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2007年6月 3日 (日)

藤沢周平『密謀』を読んだ 

先日、大河ドラマ『風林火山』の記事を書いたところ、その記事へのコメントで教えていただいた藤沢周平の『密謀』(新潮文庫 上、下巻)を、この土日で読み終えた。

『風林火山』の記事では再来年の大河ドラマを話題にしたのだが、直江兼続関係で『密謀』という小説があるとのことで、調べてみたところ、藤沢周平の作品だった。

このところ、井上靖、新田次郎、池波正太郎と、時代小説、歴史小説を読みふけっているが、藤沢周平の(私にとって初めての)作品を読むのは久しぶりだった。やはり文体のリズムがしっとりとしているというか、最近歯切れのよい池波節(ぶし)に耽溺しているので、結構その文体の特徴が対照的で面白かった。

直江兼続は、上杉謙信の跡継ぎ(謙信の姉の子なので実の甥)上杉景勝を支えた重臣として知られているが、ここ数年に読んだ何冊かの小説によく登場するものだから、非常に気になる人物になっている。

司馬遼太郎の『関ヶ原』で、石田三成と語らって徳川家康を東西から挟み撃ちにしようとの作戦計画を立ち上げ、家康の上杉征伐を発動させた一方の人物が直江兼続だということを知り、また、その際、何ゆえ上杉勢は、徳川勢を背面から攻撃して出なかったという疑問が当然のように湧いており、それがずっと記憶の片隅にあった。

童門冬二の『北の王国 智将 直江兼続』でも、前記『関ヶ原』でも、なぜ挟み撃ちという乾坤一擲の大勝負に出なかったのかという点については、どうも歯切れがよくなかったように記憶している。

この『密謀』の解説を読むと、作者の藤沢周平自身が、地元の山形に縁のある歴史上の人々として、米沢上杉家にも関心があり、やはりなぜ三成と約束をしていながら、関ヶ原での東西対決に参加(東軍を挟撃)しなかったのかを疑問に思っていたとのことだ。ここには、藤沢周平なりの解釈が述べられているが、やはり未だどうも釈然としないものが残る。『密謀』という題名に想像力を逞しくしてしまい、挟撃計画を実行しなかった「密謀」があったのかも知れないなどと読書前には思っていたほどだ。

前にも、関ヶ原について読んだとき、以前と以後で、その武将達の勢力図がすっかり塗り替えられ、それ以前の大藩の多くが滅亡したり、僻地に押し込められたりし、その際、浪人も大量に出現したのだが、米沢上杉家もその一つだった。それほど重要な天下分け目の戦いだったが、そのおおいくさの引き金となりながら、ついに江戸にも攻撃をかけなかった上杉景勝というリーダーの慎重さがなかったら、その後の日本はどうなっただろうかと思うほど、歴史の岐路だった。(勿論、小早川秀秋の裏切りこそ最大の岐路だったが。)

なお、多分登場するかと思っていたが、我が家と同姓の武将が一回だけ出てきた。家系伝説的には平安・鎌倉時代まで遡れば何らかのつながりがあるのだと思うが、なにやら不思議な気分だった。

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コメント

こんばんは。
上杉が何故江戸を衝かなかったか、についてはいろいろ取り沙汰されていますね。
歴史上の「Why」「if」を考えるのは本当に面白いです。
曰く・・。
1.空き家同然の江戸を攻撃するのは武門の誉れ高い上杉家の名折れである。
2.対上杉の為に置かれた結城秀康他の面々では相手に取って甚だ不足→最上領侵攻。
3.三成との間で相前後して東西で挙兵、までは話があったものの、江戸侵攻計画など当初から無かった。
といったところでしょうか。
1は私的にはまず有り得ないと思っていますが、確か「密謀」もこの線に近かったと記憶していますし、
今度の大河ドラマも愛と平和がテーマですから恐らくそうなるのでしょう。
「罪無き江戸の民を戦火に巻き込む事、あいならん。」陳腐な台詞が今から聞こえてきそうです。
2はもう、全く有り得ない。(笑)
結局のところは3だろうな、と思います。仮にそういった約定が交わされているなら万難を廃しても
江戸を衝き約定を守るでしょう、上杉の家風なら。
大体、江戸侵攻など出来る話ではありません。伊達、最上といった豊臣家&三成に対し怨みはあっても恩など
さらさら無い東軍勢力と隣接しているのですから。いくら上杉でもこの2強を無視して会津領を出て
江戸侵攻など不可能な話でしょう。(伊達にとって会津は旧領、最上にとって三成はいわば「娘の敵」です。)
三成からそんな話があったとしても兼続の方できっぱり「無理」だと応えているんじゃないでしょうかね。
三成が江戸侵攻を持ちかけるとしたら、その先は上杉ではなく佐竹だったんじゃないか、と思います。
実際には義重・義宣間の意見の対立で中立の立場に終始してしまう佐竹家ですが、
この時義宣が突っ走っていれば関東の様相はどうなっていたか、考えてみると面白いような・・。
戦後佐竹が取り潰しを免れたのはこの時の義重一派の働きに免じて、といったところでしょうね。
あるいは。
対上杉の「寛大な」戦後処理を考えると、上杉内部にも毛利同様、何がしかの密約を交わし、
上杉の動きにブレーキをかけた者がいたかも、と勘繰っています。
上杉家存続はただ単に「家康の名家好き」では済まない話だと思いますし。

では。

投稿: 花岡ジッタ | 2007年6月 4日 (月) 23:45

花岡ジッタさん。こんばんは。非常に詳しい分析を書いていただき感激しております。
>大体、江戸侵攻など出来る話ではありません。伊達、
>最上といった豊臣家&三成に対し怨みはあっても恩
>などさらさら無い東軍勢力と隣接しているのですから。
>いくら上杉でもこの2強を無視して会津領を出て
>江戸侵攻など不可能な話でしょう。
確かに情勢を冷静に分析すればこの通りだと思います。『密謀』では、兼続が景勝に佐竹と共同での江戸攻めの許可を申し出ていましたが、それを景勝がきっぱりと否定するという説で話を進めていました。

ただ、その代わり?の最上攻めという行動がどうもあまり理解できません。勿論その情勢情勢によって後世が俯瞰的に合理的な判断をするようなわけにはいきませんから、最上攻めが非合理的だとは言えないですが、この最中に関ヶ原の決着が付いているのですから、この『密謀』を読みながら、脱力感を味わっておりました。

投稿: 望 岳人 | 2007年6月 5日 (火) 00:21

こんばんは。
>ただ、その代わり?の最上攻めという行動がどうもあまり理解できません。
私は最上領侵攻は上杉の東北制覇、割拠、
さらには(あわよくば)天下を窺う戦略の第一歩だったと思います。
”大魚”家康こそ逃してしまったものの、最上、伊達といった
東軍勢力は厳然として尚そこにあるわけです。
ケンカの相手はそこにいるわけですから、
後はもう「眼前の敵をぶっ潰す」
これしか無いかと。
結果を知ってしまっている我々とは違い、
当時の人たちからすると東西主力勢力の
衝突がいつ、どのような形で決着がつくか、
誰もわからない。いや決着そのものが
つくかどうかさえ、決定事項では無い。
中央の戦いがもし膠着化・長期化し、その間に東北、
あわよくば関東まで抑える事が出来れば、
中央で東西どちらが勝とうとも面白い絵が描ける、
くらいの事は考えて当然の事かと思います。
最上領侵攻はその第一歩だったのでは。
まあ結果的にはその第一歩だけで終戦になっちゃったんですが。

「もし」中央の戦局が史実より長期化していればどうなったか・・。
書き出すと止まらなくなりますのでこの辺にしておきますね。(笑
「戦国時代の再来」
それを夢見た武将や大名は少なくなかったんじゃないでしょうか。

では。

投稿: 花岡ジッタ | 2007年6月 7日 (木) 00:43

花岡さん、今度も詳しい解説ありがとうございました。再び来るべき戦国乱世に備えて後顧の憂いを断つという作戦という見方ですね。

確かに、明治時代になって、関ヶ原の東西軍の配置図を見たヨーロッパからのお雇い軍事教官が、これは当然西軍の勝ちだったろうと言ったというエピソードもあるほどで、東西軍の武将たちの微妙な心理的な綾がどう転ぶかで延々と続く大合戦になった可能性もあったわけですね。

例の黒田官兵衛(如水)が九州で天下取りの策謀をあらわにしたのは、この頃だったか大阪の陣の頃だったか忘れてしまいましたが、そのような流動的な情勢の中で、天下取りの野望を持つ多くの武将達を膝下に敷いてしまった家康は、やはり恐るべき人物だった。『影武者家康』も面白かったですが、今度は山岡荘八の長編でも読んでみようかと思っております。

投稿: 望 岳人 | 2007年6月 8日 (金) 00:01

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