかに、彼女の弾き振りのベートーヴェンとハイドンのピアノ協奏曲、アーノンクールとのシューマンの協奏曲の音盤がある程度。あまり熱心なリスナーではない。このCDは身近なCD店で、『クライスレリアーナ』の予習(ヤン・ホラークのリサイタル)のために購入。

    アルゲリッチのこの演奏は、この曲が持つ「狂気」「鬼神に憑かれたような状態」(dämonisch)を明瞭に表しているように感じる。それかあらぬかこのアルゲリッチの『クライスレリアーナ』の録音は、ホロヴィッツのそれと並んで世評では双璧とされているようだ。アルゲリッチもまだ若く、ソロのリサイタルや録音を活発にこなしていたころの超絶的なテクニックにより、この曲は恐るべき様相を呈する。身を焦がすような灼熱の炎。愛染明王の紅蓮の全身を連想させる。このような演奏が、この曲が求めていたものの理想の一つではあろう。

    第1曲の切れ味は彼女独特のもの。「最高に激しい動き」というドイツ語の発想表示そのもの。

    第2曲の主部のゆらぐようなリズムの崩し(ルバート)は、少々わずらわしさもあるが、効果的。主部は遅いテンポを取っている。間奏的にはさまれる速い部分は、逆に第1曲のような鋭い演奏。繰り返しを忠実に守っているためもあるが、他の奏者の録音に比べて非常に演奏時間が長い。ピアノの音色的な美感では、ドイツグラモフォン的な透明な音色。

    第3曲 Noch schnell の部分の激しさ!

    アタッカのように第4曲へ。レチタティーヴォのようなモノローグ。第3曲のEtwas langsamerを回想。

    第5曲。シューマネスクな付点リズム。これも付点の演奏がスマート。中間部の突発的なクレッシェンドの激情は、いかにもアルゲリッチ!

    第6曲も、モノローグ的。Etwas bewegterから心の動き。

    第7曲の非常に激しい音楽に、アルゲリッチの美質が展開される。Noch schnellerの激烈さ。

    第8曲、執拗な人工的なリズムパターンの繰り返し。Mit aller Kraft からの急激な楽想転換。

    執拗なリズムパターンの繰り返しは、楽譜を見るとそのすさまじさが良く分かるし、唐突な楽想の転換は、耳で聞くと良く分かる。この二つがシューマンの音楽の試金石の一つではあるまいか。アルゲリッチの演奏は、迫力においてもすさまじいものがある。ケンプやルービンシュタインが意識的に避けていたように思われる音楽の狂気への没入だが、アルゲリッチの演奏はそこに身を投じるようでまことに戦慄的なものとなっている。

    ジャケット写真の泣いた後のようなアルゲリッチの写真から受ける印象もあるのだろうが、この『クライスレリアーナ』は尋常ではない。そのため、耳の楽しみのために気軽に聞けるものではなくなっている。

    追記:2008/02/09

    *『クライスレリアーナ』の記事とタイミング

    ホロヴィッツ    (1)2:34 (2)7:01 (3)3:35 (4)3:19 (5)3:20 (6)3:55 (7)2:14 (8)3:38
    ブレンデル         (1)2:44 (2)8:06 (3)4:39 (4)3:58 (5)2:57 (6)4:16 (7)2:07 (8)3:21
    アルゲリッチ       (1)2:35 (2)9:40 (3)4:32 (4)3:54 (5)3:08 (6)4:11 (7)2:06 (8)3:27
    ルービンシュタイン(1)2:56 (2)8:53 (3)4:41 (4)3:12 (5)3:19 (6)3:37 (7)2:19 (8)3:57
    ケンプ               (1)2:45 (2)7:40 (3)3:46 (4)3:45 (5)3:29 (6)4:15 (7)2:25 (8)3:40

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2006年11月22日 (水)

    ルービンシュタインの『クライスレリアーナ』

    Rubinstein_carnaval_kreisleriana_1

    ロベルト・シューマン(1810-1856)

    クライスレリアーナ Kreisleriana 作品16 

    アルトゥール・ルービンシュタイン Artur Rubinstein

    〔1964年12月28日、29日 ニューヨーク、カーネギー・ホール〕


    先日のケンプの『クライスレリアーナ』に続いて。

    このCDは、今年の春先に購入したもの。『カルナヴァル(謝肉祭)』などがカップリングされていて、むしろ『カルナヴァル』を聞きたくて求めたものだった。(中沖さんというピアニストのサイトでユニークな解説を見つけた)。自分の中ではルービンシュタインというと、ショパンや華やかな協奏曲というイメージが強く、この大ピアニストのシューマンの演奏はどんなものだったのかという興味もあった。

    先日のショパン対シューマンではないが、ピアニストにはショパンはよく弾くのにシューマンを敬遠する人も結構いるように思う。しかし、この19世紀生まれの大ピアニストは、ベートーヴェンもブラームスもチャイコフスキーもラフマニノフもそしてシューマンもレパートリーにしていたし、シューベルトも少しは弾いたようだ。現代音楽でもポーランド出身のシマノフスキの演奏などを試みたこともあったらしい。何よりもホロヴィッツと並び賞された20世紀のピアノの巨人だった。

    今晩は、この曲の楽譜を見ながらルービンシュタインの演奏を聴いてみた。この IMSLPというページは、Wikiプロジェクトの一環らしく、いろいろな楽譜をpdfで参照することができるようになっている優れもののサイトだ。

    シューマンのこの曲は、聴き始めてから次第に集中力が散漫になり、最後にまた復活するというような聞き方をしていたが、今回はさすがに最初から最後まで集中して聞きとおせた。とても初見では弾けないほどのシューマンのピアノ手法がよく見て取れる。リズムは、第1曲から楽譜の拍子記号と食い違うもの(ヘミオラとは違うようだ。ヘミオラは3拍子->2拍子、2拍子->3拍子のことで『ライン』の冒頭など)続き(アクセントとタイによるシンコペーション。整理すればもう少し整然とした記譜が可能のようにも思えるが、混沌のように見える規律がシューマンの本領だったのだろうか)だし、右手と左手が入り組んでいるし、確かに非常に人工的な印象を受ける譜面だが、音楽だけを聴くとそのような複雑さが見えず、情緒的な音楽に聞こえるのが不思議だ。

    ここでは、ルービンシュタインは、楽譜のリピート指示もきちんと守り、持ち前の安定した技巧により、相当面倒そうなパッセージも難なく切り抜け、全体として焦燥感や滾る熱情というような高揚した情緒よりも、酸いも甘いもかみ分けた大人らしい穏やかな感情を平静な口調で語りかけるような演奏になっている。先のケンプがシューマンに知的に一体化しようとしていたのに対して、ルービンシュタインはより客観的な態度で、この曲を筋の通った音楽として聞かせてくれるようだ。

    追記:2008/02/09

    *『クライスレリアーナ』の記事とタイミング

    ホロヴィッツ    (1)2:34 (2)7:01 (3)3:35 (4)3:19 (5)3:20 (6)3:55 (7)2:14 (8)3:38
    ブレンデル         (1)2:44 (2)8:06 (3)4:39 (4)3:58 (5)2:57 (6)4:16 (7)2:07 (8)3:21
    アルゲリッチ       (1)2:35 (2)9:40 (3)4:32 (4)3:54 (5)3:08 (6)4:11 (7)2:06 (8)3:27
    ルービンシュタイン(1)2:56 (2)8:53 (3)4:41 (4)3:12 (5)3:19 (6)3:37 (7)2:19 (8)3:57
    ケンプ               (1)2:45 (2)7:40 (3)3:46 (4)3:45 (5)3:29 (6)4:15 (7)2:25 (8)3:40

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    2006年11月21日 (火)

    カラヤン/BPO オーケストラ名曲集(1959,60年EMI録音)

    Karajan_bpo_orchestras ヘルベルト・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

    ヘンデル(ハーティ編曲)『水上の音楽』〔1959年12月録音〕

    ヴェーバー『魔弾の射手』序曲
    ヴァーグナー『さまよえるオランダ人』序曲
    ヴァーグーナー『ローエングリン』第1幕への前奏曲
    ニコライ『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲
    メンデルスゾーン『フィンガルの洞窟』序曲〔1960年9月録音〕

    昨日のクリュイタンスによるベートーヴェン交響曲全集とちょうど同じ時期の音楽監督カラヤンによるEMI録音。

    比較的初期のCDでもあり、高音部にハイ上がりのイコライジングでもかかったような音質なので、クリュイタンスの改善されたリマスタリングと比べるとまるで違った楽団の演奏のように聞こえる。

    カラヤンがこの録音の後には録音しなかったヘンデルの『水上の音楽』やオットー・ニコライの『ウィンザーの陽気な女房達』序曲のような珍しい録音が含まれているのがこの盤のセールスポイントだが、相当残響のある会場で録音されたステレオ録音で、ヘンデルは録音の音量レベルが低く、ボリュームを上げるとヒスノイズがうるさく音の混濁も少々つらいほどだ。これが1959年録音で、残りは1960年録音。カラヤンはこの「名曲集」を録音しながら、クリュイタンスやフリッチャイのベートーヴェン録音をどのように見ていたのだろうか?

    この後すぐ1962年には、カラヤン/BPOとして初のベートーヴェン交響曲全集の録音をドイツ・グラモフォンで開始する。そのときの『英雄』の録音については、以前感想を書いたが、どうにも違和感の残る解釈の演奏だった。快適なテンポは、クリュイタンスと似ているが、なぜかつぼにはまった感じがしない。クリュイタンスの方が迷いのない率直さを感じさせるようだ。

    他の方のブログの記事によると、フリッチャイの指揮によるベートーヴェンも同時期のクリュイタンスのものと対照的に非常にゴツゴツとした解釈とのことで、そういう意味では、カラヤン盤を含めてベルリンフィルのフレキシビリティの高さが特筆されるのかも知れない。

    1960年のドイツ序曲集とでも言う五曲の序曲は、残響のある録音にもよるが、スケール感のあるダイナミックな演奏になっている。相変わらず音質的にはつらいものがあるが、大変覇気のある音楽で聴き応えがある。ドイツ風のカンカンのような『陽気な女房』は、あっけらかんとしていてストレートな表現だ。ヴァーグナーは後年のEMI録音もLPで愛聴していたが、それよりもやはりフランクな表現でもったいぶったところがなく爽快だ。ヴェーバーのドイツ民族主義の健康さ、3Mの一人として排撃されたメンデルスゾーンを聴くときは複雑な気分も味わう。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2006年11月20日 (月)

    TVドラマ『のだめカンタービレ』 Lesson6

    今晩はビデオに録画しておき、冒頭10分くらいを見逃したが、一応リアルタイムで見られた。原作の#5、#6をうまく組み合わせて、のだめと千秋のラフマニノフの2番コンチェルトの連弾による共演、音大四年生の就職とSオケの解散、千秋の進学、R☆Sオケの立ち上げを描いていた。

    終わったあとで、冒頭10分を見直した。

    新登場曲は、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲、J.S.バッハの管弦楽組曲第2番の『バディネリ』。ゲームセンターの場面で冗談音楽のように流されたモーツァルトの交響曲第40番ト短調は、どうしてあんな場面で使われたのか理解に苦しむ。このドラマで音楽の使い方で初めて立腹してしまった。まあ最後のベートーヴェンの『皇帝』でスカっとしたけれども。そういえば、『春』のソナタの第4楽章も出てきた。多賀谷冴子の歌は原作では『コシ・ファン・トゥッテ』のドラベッラのアリアのはずだが、ドラマでの吹き替えはそうだったのか?チェロ協奏曲は、サンサーンスの1番だったっけ?ラロ?

    やはり圧巻は、のだめの弾いたラフマニノフの自演盤よりも速いテンポのピアノ協奏曲第2番の第1楽章だろう。冒頭のかすかな鐘の音が、フォルテの警鐘で打ち鳴らされるという感じか?ねっとりともだえるような第1楽章よりも、このテンポで弾けるなら(?)相当曲想も変わってくる。千秋とのだめの息のあった演奏の演技はなかなかだった。

    さて、これを見たハリセンがいよいよエリート専門江藤塾にのだめを御招待。R☆Sオケの黒木君は、上期のNHKの朝ドラのヒロインの夫役の俳優だということだが、この二つのエピソードがどう表現されるのか?またまた楽しみだ。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    ベートーヴェン 交響曲全集 クリュイタンス/BPO

    Beethoven_sinfonie_cluytens_bpo

    ■アンドレ・クリュイタンス指揮
    ■ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
      Gré Brouwenstijn(S), Kerstin Meyer(A), Nicolai Gedda(T), Frederick Guthrie(B)
      聖ヘドヴィッヒ聖堂合唱団


    ■交響曲全曲
      No.1 9:35/6:08/3:31/6:06
      No.2 12:46/11:30/3:49/6:50
      No.3 14:27/16:14/5:24/11:33
      No.4 10:16/9:56/6:06/7:02
      No.5 8:24/9:51/5:29/9:08
      No.6 10:18/13:44/5:54/3:45/9:53
      No.7 13:34/9:27/8:24/7:04
      No.8 10:37/3:57/5:03/7:46
      No.9 18:08/11:35/17:23/25:34

    ■序曲集  
      プロメテウスの創造物 作品43 5:40   
      エグモント 作品84 9:11
      フィデリオ  作品72b 7:05

    〔1957年-1960年、ベルリン、グリューネヴァルト教会〕

    私のような中年ファンが青年だった頃には、フランス系指揮者のアンドレ・クリュイタンスがベルリン・フィルを振った緑色のジャケットの東芝EMIのセラフィムシリーズのLPのベートーヴェンの交響曲全集をよく店頭で見かけたものだった。

    この中では特に第6番『田園』の評判が高かったが、長らくメジャー会社の廉価盤として田舎のレコード店の店頭にもあったもので、その他の曲目も廉価盤のファーストチョイスとしては相当聞かれたものだと思う。私もLP時代のベートーヴェンの交響曲を集めるのに、第1番と第2番がカップリングされたこのコンビによるLPを求めた。第2番、第1番の順に収録されていて、流麗でボリュームがあるベートーヴェンだった。

    クリュイタンスはベルギーのアントワープ生まれ、いわゆるフランドルの出身ということもあるのか、ゲルマン的な音楽も得意としており、フランス系指揮者としてはバイロイト音楽祭に招かれた最初の人物ではなかっただろうか?

    彼のラヴェルの管弦楽集やピアノ協奏曲、ドビュッシー、ベルリオーズ、フォーレなどは今でも現役盤としてカタログから消えることのないものだが、このベートーヴェン全集も長い生命を保っている。

    Diskyというバジェットプライス会社(オランダ系らしい。Brilliantもオランダ系)が、EMIからライセンスを得てリマスタリングしたものがこの全集。店頭で買ったので一応値段は税込みで2,623円だった。またEMI自身も、自社レーベルで同じ内容の全集を(少し高い値段で)販売している。それほど根強い人気があるのだろう。

    モントゥーの時にも書いたが、この録音と同じ時期に、ドイツ人シューリヒトがクリュイタンスの手兵であるパリ音楽院管弦楽団を指揮してベートーヴェンの交響曲全集をEMIに録音している。フルトヴェングラーが1954年に逝去し、カラヤンは未だイギリスやヴィーンで録音し、ベルリンフィルでの録音はようやく始められた頃だった。

    クリュイタンスがこのBPOを使ってベートーヴェンの全集を録音したのは1950年代末の時期なのだが、フランスとイギリスの戦勝国側が比較的勝手にプロデュースできたのだろうか?それとも、シューリヒトとクリュイタンスのクロスでの交換のように、独仏の融和の象徴としてベートーヴェンの録音を企画したのか?このクリュイタンス/BPOは、フランスEMIの企画のようだ。この辺の詳しい事情については、どこかにその経緯は書かれているのだろうが、寡聞にしてよく分からない。

    さて、演奏、録音とも明晰なベートーヴェンだ。世評の高い『田園』は、全体的に起伏が少なく、残響の多い教会録音ということもあるのだろうが、若干第一楽章のアンサンブルの微妙なずれが気になるなどそれほど感心するものではなかったが、第3、第5や第7といったむしろ世評の高くない録音の方が私には面白かった。特に第3番『英雄』の第1楽章の快適なテンポと胸のすくようなスフォルツァンドの歯切れよさは、フルトヴェングラーにもカラヤンにもなかったもので、素晴らしい。モントゥー/LSOの7番でも同じで、これがフランス系の指揮者のベートーヴェンの特徴の一つなのだろうか?

    そういう意味で、フルトヴェングラーの残したドイツ・ロマン主義の伝統を失っていないプロイセンのオケとフランドル出身のクリュイタンスの組み合わせは絶妙のものだったといも言えるかも知れない。

    自分の生まれた頃の古い録音だが、楽しみが増えた。各曲目については、別途感想を書いて見たい。

    追記参考:

    クリュイタンス/BPOのベートーヴェン 交響曲全集の簡単な感想

    クリュイタンス/BPOの『英雄』交響曲

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2006年11月19日 (日)

    シューマン 『子どもの情景』 ケンプのピアノで 

    Schumann_kempf_1 シューマン 『子どもの情景』Kinderscenen 作品15

    (1)見知らぬ国より  (2)珍しい話 (3)鬼ごっこ (4)おねだり (5)十分に幸せ (6)大事件 (7)トロイメライ (8)炉辺で (9)竹馬の騎手 (10)むきになって (11)おどかし (12)子どもは眠る (13)詩人は語る 

    ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ)

    先日『クライスレリアーナ』をこのCDで聴いたが、2枚組みのこのCDは、ケンプによる『シューマンのピアノ曲集第1巻』として、『交響的練習曲』Op.13, 『子どもの情景』Op.15, 『クライスレリアーナ』Op.16, 『幻想曲』ハ長調 Op.17, 『アラベスク』Op.18, 『フモレスケ』Op.20, 『ノヴェレッテ』(Op.99の9)が収められている。

    シューマンのピアノ曲の中で最も人口に膾炙している『トロイメライ』を含む『子どもの情景』をこのケンプによる演奏で聴いてみた。

    現在、古い方から1950年録音のホロヴィッツ、この1973年2月録音のケンプ、1983年録音のアルゲリッチ、1987年録音のアシュケナージと4種類が手元にあるので、いずれ聞き比べをしてみたい(すでに何度も聞いているのだが改めて)。

    子どもを題材にした曲集としては、『子どものためのアルバム』Op.68[43曲]があり、子どもが弾ける『楽しき農夫』のような曲を含んでいるが、こちらの『子どもの情景』は、大人が子ども時代を懐かしんだり、客観的に眺めたり、感情移入したりした大人のための曲集になっている。

    ケンプの演奏は、その意味で理想的な演奏と言えるかも知れない。この技巧的には非常に優しい小曲集は、一曲一曲が詩人ロベルト・シューマンによる音による抒情詩であり、誇張もひけらかしも趣味の悪さとして退けられるべきであり、また小さな瑕疵も無いほうがよい。

    有名すぎる有名な『トロイメライ』は、比較的さらっとした演奏であまり極端なリタルダンドもかけないが、短調に転調した後に再現される主題やコーダのまさに夢見る調子、終曲の『詩人は語る』など筆舌に尽くしがたい。

    ドイツは、キンダーガルテンなる幼稚園という制度を発足させた国(幼稚園は最初にドイツ人Friedrich Fröbelによって1837年に作られた)でもあり、幼児期への想像力が比較的重んじられる伝統のあった社会のようだ。そこではぐくまれた子ども時代への憧憬を、過酷な二度の大戦を潜り抜けながらも優しく美しい音楽として表現しきったドイツ人ケンプの音楽に耳を傾けると、自らの幼年時代への淡い記憶も蘇ってくるかのようだ。

    原題 とタイミング(CDパンフレットによる)
    01. Von fremden Ländern und Menschen 1:40
    02. Kuriose Geschichte 1:01
    03. Hasche-Mann 0:36
    04. Bittendes Kind 0:51
    05. Glückes genug 0:45
    06. Wichtige Begebenheit 0:57
    07. Träumerei 2:26
    08. Am Kamin 1:06
    09. Ritter vom Steckenpferd 0:49
    10. Fast zu ernst 1:39
    11. Fürchtenmachen 1:58
    12. Kind im Einschlummern 2:02
    13. Der Dichter spricht 2:06

    p.s. まったくこの記事とは関係ないが、昨日11/18(土)の朝日新聞土曜版beに、ゴーゴリ作の『タラス・ブーリバ』が取り上げられていた。コサックの隊長ブーリバ、その息子とポーランド貴族の姫君の恋と戦いの物語。ヤナーチェクの音楽については、囲み記事の中で一行だけ触れられていた。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2006年11月18日 (土)

    ヴィーナー・ヴァルツァー 聞き比べ

    普通は、ウィンナ・ワルツと言われているが、一応ドイツ語の "W "の発音にこだわった表記(ヴィーン、ヴァーグナー、ヴェーバーなど)をしているため、こういう意味不明なタイトルになってしまった。この辺りの加減は難しい。ヴァルツなどといきなりいわれても自分でも分からない。

    さて、ウィンナ・ワルツ集としては、ボスコフスキー/VPOの定盤を2枚。 Jstraussjr_boskovsky_vpo Jstraussjr_boskovsky_vpo_1



    あのシュヴァルツコプフが無人島の一枚に挙げたことで有名になったライナー/CSOのヴィーンの音楽集(実際はこの後に録音した1960年のワルツ集をシュヴァルコプフはご指名だったことが、あるべりっひさんのブログに詳しい)。Jstraussjr_reiner_cso

    それとセル没後30周年のときにたまにはこういう珍しいものもいいかと購入したセル/CLOのヨハン・シュトラウス集。Jstraussjr_szell_clo

    そしてどうやらPILZ系の名曲集の中に含まれている一枚で、ヴィーン・フォルクス・オーパー(指揮者はPeter Falkというなんだか刑事コロンボの役者のような名前の人物だが、リンクを張った「おやぢの部屋2」さんの記事でもフィリップスに録音のある本物の指揮者らしい)によるもの。 Jstraussjr_falk_vvo_1


    意外なのは、ヴィーン育ちのセルのワルツがヴィーンスタイルのリズムではなく、きっぱりとした普通の三拍子であるように聞こえること(少し自信がない)。また、ライナーのはヴィーン風のリズムまでCSOに再現させようとしているようで、こちらは意外にフレキシブルな演奏になっている。また、ボスコフスキーのは、国内盤の方が録音時期は新しいのだが、外盤の廉価盤の方が音質が鮮明で聞き応えがあるように聞こえる。

    ピーター・フォークとフォルクス・オーパー管によるウィンナ・ワルツが、またまた意外にいい。ヴィーン・フィルのように、ツンと澄ましているのではなく、もっと愛想がよくてコケティッシュで可愛いヴィーン気質のお嬢さんという雰囲気の音楽だ。楽友協会の創設者の一人ブラームスでさえ、ヨハン・シュトラウス二世の音楽を愛好していたというが、その後芸術音楽の総本山で誇り高いヴィーン・フィルの最近のワルツは、グローバル化にもよるのだろうか、品良く演奏しすぎのきらいがあるように感じる。身勝手な言い分ではあるが、むしろこの演奏のように少々民俗的で鄙びた情緒を出す方が自分としては楽しめるような気がする。

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    2006年11月17日 (金)

    BLOGに関する調査

    YAHOOニュースにブログ更新が面倒だからという理由でブログをやめた人が多いという記事があり、その調査元の記事を見に行ったら結構面白い内容が掲載されていた。

    また、何のためにという質問では、「備忘録として」、「他の人と情報を共有」などが自分としても当てはまるように思う。

    クラシック音楽も、分け入れば深く豊かなのだが、入り口があまり広くなく、結構高いところにあり、途中の道も険しいので、あまり語り合える人が身近にいないことも、自分がこのブログやホームページを立ち上げた理由でもある。おかげで、現在IE7.0のRSSフィードに登録しているのは、クラシック音楽関係だけで50BLOGほどあり、毎日それを読むのが日課であり楽しみになっている。

    昨日の出張のときに買った『ダ・カーポ』という雑誌に、雑誌が衰退していることが特集されていた。その背景として、やはりこのように一般人が自由に不特定多数の人々に情報発信できるようになったインターネット文化が一つの要因であることが書かれていた。そこに、雑誌の復権のために古臭い一方通行の情報の動き(「上」から「下」へ)などということを唱えている化石のようなジャーナリストの意見が載せられていたのには目を疑ってしまった。これでは雑誌は復権などするはずがあるまい、と思った。ジャーナリストの中には常人の思いもよらぬ能力と感覚の持ち主がいるのも確かだろうが、他の仕事をしている人間の中にもそういうものを持つひとはゴマンといるのだということをブログの世界が教えてくれる。

    最も親しい雑誌だった『レコード芸術』の衰退はさびしい限りだし、今でも保存している古い号などを読めば、やはり雑誌ならではの質の高い文章や企画にも感心することがある。ただ、中にはマンネリだったり、明らかに質が低いものも混じっている。

    一方的に読ませられるよりは、それに対して自分の意見を発信し、それにまたフィードバックを受けたいものなので、それを上手く取り入れることのできる信用のおけるメディアがこれから生き残るのではなかろうか?などと考えてしまった。

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    ムソルグスキー『展覧会の絵』を聴く

    昨夜11/16(木)はボージョレ・ヌーヴォーのいただき物を飲んだ。昨年とは違う銘柄で、Cuvee cardinale というもの。それほどフルーティではなく、甘みも控えめだった。

    この日本で買えは2000円を越すボジョレだが、本国フランスでは数百円なのだという。その差額は航空運賃と日本の商社の儲けだそうだ。日本ではボルドーの赤ワインでも船便での輸入品ならば1000円前後でそれなりのappellation controllee Bordeauxが飲めるので、このボジョレは高過ぎる。ただ、2005年の売れ残りのヌーヴォーが小売店では昨年のままの値段で売られているのだから、値段付け自体がいい加減なのだが。

    さて、昨年はヌーヴォーを飲み、今流行曲となったベト7でディオニュソスの饗宴を寿いだのだが、今年はなかなか美術展に行けないのを耳による絵の鑑賞で補おうと、様々な演奏によりこの曲を聴いてみた。

    モデスト・ムソルグスキー(1839-1881) 組曲『展覧会の絵』

    ◆ピアノ組曲(ホロヴィッツ編)Mussorgsky_horowitz_pictures
    ウラジーミル・ホロヴィッツ(p)
    1.Promenade 1:22
    2.Gnomus 2:20
    3.Promenade 0:49
    4.Il vecchio castello 3:49
    5.Promenade  0:28
    6.Tuileries  1:06
    7.Bydlo 2:36
    8.Promenade 0:36
    9. Ballet des poussins dans leur coques 1:17
    10.Samuel Golednberg und Schumuyle  2:18
    11.Limoges- Le marche 1:17
    12.Catacombae(Sepulchrum romanum) 1:17
    13.Con mortuis in lingua mortua 2:21
    14.La cabane sur des pattes de poule 3:30
    15.La grande porte de Kiev 4:28
    〔1951年4月23日 カーネギー・ホール、ライヴ、モノーラル〕

    ピアノによる『展覧会の絵』というと、このホロヴィッツのカーネギー・ホールライヴは、リヒテルの録音と並んで推薦盤の筆頭に挙げられることが多い録音。カップリングは、ホロヴィッツの義父であるトスカニーニ指揮NBC交響楽団とのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番で、こちらも極めつけの名演と言われているものだ。ただ、この2種類の演奏は、私とはあまり相性が合わず、聴く機会がそれほどない。

    ◆ ラヴェル編 オーケストラ組曲
    ○セルゲイ・クーセヴィツキー/ボストン交響楽団Mussorgsky_koussevitzky_bso_pictures
    1.Promenade 1:42
    2.Gnomus 2:39
    (3).Promenade -- 
    (4).Il vecchio castello --
    5.Promenade  0:31
    6.Tuileries  0:54
    (7).Bydlo --
    (8).Promenade --
    9. Ballet des poussins dans leur coques 1:12
    10.Samuel Golednberg und Schumuyle  2:19
    11.Limoges- Le marche 1:11
    12.Catacombae(Sepulchrum romanum) 1:57
    13.Con mortuis in lingua mortua 1:34
    14.La cabane sur des pattes de poule 3:28
    15.La grande porte de Kiev 5:20

    〔1943年10月9日、ボストン・シンフォニーーホール、放送録音、モノーラル〕

    セルゲイ・クーセヴィツキーは、ピアノ組曲『展覧会の絵』のオーケストレーションをラヴェルに委嘱した人物。この編曲の独占権を得て、相当の期間、クーセヴィツキーの指揮でなければこのオーケストラ版は聴けなかったのだという。これは、クーセヴィツキーが常任指揮者をつとめたアメリカのボストン交響楽団(近年まで小澤征爾が長らく音楽監督を務めた楽団)で、そのクーセヴィツキーが指揮をした放送録音。残念ながら上記のリストの通り、全曲演奏ではなく、ところどころ歯抜けになっているのが非常に惜しい。より古い録音で全曲が残っているようだが、これが全曲演奏だったらどれだけ素晴らしいか。太い筆で豪快に書いたような勢いのある音楽になっている。(併録は、同じくクーセヴィツキーがバルトークに委嘱したあの『オケ・コン』の初演直後の放送録音。こちらも非常な名演奏だ。初版のエンディングによっている。)

    ○ユージン・オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団〔録音年不詳、ステレオ〕Mussorgsky_pictures_ormandy_philadelphia
    1.Promenade
    2.Gnomus    1+2 4:11
    3.Promenade
    4.Il vecchio castello 3+4 5:26
    5.Promenade 
    6.Tuileries    5+6 1:33
    7.Bydlo 2:15
    8.Promenade
    9. Ballet des poussins dans leur coques  8+9 1:56
    10.Samuel Golednberg und Schumuyle  2:20
    11.Limoges- Le marche 1:26
    12.Catacombae(Sepulchrum romanum)
    13.Con mortuis in lingua mortua     12+13 3:23
    14.La cabane sur des pattes de poule 3:44
    15.La grande porte de Kiev 4:53

    この録音のLPを聴いて育ったとは大げさだが、ベームのモーツァルトとブラームス、バーンスタインの『運命』『未完成』、セルの『ブラームス』、カラヤンの『悲愴』、グールドのモーツァルト、イ・ムジチの『四季』、パツァークとデムスの『冬の旅』、ポリーニのショパン『前奏曲集』などと並んで、私の音楽の好みの土台になっているもの。ここに挙げたそれぞれの演奏家にはあまり共通性がなく、というよりも、逆に総花的で分裂しているとも言えるのだが、オーケストラ音楽の豪快さや輝きはこのオーマンディから学んだように思う。このオーマンディの録音は、『ヴィドロ』のテンポが速すぎるのが珠に瑕で、それ以外はすべて素晴らしい。

    ○ヘルベルト・ケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団〔録音年不詳、1968?、ステレオ〕Mussorgsky_pictures_kegel
    1.Promenade  1:19
    2.Gnomus    2:14
    3.Promenade   2:14
    4.Il vecchio castello 4:39
    5.Promenade   0:28
    6.Tuileries     1:13
    7.Bydlo 3:03
    8.Promenade  0:40
    9. Ballet des poussins dans leur coques  1:10
    10.Samuel Golednberg und Schumuyle  2:22
    11.Limoges- Le marche 1:20
    12.Catacombae(Sepulchrum romanum)   
    13.Con mortuis in lingua mortua     12+13 3:53
    14.La cabane sur des pattes de poule 3:30
    15.La grande porte de Kiev 5:19

    モーツァルトの宗教曲(ヴェスペレやミサ曲)の指揮者として知っていたのだが、ドイツ統一の前後にピストル自殺を遂げた。その直前か直後か、突如一風変わった指揮者との評判が立ち、シベリウスやアルビノーニなどの演奏が話題になった。この『展覧会の絵』も駅売りのベルリン・クラシックスというレーベルから出たものらしい。切迫した異様な迫力のある演奏だが、それほど好みではない。

    ○シャルル・デュトア/モントリオール交響楽団〔1985年10月、モントリオール、ディジタル〕Mussorgsk_pictures_dutoit_1
    1.Promenade
    2.Gnomus    1+2 3:56
    3.Promenade
    4.Il vecchio castello 3+4 5:50
    5.Promenade 
    6.Tuileries    5+6 1:34
    7.Bydlo 
    8.Promenade 7+8 3:25
    9. Ballet des poussins dans leur coques  1:11
    10.Samuel Golednberg und Schumuyle  2:13
    11.Limoges- Le marche 1:28
    12.Catacombae(Sepulchrum romanum)
    13.Con mortuis in lingua mortua     12+13 3:56
    14.La cabane sur des pattes de poule 3:24
    15.La grande porte de Kiev 5:39

    名曲300選では、トップクラスの人気のある録音。ラヴェル編曲であることが分かるフランス的な繊細で華麗な演奏。しかし、オーマンディの高カロリーの豪快な演奏を聴いた後には、繊細すぎるように感じてしまう。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2006年11月16日 (木)

    ヴァーグナー 『マイスタージンガー前奏曲』 指揮:レーグナー

    Roegner_wagner_siegfried_idyll ヴァーグナー

    ジークフリートの牧歌 (22:22)〔1978年録音〕

    『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲(10:27)
    『ラインの黄金』前奏曲(7:35)
    『トリスタンとイゾルデ』第1幕への前奏曲(11:46)
    〔以上1977年録音〕

    ハインツ・レーグナー指揮 ベルリン放送管弦楽団〔ベルリン・キリスト教会での録音〕

    東ドイツ時代の東ベルリンのベルリン放送管弦楽団を、来日して日本の楽団を指揮したことのあるレーグナーが指揮したヴァーグナーのオーケストラ名曲集。

    音楽評論家の宇野功芳氏が名曲案内などで絶賛していたもので、その絶賛が脳裏に残っており、ドイツ・シャルプラッテンが創立20周年記念盤で1000円で再発したときに求めた。

    以前田舎に住んでいたときには、このような比較的親しみやすいオーケストラ曲集のカセットテープを作り、ドライブのときによく聴いたものだった。自分としてはグールドのピアノの平均律をかけたかったのだが、子どもたちにはあまり好評ではなく、彼らが愛好していたり、これなら親しみやすいだろうと私が思う曲でオムニバスを作ったら、結構好評を博した。今でもときおりかけるのだが、最近はスムースな長時間ドライブの機会がめったにないのでドライブ中の音楽鑑賞もめっきり減ってしまった。

    このCDの収録曲では、特に宇野氏が絶賛していたのが『ジークフリートの牧歌』だった。小編成の曲のはずが、とうとうと流れるような河のごとき音楽になっている。勿論繊細さは残ってはいるが。しかし、この中で子どもたちが気に入ったのは、『マイスタージンガー前奏曲』だった。ディズニーのファンタジアがきっかけの『春の祭典』と並んで、愛好曲のベスト2というところだろうか。

    先日も、ベームやトスカニーニの同曲のCDを聴いたのだが、そのリファレンスがどうしてもこのレーグナー盤になってしまい、物心付かないうちから聞いている長男などは、ベームでは「ここが違う、あそこが違う」、トスカニーニでは「最後のところが編曲しているんじゃないの?(確かにトスカニーニは相当打楽器を強調している)」と面白がって聞いていたほど。逆にベームの録音と比べてこのレーグナーの録音がいかに残響タップリなのかもよく分かった。

    宇野氏も、後日談で、レーグナーが来日したときの実演を聞いて、この録音のスケール(フルトヴェングラーに比すべきとの評だった)がまったく聴かれないのに驚いたことを、またどこかで読んだことがある。

    吉田秀和氏も、以前から「録音を聞いただけでは、その音楽家を評価するのは難しい」ということをよく書かれていたと思うが、そういう意味で、私などは録音や放送が99%で、実演などは1%あるかないかなので、非常に苦しい立場にあることになってしまう。

    ドライな録音と残響の多い録音は、演奏者の好みもあるのだろうが、一般的には残響の多い録音の方が耳には快い傾向があるので、もしこの録音にたっぷりした残響が録音されていなければ、どのような音楽に聞こえるのだろうと想像が膨らんでしまったりもする。

    P.S. 鑑賞メモ:1993年7月12日(月)宇野功芳氏がベタほめのこの演奏。「ジークフリート」牧歌は室内楽にしては、録音が大げさすぎる。吉田秀和氏の『私の好きな曲』でのニーベルングの指環のモチーフとこの曲の関係の分析は面白いが、この曲自体はそれほど優れた曲なのだろうか?(当時メモ帳に書いてCDケースにはさんでおいたのがときおり見つかる。)

    今聞きなおすと、優れた曲かどうかは分からないが、この『ジークフリートの牧歌』はいい曲だと思う。

    | | コメント (4) | トラックバック (1)

    2006年11月15日 (水)

    J.S.バッハ カンタータ第147番『心と口と行いと生きざまは』

    Jsbach_kantaten_nr147_80 J.S. Bach ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

    カンタータ第147番『心と口と行いと生きざまは』BWV147
    (聖マリア御訪問の主日)
    カール・リヒター指揮 アンスバッハ・バッハ週間管弦楽団
     ミュンヘン・バッハ合唱団 
      ブッケル(S), テッパー(A), ケステレン(T),エンゲン(B)
    〔1961年7月 ハイルスブロン〕

    バッハの全作品の中で最も親しいもの、といっても『主よ、人の望みの喜びよ』というニックネームで知られるこのカンタータの第1部と第2部のそれぞれの終曲のChoral コラールの音楽が特に、なのだが。そしてこの合唱曲は、合唱をやっていたときに是非歌いたかったものの一つだった。(しかし、それは未だ果たせていない夢だ。)

    昨日、『クライスレリアーナ』を聴いたケンプによるピアノ編曲も美しく、その亜流的な初心者向けのピアノ独奏版をたまに爪弾くのだが、リトルネロというオブリガート的な三連符(8分の9拍子なのだが)と、それを支える低音とコラールの組み合わせがなんとも言えず美しい。

    このリヒター盤は、樋口隆一氏の解説で、カンタータの詩の訳は杉山好氏と、アルヒーフレーベルではおなじみの面々の非常に詳しい解説がついているが、受胎告知をされた聖母マリアが従姉妹でそのとき洗礼者ヨハネを身に宿していたエリザベツを訪ねた日を記念する『聖マリア御訪問の主日』用に作曲されたものだという。

    第一部の終曲(第6曲)は、ヤーンのコラール『イエスよ、我が魂の喜びよ』の第6節「幸いなるかな、我はイエスを得たり」を用いたもの、第2部の終曲(第10曲)は、同じコラールから第16(ないし17)節「イエスは変わりなき喜び」を歌詞としたもの。

    全曲は、「希望」の感情を表現したとでも言えるもので、短調も陰りではなく、将来への展望が開けるような前向きの音楽になっている。

    リヒターは、未だこの頃は、ミュンヘン・バッハ管弦楽団ではなく、Solistengemeinschaft der Bach-Woche Ansbach という恐らく臨時編成の音楽祭オーケストラを指揮している。これが母体となってミュンヘン・バッハ管弦楽団ができたのではなかろうか?

    | | コメント (2) | トラックバック (2)

    2006年11月14日 (火)

    ケンプの シューマン 『クライスレリアーナ』

    Robert Schumann ロベルト・シューマン(1810-1856)  

    Schumann_kempf

    『クライスレリアーナ』 Kleisleriana 作品16

    ヴィルヘルム・ケンプ(ケンプフ) Wilhelm Kempff

    (1)2:45  (2)7:40 (3)3:46 (4)3:45 (5)3:29  (6)4:15 (7)2:25 (8) 3:40

    〔1972年2月、ハノーファー、ベートーヴェン・ザールでの録音〕


    『クライスレリアーナ』は、E.T.A.ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 1776-1822)という総合芸術家の創造した架空の人物ヨハネス・クライスラーに由来するという。クライスラーは、シューマンの創造した同じく架空の人物フロレスタンとオイゼビウス的な両極端の性格を持つ人物として描かれているようで、この曲も衝動型と夢想型の二つの性格の小品により成り立ち、全部で8部分から成り立っている。

    ただ、クララとクライスレリアーナの冒頭の「ごろ」が似ているのは単なる偶然なのだろうか?大恋愛の末、駆け落ち同然で結婚したクララ・ヴィークへの慕情を音にした音楽だという考えを元にした音楽サイトを以前拝見したことがある。(そのサイトでは、ホロヴィッツのCBS盤を一番に推奨されていたが、残念ながら未だ聞いたことがない。)しかし、この曲は、クララへではなく、あのフレデリック・ショパンに献呈されている。

    ショパンがポーランドを離れ、ヴィーンにデビューした頃、シューマンはショパンが作曲した『「ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」の主題による変奏曲 変ロ長調 (Variations on the theme "La ci darem la mano")Op.2』を、自分が筆を執っていた『一般音楽時報』で激賞し、2人の天才音楽家の間には交流が生じたようだ。(評論文は、シューマン著・吉田秀和訳『音楽と音楽家』p.16 <<作品2>>で読める。)ショパンもシューマンには、バラード第2番を献呈している。(ただし、このサイトによると、ショパンはシューマンの「誤解」について冷淡だったようだ。しかし、その通説に対する反論もありこちらの方が説得力がある。この間のシューマンとショパンについては、海老澤敏『巨匠の肖像』バッハからショパンへ <<ショパンの肖像>>に要領よくまとめられている。)

    このシューマンの初期作ながら、傑作とされる曲を、ルービンシュタイン、ケンプ、アルゲリッチのピアノによるシューマンの『クライスレリアーナ』を聞き比べてみようと思う。たまたま録音年代的には1960年、1970年、1980年とちょうど10年刻みの記録のようになっている。

    今回は、最も親しいケンプの演奏で聞いてみた。このCDは、妻が購入したもの。というのも、当時見た大林宣彦監督の映画『二人』で、妹(石田ひかり)が亡くなった姉(中島朋子)の魂の語りかけにより映画の中で非常に上手に弾いたシューマンの『ノヴェレッテン』が気に入り、それを聴きたくて、『ノヴェレッテ』が収録されているこの2枚組みを買ってきたのだという。ところが、この『ノヴェレッテ』はお目当てと違い、現在もっぱら私が聞いているという次第。

    1897年生まれのケンプは、この録音のとき、すでに75歳。第1曲の非常に速い左手などは、他の演奏に比べて完全には弾かれていないのだが、その左手がどのような対旋律として右手に対しているかというようなことが分かる演奏になっている。シューマンの情念的な部分の表現としては、少々穏やか過ぎる演奏ではあるのだろうが、遅い部分の夢想的な演奏と、このような知的な構成力(あまりケンプの場合ここが指摘されないのは不思議なのだが)では他の追随を許さないのではなかろうか?

    追記:2008/02/09

    *『クライスレリアーナ』の記事とタイミング

    ホロヴィッツ    (1)2:34 (2)7:01 (3)3:35 (4)3:19 (5)3:20 (6)3:55 (7)2:14 (8)3:38
    ブレンデル         (1)2:44 (2)8:06 (3)4:39 (4)3:58 (5)2:57 (6)4:16 (7)2:07 (8)3:21
    アルゲリッチ       (1)2:35 (2)9:40 (3)4:32 (4)3:54 (5)3:08 (6)4:11 (7)2:06 (8)3:27
    ルービンシュタイン(1)2:56 (2)8:53 (3)4:41 (4)3:12 (5)3:19 (6)3:37 (7)2:19 (8)3:57
    ケンプ               (1)2:45 (2)7:40 (3)3:46 (4)3:45 (5)3:29 (6)4:15 (7)2:25 (8)3:40

    | | コメント (5) | トラックバック (1)

    2006年11月13日 (月)

    TVドラマ『のだめカンタービレ』 Lesson5

    今晩は、時間通りにみることができた。

    何回シリーズかは知らないが、一応クライマックスだったのだろう。

    のだめとSオケの「ラプソディー・イン・ブルー」。マングースの着ぐるみとハブのぬいぐるみ、真澄ちゃんのポリニャック夫人、そしてSオケの面々の紋付はかまと江戸褄の留袖による和風ビッグバンドの編曲も演奏もナイスだった。漫画の世界をここまでやってくれるとは!

    千秋とシュトレーゼマン、Aオケのラフマニノフの2番コンチェルトもなかなかいいできだった。第2楽章が省略されたのは惜しいが、時間的にはやむをえなかっただろう。リハーサルでのピアノだけの練習は、ああ、こういう音が鳴っているのかと、面白かった。演奏(音源)の質についてはとやかくは言わないが、ドラマとしてはオケも千秋も健闘していた。シュトレーゼマンの指揮姿は、普通の人ならあの程度で仕方がないのだろうという感じだった。(『アマデウス』のモーツァルトの指揮ぶりよりはマシか。)

    とうとうエリーゼとオリバーも登場。ミナコ・モモダイラとシュトレーゼンマンの過去と、シュトレーゼマンの真剣さをエリーゼが千秋に語る部分はなかなかだった。シュトレーゼマンがのだめと千秋の将来について諭す場面、演奏終了後の千秋とシュトレーゼマンのシーンもなかなかだった。

    次回は、ピアノに真剣に目覚めたのだめと千秋の共演、R☆Sオケの登場か?

    フォーレのシシリエンヌ、マーラー第1交響曲の終楽章冒頭、チャイコフスキーの弦楽セレナーデのワルツ、ヴァーグナーのタンホイザー序曲、そのほかに新曲はあったろうか?さっき聞いたばかりなのにもう忘れている。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    J.S.バッハ クラヴィア協奏曲第3番ニ長調

    J.S.Bach ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (1685-1750) クラヴィア協奏曲第3番ニ長調 BWV1054

    Jsbach_klavierconcerto_fugueグレン・グールド Glenn Gould (ピアノ)

    ヴラディミール・ゴルシュマン Vradimir Golschmann 指揮
     コロンビア交響楽団
       7:46/5:51/2:46
      〔1967年、ニューヨーク市30番街スタジオでの録音〕
    Jsbach_konzert_1トレヴァー・ピノック Trevor Pinnock チェンバロ・指揮
    イングリッシュ・コンサート The English Concert
       7:39/6:47/2:35
    〔1980年2月、ロンドン、ヘンリー・ウッド・ホールでの録音〕

    11月13日(月)『のだめカンタービレ』Lesson5のTVドラマでは割愛されるようだが、定期演奏会の巻と学園祭の巻の間の原作第4巻のエピソードに、新潟での海水浴と長野のニナ・ルッツ音楽祭(1988年から10回を数え1997年に一段落したNagano-Aspen 長野アスペン音楽祭/ミュージックフェスティバルがモデル)がはさまれており、千秋や峰、真澄ちゃんが三木清良と知り合うのはこの音楽祭でのオーケストラ講習会だった。またこのとき、のだめは、ニナ・ルッツ(第16巻でパリ在住のピアニストということが分かる)の講習会でバルトークの「組曲」の課題を満足に演奏できず苦しむというエピソードが描かれていた。また千秋が「クラシック・ライフ」という音楽誌の記者の河野けえ子さんに発見されたのは、二日酔いのシュトレーゼマンの代役としてドヴォルザークの交響曲第5番という比較的珍しい曲で講習会のオーケストラの指導をしたときだった。夏のエピソードのため晩秋放映のドラマの脚本としてはカットされたのだろうし、ロケも必要なので仕方がなかったんだろうとは思うが、少々惜しい。

    さて、この音楽祭の打ち上げコンサートで、ニナ・ルッツが演奏したのが、J.S.バッハの『ピアノ(クラヴィア)協奏曲』第3番ニ長調だった。(原作では第5巻30頁に、音楽祭の模様を紹介している音楽雑誌の記事の写真キャプションに、非常に小さい活字で書かれているのを、以前のだめサイトで指摘されているのを見て知った。)

    この曲は、バッハ自身が、ホ長調のヴァイオリン協奏曲第2番BWV1042をクラヴィア用に編曲したもの。

    さて、すっかりピリオドアプローチ全盛のバッハの曲を、いまどきピアノで演奏するピアニストは数少ないが、はたしてニナは、ソ連時代のバッハ弾きニコラーエワのようなタイプなのだろうか?そして異国の日本で名前付きの音楽祭を開くとは、別府アルゲリッチ音楽祭のアルゲリッチ並みの大物なのか?謎は深まる?

    この曲をCDで持っているグールドとピノックの演奏で聴いてみた。

    グールドは、もちろんピアノによる演奏。この当時、カール・リヒター、レオンハルト、ヴェイロン=ラクロワなどバッハ演奏の主流派は、チェンバロ/ハープシコード/クラヴサンにより演奏をしていた時代だ。オケはこの録音のための臨時編成だと思うが、このゴルシュマンはCBSではバロック音楽を任されていたようだ。グールドの弾き振りも可能だったと思うのだが、どういうものだろう。楽器編成的には、二部のヴァイオリンとヴィオラ、通奏低音にクラヴィア(チェンバロ)というもの。

    この演奏では、通奏低音としての役割もクラヴィアは果たすのだろうが、このグールドのピアノ協奏曲としての演奏では、あまり通奏低音としての動きが明確ではないようで、ピアノがずっと前景で弾きっぱなしの古典派協奏曲のような演奏になっているのが、今の耳からは少々奇異に感じないではない。しかし、グールドの自由な装飾を伴うテンポのいいピアノと(のりのりの鼻歌)、ゴルシュマンも結構三声部の弦のバランスを工夫してユニークな演奏をしてくれている。録音は、少々風通しが悪く、若干の濁りが感じられる。美しいロ短調のアダージョは、非常にロマンチックな音楽になっている。

    ピノックは、1980年代のいわゆるピリオド・アプローチによる演奏で、ハープシコードを弾きながら、自分の楽団イングリッシュ・コンサートの指揮も行っている。恐らくJ.S.バッハが自作自演をしたのはそのようなスタイルだったのだろう。ピノック指揮のイングリッシュ・コンサートは、いかにもピリオド楽器ですという演奏の癖がなくもっとも穏やかなピリオド派ではなかろうか。

    録音の違いとチェンパロの音色のせいもあるが、こちらの方がグールド盤よりも風通しがよく聞こえる。また、ソロ楽器として活躍する場面と、トゥッティで弦楽合奏として演奏される部分の描き分けでは、こちらにさすがに一日の長があるようだ。ピノックのチェンバロは、非常に達者なもので、まったく不安なく、やはりこちらも様々な装飾を加えての演奏を満喫できる。第2楽章でのピノックの装飾は目覚しい。またテンポもゆったりと遅い。

    ちなみにこのバッハの協奏曲集には、同じピノック指揮、サイモン・スタンデイジのヴァイオリンで原曲のヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調が収録されている。タイミングは、7:34/6:35/2:33となっている。さすがに指揮が同じなのでほとんど同じテンポだ!

    普段、ヴァイオリン協奏曲第2番として聞く機会が多い曲だが、改めてクラヴィア協奏曲として聴いてみるのもなかなか面白い。ベト7ではないが、これも「のだめ」効果か!?

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    2006年11月12日 (日)

    ジョルジ・シフラのリスト ピアノ曲集

    Liszt_cziffra

    Franz Liszt
    1. ハンガリー狂詩曲第2番 嬰ハ短調 (10:11)
    2. 同上 第6番 変ニ長調 (6:56)
    3. 同上 第15番 イ短調『ラコッツィ行進曲』(4:46)
    4. ラ・カンパネッラ (4:11)
    5. 愛の夢 第3番 変イ長調 (4:22)
    6. 小鳥に説教するアシジの聖フランソワ(2つの伝説曲 第1曲) (7:51)
    7. リゴレット・パラフレーズ (ヴェルディ曲、リスト編曲) (7:13)
    8. ファウスト・ワルツ (グノー曲、リスト編曲) (10:46)
    ジョルジ・シフラ György Cziffra (ピアノ)

    リスト弾きとして名前だけ知っているシフラのCDがやはりこれもブックオフで中古盤で手に入ったので、聴いてみた。

    シフラの評価は、1970-1990年代に私がよく読んだ『レコード芸術』などの日本の音楽誌では特に低かったように記憶している。そこでは、曲芸まがいで内実を伴わず空虚だという評がもっぱらだったため、もともとリストの曲に関心がなかったこともあり、これまでその芸風に触れる機会さえなかった。

    ちょうどこのCDには、フジ子のCDに収録されていた曲目と共通するものが何点か入っているので、聞き比べてみるとその違いは非常に大きい。先日、ヴィルトゥオーゾと言われるヴァイオリニストのヒラリー・ハーン、ハイフェッツなど聴いてみたが、このシフラの演奏こそ時に胸がムカツクような大変な迫力と超絶的な技巧のオンパーレドといった趣の演奏だ。

    先にも書いたが、フジ子ヘミングの弾くリストが個性的な演奏として一方の極にあるとすれば、このシフラの弾くリストは、これでもかという技巧の顕示と大胆なデフォルメ(シフラは即興演奏を得意としていたというので、ところどころ自ら編曲しているのではないかという部分もあるように思う)という点でもう一方の極にあるのではなかろうか?

    フジ子の演奏は、音楽から取り出すメッセージの豊富さと音の美しさは別して、いわゆるピアニスティックな感覚的な喜びはあまり感じられないが、シフラのものは音楽が内包する何物かを伝えようとするよりも、ピアノという楽器でどこまでできるのかという極限を追求するような趣があり、強い打鍵と猛烈な速さの連打、跳躍をものともしない精度の高い技術などが特徴となっているようだ。

    録音もモノーラルで古い年代のものもあるのだが、その古さを感じさせない迫力がある。

    曲目は、リスト人気曲集で、Bravuraな、『ハンガリアン・ラプソディ』3曲、『ラ・カンパネッラ』、『リゴレット・パラフレーズ』などのほかに、『愛の夢』、私がフジ子の演奏で気に入った『小鳥に説教するアッシジの聖フランシス』のような曲も収められている。
    (なお、参考までにフジ子のタイミングは、1. 9:24, 4. 5:37, 5. 4:38, 6. 9:10)

    ただ、技巧の誇示はすさまじいものがあるが、それはリストの曲がそのようなものを要求しているのであり、単にメカニカルな凄さを誇示(正確さ、音の大きさ、速さなど)を目的としているのではなく、音楽が要求する方向とのずれがないため、むしろ前述のムカムカさと相反するようだが、爽快感も感じられるほどだ。大変楽しむことができた。

    昨日のトスカニーニのヴァーグナーもそうだったが、やはり「百聞は一見に如かず」(より正確には、百読は一聴に如かず)である。

    子どもと一緒に音楽を聴くと意外な感想が返ってきて驚きもするし、とまどいもすることがあるのは、馬齢を重ねてと先入観の塊のようになってしまったこともあるのだろう。複雑なクラシック音楽には、形式感のような一定の先入観が必要とされるのだろうが、作曲者、演奏者についての予備情報の多くは無用なものが多いことをもう一度自戒する必要があるようだ。

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    2006年11月11日 (土)

    トスカニーニのヴァーグナー前奏曲集

    Wagnervorspiele_toscanini_

    Richard Wagner (1813-1883)

    『ローエングリン』第1幕への前奏曲(8:42),第3幕への前奏曲(3:06)
      〔1951年10月22日、カーネギーホール(以下同所)〕

    『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲(8:58)
     〔1946年3月11日〕
    同 第3幕への前奏曲(7:01) 〔1951年11月26日〕

    『パルジファル』第1幕への前奏曲(15:25)、聖金曜日の音楽(10:38)〔1949年12月22日〕
    『ファウスト』序曲 (10:48) 〔1946年11月11日〕

    アルトゥーロ・トスカニーニ Arturo Toscanini 指揮 NBC交響楽団

    定価ではまず手にすることのなかったCDだが、ブックオフで目に留まり興味半分で購入した。

    1940年代以前には短いぶつ切りのフレージングの悪夢にうなされることのない実演を繰り広げて、欧米の聴衆に非常に深い感銘を与えていたと言われているトスカニーニだが、私の所有している1950年代のNBC響とのベートーヴェンの『エロイカ』(LP)、第九、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、ローマ三部作などではその短いフレージングと残響の少ない録音のために、骨格だけの非常に奇異な音楽に聞こえて仕方がなく、音楽の持つ異様な迫力はわかりつつもどうも敬遠してきた。

    トスカニーニは、相当早い時期からバイロイトにも招かれ(このCDにもバイロイトでの1930年のトスカニーニの写真が掲載されている)、ヴァーグナーを得意にしていたのだという。そのような断片的な知識しか持たずにあまり期待せずにこのCDを聞いてみたところ驚いた。

    このヴァーグナーは、フレーズもぶつ切りではなく、寸詰まりさはほとんど感じられない。先日聴いたベームとVPOの『マイスタージンガー』第一幕前奏曲の演奏の方がいわゆる「トスカニーニ」スタイルだったほどで、本家トスカニーニの方がずっと余裕のある演奏なのだ。録音年代や場所も、上記のベートーヴェンの第3や第9とそう違いはないし、リマスタリングもチャイコフスキーのピアノ協奏曲と同じシリーズなのでそう違いがあるわけでもないだろう。トスカニーニの音楽的な解釈が、ヴァーグナーの『無限旋律』に長いフレージングを与えようという意識での演奏なのだろうか?非常に息の長い輝かしいカンタービレに酔って思わずウルウルしそうになる。(単純にトスカニーニのヴァーグナーと私の相性がいいだけなのかも知れない。)

    録音年代は、1940年代から1950年代前半で、もちろんモノーラルだが、非常にエネルギーのあふれた締まった音響で、リズム的にも前のめりではなく、輝かしい素晴らしい演奏になっている。レーグナーの非常に残響の多い録音で親しんでいる音楽だが、このトスカニーニの録音は私の許容度をはるかに越えるものだ。彼の残した他のワーグナー録音も聴いてみたくなった。

    トスカニーニがその輝かしい指揮者人生に自ら幕をおろしたのは、このCDと似たヴァーグナーの名曲集のコンサートでの振り間違えが原因だったというのは有名な話だ。極端に視力の悪かった彼は、その驚異的な記憶力により暗譜でそれを克服していて暗譜での指揮の嚆矢だったのだが、すでに70歳を越えていた彼の記憶力に衰えが生じ、確信を持って振り下ろした指揮棒がオーケストラを混乱させてしまったことが自ら許せなかったのだという。その時のコンサートはMusic & Arts というアメリカのレコード会社から発売されているのだという。(それもステレオ録音の実験的な試みが行われていたためステレオで聴けるのだという。)少々心が痛むが、これも聴いてみたいと思う。

    | | コメント (4) | トラックバック (1)

    2006年11月10日 (金)

    ブラームス 弦楽四重奏曲 第1番、第2番 ABQ

    Brahms_sq12_abq

    ブラームス (1833-1897)
     弦楽四重奏曲 第1番ハ短調 Op.51-1(1865-1866,1873年)
                                  8:00/7:07/8:53/5:58
               第2番イ短調 Op.51-2(1869-1872,1873年)
                                  8:30/9:42/4:50/6:48

    アルバン・ベルク四重奏団(ピヒラー、メッツル、バイエルレ、エルベン:最初期メンバー) 
    〔第1番:1976年6月、第2番1977年2月、ヴィーンテルデックスタジオ〕


    どうも秋には内省的になるのか、夏にはほとんど聞く気の起こらない室内楽も聴きたくなる。

    ブラームスは、偉大なベートーヴェンを尊敬し、意識して、ベートーヴェンが不滅の業績を残したピアノソナタ、弦楽四重奏曲、交響曲で挑戦を試みたが、ピアノソナタと弦楽四重奏曲ではベートーヴェンと伍するような傑作を結局生むことができなかったようだ。ただ、このCDの浅里公三氏ノライナーノートによるとこの2曲の作品51の前に20曲以上も弦楽四重奏曲を書いたがすべて破棄してしまったという。むしろ彼の室内楽における個性は、五重奏曲、六重奏曲やクラリネットなどを伴うアンサンブル曲に発揮されたとも言われている。

    ブラームスの弦楽四重奏曲の三曲と言えば、彼の多くの室内楽作品の中でも上記の意味で最も奥の院に属しており、なかなか親しみにくい作品だという評判がある。それに挑戦してみようと、数年前にこのCDを入手して聞いてみたが、敢え無く降参してしまった。やはり弦楽五重奏曲、弦楽六重奏曲の方が面白く聞けるなという感想だった。

    ところが、最近久しぶりに第1番を聴いてみたところ、結構すんなり耳に入ってきたのには驚いた。昨年来、ブラームスのピアノソナタや晩年のクラリネット系のアンサンブル曲やドイツ・レクィエムなどを続けて聴いており、ブラームスの書法の癖のようなものに慣れたことが、ブラームスの四重奏曲を少しは享受できるような耳ができたたことに影響しているのかも知れない。自分の耳も次第に熟成が進むのだろうか?

    それまで楽しめなかったり、分からなかったり、親しめなかったりしていた曲が、ある日突然楽しめるようになることがあるが、それは今回のような時間の経過などにより聞き手である自分に要因がある場合もあるし、同じ曲を別の演奏者で聴いたり、別の装置で聞いたり、別の環境で聞いたりと、外部的な要因のある場合もある。今回の場合は、ブラームスの語法というのだろうか、音楽の癖を受け取るだけの用意が自分の側にできたということではないかと想像する。(もっとも「楽しめた」という程度で、理解できたというレベルにはほど遠いのだが。)

    この2曲は、作品51ということで、先日のワルツ『愛の歌』作品52やその後続く『アルト・ラプソディ』など声楽作品群の直前の作品番号になっている。また、同じ作品50番台には、『ハイドンの主題による変奏曲』作品56a,bが控えている。晦渋な印象が強いのは、こちらの意識のせいかも知れない。それでも、第1番のフィナーレなどは、くどい感じがするのだが・・・。

    ところで、オーケストラが色彩的とは言うが、むしろ色彩的でないオーケストラはあまりないので、感覚的に当然のものとして受けとめている。例えば、華やかで色彩的な例としてはレスピーギの『ローマの松』の冒頭など原色的で多彩な音の洪水で目もくらむようで効果的とは思うが、音楽の実質的な色彩・陰影とは違うように感じている。むしろ、弦楽四重奏曲のような同質の楽器の合奏で地味だと思われているものの方に、音楽そのものの微妙なニュアンスを表現する陰影的な色彩を感じることがある。美麗なカラー写真を見ても、それを当たり前だと見る場合色彩自体それほど意味を持たないが、白黒の濃淡だけの白黒写真を見て微妙な諧調と造形を堪能するとき、見えない色彩が見えてくるようなものだろうか。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2006年11月 9日 (木)

    イエルク・デムスのシューベルティアーデ

    "Demus_schubertiade Eine Schubertiade" シューベルティアーデ

    シューベルト
    1. 即興曲 ヘ短調Op.142-1
    2. 同 変イ長調 Op.142-2
    3. ピアノ小品 変ホ長調D.946
    4. 即興曲 変イ長調Op.90-4
    5. 同 変ロ長調Op.142-3
    6. ハンガリーのメロディー ロ短調D.817
    7. 楽興の時 ヘ短調Op.94-3
    8. 同 嬰ハ短調Op.94-4
    9. 「第一ワルツ集」Op.9 から12のワルツ
    10.クッペルヴィーザーワルツ 変ト長調
    11.「フランツ・シューベルトの祈り」
    (詞:デムス、即興曲変ト長調Op.90-3による テナー:ゼーゲル・ファンデルステーネ)

    イョルク(イエルク/イェルク)・デームス(デムス) Jörg Demus (ピアノ)
                        〔1993年録音 1913年製ニューヨークスタインウェイ使用〕

    戦後、フリートリヒ・グルダ、パウル・バドゥラ=スコダとともに「ウィーン三羽烏」と称されたイエルク・デムス。グルダは、モーツァルト・ベートーヴェンを中心レパートリーにしながらジャズにも進出したが、最高のピアノ弾きとして君臨した。バドゥラ=スコダは、音楽学者として活動し、フォルテ・ピアノなどの演奏も手がけた。イエルク・デムスは、F=ディースカウと「詩人の恋」を録音、パツァークと「冬の旅」を録音、ウェストミンスター・レーベルにシューマンのピアノ四重奏曲、五重奏曲を録音など1960年代はバリバリの活躍をしていたし、バドゥラ=スコダとの連弾でも名声を博した。ただ、それぞれの道や資質は異なっており、ヴィーンゆかりのピアニストとしてひと括りにするのは乱暴だとは、吉田秀和氏の著書に書かれていた。

    Demus_in_suzaka 1997年5月30日に彼の来日公演を聴く機会を得た。左の画像はリサイタルのチケットと、一緒に聴きに行った妻がリサイタル後に、上記のCDを購入しCDのブックレットにもらったデムス本人のサイン。

    このときのデムスのプログラムのメインは、ベートーヴェンの最後のピアノソナタ第32番だった。彼の実演は、確かに左手は非常に怪しかったが、それでもあの難曲をハラハラさせながらも最後まで弾ききってくれた。(というのもプロのピアニストに対しては失礼な言い方だが)。

    このリサイタルの前に、現在日本で編曲者・ピアノ演奏者として活躍している音楽家のポピュラーコンサートを同じホールで聞いたのだが、そのショパンなどの有名曲の演奏が、よく指は回るし音は綺麗なのだが、あまり心に伝わってこなかった経験を不思議に思っていた矢先だったので、それと比較して、デムスのピアノにはなんとも言えないメッセージが込められていたのを実感できたリサイタルだったことを思いだす。

    これについて10年ほど前Nifty-serveというパソコン通信時代のFCLAというクラシック音楽の会議室にも投稿したことがある。

    落語や戯曲の台詞を、意味や背景、様式を十分把握していない例えば来日した外国人のような人が日本語でそれなりの発音で流暢に話すのと、専門家の噺家や俳優がそれぞれのその人なりの癖のある語りぶりで話すのとでは、伝わる意味の内容や量が違うのではないかという仮定。それが、楽譜的には即物的に正しく確実に弾いた音楽(極端にはmidiの音楽)と、少々怪しいタッチでも様式や意味内容を十分踏まえた上で弾いた音楽との違いと同じようなものではないかと、書いたことがある。デムスの音楽には、ヴィーンを初めとしたヨーロッパで、多くの一流の音楽家たちの間で成長したピアニストの持つ音楽語というものはどういうものかを聞けたようなリサイタルだった。

    学校教育でも伝達できるようにマニュアル化、組織化、グローバル化されている西洋クラシック音楽であり、音楽に国境はないとはよく言われることではあるが、例えば日本人があの相撲の拍子木の次第に間隔の短くなるリズムを特別な訓練がなくても見よう見真似で打てるのと違い、あのようなリズムの伝統のない西洋では、あれを楽譜に表すことも困難で、プロの打楽器奏者でも苦労するといことがある、という。また、蝉や鈴虫のような虫の音を聴く際に西洋人と日本人では、それを雑音と聴くか、意味のある音と聴くかという点で脳の使い方まで違うという有名な話があるが、洋の東西の音楽についての感性の差は以外に大きいものだとも言えるかも知れない。そういう考えは、西洋音楽を日本人である自分が聴くということについての懐疑にもつながり、なかなかつらいのだが。

    このデムスのCDは、そのときのリサイタルの感慨を完全によみがえらせてくれるものではないが、味のある音楽を聴かせてくれる。大切なCDの一つだ。

    1曲目の即興曲は、まさに「天国的な長さ」的な演奏。なお、10曲目の『クッペルヴィーザー・ワルツ』(Kupelwieser-walzer Ges-dur)は、シューベルトの友人クッペルヴィーザーの曾孫に口伝で伝えられたワルツをR.シュトラウスが採譜したものだという。

    p.s. デムスが10月末に来日中ということで、コンサート記事を見つけてトラックバックを送らせてもらった。

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    2006年11月 8日 (水)

    シューベルト 『白鳥の歌』 シュライアー&シフ

    Schubert_schwanengesang_schreier_schiff シューベルト 

    『白鳥の歌』(全14曲) 
     その他4曲:4.Herbst, 16.Der Wanderer an den Mond, 17.Am Fenster, 18.Bei dir allein

    ペーター・シュライアー(テノール)
    アンドラーシュ・シフ(ピアノ)

    〔1989年8月 ヴィーン・コンツェルトハウスのモーツァルト・ザールにて〕


    バルトークの『2台ピアノと打楽器のためのソナタ』(アルゲリッチなど)も英国の音楽雑誌 "Gramophone"の Award collection(受賞盤コレクション)シリーズで出ていたのを購入して記事にしたが、このCDもそのときに店頭で見かけて購入したもの。(本当は、オリジナルのジャケットのものをほしかったのだが。)一応この賞についての記述を読むと、1990年の独唱賞を獲得したものだという。

    シューベルトの歌曲集では『冬の旅』『美しき粉引き女(美しき水車屋の娘)』にはその中の曲を歌ったりピアノで爪弾きするなどして以前から親しんできたが、この『白鳥の歌』は、有名な『Ständchen セレナーデ』を歌ったり聴いたりする程度で、音盤も身近になかったためこれまで全曲に親しむ機会はほとんどなかった。(ブログでのドイツ語のウムラウトの表示方法がようやく分かった。普通のホームページと同じだったのだ。HTML編集のできるブログなら可能のようだ。)

    このCDには、上記のようにシューベルトの死後編集された『白鳥の歌』全14曲のほかに、それにゆかりのあるレルシュタープの"Herbst"、ザイドルの"Der Wanderer an den Mond" "Am Fenster" "Bei dir allein"の合計4曲を加えて、詩人別にまとめて歌われている。通常の『白鳥の歌』とは異なり、レルシュタープによる8曲のリート集、ハイネによる6曲のリート集、そしてザイドルによる4曲のリート集という体裁になっている。(以下題名は拙訳)

    レルシュタープ詩:
    1. 愛の便り 2.戦士の予感 3.春の憧れ 4.秋 5.遠ざかりて  6.セレナーデ 7.我が住処  8.さようなら

    ハイネ詩:
    9.漁師の娘  10.海辺  11.町  12.二重の幻影(ドッペルゲンガー) 13.彼女の絵 14.アトラス 

    ザイドル詩:
    15.伝書鳩通信  16.月に呼びかけるさすらい人  17.窓にて  18.あなたとだけ

    なお、普通の『白鳥の歌』は次の順で歌われる(通常の訳による題名) 1.愛のたより 2.戦士の予感 3.春のあこがれ 4.セレナーデ 5.わが宿 6.遠い国で 7.別離 8.アトラス 9.彼女の絵姿 10.漁師の娘 11.まち 12.海辺で 13.影法師 14.鳩の便り

    曲の解説については、こちらのページが詳しく、ためになる。

    シュライアーは、旧東ドイツ出身のテノール歌手。先に触れたモーツァルトの『魔笛』のタミーノなどのオペラのほか、バッハのエヴァンゲリストやモーツァルトの宗教曲でも名テノールとして活躍している。

    シフは、ハンガリー出身のピアニスト。同年代のラーンキ、コチシュとともに、若い頃はハンガリーの三羽烏と呼ばれたこともあったが、早くから西側で活躍を始めた。モーツァルトやシューベルトを得意とし、J.S.バッハの鍵盤楽曲もピアノで弾く。ヴァイオリニストの塩川悠子と結婚している

    やはり、リートもメロディーや歌詞を諳んじられるほど歌ったり聴いたりしないと細かい鑑賞ができないように思う。その点、このCDのシュライアーの歌唱は、声も発音も見事なものだと思うが、比較して鑑賞するようなことができないため、まだ十分に感想を書けないのだが、それでも3の「春への憧れ」は、情熱的で声も輝かしく聞き応えがあった。聞き進むうちにいくつか記憶のある曲もあるが、それにしてもシュライアーの表現力は凄い。シフのピアノも伴奏として完璧によりそうというよりも独自のパートとして歌唱とピアノのデュオ(白井光子、ハルトムート・ヘル夫妻が実践)演奏を繰り広げている感じがする。

    録音的には、モーツァルトザールの残響が相当録られているようだ。それでもシフのピアノは残響に埋もれてしまわず速いパッセージでも比較的明晰に鳴っている。一部シュライアーの声のエネルギーが強いせいもあり、フォルテの部分で少々ヘッドフォンがびり付くことがある。

    シューベルトのリートは、古くはヒュシュ、そして20世紀後半はフィッシャー=ディースカウと、バス、バリトンによる歌唱が主流のようだが、私はユリウス・パツァークというテノールによる『冬の旅』(オリジナルの音高=調性)に最初に親しんだため、どちらかと言えばバリトンやバスの歌唱よりもテノールの方を好む傾向があり、『美しき・・・』もヴンダーリヒの歌唱を一番好んでいる。この『白鳥の歌』も暗い雰囲気のリートが多いので、バス、バリトンの深い声が一般的なようだが、このシュライアーの透明な声は魅力的だ。

    シューベルトの友人のフォーグルは、バリトン歌手だったというので、オリジナルのテノール用の楽譜では歌えなかったはずではなかろうか?それとも低い方に移調して歌ったのだろうか?基準音のピッチも今より半音近く低かったと言われているが、どうだったのか?(この辺の疑問はこの後の日本のバリトン歌手の方の解説に詳しい。)ただ、シューベルトは残そうと思えば低い声用でも楽譜を残せたはずだということも言えるので、やはりできるだけ高い声での歌唱が望ましいのではなかろうか?

    はるか昔、高校の音楽室で読んだ1970年代前半の『レコード芸術』にはF=ディースカウのシューベルトの移調がいわゆる平行移動的に原調から下げているのではなく、移調は結構恣意的で、曲と曲の調関係が崩れているというような指摘があったことを記憶している。(この件で別にF=ディースカウとホッターの録音を比べてみたいと思う。)

    上記の疑問については、このシューベルトのリートの移調について触れた田辺さんというリート歌手による新聞記事は、非常に面白い。このページでは更に詳しくまとめられている

    ただ、こうは書いても、バリトン、バスによるシューベルトのリート歌唱を否定するものではない。それでも作曲者の意図を尊重するのなら、この田辺さんのようなアプローチが必要ではないかとは個人的に思う。声帯と身体は素晴らしい楽器だが、個人個人の能力により、高い声や低い声に得手不得手があり、楽器では演奏できるのに、声では歌えないものも出てきてしまう。合唱をやっていた頃、いわゆるファルセットではなくフルヴォイスで高い声が出たり出なかったりで苦労したことを思い出す。

    秋の夜長には、ドイツ・リートもなかなかいい。

    p.s. 外国盤のCDのパンフレットのほとんどは、演奏される曲の情報は豊富だが、演奏者についての経歴やその音盤での演奏の特徴などの情報がまったくといって書かれていないことが多い。日本盤では、曲目の情報に加えて、演奏者情報も豊富なのとは対照的なのは不思議だ。

    なお、白鳥はその最期に美しい声で歌を歌うという言い伝えがあり、このシューベルトの歌曲集はその意味で付けられたのだが、以前はモーツァルトの交響曲第39番に『白鳥の歌』というニックネームをつけている解説があったように記憶する。最近はとんと見なくなった。このニックネームの由来は何だったのか。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2006年11月 7日 (火)

    TVドラマ『のだめカンタービレ』Lesson4

    11/6(月)の生放送では見られず、今晩ビデオで見た。

    季節柄、コタツエピソードを持ってきたか!プリゴロタアニメを特製するとは、凝り過ぎ・・・

    原作第3巻では、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』を練習する千秋とSオケの奮闘振りが描かれるが、ドラマではこのドラマのオープニングテーマにも使われている第7番が桃ケ丘音大の定期演奏会の曲目となっていた。

    なお、Aオケはシュトレーゼマンの指揮で第九の第1、2楽章という中途半端なプログラムというのはどうなのだろう?大河内君は哀れ過ぎ。

    原作では、"のだめ”が、耳コピした『英雄』を千秋の部屋のピアノで全曲暗譜で弾きとおすという驚異的な場面があり、"のだめ"の天才が表れる重要なところなのだが、ドラマでは7番を弾かせていた。カツァリスによるリスト編ピアノソロでのベートーヴェンの交響曲全曲演奏も最近店頭では見なくなったが、少々飽食気味の耳には先日の2番のピアノトリオ編曲と同じように新鮮に聞こえた。すごく面白い場面だった。

    演奏会での7番の演奏シーンも、例の『英雄』の葬送行進曲でやるはずのジミヘンポーズを、7番のちょうどぴったりのフォルテの部分でやらせるなど芸が細かい。チェロやコントラバス回しはちょっとやりすぎ。他の楽器の上向き演奏は、『巨人』のホルンにも例があることだし、結構受けた。

    BGMでは、『アルルの女』のフルートとハープによるメヌエットや、サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の『水族館』などが登場し、なかなか飽きさせない。モーツァルトは、優しいピアノソナタ ハ長調K.545が登場。「シュキあり」は、千秋があそこで寝ているというのが不自然だが、のだめ的にはなかなかよかった。

    次回は、文化祭でいよいよ"のだめ"のマングース着ぐるみでの、ピアニカ版『ラプソディー・イン・ブルー』が聴けるらしい。千秋のラフマニノフの2番コンチェルトも。どうなることやら楽しみ。(ただ、長野のニナ・ルッツ音楽祭は割愛されるようだ。)

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    ベートーヴェン 七重奏曲

    Beethoven_septet ベートーヴェン
     七重奏曲 変ホ長調 作品20
        (10:08/9:12/4:03/7:35/3:24/7:55)

    モーツァルト
      ホルン五重奏曲変ホ長調K.407(386c)   (6:08/5:42/3:45)

    ベルリン・ゾリステン
     ゲラーマン(Vn)、モーク(Va)、ハルトーク(Va:HrnQuintet)、バウマン(Vc)、シュトール(Cb)、ライスター(Cl)、ヴラトコヴィチ(Hrn)、トゥルコヴィチ(Fg) 〔1990年、ベルリンでの録音〕


    独奏から十重奏までは、英語で Solo, Duet, Trio, Quartet, Quintet, Sextet, Septet, Octet, Nonet, Dectet と表すそうだ。どれもラテン語由来のイタリア語を借用したものらしい。Septet, Octet, Nonet, Dectetの語幹は、September, October, November, December のそれと共通する。西洋人でも、September を9番目の月と脳内変換するのは結構苦労するのではなかろうか?Octoは、Octopus 八本足のタコ(蛸のはっちゃん!)と同じだし。ローマ皇帝のわがままによる不合理をそのまま2000年近くも受け入れ続けるというのは西洋人も我慢強い。

    閑話休題。

    さて、この七重奏曲は、若い頃のベートーヴェンの作品。室内楽に分類されるがモーツァルト的な曲種分類からすれば、『グランパルティータ』のような管楽セレナード、ディヴェルティメント、ハルモニームジークのような機会音楽に近いもののように思われる。

    ここでは、まだ耳の病気に悩む前の、快活で社交的なベートーヴェンの音楽が聞かれる。この音楽を聴くにつれ、「歴史にもしも」は禁物だが、彼の耳疾が悪化しなければ、あれほどの深遠な傑作が残されたかどうかという思いに駆り立てられる。

    若きベートーヴェンは、モーツァルトもそうだったようにピアノの即興演奏の大家だったという。その妙技によりボンでもヴィーンでも貴族を中心とした音楽愛好者の間の花形であり、そのような自分の演奏のために作曲したのがやはり快活なピアノ協奏曲の第2番、第1番だった。それらはもちろん、この七重奏曲も若い頃の作品ということもあり、心に沁み通るような深みはほとんどない。そこに聴かれるスケルツァンドな味付けは、ベートーヴェンの個性的な快活さの表れで、枠組み的にはハイドンとモーツァルトによって確立されたヴィーン古典派の様式の中にある。この作品もそのような時期のものであり、聞いていて、後年のベートーヴェンのイメージがほとんど湧かないものの一つだろう。

    ベートーヴェンの傑作の森以降の作品群を聴くときに、現在私はほとんど彼の難聴のことを意識せずに聞いてしまっている。伝記的な知識としてはいやというほど読まされ聞かされ、私の小学生時代はベートーヴェン崇拝者の先生にまさに『楽聖』という意識を叩き込まれたものだった。しかし、いわゆる偶像破壊の風潮が広まるにつれて、モーツァルトやベートーヴェンの伝記的な人間的な側面が広く知られるようになり、人間的な個性、魅力が広まるに反比例して、その聖性は失われていく傾向が強まったように思う。ただ、それにつれて、人間性が偉大だったから生まれながらの天才だったから音楽も素晴らしいという考え方は今でも残ってはいるが、逆に残された音楽が素晴らしいからこそ、彼らの伝記的な事実にも目が向けられるという風に変ってきた。

    そのような観点から、後の伝記的知識を棚上げしてこの作品を虚心坦懐に聴いてみると、もちろん後年の萌芽も見え隠れはするが、希望に満ちた青年音楽家の躍動が伝わってくるようだ。そこから、前に戻るようだが、「もしも」を問いたくなる。彼がその後耳の障害に悩み、それを克服した上で不屈の闘志により傑作の森と晩年の至高の作品群をものさなければ、その後の西洋音楽の発展も相当違ったコースをとったのではなかろうか?

    なお、この曲の第三楽章のメヌエットは、『ソナチネアルバム』第1巻第15番として知られるベートーヴェンの優しいソナタ第20番ト長調作品49の2(作品番号は大きいがこの七重奏曲よりも前の作品)のメヌエットと同じメロディなので、非常に親しみ深い。この演奏が見事ということもあろうが、特にヴァイオリンの楽器法が非常に効果的であり、楽想の親しみやすく大胆な点も含めてやはり若き天才の作品だと感じる。

    併録のモーツァルトのホルン五重奏曲は、もちろんホルン五本の合奏ではなく、「ホルンと弦楽のための五重奏曲」で、編成は、ホルンとヴァイオリン1,ヴィオラ2,チェロ1というものだ(ホルン協奏曲的な作品ではあるが、この楽器編成は、彼の弦楽五重奏曲の編成のうちヴァイオリンをホルンに置き換えたものに相当し、いかにモーツァルトがヴィオラによる内声を重視したかの表れとも見られる)。彼は、管楽器をフィーチャーした室内楽を相当残しており、有名なクラリネット五重奏曲、オーボエ四重奏曲、フルート四重奏曲集、ケーゲルシュタットトリオなどがよく聴かれるが、このホルン五重奏曲は、ロイトゲープというモーツァルトの気のおけない悪友のために書かれたホルン協奏曲ともども、他の管楽器の室内楽、協奏曲に比べてそれほどもてはやされてはいないようだが、佳曲だと思う。

    ベルリン・ゾリステンは、ベルリンフィルの著名な名手たちの集団。かつてDGのLPのライスターやコッホが加わったモーツァルトのクラリネット五重奏曲とオーボエ四重奏曲は、この団体名を名乗っていたように記憶するがどうだろう。母体のオケの少々ボリュームがありすぎるほどの低音の雄大さはないものの、個々の奏者の力量とアンサンブルは流石に素晴らしい。特にホルンが見事だと思う。

    P.S. narkejpさんの七重奏曲の記事を拝読してこのCDを聴く機会を得たので、トラックバックさせていただいた。

    | | コメント (2) | トラックバック (1)

    2006年11月 6日 (月)

    『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』を聴く

    リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)
    交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』作品28
    (昔話の悪漢物語による大管弦楽のためのロンド)

    1.ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団 14:22 〔1957年3月29日〕
    Rstrauss_szell_clo



    2.カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団  15:12〔1958?〕
    Rstrauss_boehm_bpo



    3.ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 15:30〔1972年12月〕Rstrauss_karajan_bpo



    4.ウラジーミル・アシュケナージ指揮クリーヴランド管弦楽団 14:25〔1988年〕
    Rstrauss_ashkenazy_clo



    『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』は、R.シュトラウスの交響詩の中では比較的短く『ドン・ファン』と並んでフィルアップ的に収録されるため、何種類かの録音が集まったので聴き比べをしてみた。(2003年12月にもベーム以外は聞き比べてみたことがあるがそのときと印象が違うのはどうにも・・・)

    たまたま、オーケストラは、クリーヴランドOとBPOといういわゆるヴィルトゥオーゾオーケストラの競演となった。また、ジョージ・セル、カール・ベームとも大作曲家兼大指揮者だったリヒャルト・シュトラウスの指揮の弟子にあたり、その録音時期も近いためその演奏解釈の違いも聞きどころだ。特にセルの場合には、渡米後もR.シュトラウスから「セル博士は、まだ私の『ティル』を暗譜で指揮していますか?」というような書簡が知人宛に届いたほどだったというので、R.シュトラウスにとってもセルにとってもこの『ティル』は特別な曲だったということが伺われる。また、ベームは独墺人として、戦前から戦後までR.シュトラウスとの直接の師事関係は途切れず、『無口な女』、『ダフネ』(ベームに献呈された)の初演まで行うほどだった。

    さて、順番に聴いてみよう。1,2は、1950年代末のステレオ録音最初期のものだが、特に不自然なプレゼンスはない。

    1.この四つの録音の中で最もテンポが速い演奏ということがセル/クリーヴランドO.の演奏を象徴する。とにかく歯切れがよい。このテンポ設定はR.シュトラウス自身の指揮自体が即物的と言えるほど端正なものだったというのでその影響もあるのだろうが、細かい場面の描写は同じCDのメインの曲目『ドン・キホーテ』でも聞かれるような目覚しさがこの曲でも表れている。セルは、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなど純音楽の表現では、微妙なニュアンスはたっぷりあり、リズミックではあるものの、一般的には謹厳実直な音楽を作るというイメージがあるのだが、『ハーリ・ヤーノシュ』や『ティル』『ドン・キホーテ』のような標題音楽では非常に鮮やかな映像的と言えるほどの表現を見せてくれるのが凄いと思う。

    2.1950年代末から1960年代のベーム/BPOと言えば、ブラームスの交響曲第1番の非常に引き締まった録音を残し、またモーツァルトの交響曲全集を録音するなど、カラヤンの音楽監督下のBPOではあったが、良好な関係を築いていたようだ。この録音も古い録音とは思えないほど明瞭な音が録られており、ホールトーンも豊かなので非常に聞きやすい。また、ベームの指揮も非常に燃焼度が高い。しかし他の演奏と比べると、描写性はそれほど強くない。どちらかと言えば大管弦楽によるロンドという純音楽的な表現の方に力点を置いているように思える。

    3. ベームと同じベルリン・フィルによる演奏。1970年代のこのコンビはまさに飛ぶ鳥を落とすがごとき勢いだった。このようなオケの音の厚みは、2のベームにはあったが、特に1のセル盤では聞かれないもの。セル盤の奏者の演奏にも瑕はないのだが、余裕の面で比べるとBPOの方が上かという気もする。カラヤンは音楽的表現の多彩さと豊麗な音響の追求に力点を置くようで、部分部分の音響の凄さには酔わされるのだが、描写の迫真性ではセルの方に一日の長があるように思う。

    4. セルが永遠に去った後、相当経ってからアシュケナージは首席客演指揮者としてこのクリーヴランド管弦楽団をよく指揮していた。この演奏のタイミングは、セルの残した録音とほとんど同タイミングで相当速い。定評あるデッカ録音でかつディジタルだけあり、細部のピントがさらにあった感じがする録音となっている。アシュケナージは、オーケストラ演奏の中では難曲に属するこの曲を上手くまとめてはいると思うが、セルの指揮に比べると、この音楽に対する必然性や思い入れのようなものが希薄なのだろうか、音楽の勢いのようなものが感じられない。畳み掛けるような音楽の迫力が少し不足している感がある。

    ところで、漫画『のだめカンタービレ』では、この曲は、千秋とR☆Sオケとの思い出の曲目でもあり、千秋のプラティニコンクールでの課題曲として重要な役割を果たしているが、いざこのようにじっくり聞き比べてみると、オケの多くの楽器にとってもソリスティックな難技巧を要求され、場面場面の描き分け、場面転換の鮮やかさ、アンサンブルの難しさなどが山積しているため、大変な曲だということが分かった。特に、ホルンのヨアヒム(パガニーニ?)と言われた名ホルン奏者を父に持ったR.シュトラウスだけあり、ホルンはティルの主題を担いその活躍は目覚しいので、それを思うとあのコンクールのウィルトゥールオケのホルン奏者はつらかっただろう^_^;

    追記:2008/1/9 セルの同じ録音を取り上げられている電網郊外散歩道さんの早寝・早起きと「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」 記事にトラックバックさせていただいた。クレンペラーのR.シュトラウス曲集は年末にBookoffで見かけたのだが、先日確認したら売れてしまっていた。惜しいことをした。

    | | コメント (6) | トラックバック (2)

    2006年11月 5日 (日)

    ハイドン交響曲全集 鑑賞メモ その3

    2006年3月18日 ハイドン交響曲全集 鑑賞メモ その2に続くもの。コメントが短すぎるし全作品ではない。また意味不明の部分もあるが、一応聴いたメモとして。

    アダム・フィッシャー指揮 オーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団(Brilliant 33枚組み全集)

    Haydn_symphonie_nr3033_a_ficsherahho ◆2002年4月11日(木)CD8 No.30-No.33
    No.30 『アレルヤ』 1st movement はバロックのシンフォニアのようにハイドンのトランペットで始まる。
    No.31『ホルン信号』名の通りホルンが活躍。2nd movement はホルン入りの室内楽のよう。4thはフィナーレ風ではなくチェロのソロなどがあり。

    ◆2002年4月12日(金) 
    No.32 Cdur。  2nd mv.にメヌエットが来る。トランペット、ティンパニが目立つ。
    No.33 もCdur。 急緩メヌエット急の標準的な順序。これもトランペットとティンパニが目立つ。フィナーレが「ヘミオラ」というのかリズム変更があり面白い。

    CD9 No.34-No.37
    No.34 d moll。緩急メヌエット急。2曲目の短調作品?急は長調、展開が面白い。
    No.35 Bdur。四楽章標準。ホルンが活躍。
    No.36 Es dur。ながら聴き。(コメントなし。さすがに集中力が切れる)

    ◆2002年4月13日(土) CD10 No.38,39, "A", "B" (A,Bは調性ではなく、番号なしのあだ名のようなもの)
    No.38 C dur。『エコー』というあだ名。このあたりのCdurはトランペットとティンパニが目立つ。
    No.39 ト短調、g moll。シュトルム・ウント・ドラングの始まりか?
    ( "A", "B"のコメントなし。CD11 No.40-42も聴いたがコメントなし。)

    ◆2002年4月15日(月)CD12 No.43-45 全部ニックネーム付き。
    No.43 『マーキュリー』というもの。由来は何か?あまりよく書けていない作品という印象。
    No.44『Mourning』(嘆き) e moll ホ短調(ト長調の平行短調)第2楽章がメヌエット。このような短調作品の作曲経緯は分かっているのだろうか?アダージョは長調で透明な感じ。第4楽章は、焦燥感のある対位法的な曲。
    No.45嬰へ短調(イ長調の平行短調)有名な『告別』(さよなら交響曲)。第1楽章はモーツァルトの小ト短調を彷彿とさせる。 

    ◆2002年4月16日(火)CD13 No.46-48
    No.46 展開部の動機労作(ママ)がよく分かる。第二楽章は短調色が強い。
    No.47 第一楽章はモーツァルトのピアノ協奏曲の冒頭風の金管の信号音で軍隊調。第三楽章は牧歌風のメヌエット。
    No.48 『マリア・テレジア』というあだ名。祝祭的でこれまでになく華やか。


    ◆2002年4月25日(木)CD14 No.49-51
    No.49 f moll。" La Passione" 『情熱』か『受難』か?Ⅰがアダージョでいかにもシュトルム・ウント・ドラング的な楽想だ。Ⅳはモーツァルトの小ト短調を連想させる。
    No.50 Cdur。トランペットとティンパニの壮麗な響き。メヌエットのトリオが鄙びたいい感じ。
    No.50 Bdur。長調系だが陰りがあり繊細。Ⅱはホルン協奏曲的で高音から低音まで奏でられる。協奏交響曲か?Ⅳは平凡な曲想から一転して短調の激しい曲想となる。

    ◆2002年5月15日(水)、16日(木)CD15 No.52-54
    No.52 c moll。 Ⅰ提示部は切迫感のある楽想。モーツァルトの若い頃の曲よりもよほど充実。Ⅱは長調で長い。
    No.53 Ddur。『帝国』テインパニを伴う荘重な序奏。ジュピター音型が出る。Ⅱはどこかで聴いた雰囲気の曲で、モーツァルトの魔笛のパパゲーノを思い出させるバリエーション。フィナーレは繊細な感じの曲調。
    No.54 Gdur。この序奏も壮麗。


    ◆2002年6月13日(木)CD16 No.55-57
    No.55 『校長先生』と名づけられたのは、第二楽章の少々堅苦しいアダージョのテーマのためだろうか?「びっくり」仕掛けもあり。メヌエットのトリオは弦楽四重奏風で、チェロが特によい。ここでもジュピター音型が!
    (No.56,No.57 コメントなし)

    ◆2002年7月17日(水)CD28 協奏交響曲B dur。Vn,Vc,Ob,Fg (No.91,92と同じCD)。
    ハイドンにはチェロ協奏曲のほかには、よく知られたソロ協奏曲(Vn協奏曲はあり?)があまりないのはなぜか?
    (No.91,92 コメントなし)

    ◆2002年8月24日(土) CD16の聴き直し。No.55のジュビター音型がまたコメント。No.56,57のコメントなし。

    -----
    このあたりで連続(断続)リスニング挑戦は頓挫。

    細かく聴けば様々な趣向が分かるのだが、概括的に見れば同じ傾向の音響を聞き続けると耳や感性いわゆる飽和状態になるような気がして、聞き続けられなくなるようだ。ただ、久しぶりにこうして記事をまとめているとまた聴きたくなってくる。

    ハイドンの交響曲全集をこうして聴いてくると、たとえばハ長調が主調の曲は、トランペットとティンパニが積極的に使われるなど調による楽器法のようなものがあるように思われてくる。モーツァルトの交響曲第41番『ジュピター』は壮麗な楽想で、ギリシャの最高神である『ゼウス』(ローマ神話のジュピター)に擬せられているが、モーツァルトがこのハ長調を選択した際に、様式的な伝統により、トランペットとティンパニが楽器法的に選ばれたということは十分ありうるように思う。ハ長調のピアノ協奏曲(No.13,21,25)でもやはり、トランペットとティンパニが曲想を決める働きをしているようだ。このようなことは古典派の交響曲、管弦楽曲研究では常識だとは思うけれど。

    No.55『校長先生』をスピーカーから音を出して鑑賞した。ヘッドフォンでの聴取では残響がわずらわしく感じていたが、ホルンの高い響きなどの残響はスピーカーから聴くと大変好ましい音になっていた。

    | | コメント (3) | トラックバック (0)

    2006年11月 4日 (土)

    ブラームス 合唱曲集 ガーディナー指揮モンテヴェルディ合唱団

    Brahms_chorwerke_gardiner ブラームス(1833-1897) 合唱曲集
    1. 愛の歌-ワルツ 作品52(全18曲) (ピアノ伴奏)
    2.  四つの歌 作品17 女声と2つのホルン、ハープのための
    3.  三つの歌 作品42 6部の歌声のための(無伴奏)
    4.  四つの四重唱曲 作品92 4部の歌声とピアノのための
    5.  五つの歌 作品104 混声合唱のための(無伴奏)
       <<第5曲 Im Herbst (秋に)>>

    ガーディナー指揮モンテヴェルディ合唱団
    〔1990年11月 ロンドンでの録音〕

    このCDを買ったのは、10数年前で、今の住居に引っ越す前の地で混声合唱をやっていたとき。音楽を聴きながら、当時の事を思い出した。

    コーラスをやっている時に、近くに全国でも銀賞を取ったような団体があり、その合唱団が得意としていたのが、ブラームスの『秋に』 Im Herbst という曲だったと聞き、一、二度ナマで聴いたがどうもピンと来なかった。当時ちょうどこの合唱曲集のCDが発売され、その曲が入っていたので購入してみた。結果『秋に』は結構難解な作品だということが分かった。

    アマチュアの合唱というのも、人間の集団が抱える様々な問題を当然のように持ち、人間関係的にもなかなか難しい世界だった。社会人の混声合唱ともなると年齢も経験も千差万別であり、趣味志向の同じ集まりというよりも地縁や知人との関係で集まるケースも多いようだった。また、団体同士の優劣、指導者の優劣、やっかみ、そねみのようなものが渦巻いているような部分もあった。中学、高校、大学で合唱をみっちりやってきた人たちのプライドは高く、社会人になって始めたような私などはなんとなく気後れすることが多かった。

    また、日本の現代の作曲家は、いわゆる古典的もしくはロマン派的な合唱曲を書く人が多く、そのような作品が合唱界という枠の中では、鑑賞曲としてではなく、歌唱する曲として人気があるというのも、初めは奇異に思った。その意味で、クラシック系の大作曲家の古典的な合唱作品を好む団体のほかに、20世紀後半の現代日本の合唱作曲家の作品を好むいわゆる民族派的な団体、個人も多かった。言葉の問題があり、横文字は駄目という場合には、必然的に日本の作品になることが多かった。結局、ベートーヴェンの第九の合唱への参加を機に始めた合唱も、結婚とその後の子育て、転勤をきっかけに合唱からは離れてしまった。

    ただ、合唱音楽の実践を通じての経験は、鑑賞にも役立つことが多かったことは確かだ。たとえば、指揮者と個々の合唱団員により音楽はどう作られていくか。楽器としての声のトレーニング、特に高い声の発声。TPOを含む様々なコンディションと演奏の出来などなど。

    ついつい、音楽を聴く立場は、少々思い上がった態度で演奏家を裁いたりしがちなのだが、自らの演奏経験を省みたときには、たとえプロとは言え無慈悲な批判は慎みたいと思うようになる。

    ガーディナー/モンテヴェルディ合唱団の演奏は、このブラームス以外には、モーツァルトのハ短調ミサ(未完)という絶品とも言うべき録音があり、フォーレの初版のレクィエムとフランス合唱曲集も美しい。モンテヴェルディやヘンデルも名演だ。

    ブラームスの場合には、少々透明感がありすぎだという贅沢な感想を覚えるほど涼やかな歌唱になっている。『LP300選』でも取り上げられた『愛の歌』のワルツ集などは、市民階級の上品な集まりを想像させるものになっている。 聴いていて楽しいのは、この『愛の歌』のほかに、2つのホルンとハープを伴奏にした女声による『四つの歌』作品17。

    『秋に』の詩は、モーツァルトの『ラウラに寄せる夕べの想い』に合い通じる内容を持っている。音楽は、足取りの重いテンポで半音階的なメロディーと長調、短調が交じり合った不安定な感じの和声をもち、ダイナミックの幅が大きい。全体として難解な音楽だ。(これを無伴奏で歌うのは結構難しそうだ。)

    ブラームスは、ヴィーンで合唱団の指揮者を務めたほどの合唱のエキスパートで、最も偉大な作品は『ドイツ・レクィエム』だろうが、なかなか他の作品をまとめて聴ける機会がないので、このCDなどはその点最適なものだろうと思う。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2006年11月 3日 (金)

    Internet Explorer7のインストール

    インターネットエクスプローラーの日本語版が正式にリリースされ、Firefoxなどですでに提供されていたタブブラウザの機能も付いたというのでダウンロードしてみた。

    英語版のインストールでてこずったというようなUSAのネットニュースの記事を読んでいたこともあり少々おっかなびっくりだったが、特に問題なくダウンロード(いったんファイルをデスクトップに置いた)し、その後インストールを行ったところ10分もかからずに完了した。念のためインストーラーからの再起動ではなく、一度そこから出て、スタートボタンからの終了オプションで終了し、マニュアルの再立ち上げをした。

    現在このIE7を使っている。これまでの機能アイコンのデザイン、配置がガラッと変わったので少々とまどったが、タブブラウザは非常に便利だ。従来このブログでもいちいち公開画面と記事編集画面を切り替えながら編集したりしていたが、タブをクリックするだけで簡単に行き来ができるようになったからだ。

    ただ、セキュリティ面でも機能が向上しているというのだが、どうなのだろうか?

    検索は、いくつかの検索サイトから自由に選べるようになっている。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    パッヘルベルのカノン 聴き比べ

    子どもが「音楽の授業でパッヘルベルのカノンを合奏で練習しているのでCDを聞かせて」というので、まずは、『カノン100%』というコンピレーションCDを出してきたが、他のCDにもいろいろ収録されていたはずだと思って棚を探したところバロック音楽の愛好曲集には大体入っているためいつの間にか何種類も集まっており、聞き比べが楽しめた。並べてみると期せずしてちょうど西欧と米国の代表演奏のようになっていた。

    ヨハン・パッヘルベル(1653-1706) 3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ 二長調 

    Johan Pachelbel  Kanon(Canon) und Gigue für drrei Violinen und Basso Continuo D-dur

    1.ホグウッド/アカデミー・オブ・ザ・エンシェント・ミュージック(AoAM) (英国代表) 
        カノン 3:44  ジーグ 1:25 (タイミングは実測)

    オーセンティック(ピリオド、古楽器)派の演奏なので、「原曲」を編曲せずに演奏しているのだろうか?

    一般に聞き慣れたものよりカノンのテンポは倍近く速く、AoAMの演奏の特徴でもある中ふくらみのデュナミークが付いた弦楽器奏法が少々耳に付くが、全体として乗りのよい意欲的な音楽になっている。通奏低音にはオルガンを使用? カノンに続いてジーグも演奏されるが、特にバロック団体の録音ならばこのジーグはもっと演奏されてもいいものだと思う。

    2. パイヤール/パイヤール室内管弦楽団 (フランス代表) 6:04

    下記の『カノン100%』にも同じ団体の演奏が収録されている。冒頭から楽譜にない分散和音のピチカートと、チェンバロの通奏低音が聞かれ、テンポもゆるやか。この団体らしくヴァイオリンの旋律線を明確に際立たせないので、一番ヒーリング音楽的でソフトな演奏になっている。中間部(第27小節あたり)では、ヴァイオリンが引っ込み、チェンバロの分散和音が表に出るような工夫もしている。編曲の手が入っているのだろうが、特にクレジットはされていない。パイヤール自身の校訂、楽器法の指定だろうか?

    3. イ・ムジチ(ディジタル録音)  (イタリア代表) 4:42

    通奏低音のチェンバロの演奏はパイヤールに比べてやや単調だが、ヴァイオリンの絡み合いの明快さはさすがにイ・ムジチという感を抱かせる。ヴァイオリンは、レガートを用いず、マルカート的に音価を短めにして歯切れよく演奏している。終盤にかけてクレッシェンドしてクライマックスを作っている。2との印象の違いは、アルプスの南と北の違いだろうか。

    4. カラヤン/BPO(『アダージョ・カラヤン』所収)  (ドイツ代表)  5:06  〔1984年録音〕

    この聴き比べ中では唯一の現代フルオケによる演奏。カラヤンらしく余裕のある演奏。弦の数も他の室内オケよりも多いのだろう。主要のメロディーを浮き立たせたり背後に回らせたりは、さすがに指揮者に統率された現代オケの演奏だ。バスの拍節の強調は5のオルフェウスが似ている。編曲者としてマックス・ザイフェルト(Max Seiffert)という人の名前が記載されている。編曲者名がクレジットされているのは珍しい。5のオルフェウスでも聞かれる第39小節からの対旋律的な別のメロディーも中ほどでよく聞き取れる。

    5. オルフェウス合奏団 (アメリカ代表)  4:11 〔1989年、1990年録音〕

    ホグウッド盤に次いで速い、現代的な華やかな演奏。二拍子系(4分の4拍子)の拍節感を強調するように通奏低音のバスは大きめのバランスで奏でられる。チェンバロは比較的目立ち、自由に演奏。ヴァイオリンもややデュナーミクの変化をつけており、表情が豊か。ピアニシモでフェルマータしないであっさり終わる。

    6.「カノン100%(パイヤール、カナディアン・ブラス、富田勲。編曲ものも含めて全8曲収録)」 Canon_in_d

    冒頭に挙げたコンピレーションもの。「原曲」の演奏が2種。いくつかの編曲ものほか、現代の作曲家による編曲、インスパイアされた作品などが収録されている。

    (1)パイヤール/パイヤール室内管弦楽団 6:03 〔1989年録音〕
     上記2の録音よりもチェンバロが独特な動きをするので別の録音だろう。個人的にはこのテンポと表情付けが最もしっくりする。

    (2)ゴールウェイ/スプリーン編 パッヘルベルのカノン ゴールウェイ(fl) スプリーン/オーケストラ 3:19 ムード音楽風の編曲でフルートソロは、原曲の対旋律的な変奏。微妙。フレーズの途中で息継ぎをするような息の短さはいかがなものか?音は細いが美しい。

    (3)ミルズ編 パッヘルベルのカノン カナディアン・ブラス 4:30 (Trp*2, Hrn, Trb, Tubの編成)
      各楽器の音域の関係で完全な再現はできないはずがよくできた編曲で、演奏も楽しい。

    (4)ロックバーグ曲 バリエーションズ(弦楽四重奏曲第6番より) コンコード弦楽四重奏団 8:14
       作曲家については知らないが、カノンの旋律を素材として用いた面白い音楽になっている。

    (5)レーン/ダンクワース編 『ハウ、ホエア、ホエン? (How, where, when?)』 レーン(vo),ゴールウェイ(fl),ダンクワース 3:44 レーンという歌手による歌詞のついた歌。こちらにもゴールウェイが参加。

    (6)ウィリアムス/ノルドリ編 アース・エンジェル ハンプトン弦楽四重奏団 4:18
      弦楽四重奏用の編曲だが、原曲にはあまり忠実ではない。作曲者、編曲者についても、このCDの情報があいまいでよく分からない。

    (7)カノン・オブ・ザ・スリー・スターズ
     富田勲&プラズマ・シンフォニー・オーケストラ 5:47
     比較的忠実な編曲の富田勲のシンセサイザー。ただし、ベースはポピュラー音楽風に四分音符を付点8分と16分音符の引きずるようなリズムに変えているし、パイヤールのピツィカート風に分散和音を入れている。長野県の野辺山電波天文台で観測された星からの電波を可聴域まで変換したものを音源にしていると聞いたことがある。"Canon of the three stars" 「三星のカノン」という洒落た題名になっている。

    (8)エットーレ・ストラッタ/バロック室内管弦楽団 4:47
      まったく知らない指揮者、団体で比較的古い録音だが、奇をてらわずに演奏されている。ただ、第27小節から第34小節の8小節が省略されているのが珍しい(楽譜をみて初めて気がついた。)

    P.S. 戸川純『玉姫様』所収の『蛹化の女』(ようかのおんな?むしのおんな?)もこの曲の比較的原曲に近い伴奏に乗ってシュールな歌詞を歌ったもの。学生時代に流行ったなと思い出し、WIKIPEDIAでパッヘルベルを調べてみたら、このカノンについて基礎的な部分から非常に詳しく解説したサイトが紹介されていた。ヒットしているポピュラー音楽のコード進行についても書かれており、「ヘエ」の連発だった。WIKIPEDIAの『カノン(パッヘルベル)』のサイトではリンクをたどるとPDFでジーグ付きの楽譜も入手できる。

    この楽譜を見ながら演奏を聴くと面白い。第1声部から二小節遅れて第2声部が追いかけ、その後を同じく第3声部が追いかける。旋律は4小節単位で、それが次々に変奏されていくのだが、縦で見るとそれぞれ上手く協和しているのが見事だ。高度な対位法の技術なのだろう。楽譜を眺めてようやくこれがカノンだということが分かった。ベースは2小節の同じ動きをその間ずっと続けている。3つの声部をそれぞれ別の楽器で演奏するのも立体的で面白いかも知れないと思った。オーボエ、フルート、クラリネットとベースのように。

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    2006年11月 2日 (木)

    モーツァルト 『魔笛』 スイトナー盤

    Mozart_zauberfloete_suitner_skd

    モーツァルト 歌劇『魔笛』(ジングシュピール(歌芝居)『魔法の横笛』K.620)

    オトマール・スイトナー指揮ドレスデン・シュターツカペレ
     ザラストロ:テオ・アダム(B)  タミーノ:ペーター・シュライアー(T)
     弁者:ジークフリート・フォーゲル(B)  夜の女王:シルヴィア・ゲスティ(S)
     パミーナ:ヘレン・ドナート(S)  侍女:クーゼ(S)、シュレーター(S)、ブルマイスター(A)  パパゲーノ:ライプ(Br)  パパゲーナ:ホフ(S)  モノスタトス:ノイキルヒ(T) 三人の童子:ドレスデン・クロイツ合唱団員(少年時代のオラフ・ベーアが童子1を担当) 僧侶、武士、従者:ライプツィヒ放送合唱団
     〔録音年不詳1970年6月27-29日、ドレスデン、ルカ教会録音(HMV情報)〕 Ariola-Eurodisc 原盤

    モーツァルト生誕250年の年も残すところ2ヶ月を切った。どうしても前の没後200年の記念年1991年の、自分としての盛り上がりと比較してしまうので、あまり記念年という実感がずっと湧かずにこれまで来てしまった。

    モーツァルトの残した多くの歌劇は様々なスタイルをとっているが、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』と並んでいわゆる三大オペラの一つとされる『魔笛』は、ドイツ語の台詞と歌詞により(つまりオーストリアやドイツ、ボヘミアなどのドイツ語圏で庶民が容易に理解できた)、歌う(=ジング)芝居(=シュピール)の伝統を汲みレチタティーヴォとアリア様式ではなく、芝居としての台詞の間に音楽が挟まれる様式で書かれている。映画『アマデウス』では、晩年の身体が衰弱したモーツァルトがシカネーダー(このオペラの台本作者)による『ドン・ジョヴァンニ』などの既作のオペラのパロディー版を家族と一緒に見物して笑い興じるシーンがあった。実際はそこまで庶民的ではなかっただろうが、この歌芝居は、初めて聞いた人にも理解できるほど非常に分かりやすい音楽で書かれているのが特徴だ。

    私が初めて『魔笛』に親しんだのは、LPや放送ではなく、スウェーデンの映画監督のイングマール・ベルイマンの映画『魔笛』(1974年制作のテレビ映画)によってだった。(ベルイマンの作品は、映画館では白黒の『処女の泉』を見たことがある程度で、あまりよくは知らない。)1970年代後半の大学1年生の秋だったと思うが、学内の音楽研究会か何かが大教室でこの映画を上映するというのを聞き見に行ったところ、その面白さにすっかりはまってしまった。この映画はイントロダクションとして観客少女の視点が描かれる以外はほとんどこのオペラの舞台での歌唱・演技・演奏の全曲を映像化したもので、特にパミーナを演じた歌手(女優?)の美しさが印象に残っている。そして、後に知ることになるのだが、夜の女王とザラストロの関係についてはこの映画は非常に独特な個性的な解釈をしている。善が悪に、悪が善にという初歩的な破綻というほどのストーリーの不整合をどう考えるかがこのオペラの鑑賞の眼目の一つであり、ストーリーの破綻を棚上げして音楽だけを楽しもうという立場もあれば、それに合理的な説明をしながら全体を調和したものとみる立場もあり、その他にもいろいろな解釈がある(その一つに下記のフリーメーソン的な解釈があるあるようだ。)これについて、自分の中で解決がついたわけではないが、よくある神話的な不整合とみてもいいのではと思っている。

    時を同じくしてちょうど同じ頃、このオペラがモーツァルトが加盟していたフリーメーソン(フライマウレル)の秘儀をオペラ化したものだというシャイエの『魔笛 秘教オペラ』という論文が日本でも翻訳出版され話題になっていた。原書には触れたことがなかったが、海老沢敏教授もその数年後の特別講義でその解釈に触れ、それによると序曲の和音の回数がフリーメーソン的な象徴を意味するというような解説をされていたのを思い出す。

    ただ、この後、モーツァルトのオペラの中では、NHKが正月の夜に放映したベーム=ポネルの『フィガロの結婚』のとりこになってしまい、LPで初めて買ったのは(ベームならぬ)エーリヒ・クライバー/VPOの『フィガロ』だった。

    『魔笛』の音盤は、このスイトナー盤が初めてで、フィリップス=小学館モーツァルト全集のコリン・デイヴィス盤は別にして、その後レヴァイン/MET盤のDVDを入手するまで、これが唯一の音盤であり、ずっとこの録音に親しんできた。録音年代は、このCD自体には明記されていないが、テオ・アダム、シュライーアー、フォーゲル、ゲスティといった東ドイツのスター歌手たちを揃え、ドレスデンのカペレがオケを務めるという当時の東ドイツの威信をかけての録音のようにも思える。

    現在ヘッドフォンで聴くとさすがに音質的には鮮度が落ちていたり、マスターテープ起因の乱れのようなものがあるのが少し気になるが、オーセンティックなドイツ語をベースとして、三人の侍女のアンサンブルを中心として安定した歌手陣のアンサンブルが、誇張のないメルヒェン的な世界を描き出す。タミーノのシュライアーの若々しい声はとりわけ素晴らしい。パパゲーノ役のライプの声と演技は崩しすぎず好感が持てる。アメリカ生まれのドナート(ドネイス?)の清純な声も素晴らしい。そして夜の女王ゲスティの少々金属的ながら見事なコロラトゥーラの妙技をも味わうことができるし、アダムのザラストロの深々としたアリアも素晴らしいし、三人の童子のアンサンブルも表現もよく整っている。もちろんこれを纏め上げたスイトナー Suitner(ドイツ語の発音の原則により忠実に表記すれば、ズイトナー または スヴィトナーとなるはずだが。Suite 組曲は ズイーテまたはスヴィーテと発音される)とドレスデン・シュターツ・カペレ(SKD)の演奏があってのことだが。

    この演奏は、秘教オペラというようなコンセプトがない時代の、ストレートな解釈によるものだろうが、あまり凝り過ぎた解釈は、むしろ音楽を損なうものではないかと思う素朴な考えを持っているので、このストレートな音楽が好ましく思う。「美しくなければ音楽ではない」という信念をもっていた作曲家の音楽の再現として。

    ちなみに舞台と演技を見るには、レヴァイン/METのDVDもまあまあ水準に達していると思うが、このスイトナー盤に比べるとドイツ語の発音や歌手たちのアンサンブルにはムラがあるように思える。特に三人の侍女、三人の童子、パパゲーノとパパゲーナにそれが言えるし、キャスリーン・バトルのパミーナは少々弱々しく感じる。

    なお、ベートーヴェンは、この魔笛の主題によるチェロとピアノの変奏曲を二曲も作曲している。一曲は、パミーナとパパゲーノによる第一幕第14場の第7番の二重唱「愛を感じる男の人には」の主題による12の変奏曲。もう一曲は作品66の第2幕第23場のパパゲーノのアリア第20番「娘っこかかわいい女房が」の主題による12の変奏曲。ベートーヴェンもこのジングシュピールを愛好していたのを想像するのは愉快だ。

    また、台本には、タミーノは「きらびやかな日本の狩衣をまとっている」ことになっている。モーツァルトはこのト書きを読んだことだろう。彼の脳裏にも極東の黄金の国ヤーパンが一時的とは言え刻まれたのだろう!と思うと感慨深いものがある。

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    2006年11月 1日 (水)

    エルガー 『エニグマ』変奏曲、『威風堂々』 ボウルト/LSO,LPO

    Elgar_enigma_pomp_boult エドワード・エルガー(1857-1934)

    自作テーマに基づく変奏曲『謎』 (エニグマ変奏曲)作品36
       サー・エイドリアン・ボウルト(ボールト)指揮ロンドン交響楽団
       〔1970年8月、キングズウェイホール録音〕

    『威風堂々』行進曲第1-5番(全曲)作品39
     サー・エイドリアン・ボウルト(ボールト)指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
      〔1976,1977年録音、キングズウェイホール、アビーロードスタジオなど〕

    先日、そのヴァイオリン・ソナタについて書いたイギリスの作曲家エドワード・エルガーは、一般に行進曲『威風堂々』、『愛の挨拶(Salut d'amour 〔Liebesgruss〕)』作品12で日本でも比較的著名な作曲家だが、『図解音楽辞典』p.483の「19世紀/世紀末Ⅳ/印象主義2:ラヴェル、ラフマニノフ、その他」(原書は、ドイツで出版)においては、「独特な様式をもつ後期ロマン派、『エニグマ変奏曲』(1899)」とたった一行触れられているに過ぎない。

    イギリスは、音楽文化の面でも大陸諸国とは異なる独特の展開をした国のようで、初心者向けの音楽史ではバロックのパーセルと現代のブリテンの名前が挙がる程度だが、かの国ではあまり日本では知られることのない作曲家の作品も多いに愛好されているらしい。例えば、上記のp.483にはエルガーのほかに

    - C.V.スタンフォード(1852-1924) 7曲の交響曲、アイルランド狂詩曲
    - A.C.マッケンジー(1847-1935) 序曲、スコットランド狂詩曲、カナダ狂詩曲
    - C.H.パリー(1848-1918)
    - F.ディーリアス(1862-1934) 印象主義的色彩、イギリス・ラプソディ『ブリッグの見本市』、『夏の夜のテムズ川』
    - G.バンドック(1868-1946) 『ヘブリディーズ交響曲』
    - R.ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958) 9曲の交響曲、①W.ホイットマンの歌詞をもつ『海の交響曲』、②『ロンドン交響曲』、③『田園』。

    印象主義的傾向は、G.ホルスト(『惑星』)、A.E.T.バックス、F.ブリッジ、J.N.アイアランド、とくにC.スコット(1879-1970)の3曲の交響曲、メーテルリンクの『アグラヴェーヌとセリゼット』や『ペレアスとメリザンド』への序曲に見られる。

    と結構多くの名前が挙げられているが、ホルストやディーリアス、ヴォーン・ウィリアムズを少し知っている程度で、他の作曲家についてはほとんど知るところがない。

    その中で、エルガーは『愛の挨拶』に聞かれるような非常に美しいメロディーを書いた人で、『エニグマ変奏曲』の第9変奏「ニムロッド」などもとりわけ気品のある美しさだ。また、『威風堂々』第1番の中間部のメロディーは、イギリス人にとっての第二の国歌とまで愛好されており、日本でも親しみやすいコンサートなどではよく演奏される。

    このCDは、イギリスの名指揮者で、ブラームスやホルストの演奏などに定評があったサー・エイドリアン・ボウルト(普通はボールトと表記されるが、動詞としての boult の発音は ボウルトなので)が指揮したいわゆるお国ものの『エニグマ変奏曲』と『威風堂々』全五曲だ。CDのジャケットも、イギリスの老舗EMIが企画したイギリス音楽シリーズの内の一枚で、EMIとしては、これらの有名な作品の代表的な演奏という位置付けなのだろうか?

    エニグマとは、"enigma" と綴り、直訳としては「謎」という意味だという。というのも、エルガーは、この変奏曲のテーマとして、曲には直接出現しないテーマを設定しているらしい。「提示されている主題は本当のテーマではない。隠されている本当の主題は何でしょう?」という謎掛けをしているため、謎の変奏曲と呼ばれているのだという。これまで、イギリス民謡など多くの候補が挙げられたようだが、未だに謎であるらしい。エルガー自身は、皆が気が付かないのを不思議がっていたようだが、ついぞその謎は明かされなかったという。変奏曲そのものは、エルガーとその周囲の家族、知人達の性格を表現しているといい、各変奏にイニシャルが付けられている。これは早い時期に正解が見つかったようで、現在のCDの解説などに必ず誰々という名前が表示されている。非常に長いオーケストラによる変奏曲だが、後期ロマン派といってもイギリス人らしい節度あるオーケストレーションや和声法により、聴いていて斬新なところは少ない代わりに安心して聴く事ができる音楽になっている。聞き比べをしたことがないが、ロンドン響を指揮しているボウルトは、各変奏を丁寧に演奏させている。「ニムロッド」も節度ある美しさだ。

    『威風堂々』は、"Pomp and circumstance" という熟語の邦訳とのことで、"pomp" は「壮麗、華麗、威厳」などのイメージ、"circumstance" は第一義は「状況」だが、「儀式ばること、仰々しいこと」という意味もあるようだ。合わせて、「堂々たる威儀」となる。第1番が特に有名だが、他の四曲も同様の形式に従っていながら短調を主調とする作品もあり、変化があってなかなか面白い。ディズニーアニメ『ファンタジア2000』では、ドナルド・ダックが主人公の「ノアの箱舟」の物語においてこの威風堂々行進曲の何曲かが組み合わせアレンジされて用いられている。そのプレ・ナレーションによると、アメリカでは卒業式などの行事でよく使われるとのこと。こちらは、ロンドン・フィルを指揮しての演奏だが、過度に派手すぎない落ち着いた雰囲気の演奏になっている。

    | | コメント (2) | トラックバック (0)

    « 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »