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2007年6月の18件の記事

2007年6月29日 (金)

イエネコの祖先はやはりリビアヤマネコ DNA鑑定結果から

ASAHI.COMの記事

http://www.asahi.com/life/update/0629/TKY200706290054.html

米科学誌 サイエンス電子版に発表とのこと。

参考:サイエンス日本語版(田辺製薬) 

米国(オリジナル)の SCIENCE 誌サイト と

該当記事 A Fertile Domestication of Cats

直訳すると「猫の豊饒な家畜化」という少々意味がとりにくいものになるが、本文を読んでみると、the Fertile Crescent (メソポタミア)のリビアヤマネコがイエネコの唯一の祖先であると書かれており、そこから fertile 「豊饒な」と洒落たようだ。なお、ヤマネコの亜種は"Five subspecies live in Europe, sub-Saharan Africa, China, Central Asia, and the Near East."と書かれており、我らがイリオモテヤマネコやツシマヤマネコが無視されているのは残念だ。せめてChina ではなく East Asia とでもしたほうがより正確だったのではなかろうか?

参考 : リビアヤマネコの画像検索結果

http://images.google.co.jp/images?hl=ja&q=%E3%83%AA%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%B3%E3%80%80&btnG=%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E6%A4%9C%E7%B4%A2&gbv=2

なお、同記事によると、「イヌのDNAの研究も進んでおり、1万5000~1万2000年前にインド西部やパキスタンにいた中型のオオカミが祖先と考えられている。 」と書かれている。

『犬はオオカミの子孫』という学説に感激したことは以前のニホンオオカミの記事でも書いたが、最近 読む機会のあったムツゴロウ先生(畑正憲)著の少年少女向けの講談社青い鳥文庫の『犬」には、イエイヌとオオカミ(オオカミケン)を同時に飼育して得たイエイヌのフレンドリーな性質とオオカミの人なれしない性質の違いの実経験や、現代のイヌとオオカミ(おそらくヨーロッパ系のシンリンオオカミ)とを何世代にもわたって掛け合わせた研究(ロシア人学者)から、単純にオオカミからイエイヌが進化したのではないだろうと書かれていてそれなりの説得力があった。しかし、オオカミにもいくつかの種類があり、上記の中型オオカミ(現存すればだが)の性質の研究などが必要なのではあるまいか、と思った。それに上記のロシア人学者の研究(数世代にわたる掛け合わせ程度)では、人になつきやすい性質の選別は無理なのではあるまいか?

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UKとヨーロッパ大陸とのGAPはなぜ生じたのか?

いわゆるイギリス(United Kingdom) と、独仏が代表する大陸諸国にはいろんな面で不思議な違いがある。

通行方向では、イギリスの左側通行に対して、大陸の右側通行。

哲学・法体系では、イギリスの経験主義・帰納法と、大陸の観念主義・演繹法。

単位体系でも、イギリスの「ヤード・ポンド法」と、大陸の「メートル法」。

通貨でも、Wikipedia のUKポンドの解説にあるように「従来は1ポンド=20シリング=240ペンスであったが、計算上混乱するため、1971年2月13日に1ポンド=100ペンスに切り替えられた。イギリスとアイルランドで通貨補助単位の変更を行ったこの日を「デシマル・デー」(Dacimal Day, 十進法の日)と呼んでいる。古い補助貨幣はこのほか、クラウン(crown)、フローリン(florin)、グロート(groat)、ギニー(guinea)がある。1クラウン=5シリング、1フローリン=2シリング、1グロート=4ペンス、1ギニー=21シリングに相当した。」と複雑な補助通貨制度があったが、大陸では基本的に十進法に基づく通貨単位を採用しているようだ(この辺は、古い時代には補助通貨との複雑な交換があったのかも知れないので確信がないが)。現在でも、イギリスはEUの主要構成国でありながら、ユーロの導入は延期し未だに伝統のポンドを使い続けている(歴史的に関係の深いアイルランド共和国は、早々とユーロを導入しているのだが)。

なぜ、このような大きなGAPが生じているのか。スポーツでは、テニス、サッカー、ラグビー、ゴルフ、卓球などイギリス起源のものが現在世界的に楽しまれているというのに。

これが、アングロ・サクソン系とそれ以外のゲルマン系、ラテン系との違いというものなのかも知れない。(Wikipedia アングロ・サクソン人のアングロ・サクソン諸国の社会構造の記事)。

さて、以前『日韓と英愛の平行関係』などという記事を書いたことがある。日本列島と大陸(いわゆる中華文明)に相当するのが、ケルト・ゲルマン的なブリテン・アイルランド島とヨーロッパ大陸(古代ギリシャ・ローマ文明)という関係になるのだが、日本と大陸とでは、イギリスと大陸との間のような上記のような大きなGAPはないように思われる。(まだ自分自身の認識が浅いのかもしれないが)。

P.S.
これだけグローバル化している世界だが、近代文明の象徴ともいうべき電化製品のプラグとコンセント(ウォールソケット、アウトレット、パワーポイント)の形状・電圧が共通化されないのは、世界各国独自の主権的な安全基準によるものだろうが、これと似たことがイギリスと大陸諸国でのgapの原因を推量させるものになるかも知れない。

改めてこんなことを考えたのが、『King Arthur』という映画をDVDで見たことがきっかけとなっている。この映画の設定では、Arthur は、ローマ人とブリタニア人の混血で、ローマ名アルトリウスと呼ばれ、ローマ帝国の辺境ブリタニアを、ローマにより兵役を課されたサルマティア人(サルマート人)の騎馬戦士(騎士)を「円卓の騎士」として率いており、騎士ランスロットもそこに含まれる。サクソン人のブリテン島侵入と409年のローマ帝国のブリタニアからの撤退を中心に描いたもの。『パイレーツ・オブ・カリビアン』のエリザベス役でブレークしたキーラ・ナイトレーがアーサーの妃となる現地ブリトン人の女戦士グイネヴィア Guinevere (魔法使いマーリンの娘?)を演じていたのが印象に残った。(結局は、ケルト系のブリトン人は、ウェールズ、スコットランド、アイルランドに追いやられたことになっているが、日本の縄文人と弥生人の例にあるように、深層や古層にはケルト文化が残されているのではなかろうか?)

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ようやくアナログ映像をディジタル化

子どもの誕生日に、誕生したときの映像が見たいというので、古い8ミリビデオを引っ張り出してきてテレビにつなげたところ、何とか映ってくれた。ただ、もう10年以上前の機種であり、一度修理にも出しているほどで、今後新しい8ミリビデオデッキ(ソニーで通販のみで売っているらしい)を買わないと見られなくなる恐れがある。そこで、今更ながら、テレビチューナー付きの映像キャプチャーのハードを購入して、映像のPCへの取り込みを開始した。

相当以前からの念願だったが、キャプチャが以前は高く二の足を踏んでいたが、現在はハードは約1万円程度になっており、ようやく決心がついたという次第。

もちろん倍速での取り込みはできないので、一本2時間収録されている8ミリビデオの映像を延々と流しながらの取り込みになるが、HDDに取り込むと少し安心感がある。編集してDVDへの書き出しはこれからだが、とりあえず10数本ある8ミリテープを取り込んで外付けHDDに移しておこうとおもう。

なお、アナログ放送ではあるが、チューナーをテレビケーブルでソケットにつないで見ることが可能で、先日購入したワンセグに比べると断然画質がよい。ソフトウェアチューナーの動作が遅いのだが、仕方がない。(キャプチャ機能単独の製品もあったが、値段で4000円も違わないので、チューナー付きを選んだのは正解だった。2011年までしか使えないが元はとれそうだ。)

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2007年6月19日 (火)

KNOPPIXのUSBメモリブートにようやく成功した

以前KNOPPIXのことを記事にして、USBメモリからのブートをやってみたいという希望を書いたが、ようやく今晩成功した。

1GB(ELECOMブランド MADE IN TAIWAN)の最もシンプルなUSBメモリが3000円弱で購入できたので、早速試して見た次第。

お世話になったのは、ひろちゃん帝国 ココログ村の記事「KNOPPIX5.1.1をUSBメモリから起動する」。

------引用開始-----

まず、ターミナルを起動します。
$ cd /usr/sbin/
$ ls

$ ./mkbootdev

後は、GUIで作業できます。

-----引用終了------

噛み砕いて書くと、

まず 700MB以上の領域のあるUSBメモリをUSBポートに挿入しておく。

1.CDからKNOPPIXを起動する。
2.メニューの中からターミナルを起動する(WINDOWS のMSDOS画面のようなものでコマンド入力ができる)
3. その画面に上記のコマンドを入力する。(上の2行の内 " ls"  はCDの内容確認のためのコマンドで特に必要ないようだ。)
4. すると グラフィックの選択ボックス(英語)が表示され、マウスで選択して進めるとCDからUSBメモリへのファイルコピーが始まり、10分もしないうちに完了する。
5.一度KNOPPIXを終了させ、CD-ROMを取り出す。
6.再度PCを立ち上げ、WINDOWSが起動する前にBOOTメニュー選択できるBIOS設定画面を出し(私のPCではPF10を押すと切り替わる)、BOOT順を光学ディスク、USBディスク、ハードディスクの順のように変えてやる。
7.それからブート画面に戻ると、USBメモリからのブートが始まる。

CD-ROMのブンブンカチャカチャ唸る音もせずに静かにKNOPPIXが起動する。

とまあここまでは比較的簡単に作業できたのだが、いざKNOPPIXで日本語を入力しようとすると、どうもうまくいかない。日本語変換ソフトが3種類用意されているのだが、どれを使ってもローマ字入力がかな(カナ)に変換されず、もちろん漢字に変換されないのだ。いろいろ試してみたが未だに解決できていない。本来この記事もKNOPPIXから書くつもりだったのだが、結局WINDOWSに戻って書いている始末だ。

いずれ調べれば、日本語入力も解決できるだろうし、設定の保存や作成ファイルの保存もできると思うので、しばらくしてからまたトライしてみようと思う。

P.S. 日本語入力は、再度PCをシャットダウンした後、再度KNOPPIXを立ち上げて、日本語入力の設定(Sなんとか)を少しいじったせいか、きちんとFEPが働き、入力できるようになったと思ったが、基本的には、大文字(caps lock)だとダメで、小文字指定でなければならないようだ。

追記:2007/06/22 「山河に在りて」の記事を参考にして、USBをパーティション分けしてみた。QPARTEDというシステム内のツールを使ったところ、途中で止まってしまい、フォーマットもできなくなってしまった。いろいろ試みるうちにGPARTEDというツールをみつけたが、パスワードが必要とのこと。ペンギンアイコンからset password rootに入り、適当に設定してやることで、使えるようになった。こちらでパーティション分けしてみたら途中で止まることもなく700MBのfat16と280MBのext3に分けられた。その後で、700MBにあらためてKNOPPIXをコピーして、280MBには、HOMEとKNOPPIXの設定保存を確保した。これで作成ファイルなどが保存できるようになった。

追記: 2007/06/23 Icedove(氷の鳩?)というfirebird(火の鳥) の名称変更版により、メールアカウントを設定してしてやったら、メールの送受信も簡単にできた。ただし、メールがどこに保存されたのかが分からない。(ちなみに Firefox は iceweasel  に名称変更されている。直訳では氷のいたちという意味だが、アイコンはPolar Bear 白熊なのが不思議だ---- と思ってよく見たら『オコジョ』によく似た白いイタチだった。)

追記:2007/06/25 CD-ROM版を職場に持って行きbootしたところ、自宅のノートPCよりも素早く起動した。CPUクロックはほとんど同じだがAMDだし、さすがにデスクトップゆえCD-ROMやHDDの性能がよいからだろうか?ただ、firewallの関係だろう、ネットには接続できず、プリンタの設定も分からなかった。

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『ヴァルキューレの騎行』を聴く

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子どもが、急に『ヴァルキューレの騎行』を聴きたいというので、家にあるCD4種類を取り出して聞き比べをしてみた。結構楽しめた。

一番左の画像は、ヴァーグナー入門用のコンピレーションCD。以前記事にしたようにユニバーサルの演奏家陣大集合という趣で、ベーム、カラヤン、ヨッフム、クーベリック、ブーレーズ、シノーポリという指揮者たち。ここで、ヴァルキューレの騎行を演奏しているのは、カラヤン/BPO。

前回も聞いたはずだが、今回改めて聞きなおすと、これが非常に切れ味がよく、緻密なアンサンブルの自分好みの演奏で驚かされた。CD評などでカラヤンのヴァーグナーは室内楽的と評されるが、カラヤンの指揮の力だろうか、歌手陣もよくオーケストラと合っているので、このようなショーピース的な音楽であったも豪放だけでないヴァーグナーの緻密な構成力を味わうことができた。カラヤンの録音ならこの四日に渡る長丁場の超巨大な舞台音楽も聴きとおせそうな気がした。

次は、ヴァーグナーのCDの中で最も古く入手したもの。指環入門としてヴァルキューレがいいと聴いていたので、四枚組みを大枚1万円以上払ってもとめたものだ。これまでこのCDを最も数多く聴きデフォルト的な存在なのだが、カラヤンを聴いた後に聴くと、ビルギッテ・ニルソンの超弩級の歌唱は別にして、結構粗い演奏に聞こえた。ヴィーンフィルながらオケも金管が前面に出て、木管の細かいアンサンブルなどは完全にマスクされてしまっているようだ。確かに迫力はあるし、録音もデッカの社運を賭けただけのことはあり、未だに凄みがあるが、私にとって刷り込みながら、どうもここだけ取り出すと聞きおとりがした。

三番目に、同じショルティ/VPOによる指環管弦楽曲集で、ディジタル録音。これも以前記事にしたことがあるが、このCD自体おざなりの仕事という雰囲気で、歌手も入らないこともあり、結構残念なできになっている。やはりオケのバランスはブラス偏重で解釈は全曲録音と同じものだ。

最後は、14枚組みで1800円の超廉価盤のノイホルトの指揮のもの。これも以前記事にしたが、さすがにベルリンフィル、ヴィーンフィルの二大オケに比べると、オケの魅力には乏しい。特に弦が響かず、金管群もフルメンバーがいないかのような弱弱しさを感じる。ただ、その反面、普段あまり聴けない木管の装飾的な対旋律が結構前面に出てきており、その点が面白かった。ライヴを編集したものだと思うが、そのせいか次第に音楽的に集中度が高まっていくように聞こえた。ショルティに比べると別の音楽かのようにメリハリがないが、かえって誇張がないことで、通して聴くのには疲れずに長丁場をこなせるものになっている。

部分を取り出しての聴き比べはあまりしたことがないのだが、結構面白かった。

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2007年6月17日 (日)

ディスク記事のカテゴリ分けと空梅雨

これまでディスク音楽所懐一本としていたが、ジャンルとしては大雑把過ぎたので、一応楽器編成などに基づいていくつかのジャンルに分けてみた。ただし、記事の分類は、一挙にはできないので、ぼちぼち進める予定。

木曜日の例年より一週間近く遅い梅雨入り宣言後、金曜日から日曜日までは完全な空梅雨。それよりも梅雨入り前の寒気の南下による雷雨の方が関東地方の水がめにとってはありがたかったのではあるまいか?

ラニーニャ現象の年は、空梅雨、猛暑が予想されるという。もちろん猛暑は、地球温暖化の影響はあるだろうが、人間活動が今ほど天候に影響を与えていなかった歴史時代でも、古代、中世、近世に残る歴史記録では、旱魃、大雨、冷夏、猛暑など今より天候に人々の暮らしが左右された時代だけあり、多くの記録が残されている。気候に大きな影響を与える自然現象として、火山の噴火、隕石の落下、地軸の傾き、地磁気の逆転、太陽活動などなど多くの要素が複雑に絡み合っているのだという。現在の異常気象(特に北海道の竜巻などは記録的なものだった)は、人為による影響は否定しがたいが、それでもより大きな力である自然による変動要因がどれだけ影響しているのかも正確に把握する必要があるのではなかろうか?

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2007年6月12日 (火)

ETV特集・選「“星の王子さま”と私」

2007年6月10日 夜10時からETV特集・選「“星の王子さま”と私」が放映された。翻訳権切れによる多数の翻訳により再び、この「童話」が見直され始めているようだ。

番組中、辛酸なめ子による改編ともいうべき翻訳なども紹介されたが、池澤夏樹が「この小説は子どもの頃から読み返すたびに疑問が生じてきて、その疑問を解消しようと、翻訳に挑戦した。翻訳は一字一句精読することになるから」と語っているのに共感を覚えた。自分も寓話的な物語としてはそれなりに面白く、やさしい内容ながら深遠な思想を述べるというデカルト的なフランス的表現法の仲間の一つだろうということは青年時代には見当はついていたが、やさしい言葉でも難解さがいつも残る物語だと感じ続けてきたからだ。

翻訳上のポイントとして取り上げられたのが、バラとの会話。バラは、作家の妻を示しており、この挿話は男女間の恋愛を暗示しているという解釈が今は有力なようだ。

また、キツネ(フェネック・ギツネがモデルとされる。フェネックは、姿形が非常に愛らしい動物である)との会話で、「飼いならされる」「仲良くなる」(内藤濯訳)と訳されている フランス語 apprivoiser という動詞がこのエピソードにキーワードとして16回も登場することを扱った部分は見ごたえがあった。実際にフランスの少女たちを対象にした読書会で、フランス人の先生が apprivoiser をどんな風に日常で使っているかとの質問に対して、「猫と apprivoiserしている」というような答えが多く出された。動物などと心を通わせるというのが一般的な用法のようだ。ちなみに、

http://translation.infoseek.co.jp/

では、飼いならす という日本語に対して Je l'apprivoise. という翻訳が出てきた。それを逆に日本語に直すと「私はそれを抑える」という日本語になる。日本語にこの概念を一言で表すことがないような単語のようだ。

これら、翻訳のポイントを、この2年ほどで多く出版された翻訳を一覧表にしたりして、なかなか凝った番組になっていて面白かった。

記事:箱根 星の王子様ミュージアム

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2007年6月10日 (日)

ノリントンとN響のピリオド奏法

今晩のN響アワーは、ヨアヒム没後の100年ということで、ヨアヒムが初演したり、蘇演したりした曲を特集していた。その中で、弦楽器のヴィブラート奏法の始まりは?という記事で触れたことのあるイギリスの指揮者 ロジャー・ノリントンとNHK交響楽団の2006年11月の演奏(庄司紗矢香のヴァイオリンソロによるベートーヴェンの協奏曲の第2、3楽章)を初めて聞いた。

うわさでは聞いていたが、面白いものだった。アメリカの指揮者デイヴィッド・ジンマンによるベートーヴェンの交響曲全集と同じような奏法によるもので、ラトルなどもベルリンフィルでピリオド奏法を一部取り入れているようだし、やはりイギリスの指揮者で若手注目株のダニエル・ハーディングはその奏法の徹底で注目を得ている。完全にモダンオーケストラ界の潮流になっているのだろう。

第2楽章のブツギレのフレージング、ノンヴィヴラート奏法、ティンパニの叩きつけるようなアタック。ソリストの庄司紗矢香もその影響を受けているのだろうか、ノンヴィヴラート気味で(そのせいか、音色は美しかったが、最高音などは音程がぶら下がり気味に聞こえた)最近はソリストと指揮者の共同作業でこのような協奏曲演奏もあるのだなと思った。ただ、様式的にはまだ折衷的な感じで、新鮮ではあるが、感動のつぼに触れてはくれないように感じた。

p.s. リンクを張った以前の記事で、ピリオド奏法(HIPとも言うらしい)によってヴァーグナーを演奏したらどうなるかということを書いたのだが、ノリントンについて詳細な情報が網羅されている"The Web Kanzaki" に ノリントンによるヴァーグナーのオーケストラ曲集が1995年にすでに発売されていること知った。

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小澤/ボストン響の『ピーターと狼』『動物の謝肉祭』『青少年のための管弦楽入門』

Ozawa_peter_and_wolf Ozawa_pamphlet

ファンハウスレーベルから発売された小澤征爾/ボストン響によるオーケストラ入門曲集。ナレーションは、小澤征爾自身が担当しているが、独特のしゃがれ声ながら手馴れたもの。さすがに弟や息子が俳優を職業としていることはある。

ナレーションの演出は、実相寺昭雄で、台本と脚色は弟の小澤幹雄が担当している(別冊の台本が上記右側の写真)。音楽の録音は、1992年2月にボストンのシンフォニーホールで行われ、ナレーションは1992年3月と1993年3月となっている。

『ピーターと狼』と『青少年のための管弦楽入門』は、プレヴィンとロイヤル・フィルのCD(テラーク盤)で以前から聞いており、前者はプレヴィン自身の英語でのナレーション入り(後者はナレーションなしの純音楽的な『パーセルの主題による変奏曲とフーガ』になっている)で、我が家の子ども達には結構人気があった。ただ、録音的には少々ナレーションの音量レベルが低く、またオーケストラも少々明瞭度を欠くため、私としてはあまりお気に入りではなかった。またロイヤルフィルもオーケストラの実力を赤裸々に示すブリテンの曲などは、木管のソリストなどの技量が少々物足りなかった。

この小澤盤が入手できたので、聞いてみたところ、オーケストラも比較的クリアな録音になっており、このような青少年向けの企画でも(台本付きだが、実際に少年少女に呼びかけるスタイルをとっている)、いやそれゆえにか、レベルの高い音楽になっている。そしてこのボストン響はロイヤル・フィルに比較してさすがに巧い奏者が揃っている。『ピーターと狼』にしてもロイヤルフィル盤では不明瞭だった部分がよく聞き取れるし、結構演出も巧みだ。また、ブリテンの曲もさすがにボストン響の実力が発揮されたもので、安心して楽しむことができるものになっている。

『動物の謝肉祭』にもナレーションが付いているのはあまり類例がなく、逆の意味で少々もったいないかも知れない。ナレーションにも出てくるが『ピアニスト』では、ジョン・ブラウニングというピアニストと、私も名前を知っているギャリック・オールソンが担当している。これまで、ベーム/VPO(コンタルスキー兄弟)という少々独特な演奏と、デュトア指揮のロンドン・シンフォニエッタ(ロジェとオルティスがピアニスト)というフランス的な演奏で楽しんできたが、小澤/ボストン響の演奏はさすがに巧い。

私が好きな小澤征爾の録音は、以前このブログでも触れた『惑星』(フィリップス)、『巨人(タイタン)』(DG)、ツィメルマンとのラフマニノフのピアノ協奏曲第1,2番(DG)だが、このCDもその仲間に入った。(オネゲルの『火刑台上のジャンヌ・ダルク』と武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』は別格だが。)

いわゆるメジャーレーベル発売ではなく、(同趣向の『真夏の夜の夢』は、吉永小百合のナレーションで、DG発売だったと思ったが)、東急文化村関連のファンハウスというレーベルなので、再発売などがなくて入手困難のようだが、中古店にはときおり出ていたり、図書館のCDコーナーで貸し出しをしている場合もあるようだ。

なお、このCDの情報を検索していたら、第8回のゴールドディスク大賞のクラシック部門を受賞していた。

p.s. 2007/9/3 HMVのサイトで検索したら、11月に再発売されるようだ。

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2007年6月 9日 (土)

セル/クリーヴランド管によるメンデルスゾーン

Szell_mendelssohn


これも、今日(5/18)入手したディスクに挙げたもの。

この"The Great Collection Of Classical Music"のシリーズは、ブックオフにはときどきまとめて入荷するようで、結構お世話になっている。いつぞやは、このシリーズの索引的なCDまで売られていた。時には、RCAレーベルの録音もあるが大体1960年代から70年代のCBSの録音が多い。そのため、このセルやオーマンディなどちょうど中高生時代になじみになった演奏家のものが入手できるので、ありがたい。これまでにセルのブラームスの1番、オーマンディの『展覧会の絵』、東京クァルテットのハイドンなどを購入できた。今回のメンデルスゾーン曲集も、電網郊外散歩道などのブログで話題になっており欲しいと思っていたものだった。(ただこのシリーズは収録曲とは無関係な泰西名画を表紙にしているのがどうも疑問だ。このセル盤もロココの名花「ポンパドゥール夫人」の有名な肖像画なのだ!?それにまったく曲目や演奏者の解説がない。)

一曲目の『フィンガルの洞窟』は、FM放送ではよく耳にした有名な曲だがこれまでカラヤン/BPOの初期EMI録音しかCDを持っていなかった。カラヤンの録音は相当時代を感じさせるものだが、このセルの録音は、リマスタリングされたものではなくよく乾燥気味とされ低弦の雄弁さがマスクされている音質ながら、時代を感じさせないもので、品格の高い隅々まで明快な演奏だ。スコットランドのヘブリディーズHebrides諸島の情景を風景画のように描いた序曲(交響詩)の傑作で、ターナー的な幻想性のある表現も欲しいところだが、陽光さんざめく明瞭な風景を想像する。

二曲目は、『真夏の夜の夢』(夏至祭の夜の夢とでも衒学的に言いたいところだが通り名で)の音楽。

10代の若き天才メンデルスゾーンの傑作 「序曲」の妖精の飛翔を思わせるような細かい弦の刻みがこれほど明瞭に音化されている演奏は(それほど比較して聞いたことはないが)あまりないのではないか?それも単に軽やかなだけでなく、実質を伴った音楽になっているのが素晴らしい。ただ、ケルト的な底抜けの大騒ぎの表現という点では、節度を保った演奏ではある。

「スケルツォ」も底抜けの陽気さというより生真面目な表情で、いたずら者のパックPuckが少し襟をただした感じではあるが、オケのアンサンブルの緊密さが妖精の隙のない素早い動きを象徴するかのようだ。

「夜想曲」のホルンの音色は非常に美しく、セルの表現自体もこれほど淑やかな表情はないのではと思わせるほどのもの。

全曲盤を聞いたことがなく、自分の結婚式にも使ったコリン・デイヴィスとボストン響の録音しか持っていないため、「間奏曲」は初めて聴く曲。焦燥感をあらわす弦のトレモロ(ざわめき)がここでも非常に精緻に演奏されている。

そして「結婚行進曲」。それほど大仰な結婚式ではなく、軽やかなテンポにより数組の若いカップルの結婚を寿ぐ祝典曲になっている。

DVD映画の『真夏の夜の夢』では小澤/BSOの演奏による序曲が用いられている。)

最後には、コリン・デイヴィス盤と同じく、ここでも『イタリア』交響曲を聴くことができる。この曲の明快さが青年時代には非常に好ましく、心身を爽快にするリフレッシュメント効果を求めてよく聞いた。最近は、カンテルリ盤(Testament)やクレンペラー盤でも入手したが、それほど聴く機会はなくなった曲の一つだ。しかし、このセルとクリーヴランド管の演奏は別格のものだと思う。

第一楽章は、引き締まった緊密な弦と管のアンサンブルがあればこそ、これだけ生気のある(Vivace)軽快な(Allegro)音楽を表現できるのだろう。アンサンブルの乱れたメンデルスゾーンはあまり聞けたものではないが、その点この演奏は間然とするところがない。生気がありながら柔軟性があるテンポが同系統のスタイルといわれながらトスカニーニとセルの違いだと私は思うのだが、ここではただストレートだけではないセルの柔軟さがよく表れている。

第二楽章 アンダンテ・コン・モート 動きを伴って歩むような速さで。このテンポ設定はコン・モートに力点が置かれているようで、軽やかな歩みである。

第三楽章 コン・モート・モデラート これも動きを伴う中庸な速さで。スケルツォでもなくメヌエットともいえない中庸な音楽。雅びな風情が美しい。『イタリア』という題名から思い浮かべる風景は、ミケランジェロ公園からの古都フィレンツェの眺めだろうか(決してイタリアルネサンスは雅びではなかったのだが。)

第四楽章 サルタレロ:プレスト。疾風のように通り過ぎていく。これこそセルの鍛えたクリーヴランド管弦楽団のアンサンブルの精妙さが典型的に発揮された例だろう。あのルガーノライブのシューマンの2番のような即興的な勢いとは違い、十分練り上げられた表現ではあるが、切れ味のするどいアンサンブルの極致を聞くことができる。また、『真夏』の序曲と同様こういうスケルツァンドな音楽にメンデルスゾーンの天才が発揮されたことをまざまざと示してくれている。

この録音は心身を爽快にするリフレッシュメント効果が本当に高いもので、ようやく入手できたばかりだが、今後の愛聴盤になることは確実だ。

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2007年6月 8日 (金)

小澤征爾/ボストン響のマーラー交響曲第1番(DG盤)

Ozawa_mahler1_dg

マーラー 交響曲第1番 『巨人(タイタン)』(『花の章』付き)

小澤征爾指揮 ボストン交響楽団 

<1977年10月、ボストン> 

Ⅰ15:48、  Ⅱ5:53(花の章 Blumine)、Ⅲ7:31 Ⅳ11:11 Ⅴ19:53

すでに今日(5/18)入手したディスク で簡単にコメントしたが、この録音は小澤征爾がボストン響の音楽監督に就任して、名門ドイツ・グラモフォンと録音契約を結んだ比較的初期の録音の一つだ。後年、やはりオランダの名門フィリップスと契約してマーラーの交響曲全集(ただし、『大地の歌』の録音はなし)を録音した際にも再録音しており(『花の章』はなし)その録音もCDで所有している。

昨日の夕刊には、小澤征爾がヴィーン国立歌劇場の音楽監督を任期満了の2010年をもって退き、後任にはオーストリア人のヴェルザー=メストが就任するとの発表が出ていたが、このマーラーの録音の頃と隔世の感がある。

この録音の頃の小澤は、飛ぶ鳥を落とすような勢いのある欧米楽壇の寵児で、世界的なオーケストラを次々に指揮し、世界的なソリストと共演し、世界的なレーベルとも次々と録音するという活躍を始めた頃だった。この録音には、そのような初々しい若気が一杯詰まっているように聞こえる。マーラーのこの曲もいわゆる初期作品ではあるが、非常に完成度の高い作品で、ブラームス、ブルックナーの影響下にあるものの独創的なオーケストレーションや分かりやすいメロディー、形式感など、第2番以降とは違い肥大した形式でないこともあり、伝統的な音楽ではあり、比較的馴染みやすい。それだけに単に音化しただけではこの曲の魅力が伝わりにくいのだが、この録音は勢いといいしなやかさといい、ナイーブさといいこの曲の録音の中でも最も好ましいものの一つだ(もう一つが同じ日本人指揮者若杉弘が名門シュターツカペレ・ドレスデンを振った録音で、以前そのディスクへの賛辞を書いたことがあった。)

ところで、この交響曲の原曲が標題音楽(交響詩)として書かれたときにはこの『花の章』がここで聞かれるように挿入されており、全部で五各章形式だったのだが、後年標題を外し、純音楽的な四楽章に改訂されて今の第1番になっているというが、外して演奏するのは惜しい『花の章』という楽章だ。

この数年後、来日した小澤征爾ボストン響の演奏を東京文化会館で聴いたことがある。ヴェーベルン、シューベルト『未完成』、バルトーク『オケコン』というプログラムだったが、弦の響きはさらっとした手触りのような感触で滑らかで浮遊するように軽く、この録音のような実在感のある克明な立体感とは一味違った音色だったように記憶している。この頃までは、クーセヴィツキー、ミュンシュ、ラインスドルフ等に鍛えられた克明なアンサンブルが残っていたのかも知れない。

この10年後、フィリップスに入れた同じ曲は、自分のホームページにも書いたように、録音のせいもあるのかも知れない(ディレクター、エンジニア、プロデューサー)が、このDG盤に比べて非常に影の薄い低カロリーの音楽になってしまっているように聞こえ非常に残念なものだ。

小澤盤(DG)         15:48/(5:53)/7:31/11:11/19:53 <1977/10録音>

小澤盤(フィリップス)15:51/7:22/10:33/19:56 <1987/10録音>

テンシュテット盤  15:52/7:45/10:48/19:18<1977/10録音>

若杉盤       15:11/7:50/10:22/19:49<1986/8録音>

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2007年6月 7日 (木)

池波正太郎『剣客商売』シリーズを読了

『鬼平犯科帳』シリーズを読了した後に、池波正太郎『剣客商売』シリーズ を読み始めたが、本編16巻、番外編2巻を今晩読了した。最後に読んだのは、番外編の長編『黒白』。

こちらは、新潮文庫のシリーズだが、解説は、翻訳家の常盤新平が毎巻、おなじような賛辞を連ねているのが、少々マンネリだったが、この解説者は、半端な愛読者ではないようで、それこそ上記2シリーズのほかに『梅安』シリーズ何度も読み返しているのだという。そして何度も元気付けられたと書いている。

確かに、ストーリーを追うだけの最近の作家の小説に比べて、作者の持つ人間観察の奥深さや「人生哲学」が何度も読み返しても飽きさせない要因になっているように思われた。それが、味であり、深みというものなのだろう。

全部読み終えて(番外編の番外編『包丁ごよみ』は購入したが、眺めるだけでまだじっくり読んではいない)、また第1巻から読み始めてみているが、特に『黒白』で若き日の小兵衛を知った後では、一層その描写が興味深いものになってくるようだ。

上質なエンターテインメントとしても勿論楽しめるものだが、楽しみだけにとどまらないところが特にこの『剣客商売』の素晴らしさだと思う。未だ『梅安』は未読なのだが、三大シリーズといわれるうち敢て言えば、明るさをもったこの『剣客商売』が今の私には最も合っているように思われる。

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2007年6月 4日 (月)

新車の修理と代車

これも古い話。2006/11/30付けで登録の新車ヴィッツを1/6に修理に出し、代車にピンクの旧ヴィッツを借りた。女房が狭い場所での切り返しのときに、バンパーと車体下部を軽くこすってしまったためだ。

新型ヴィッツは、それまで乗っていてすっかり感覚的にしみこんでしまっていたマニュアルシフトのCIVIC FERIOと比べて、結構シートポジションが高かったり、CVTという動力伝達方式エンジンの回転と速度の感覚が微妙にずれたりで、まだ慣れないなという感じが強かったが、旧ヴィッツはもちろん従来型のオートマチックシフトだったのだが、それに比べてこれまでのクルマとの感覚的な違いが大きくなく、驚いた。旧ヴィッツは売れに売れたというけれども、このような乗りやすさも大きくそれに影響を与えていたのだろうと思った。短い間の代車としての付き合いだったが、旧型VITZはなかなかいい車だった。

それでも現在のVITZは、長距離走行でも、山道走行でもそこそこ走ってくれるし、何しろカーナビの存在が大きく、以前の古いCIVIC FERIO時代から比べると大きくカーライフが変わった。燃費も相当よいし、それに一年目の自動車税が、燃費と排ガス規制適合ということで半額になったのも大きい。まあ無駄なドライブをしないことが地球にとって優しいのだが、それでもなるべく環境負荷、家計負荷が低い方を選んだので、良燃費運転を心がけていこうと思う。

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WINDOWS98のクリーンインストール

今年の2月ごろ、古いFMV BIBLO NU13というノートパソコン(Windows95仕様)に、Windows98 upgrade版をクリーンインストールし、その後Windows98 Second Editionにupgradeするのを試してみた。

今のPCを購入する前に、Window 98/Meを使い続けるための必読書なるムックを入手してあり、もうまったく使うことのなくなったNU13を子ども用にでもするために、ゴミを一掃して使いやすくするために試してみようと思ったのだ。

ただ、ガイドブックの情報には、upgrade版でのクリーンインストール方法は載っていなかったため、ネット上で情報収集したところ、様々なやり方が紹介されており、私の機種にぴったりのマニュアル記事はなかったが、何とか試行錯誤しながら、一度目の Win98SEまでのインストールと古いExcel&Word97のインストールは完了した。その後、各種ドライバをインストールした。

ところが、以前使用できたはずのUSB接続の外付けHDDが接続しても認識されなくなってしまった。原因が分からない(後で分かったのだが)ので、仕方なく、今度はリカバリディスクを使ってWindow95からのインストールと通常のupgradeを実施してみた。そして、LANカード、USBインターフェースカード、HDDドライバインストールをしてみたのだが、やはりHDDが認識されない。

この後よくよく考えてみたら、XPで大容量のファイルをHDDにバックアップするために、オリジナルのFAT32をNTFSに変更していたことに気が付き、これまでの徒労でどっと疲れが出てしまった。

まあ、当面これで使える状態にはなったのだが、3月になり、知人から500MBのノーブランドのUSBメモリをもらい、これをNU13の外部記憶として使えれば使い勝手があがると思いコライバを探したがなかなか見つからなかった。ようやくのことで見つけたと思ったら単なるユーティリティだったとか試行錯誤をしながら、それでも何とかドライバインストールまでこぎつけて、試してみたら何とかUSBメモリを認識してくれた。

その後、EXCEL97&WORD97をアンインストールしてOFFICE2000をインストールしてみたらWIN98SEでは無理だったらしく、インストール中に異常終了してしまい、再びクリーンインストールが必要になった。これで、計5回ほどもその1ヶ月間ほどの期間にインストールを繰り返したことになった。まったくあほらしいことをしたものである。

その後、無線LANルーターの導入などをしたので、古いマシンもネット接続してみようと接続はしたものの、アンチウィルスもファイアウォールもなく、WIN98SEのサポートも終わっているので、一応AVASTでアンチウィルス対策をしたが、やはり心配でほとんどつながなかった。そうこうするうちに、ネット記事でサポート完了のOSをネットにつなぐのは危険というものを読んだりしたので、結局また古いマシンは棚の上で眠っている状態だ。

妻や子ども達もこれでEXCELやWORDを勉強すればいいのだが、やはりネット接続の情報収集やメールなどの方が面白いらしく(私自身家では表計算やワープロはほとんど使わないから人のことは言えない)、少々もったいない状態で休眠中である。

まあ、それでもHDDフォーマットや起動ディスクからのOSのインストールなど何回もやったためそれなりの感覚が身に付いたように思える。また、MSのOSが次々にUPGRADEを繰り返し、そのたびにハード、OS、アプリに金がかかるのは馬鹿らしいとも思うところから、LINUX, KNOPPIXまで少しは知ることができたのだから、2月から3月にかけての毎晩のパソコンいじりもまあ捨てたものではなかったかも知れない。

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2007年6月 3日 (日)

藤沢周平『密謀』を読んだ 

先日、大河ドラマ『風林火山』の記事を書いたところ、その記事へのコメントで教えていただいた藤沢周平の『密謀』(新潮文庫 上、下巻)を、この土日で読み終えた。

『風林火山』の記事では再来年の大河ドラマを話題にしたのだが、直江兼続関係で『密謀』という小説があるとのことで、調べてみたところ、藤沢周平の作品だった。

このところ、井上靖、新田次郎、池波正太郎と、時代小説、歴史小説を読みふけっているが、藤沢周平の(私にとって初めての)作品を読むのは久しぶりだった。やはり文体のリズムがしっとりとしているというか、最近歯切れのよい池波節(ぶし)に耽溺しているので、結構その文体の特徴が対照的で面白かった。

直江兼続は、上杉謙信の跡継ぎ(謙信の姉の子なので実の甥)上杉景勝を支えた重臣として知られているが、ここ数年に読んだ何冊かの小説によく登場するものだから、非常に気になる人物になっている。

司馬遼太郎の『関ヶ原』で、石田三成と語らって徳川家康を東西から挟み撃ちにしようとの作戦計画を立ち上げ、家康の上杉征伐を発動させた一方の人物が直江兼続だということを知り、また、その際、何ゆえ上杉勢は、徳川勢を背面から攻撃して出なかったという疑問が当然のように湧いており、それがずっと記憶の片隅にあった。

童門冬二の『北の王国 智将 直江兼続』でも、前記『関ヶ原』でも、なぜ挟み撃ちという乾坤一擲の大勝負に出なかったのかという点については、どうも歯切れがよくなかったように記憶している。

この『密謀』の解説を読むと、作者の藤沢周平自身が、地元の山形に縁のある歴史上の人々として、米沢上杉家にも関心があり、やはりなぜ三成と約束をしていながら、関ヶ原での東西対決に参加(東軍を挟撃)しなかったのかを疑問に思っていたとのことだ。ここには、藤沢周平なりの解釈が述べられているが、やはり未だどうも釈然としないものが残る。『密謀』という題名に想像力を逞しくしてしまい、挟撃計画を実行しなかった「密謀」があったのかも知れないなどと読書前には思っていたほどだ。

前にも、関ヶ原について読んだとき、以前と以後で、その武将達の勢力図がすっかり塗り替えられ、それ以前の大藩の多くが滅亡したり、僻地に押し込められたりし、その際、浪人も大量に出現したのだが、米沢上杉家もその一つだった。それほど重要な天下分け目の戦いだったが、そのおおいくさの引き金となりながら、ついに江戸にも攻撃をかけなかった上杉景勝というリーダーの慎重さがなかったら、その後の日本はどうなっただろうかと思うほど、歴史の岐路だった。(勿論、小早川秀秋の裏切りこそ最大の岐路だったが。)

なお、多分登場するかと思っていたが、我が家と同姓の武将が一回だけ出てきた。家系伝説的には平安・鎌倉時代まで遡れば何らかのつながりがあるのだと思うが、なにやら不思議な気分だった。

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2007年6月 2日 (土)

エルンスト・ヘフリガーを偲んでバッハの受難曲を聴く

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この3月17日に、テノール歌手のエルンスト・ヘフリガーが亡くなった。87歳だったという。朝日新聞の追悼記事によると、彼は草津の国際音楽祭にもたびたび来日しており、たいへんな親日家だったという。この機会にそれを知って意外の感に捉われた。

というのも、私にとっては、ヘフリガーの名は、リヒターの指揮するマタイ受難曲、ヨハネ受難曲などのバッハの宗教曲と切り離せず、特にマタイとヨハネのエヴァンゲリスト(福音史家:つまり、マタイ福音書、ヨハネ福音書を記した人物が書いた聖書の地の文を歌う役割の歌い手)は、彼しかいないというように思い込んでいたからだ。勿論シュライヤーやその他の多くのテノール歌手がこの大役を歌ってはいるのだが、ヘフリガーの歌唱は、まことに敬虔で誠実な表現と美しく伸びやかな声で、これらの受難劇を心に染みとおるように歌ってくれたものだった。

受難曲やレクィエムなどを、日本で仏教のお経や神道の祝詞を録音として気軽に聴けないという意識と同じく、キリスト教の宗教曲として意識的に考えるようになりつつあり、いわゆる普遍的と考えられてきた泰西名曲としてのクラシック音楽として気軽に聴けなくなってからは相当経つのだが、それでもやはり、宗教性を離れて人間達(特に異教徒である群集や少々頼りない弟子達)に感情移入をして聞くことは時々ある。

ヘフリガーの歌唱だけが素晴らしいのではないが、この2枚はそのような非宗教的な聴き方をしても、信頼と裏切り、衆愚のおろかさ、支配者・権力者の責任逃れという普遍性のあるドラマとして、このリヒターの今から50年近く前の古いスタジオ録音は、素晴らしいものだと思う。ヘフリガーはその当時まだ30歳代後半だったのだろう、非常に若々しく、高音などよくファルセット的でなく、しっかりした芯のある声で歌えるなといつも感心するほど歌唱的にも見事なものだ。ヘフリガーの名は、この名盤とともに長く語り継がれていくものと思う。

遅ればせながら、その音楽に感謝を捧げたい。

前に書いたような理由で、これらの曲について安易なコメントは残せない気分で、ついつい記事にするのが遅れてしまった。

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今日6月2日は 横濱 開港記念日

過去記事2005年2006年ともう2回書いたが、今日は開港記念日だった。ただ、子どもたちにとって残念なことに、ちょうど土曜日と重なり、学校が特別休日にならなかったことだ。

そういえば、港横浜の現在の市長は、この前の市議選のときに対立派が駅前で演説していたが、国際港横浜の知名度をあげるために、なんらかのサミットを横浜で開くことを計画しているらしい。それには、相当税金が費やされるというのが、対立派、市長批判派の主張だった。いまさら全国的に知名度の高い横浜を宣伝してどうなるのかと。

ただ、横浜といっても、かつての世界の船乗りにはそれなりに知られていただろうが、日本では、東京、大阪のようには世界的には知られていないようで逆に驚いたことがある。中国に出張に行ったおり、現地の飲み屋(日本人相手のカラオケスナックのようなところ)に入って簡単な日本語や英語、片言の中国語で会話をしていて、当然のようにどこから来たのかと聞かれるのだが、その現地の人たちは、横浜のことは知らなかった。日本でも有数の中華街(China Town)があるんだよと言っても、世界中にChina Townがあるのが普通だからそれゆえに、知識があるとか興味があるとかいうものではないようだ。そこでは、むしろ、比較的近年冬季オリンピックの開かれた長野の方が知られていたくらいだった。

実際、現在国際的な玄関口としての横浜の役割は、すでに歴史上の一こまになってしまっているようだ。外国貨物の輸出入量でも、日本国内での順位は、トップの座を滑り落ちているほどだという。現在の市長の前の市長が、その地位挽回のために、南本牧埠頭の大規模コンテナヤードを建設したようだが、今の市長は、巨大ベットタウン化した横浜北部の出身なので、あまり港湾関係には力を入れていないのかも知れない。

国際的な知名度アップが、いわゆるどのような市民の利益につながるのかは分からない。観光地としては、現在のNHKの朝のテレビ小説でも舞台となっている「みなとみらい」地区や中華街が未だに目玉であり、かつての目玉だった山下公園の氷川丸とマリンタワーが相次いで休業状態になったというのは、横浜が港で持つ町ではなくなってきている証拠だろう。

神奈川県の人口が大阪府を抜いて東京都についで日本の都道府県中第二位になったのはついこの間のことだが、東京中心の経済の巨大ベッドタウンとしての人口増が多いような気がする。町田市は、東京都でありながら、神奈川県に半島のように市域が食い込んでいるが、横浜北部は町田と同じような住民層が多いように思える。

横浜市という300万人を超す巨大都市は、これからどうなっていくのだろうか?

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2007年6月 1日 (金)

バレンボイムの弾くベートーヴェン『月光』『熱情』『ヴァルトシュタイン』

Barenboim_beethoven_142123ベートーヴェン 

 ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調 作品27の2『月光』
  6:38/2:13/7:42

  ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調 作品57『熱情』
  10:36/7:37/8:13

  ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 作品53『ヴァルトシュタイン』 11:31/4:40/11:22

ダニエル・バレンボイム(ピアノ)

〔1981年5月:作品53,57  1983年12月:作品27の2、パリ、ミュテュアリテ Mutulalité : メゾン・ドラ・ミュテュアリテ というホールらしい〕

その昔愛読していた『レコード芸術』の評論家陣には概ね評判がよくなく、その影響もあり、敢てこれまで聞きたいとも思わなかったバレンボイムのソロ・ピアノだが、ブックオフで非常に安く入手できたので、聴く機会を得た。

悪いどころか、どちらかと言えば、私のピアノ演奏の好みに近い方の演奏だった。

1981年と1983年にディジタル録音されたもの。

バレンボイムと言えば、アルゼンチン生まれながら、幼くしてザルツブルクのモーツァルテウムに学び、古くはモーツァルトの協奏曲の弾き振りを始め、天才ピアニストとして知られた人物だった。それが次第に指揮にも手を広げていき、最近では指揮者としての名前の方が高い。若い頃は、あのジャクリーヌ・デュプレを伴侶として、共演も多く、デュプレの信奉者からは、バレンボイムは蛇蝎の如く嫌われているようだが、『風のジャクリーヌ』を読んでからはバレンボイムへの偏見は相当薄くなった。そんなこともあり、無意識にバレンボイムのソロピアノに手が伸びたのかも知れない。

『月光』にしても、『熱情』にしても『ヴァルトシュタイン』にしても、透き通るようなクリアな音色ではなく、少し丸みを帯びた安定したタッチで、(自分にとっては)意外にも着実な音楽を奏でている。アゴーギクのタイミングも結構伝統に即しているようで、安心して聞ける。現代ピアノを十分に鳴らして衒いのない音楽を聴かせてくれるものだと言える。

メカニックの弱さが指摘されることがあり、さすがに熱情のフィナーレになるとそれまでの充実した音楽に少々瑕瑾が生ずるような部分もあるが、それほど危なっかしくはない。全体的に新たな発見があるかと言うと、少々否定的になるのだが、それでもヴァルトシュタインのフィナーレでは、少々テンポを遅めにとり、非常に叙情的な穏やかさを保ちながら、デュナーミクの幅も広くとり効果的にクレッシェンドが使われているのが、新鮮だ。ただ、このテンポだと、展開部のあたりの緊張感が薄れ、もたれ気味になるのはちょっといただけない。コーダでのテンポアップも少々効果不発になってしまう。モーツァルトの第21番の『短かくも美しく燃え』のテーマに使われたAndanteもAdagioにして弾いているので、テンポの取りかたに結構個性というか癖があるのかもしれない。ただ、全体的には非常に面白く聞くことができた。(指揮はマルケヴィッチ、作曲はナディア・ブーランジェに師事しているが、ピアノの大家では誰に師事したのだったろう?)

アラウ、アルゲリッチ、ゲルバー、そしてバレンボイムと、南米出身でヨーロッパで修行をしたピアニストの弾くベートーヴェンには、勿論それぞれの特徴はあるにしても、生粋の欧米系が失った音楽への率直な本能的なアプローチがあるのかも知れないなどとも思った。そういう点からすると、昨日のブレンデルやグルダなど、ヨーロッパの伝統のど真ん中で生まれ育った音楽家がむしろ意識的過ぎたり、斜に構えがちなのとは対照を見せているのかも知れない。南米系が楽天的と言ってしまうのは乱暴だが、音楽の力への信仰が残っているとでも言えばいいのだろうか。

昨年末来入手したディスクとドライブ音楽

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