« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »

2007年7月の24件の記事

2007年7月31日 (火)

J,S,バッハ 『インヴェンションとシンフォニア』 グールド(カセットテープ)

Gould_inventionsinfonia J.S. バッハ インヴェンションとシンフォニア(全曲)
1. No.1 ハ長調  2声+3声
2. No.2 ハ短調
3. No.5 変ホ長調
4. No.14 変ロ長調
5. No.11 ト短調
6. No.10 ト長調
7. No.15 ロ短調
8. No.7 ホ短調
9. No.6 ホ長調
10. No.13 イ短調
11. No.12 イ長調
12. No.3 ニ長調
13.No.4 ニ短調
14.No.8 ヘ長調
15.No.9 ヘ短調 

〔1963,1964年 ニューヨークでの録音〕

ピアノのお稽古で最初に対位法的な音楽に触れる曲集がこのバッハの二声のインヴェンションだろう。初歩の頃は、主に右手がメロディを奏で、左手が和声を奏でるという古典派的で現在でも普通の音楽にも用いられる手法の曲集を習うのだが、ある日この曲集を与えられ、その難しさに愕然とする。右手と左手が独立して旋律を奏で、それもフーガやカノン的に数小節前後して模倣したりする。左手が思うように動かなかったり、片方ずつでは弾けても、両手で弾くとまともに弾けなかったりと苦労が多い。しかし、それまでの三和音の転調もしないような単純な曲に比べると、一曲の中で様々な陰翳があり、非常に面白いと感じるようにもなる。

グールドは、『マイ・リトル・バッハ』という自選集でも、このインヴェンションとシンフォニアから数曲を選んでいるが、初めてのバッハとして学習者にも親しめ、また、このグールドの演奏のように、鑑賞にも充分耐え得る曲集になっている。

グールドがここで弾いているピアノは、彼のピアノ調整が行き過ぎたもののようで、少々プリペアド・ピアノのように軋んだり、音ゆれがしたりする非常に独特なものだが、グールドの演奏は、相変わらずの歌声入りの個性的なアーティキュレーションのものだが、聞いていて大変刺激的で面白い。

曲順は、二声を番号順に、その後三声を同じように番号順に弾くのが楽譜通りだが、グールドは、ニ声と三声をセットにし、番号順も、調性間に何らかの関連する意味づけをしたような順番で録音している。そのため、通常の曲順の録音と比べると結構とまどうが、面白さの方が増すだろう。(なお、CDではプログラム機能で曲順を通常にすることも可能になるだろうからそうしてみるのも面白いかもしれない。)

久しぶりにヘッドフォンステレオ(カセットテープ用)で聞いてみたが、なかなかどうして音質的にもそれほど不満がなく聞けて楽しかった。アナログの音はやはりどこか暖かい。

追記:2008/02/02 "The Great Collection Of Classical Music" の分売 FDCA575で、CD版を購入。さすがにテープのワウフラを気にせずにプリペアドピアノ的なピアノの演奏を聴ける。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月30日 (月)

フルトヴェングラー/バイロイト祝祭管の第九(東芝EMI盤)

Bayreuth__nr9_toshibaemi_ce285577_2 ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調 作品125
  エリーザベト・シュヴァルツコプフ(S)
   エリーザベト・ヘンゲン(A)
  ハンス・ホップフ(T)
  オットー・エーデルマン(B)
  バイロイト祝祭合唱団
  ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
     1951年7月29日 バイロト祝祭劇場 (ライヴ録音)
      MONO 東芝EMI (90・4・7) CE28-5577

17:46/11:57/19:36/25:10


先日バイエルン放送協会の別テイクについて知り、久しぶりに現在市販されているEMI音源の『バイロイトの第九』を取り出して聴いてみた。

1990年頃にコーラスを始めたきっかけが、地元の市の文化会館の杮落としに演奏される第九のコーラス募集だったのだが、それをきっかけに、一時期第九のCDを蒐集しようと心がけ?、全集盤を除いて20枚ほど集めた。

「バイロイトの第九」は、LPでも保有していた(例の足音入り)が、第九演奏を語るには欠かせないものとしてCDでも早いうちに買いなおしたものだ(これは足音なし)。

フルトヴェングラーのこの第九は、いわゆる神格化に近い崇められ方をしているもの(鈴木淳史『クラシック批評こてんぱん』)であり、今さら一音楽ファンが感想を述べても仕方がないほどのものだが、今回のバイエルンの『本番の無修正の生録音(?)』が発見され、実際に日本でも音として聞けるようになったということで、もしこのEMI盤が修正されているとしたらどのあたりだろうと少々下世話な興味を持ちながら、もし聞き比べるとしたらどの辺がポイントになるだろうかと(演奏の特徴を書き表すすべがないため)チェックをしながら聴いてみた。(1、2秒のズレは御容赦を。)

第1楽章  0:21の雑音。1:31のコツンという雑音。2:39の2回の咳払い。3:29のパタという雑音。3:39の咳。5:25のスーという雑音。5:43の咳。6:28の咳、つぶやき?7:10のパタンという雑音。11:15かすかな咳。11:41 ブレスの音? 12:30咳。12:37咳。13:23 カシャという雑音。16:07雑音。16:25カサカサ音。16:40咳。16:54雑音。 異音、雑音に注意しながら真剣に聞き入ったが、さすがに引き込まれた。このところ、これほどまでに強烈な個性・意思をもった主観的な演奏を聴く機会から離れていたので、新鮮だったし、聞きほれてしまった。

第2楽章  冒頭カサカサ音。第1楽章より音質が明るくなっている気もする。2:08、2:19、2:39音ゆれ(チャンネルバランスが動く)。9:45かすかな咳。10:14楽譜をめくる音?

第3楽章 0:11咳。0:47パチという異音。3:19咳。4:42 4:50 咳。6:05咳。7:12 7:18 咳。7:26 咳。8:40 咳。9:20あたりからのホルンは明らかに音程が不安定になっている。9:55咳。10:01ホルン裏返る。13:09咳払い。13:28ホルンのモチーフが弱い。13:47咳。18:31咳。本当に息の長い歌だ!細部拡大的な強調があるが、魔力のように魅力的だ!別世界への旅とはこのようなものだろうか?

第4楽章 0:22カチという音。0:41咳。1:48抑えた咳。2:04咳。2:24唸り声。3:00咳。3:09パチという音。第1ヴァイオリンで奏でられることで歓喜のメロディーがなんと憧れに満ち、それがアッチェレランドされ勇壮なマーチにつながることか。魔法の棒に支配されているかのよう!エーデルマンの声は潤いがあり輝きもある。Freude の呼ぶかけで、コーラスがわずかに拍の頭に遅れる。コーラスは残響がものすごい。四人のソリストのアンサンブルはほぼ完璧。10:00頃に編集の継ぎ目があり?Vor Gottのフェルマータの最後でアクセント(短いクレッシェンド)を付けて終わる。ホップフのテノールも輝かしく存在感がある。バックのコーラスは録音のため靄ついている。14:05からの全合唱による歓喜の歌の勢いはほかでは聴けないもの。Seid umschlungen の前に楽器?のカタカタする音が聞こえる。ここのコーラスは広がり感があり聞きやすい。16:47ブチという音。17:45あたりのクライマックでは、フルトヴェングラーが歌っている(音程になっていない)言葉が聞こえるような気がする。18:38二重フーガの前にもカチという音。ソリストの四重唱は本当に巧い。22:48ウンというような声が聞こえる。コーダ、オケもコーラスもついていくのがやっとのテンポにあがる。特に終結部の速さ。そして最後に付け足されたような短い拍手が続く。(楽器がたてたりするガサガサ、ゴソゴソいう音はいたるところで聞かれるので目立つもの以外は割愛した。)

結構冷静に聴いたのだが、没我の境地のような演奏に引き込まれてしまった。そうたびたび聴けるものではないが、やはり久々に聴くとその凄さが痛感される。

参考:フルトヴェングラーの第九へのコメント(『音楽の茶の間』より)

関連記事: 2007年8月22日 (水) 『レコード芸術』2007年9月号購入

2007年7月28日 (土) フルトヴェングラー バイロイトの第九のオリジナルテイク? 7/26朝日夕刊

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月29日 (日)

I am a longhair. I am longhaired.

この単純というか奇異な英文をそのまま訳すと「私は長髪である。」「私はロンゲである」となるだけだが、いわゆる(ある時期の?俗語として)『私は、クラオタである。』とでも訳せる時代があったようだ。 思わず笑ってしまった。ちなみに私はロンゲではないが、ついヘアカットを怠り、少々むさくるしい髪型になることはある。

日本でクラシック音楽と書くが、英米語を話す人々と会話をする場合に正しくはどう表現すればいいのかを調べていて偶然見つけた言い回しだ。

日本語で、音楽のジャンル分けで使う「クラシック音楽」は、英語では "classical music "であり、"classic music"ではないようだ。用例を探しても、クラシック・カーは、"classic car "なのだが、どうして classic music とはならないのだろうか?

また、音楽史的に厳密に言えば、classical は、『古典派の』という狭義で使われることがあるのだが、一般には、

 (ポピュラー音楽に対して)クラシック音楽の(18世紀末から19世紀初頭にかけて作られたもの);(ロマン派に対して)古典派の
~ [×classic] music  クラシック音楽
Mozart was a ~ composer.  モーツァルトはクラシックの作曲家だ.

Progressive English-Japanese Dictionary, Third edition ゥ Shogakukan 1980,1987,1998/プログレッシブ英和中辞典  第3版  ゥ小学館 1980,1987,1998

とある。

また、ロマン派の音楽は、romantic music でよいようだ。それから、現代音楽は、contemporary music または progressive music であり、現代音楽の作曲家は
modern composer となるらしい。

ちなみに longhair について 辞書の定義も引用してみよう。

longhair 《略式》 
名詞
1 長髪の人;(男の)ヒッピー.
2 芸術家;(特に)古典音楽愛好[演奏,作曲]家;《時に軽蔑》知識人,インテリ.

形容詞
1 長髪の.
2 インテリ[耽美(たんび)家,夢想家]の;非実際的な,空論的な.
3 古典音楽(愛好)の.

Progressive English-Japanese Dictionary, Third edition ゥ Shogakukan 1980,1987,1998/プログレッシブ英和中辞典  第3版  ゥ小学館 1980,1987,1998

longhair  noun
Informal.
1. One dedicated to the arts and especially to classical music.
2. One whose taste in the arts is considered to be overrefined.
3. A person with long hair, especially a hippie.
 longhair or  longhaired  adjective

The American Heritageョ Dictionary of the English Language, Third Edition (アメリカン・ヘリテイジ英英辞典 第3版) copyright ゥ 1992 by Houghton Mifflin Company. Electronic version licensed from INSO Corporation. All rights reserved.

英辞郎でも

《名》長髪の人,インテリ(の人),クラシック音楽(愛好家),ヒッピー,芸術愛好家,知識人,《形》クラシック音楽の

まあ、informal つまりくだけた略式英語ということだし、現在はそもそも「ヒッピー」なぞが死語となっているように、これも一時的な流行語で、現代英語では使われないのかも知れないが・・・・・・

ヒッピー(族):既成の文化・政治・性秩序からの完全自由を求めた1960年代から70年代の若者.

Progressive English-Japanese Dictionary, Third edition ゥ Shogakukan 1980,1987,1998/プログレッシブ英和中辞典  第3版  ゥ小学館 1980,1987,1998

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月28日 (土)

フルトヴェングラー バイロイトの第九のオリジナルテイク? 7/26朝日夕刊

EMIレーベルから実況録音として発売されているフルトヴェングラーとバイロイト祝祭管弦楽団のベートーヴェンの第九(交響曲第9番)の録音と同じ日に録音された別テイク?のオリジナルのテープ録音が、ドイツのバイエルン放送で発見されたという詳しい記事が載っていた。

バイエルンでみつかったテープ録音は状態も非常によいといい、現行の市販品とこれを聞き比べたところ、いくつかの相違があったという。バイエルンでみつかった録音がまったく手を加えていないものだとすると、現行の市販品の方はところどころ編集を加えたものでは(リハーサルのテイクなどを継ぎ足したりした?)ないかと想像されているようだ。

なお、この録音は、日本の「フルトヴェングラー・センター」の会員のみに頒布されるのだという。  詳しくは、公式ページを参照。

http://www.furt-centre.com 

追記:すばらしく詳細な比較試聴記事がみつかった。

フルトヴェングラーの「バイロイトの第9」の無修正ライヴ録音」 ("Classical CD Information & Reviews")

同じページには、現行EMI原盤を元に様々な工夫を凝らした多くのCDも多数紹介されており、このページの筆者の情熱と世界中のこの演奏(録音)のファンの執念のようなものを感じることができる。

関連記事: 2007年7月30日 (月) フルトヴェングラー/バイロイト祝祭管の第九(東芝EMI盤)

       2007年8月22日 (水) 『レコード芸術』2007年9月号購入

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ハリー・ポッターシリーズ これまでの6巻までに残された自分にとっての疑問集

UK版の第7巻を購入してもう1週間近くにもなるが、まだ数ページしか読み進められていない。英語力の低下がこれほどだとは思わなかった。

さて、どうも次第に設定的なアラ(ヴォルデモートが杜撰過ぎる、魔法省が愚か過ぎる)が見えてきているので、いまさら疑問集を作ろうとすると、つっこみどころが満載で膨大なものになるだろうが、ざっと思いつくままに順不同に書き付けてみた。これが第7巻でどれだけ解消されているか?(読み込み不足で第6巻まで説明のつくものもあるだろうが)

 (1) なぜハリーはヴォルデモートに殺されなかったのか?
       リリー(ハリーの母)の愛が守ったとされるが・・・

 (2) リリーの姉妹、ペチュニアは純粋のマグルなのか?なぜペチュニアは嫌いな姉の
  子であるハリーを守るのか?ダンブルドアに脅されたからなのか?

 (3) シリウスが消えたヴェールの向こうとは何か?

 (4) ダンブルドアは、本当に死んだのか?

 (5) ゴーストとしてのこの世に残る魂とそうでない魂の違いは?

 (6) 魔法省はイギリスのみに存在するのか? 三校対抗などでヨーロッパの
   他の国にも魔法学校があるということは、それぞれの国にも魔法省が
   あるのではないか?それらの人々が今回の魔法界の騒動にどの程度関
   与するのか?それともただ傍観するだけなのか?

 (7)ディメンターや巨人族は、マグル界に姿を現すのか?ハグリッドの弟はどうなる
 のか?ドラゴンや魔法生物(ユニコーンなど)はどうなるのか?

 (8)ヴォルデモートの動機は何か? 単に永遠の生命を持ち、魔法界を支配したいだ
  けなのか? そのことが彼にとってどのような意味があるのか?

 (9)ピーター・ペテグリューはなぜ裏切ったのか?

 (10) なぜ多くの魔法界の人々がペテグリューのペテンにだまされたのか?

 (11)魔法省の役人にはアンブリッジのような不正義な魔法使いが多いのはなぜか?

 (12)ハリーの父親の家系はグリフィンドールなのか?

 (13)スネイプは本当に裏切ったのか?

 (14)ハリーの友人ネビル・ロングボトムの両親が殺されなかったのはなぜか?

  (15)ハリーの両親が多くの遺産を残せたのはなぜか?先祖からの遺産か?まだ
   若かったジェームズとリリーにそれほどの収入があったとは考えられないだろう。

 (16)魔法界の予言は達成されるのか? (ハリーでもネビルでもヴォルデモートを
   倒す可能性があったというが、そのような不確かなものなのか?)

子どもっぽい疑問の数々を表明するのは恥ずかしいが、これがどれだけ解決できたかをまた書いてみたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月25日 (水)

J.S.バッハ 『フランス組曲』 グールドとドレフュス

Bach_france_gould 全6曲 グレン・グールド(ピアノ)&フランス風序曲

第1番ニ長調 BWV812
第2番ハ短調 BWV813
第3番ロ短調   BWV814
第4番変ホ長調 BWV815
第5番ト長調  BWV816
第6番ホ長調 BWV817
フランス風序曲 BWV831
(CBS SONY 56DC 153~4)

Bach_french_2 第1,3,5番 ユゲット・ドレフュス
(チェンバロ=クラヴサン=ハープシコード)

〔1972年5月、10月 パリ〕

1754年 アンリ・エムシュ製作のチェンバロ使用

バッハには、独奏クラヴィアのための曲集は、何曲もある。初心者が必ず取り組みなかなか卒業できない『インヴェンションとシンフォニア(2声と3声のインヴェンション)』に始まり、体系的な『平均律クラヴィーア曲集』全2巻に加えて、各曲に舞曲名が付けられた『イギリス組曲』『パルティータ』、そしてこの『フランス組曲』が主なところだろう。

この『フランス組曲』は、バッハの二人目の妻、アンナ・マグダレーナの楽譜帳に収められたもので、それ以外の曲に比べて、女性的な優美さが感じられるものだ。全6曲のなかでは第6番が優れた作品だとされるようだが、私が好むのは第5番。非常に細やかで優美な音楽が奏でられる。

学生時代は、このグールドの録音をエアチェックしたものを何度も聞き、ピアノ譜まで購入して、つまびきながら何とか弾こうと努力したほどだった。その後、ドレフュスのチェンバロによる演奏ミュージックテープで楽しんだ(下宿、アパートにはLPプレーヤーを置いてなかったのだ)。

このグールドの『フランス組曲』は、イギリス組曲や、パルティータに比べて比較的音の数の少ないこの曲集を、軽々とというのか易々と弾いている。特にアップテンポの楽章などは唖然とするほどの速さで疾走する。その一方、ゆっくりしたサラバンドなどでは逆にピアノの音価をペダルで保つことは「当然」せずに、逆にポツリポツリと間が開くのも気にせずに不思議な音楽を提示する。また、快活な舞曲では歯切れのよい対位法の走句も効果的で聴き応えがある。決して、『フランス』という名から連想する一般的な優美さはないが、非常にデリケートでセンシティブな演奏だと感じる。

私が特に好む第5番 ト長調は他の組曲と同様、舞曲名のついた複数の楽章からなっている。

1.アルマンド/2.クーラント/3.サラバンド/4.ガヴォット/5.ブーレ/6.ルール/7.ジーグ

このうち、颯爽と奏でられながらかすかな憂いを含む第1曲のアルマンドはいくつかある音楽の中でも、青春の記憶を呼び覚ましてくれるものだ。この曲集を最愛の妻、アンナ=マグダレーナに贈呈した(?)ということに少し関わりがある。

一方、フランスの女流クラブサン奏者、ユゲット・ドレフュスのものは、グールドの印象が運動性だとすると、重厚といえるだろうか。比較的重々しい表情で、少々ロマンチックで優美なバッハを聴かせてくれる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月24日 (火)

廉価ヘッドフォンによる音楽鑑賞の違い

音楽の録音のよしあしを云々するなど恥ずかしいような安易な聴き方をしているのがばれてしまうのだが、普段は携帯CDプレーヤーで、オープンタイプの小型のステレオ・イアフォンで聴いている。

最近接続するステレオヘッドフォンの違いにより、音楽の表情があまりに違うのに改めて驚いた。

現在愛用しているのは、ネットではもう在庫切れのようだが、オランダの名門電機メーカーのPHILIPSブランド(シンガポールの子会社らしい)の SHE-255 という型番の800円程度で入手したインナーイヤータイプのヘッドフォン(アキバのある店では200円程度で売られていたことで有名になった)なのだが、これが広域から低域までフラットで、音にも艶があり(広域がシャリシャリせずに)、楽器配置ではさすがに奥行き感は分からないがそれでも左右の楽器の定位がきちんと決まるし、楽器の分離も不自然さがなく、自分の耳的には十分なもので、一年近くこれで音楽を聴いてきた。

これが大分古くなってきた(スポンジイアパッドを付け替えても、耳に入れる部分が耳の皮脂や汗で金属部分が痛んでしまう)ので、同傾向のものに買い換えたいのだが、フィリップスのものもカタログをみると値段も上がり、段々「外連み」(ヴォリューム調整やバス強調)が出てきたようで、迷っている。

そこで、買い換える前に、SHE-255以来ほとんど使わなくなった手持ちのヘッドフォンをつないで聞き比べてみた。

SHE-255にする前は、もともと Panasonic の携帯プレーヤーに付属していたもので長らく聴いていたのだが、比べてみると、高域が全然伸びず中低音が膨らみ音につやがなく、ぼやけた感じで、まったく別の演奏を聴いているかのよう。(その前は、AIWA製の小ぶりなイアフォンタイプを使っていたが、これは音はやせていたが結構よかった記憶がある。)

以前携帯電話で音楽を聞いてみようと買った audio-technica のオープンタイプの携帯電話用の廉価のものは、携帯電話で『バーバーのアダージョ』などをMP3化してメモリに入れて聴いたときにも書いたが、高域がシャリシャリしており、まるで弦楽器がシンセサイザーのように聞こえるもの。またインナーイヤーに比べて耳の穴への位置取りがうまくいかず、同じヴォリュームでは音量が不足する。

また、数年前、ロンドンのヒースローから成田まで搭乗したヴァージン・アトランティックの座席付属のヘッドフォンは、JALなどの二股の特殊ジャックと違い(今はどうなのだろう?)通常のミニプラグで、フライトアテンダントに尋ねたら持ち帰りしてもよいということなので現在手元にあるが、さすがに音質は相当プアである。(古いタイプの軽量ヘッドフォン型)。

以前、電気店のポイントを貯めて買った密閉型の audio-technica 製の自分としては高級なヘッドフォン(価格は一万円以上)は、耳宛の部分の樹脂がポロポロはげてきてしまい修理のしようもない(?)ので、最近使っていない。これは左右の音質はさすがに繊細な表現まで描写してくれて上等だが、全域のバランスが悪いのと、定位がどうもあいまいなのが悲しい。(初めてこれで クレーメルとアルゲリッチのベートヴェンの『クロイツェル』を聞きなおしたときに、微妙な音色の変化が聞き取れて感激したものだったが。)

さて、今日、量販店に行って探したら、SHE-255と同じシリーズらしい SHE-285というのが1,480円で売っていた。巻き取りケースと手元でのボリューム調整機能がついているもので、255より少し割高だが、先ほど書いたようにフィリップスも全体に値段があがり、低音ブースト指向になっているようなので、ポイントを使ってこれを求めてみた。

自宅に帰って、255と聞き比べてみたところ、285の方は低音強調型のようで、ブロムシュテットとSKDのベートーヴェンの2番を聴き比べたが、255が締まった響きだとすると、285の方は、相当分厚い低弦群を擁しているかのように聞こえる。ただ低弦の描写が聞き取れるのはいいのだが、全体的にシャープさが薄れてしまう。慣れるには時間はかかるだろう。それでも、その間にこのような廉価なものでもしばらくエージングが進めば、少しは音の傾向も変わるかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

J.K. Rowling "Harry Potter and the Deathly Hallows" Bloomsbury

全体の基調が黒色のカバーに "S"の飾り文字にエメラルドが埋め込まれたペンダントが表紙写真になっており、裏表紙には Ms. Rowling が 本棚の前でこちらを見ている上半身の白黒肖像写真が掲載されているハードカバーの洋書が、United Kingdom 版のアダルト版だが、本日 日通ペリカン便で、アマゾンから配達された。

前書きなどを入れて全607ページ。これまで同じUK版のペーパーバックは3冊ほど買ったけれど、ハードカバーは初めて。以外に紙質はよくなく、少々ざらついた手触りだ。ユーロ高、ポンド高のおり、定価は17.99ポンドとなっていたが、外為レートを250円/ポンドとすると4,498円にもなるが、アマゾンの割引で3,100円、配達料無料で買えたのだから、よしとしよう。

これから読み始めるところだが、まずは『謎のプリンス Half-blood Prince』の日本語版をざっと読み返してあらすじを再確認しなくてはなるまい。何しろこの年齢になると、短期記憶が相当衰えているので・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月22日 (日)

箱根小涌園ユネッサンで温泉三昧

7月も下旬になるというのに梅雨はなかなか明けない。入梅前の長期予報では猛暑とのことだったのに、むしろ記録的な低温状態続きで、農作物の生育に赤信号が点るほどなのだという。

今日の日曜日も、昨日の土曜日同様、梅雨曇のはっきりしない天気だった(久々にクルマの洗車と掃除をして、ちょっとしたコスリキズなどをコンパウンドで磨いたら綺麗になった)が、昨日から夏休みに入った子ども達に、先週のディズニーは恒例行事的なオマケとして、少しは勢いをつけてやろうと、これまで訪れたことのなかった箱根の温泉施設に遊びに行ってきた。(箱根訪問は、家族ではこの冬の『星の王子様ミュージアム』以来2回目。)

ユネッサンは、藤田観光が経営する複合温泉施設で、水着を着て様々な温泉を体験できる水着ゾーン(ユネッサン)と、普通の温泉浴場に着衣なしで入る「森の湯」ゾーンが併設されている。多くの人がその両方を楽しめる共通券を購入して入っているようだった。

梅雨空だけあり、屋外でのレジャーがあまり期待できないということで、ここに訪れた人が結構多かったらしく、12時前に東名・小田原厚木・箱根新道経由で小涌谷に着いて駐車場を探したところ、施設から相当離れたところまで満車状態でどうなることかと思いつつ入場したが、シャトルバスが運行しており、すんなりと施設入り口にたどり着けた。

まずは、4階のフロントで入場料金を払うと、ウォッチ型の電子キーが一人一人に貸与され、それがロッカーの鍵、兼、電子マネーになるという方式だった。これを腕につけておけば、プリペイドカードのように(実際には事後精算だが)、自販機やレジでピッとすれば料金が加算され、退場時に精算すればいいという仕組みで、貴重品や金銭を持ち歩かずに自由に遊べるのは便利だった。ただ、飲み物、食べ物とも市価より数割高い値段なので、うっかりピッ、ピッさせるとすぐに数千円が飛んでいってしまうことになる。

着替えを済ませてプールに行こうとしたが、結構複雑なルートになっており、相当まごついたが、何とか大きなプール(浴場)にたどりついた。このプールサイドで、軽く食事を取ったが、結構割高で驚いた。風呂の様子は、いにしえのローマの公衆浴場とはこういうものだったかも知れないと思わせる広々とした施設で、その周りに、死海風呂とかラーメン風呂、カレー風呂、ミストサウナ(これこそ日本古来の光明皇后などが布施した蒸し風呂だろう)などが並び、屋外にはウォータースライダーなどもあり、いろいろな趣向で楽しませてくれた。死海風呂は、死海から取り寄せたという塩分を浴槽に張ってあり、相当塩分濃度が高い。簡単に浮くのはいいが、あまりに浮力がつき過ぎて、いったん浮いた身体を縦にしようとすると非常に苦労をする。また、スリキズやキリキズ、湿疹などがある人は、相当沁みるようなので注意が必要だった。

また、そのエリアとは少し離れた場所に、コーヒー風呂、緑茶風呂、赤ワイン風呂、酒風呂、五右衛門風呂(トウガラシ風呂)、炭風呂、岩盤浴、岩風呂などなど変わり風呂が目白押しで、本当にふやけるほど湯に使って楽しめた。こちらエリアの室内には25mの温泉プールも設置されており、子ども達は今年の低温傾向のため夏休み前に学校プールにほとんど入れなかったのを取り戻すほど楽しめたと言っていた。

「森の湯」は、よくある公衆露天風呂だが、それでも広々として清潔でゆったりと箱根の山の緑に囲まれて入浴することができた。木の湯船には久々に入ったが、肌さわりが柔らかく、子どもの頃の懐かしい風呂桶の感触を思い出した。

神奈川に住むようになって名湯箱根の湯に入るのは、これがなんと初めてだったのだが、家族全員満足できた。ただ、長野の山田・湯田中・渋や群馬の草津の湯に親しんだものにとっては、箱根の小涌谷の湯は、硫化水素(硫黄)臭が少なくて少々物足りない感じだった。

クルマで往復したのだが、17時頃発の帰路は、小田原に下る国道一号線が箱根湯本付近まで一寸ずりの渋滞で、結構時間がかかってしまった。(箱根湯本駅前を過ぎるととたんに渋滞が解消されたのは意外だった。小田原・厚木道路はスイスイだったが、東名が厚木から町田間11キロ渋滞ということで、厚木の手前で246号へのアクセス道路で降りて途中夕食を取り帰宅したら8時過ぎだった。)

箱根路の国道1号線を走るのは初めてだったが、この険しい山道を箱根駅伝の選手達は登って下るのだねと車中で会話をした。本当に驚くほどの勾配だった。地元長野の山道も険しいところが多く、身近な菅平道も特に須坂市側が険しいが、さすがに『箱根八里』の天下の険は、山が深く、木が鬱蒼と茂り、石垣も苔むしており、厳しいものだった。

p.s. ユネッサンでは、現在JAF会員なら相当の割引が受けられる。ユネッサンのホームページでの家族割り引きなどよりも割引率が高いので、お出かけの際にはJAFページもチェックされることをお薦めしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月21日 (土)

ハリー・ポッターシリーズ最終作 発売

第5巻『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』は、毎回オリジナルが出版されてから一年以上待たされる日本版に呆れて、英語のペーパーバックを購入して、一応ネットの助けもかりながら通読してみたことがあった。(第6巻では、第5巻があまりに荒唐無稽になってきていたので英語版は買わずに、それでも野次馬根性に負けて日本語版を入手して読んでみたが、ますます文学的な幻想力が陳腐化して、ロールプレーイングゲームのストーリーのようになりつつあるのを感じた。)

さて、英国時間(夏時間)、2007年7月21日午前00時01分(日本時間同日午前08時01分)、第7巻にあたる最終巻(英語版)が全世界一斉に発売されたという。

"Harry Potter & the Deathly Hallows" 直訳すると、『死の聖職者』だが、日本訳の仮題は『死の秘宝』というらしい。

内容が先に述べたように次第に陳腐化していくのと、作者が絡んだ映画、ゲームとのメディアミックスについては批判的なことを書きながら、それでもこの長大な物語の結末を知りたくて、めずらしくネット書店に注文を入れた。UK版のアダルト版(いわゆる装丁がコミック的な挿絵でないやつ)。

おそらく明日か明後日には届くことと思う。英語版だと一応筋書きを追いながら読んでも、日本語の数倍の遅さで、理解度も60%から70%程度なので、なにもそんな苦労をすることもないとは思うが、日本での翻訳権を独占している松岡佑子女史の日本語訳が遅すぎるので、そのような苦労を厭わない人も結構いるようだ。韓国語や中国語でさえ、オリジナル出版から半年程度で出版されるようなので、日本語訳は遅すぎるように思う。それだけ特殊な言語なのか、それとも訳者のこだわり過ぎで遅くなっているのか?静山社という出版社(松岡女史)は、このシリーズのおかげで、スイスに税金を払うか、日本に払うかに迷うほど多額の利益をあげたそうだが、それならば、松岡氏の監訳体制で、下訳を多く使って、短期間で翻訳が日本の書店に並ぶような努力をすべきではなかったかと、いまさらながら思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カラヤン/BPOのモーツァルト 交響曲集

Morzart_karajan

モーツァルト 後期交響曲集

第29番 イ長調 K209 〔1965年8月、サン・モリッツ:S〕
第32番 ト長調 K318 〔1977年10月、フィルハーモニー: P〕
第33番  変ロ長調K319〔1965年8月、S〕
第35番 ニ長調K385『ハフナー』〔1976年5月、P〕
第36番 ハ長調 K425『リンツ』〔1977年10月: P〕
第38番 ニ長調 K504『プラハ』〔1977年2月、10月:P〕
第39番 変ホ長調K548 〔1975年12月:P〕
第40番 ト短調K550 〔1976年5月、1977年2月:P〕
第41番 ハ長調K551 『ジュピター』〔1976年5月:P〕

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ADD  (DG 429 668-2 Made in West Germany)

ヘルベルト・フォン・カラヤンの全盛期にクラシック音楽を聴き始め、その八面六臂の活躍を眺め、またその激しい毀誉褒貶を知り、カラヤンの逝去も音楽界を越えた大ニュースとして体験した世代の者だが、その頃のクラシックファンに多く見られた「アンチ・カラヤン」を気取っていた一人だった。

もちろん、今のように廉価ボックスや中古盤で、「自分の贔屓ではない」演奏家のディスクを気軽に買えることはなく、せいぜいFM放送から流れてくる音楽で、彼の音楽を知るのが関の山だし、当時購読していた『レコード芸術』誌で毎月のように発売される彼の新譜や再発盤の評論を読むことが多かった。中でもいまだに忘れられないのは、畑中良輔氏がカラヤン指揮のモーツァルトか何かの宗教曲集の録音の批評で、「この演奏には、カラヤンのやる気がまったく感じられない。いわゆるやっつけ仕事だ」というような内容で酷評してあったのを思い出す。日本の音楽評論界は、吉田秀和氏や、黒田恭一氏あたりを除けば、こぞってアンチ・カラヤンだったように(少々誇張しているかもしれないが)思い出す。

それでもLP時代には、父か母が買ってくれたチャイコフスキーの『悲愴』(1960年代DG録音)、リヒテルとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲、そしてモーツァルトの『レクィエム』が実家にありそれこそ繰り返し聞いた。またその後学生時代にヴァーグナー入門用に買ったEMI録音の管弦楽曲集2枚組みが、カラヤンのLPとしてのすべてだった。ウブな学生だった頃はカラヤンは、スタイリッシュなスーパー実業家であり、その音楽は自己顕示のためだけで、作曲家に奉仕するという姿勢などなく、そのアンチテーゼとして作曲家への献身性の高い職人肌のベームやセル、「音楽啓蒙家」のバーンスタインがいるというのが、自分の脳中での位置関係だったように思う。

ただ、そのような風潮の中で揉まれていただけではなく、実際1970年代のカラヤンのベートーヴェンは、よくFMで掛かったものだが、そのあまりのレガート重視と、音楽内容の表現に奉仕するのとは別のベクトルを目指したかのように磨きぬかれた音色が、「こんなのはベートーヴェンではない」というような激しい反発を抱いたのもの確かだ。それでも晩年の『第九』は意外なほどの若々しさで驚かされたが。

近年、主にCDの中古盤によってだが、これまで聞かなかったカラヤンに触れる機会が少しずつ増えてきた。子ども達に聞かせる親しみやすいオーケストラ曲などで入手しやすいのがカラヤンだったということもある。プッチーニ『トゥランドット』ハイライト(VPO)、ビゼーの「アルルの女、カルメン組曲集(BPO)、チャイコフスキーの三大バレー組曲集(VPO)、ロッシーニ・スッペ序曲集(BPO)、アダージョカラヤン1,2(BPO)、ホルスト『惑星』(VPO,BPO)、ハイドン『天地創造』(BPO)、『英雄』(BPO)、『幻想』(BPO)、ムターとのブラームスVn協奏曲(BPO)、リヒテル・オイストラフ・ロストロポーヴィチとのベートーヴェンの三重協奏曲(BPO)、R.シュトラウスのオーケストラ曲集(『英雄の生涯』『ドン・ファン』『ツァラトストラはかく語りき』(BPO))、ハイドンの交響曲集などだ。最近入手した新ヴィーン楽派のオーケストラ曲集とこのモーツァルトもそのようにして聞くようになったものの一つだ。

さて、それほど期待をせずにカラヤンのモーツァルトを聴いてみたが、第36番の『リンツ』交響曲の遅くもたれるテンポに違和感を覚えただけで、すべて大変楽しめて聞くことができた。ことに、カラヤンでは重いのではと予想していた若きモーツァルトの傑作第29番(これは古くから愛好してきた曲だが)が、軽快とは言えないものの、磨きぬかれたオーケストラによって丁寧に奏でられており、非常に感心した。『プラハ』以降の後期の傑作群も、ベートーヴェンやハイドンでは違和感を覚えたレガート多用がまったく気にならず、私の「イデア」としてのモーツァルト像とはかけ離れたものではなく、かえって近いものだった。

収録曲の中では、あまり普段聞くことがないが、『ジュピター』音型が出てくる第33番ニ長調K319の演奏も輝かしい音色ながら鈍重ではなく、しゃっきりとしており聴き応えがあるものだった。カラヤンの審美眼にとっては、初期のモーツァルトなどはあまり興味がなかったかも知れないが、このような高性能なオーケストラで奏でられれば、モーツァルトの初期の曲も単に年齢だけが興味を呼ぶだけとは言えなかったのではないかと思った。

なお、パンフレットの解説は、英独仏伊とも別のライターによるもの。1991年の没後200年の前に発売されたものらしい。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年7月20日 (金)

シェーンベルク『浄められた夜』 ベルク『抒情組曲』、Vn協奏曲 ブーレーズ

Schoenberg_berg_boulez シェーンベルク『浄められた夜』 28:41  〔1973/9/24 マンハッタンセンター NY〕
ベルク『抒情組曲』 5:36/3:29/5:56 〔1974/3/4& 12/21 同上〕
  ブーレーズ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

ベルク ヴァイオリン協奏曲  11:36/15:23 〔1984/11/21 EMIスタジオ、ロンドン〕
  ズーカーマン(Vn)  ブーレーズ指揮 ロンドン交響楽団


カラヤンとベルリン・フィルの新ヴィーン楽派のオーケストラ曲の名盤を入手したので、少しつまみ聞きし始めた。

今はもっぱらストラヴィンスキー、バルトークが普段の鑑賞の限界だが、それでも20代の頃は少し背伸びをして新ヴィーン楽派の十二音技法やブーレーズのセリー音楽も聴いてみたことがある。たとえば、今ではほとんど聴かないが、ポリーニによるシェーンベルク『ピアノ作品集』とか、同じくポリーニのブーレーズ『第2ピアノソナタ』とかが、それだ。このブーレーズ指揮によるシェーンベルク、ベルク作品集も以前はよく聴いたものだった。最近数年間ずっと聴かなかったものだが、カラヤンとの聞き比べができる曲が収録されているので、久しぶりに聴いてみたところ、それなりに面白かった。

『浄められた夜』は晩期というのか、ドイツ・ロマン派が爛熟した末の成果であり、標題音楽的に聴けるため以前からそれほど抵抗はないが、ベルクの『抒情組曲』は、学生時代アルバン・ベルク四重奏団の生演奏で初めて聴いて降参して以来ずっと苦手な曲だった。もちろん十二音技法や無調が理解できたというわけではないが、今回カラヤン、ブーレーズと聴き比べて見ると、テンポやオケの響きの違いなども聞き分けられることもあり、少しは楽しめたように思う。

ズーカーマンがソロを務めるベルクのヴァイオリン協奏曲は、新ヴィーン楽派の中でもとりわけの人気曲でもあり、以前はエアチェックしたパールマンと小澤/BSOの録音で耳に馴染んだものだった。とはいえ、これもソロヴァイオリンが通常の協奏曲と同様に活躍したりするのが面白かったり、ヴァイオリンや金管のモチーフや微かな調性的なコラールが耳に残ったりする程度で、形式やメロディーの把握や、リズムパターンの把握や情緒的、ストーリー的把握という古典派・ロマン派的な音楽享受ではとても太刀打ちができないように感じている。ところどころ、「いいな」「すごいな」という瞬間もあるのだが、今自分がどこを聴いているのかが分からないことは非常に難行苦行だ。 ただ、クラシック音楽を聴き始めの頃、自分にとっての新曲に立ち向かうときは大抵同じようなもので、そのとき気に入った部分でもありその曲を何回か聴くうちに次第に馴染みになるということがあったのだが、12音技法、無調についてはなかなかそれも難しい。複雑な音列など記憶しようがないからだ。

現代は、第一次大戦前後のそのような無調、12音技法、セリーなどはとおの昔の技法で、現代音楽は新たな段階に入っているのだろうが(というのも素朴な進歩史観的な見方だろうか?)、その時代を象徴するかのような音楽、次の時代を先取りするかのようなコンテンポラリーな(同時代)音楽活動からは、私のような鑑賞者は相当遠くに身を置き、膨大に蓄積された記録(メモリー)にうずもれて、時間的には、はるかいにしえのヨーロッパ音楽から、現代に伝えれれてきた世界各地の伝統的民族音楽、世界各地のの流行曲などに囲まれて暮らしている。音楽の享受という面ではこのような状況はこれまでなかったことだろうが、ここから何が創造されるのだろうか?

すでに20世紀音楽の古典とも言われる音楽を聴いても、それが刺激となってこんな風に思いをめぐらせてしまい、音楽の楽しみという点ではついていけなくなっているのが現状だ。

解説を開いたら、若い頃の鑑賞メモが挟まっていたので、書き付けておこう。

1993.6.29(火) 今日は、バッハからシューベルト、そしてサティを通り、ずい分近代までやってきた。

シェーンベルクの『浄められた夜』弦楽オーケストラ版は、声のないオペラのようだ。その濃厚かつ高弦の冴えたひびきは、マーラー晩年の作品を思わせ、シェーンベルクのピアノ曲集のような12音技法にとらわれていないため、爛熟したロマン主義の作品であり、聞きやすい作品である。もともと官能的な詩に触発されて作曲されたものであり、退廃のヴィーン世紀末の雰囲気を漂わせている。

ベルク『抒情組曲』は、原曲のSQ版全曲を宮城県民会館で、アルバン・ベルクQの実演で聞いた。大変迫力があったことは覚えているが、曲は把握できなかった。今回も雑誌を読みながらBGM的に聞いている。
『Vn協』は、パールマン、小澤/BSOのエアチェックテープでよく聞いたのでなじみの曲である。

まったくこの頃から自分の鑑賞力は進歩がない。この頃よりも少しバルトークを聞き込めている程度だから仕方がないが・・・・・・

| | コメント (2) | トラックバック (1)

アメリカ 小売の返品制度!

日経BP社のメルマガは経済、テクノロジー関連で実に多種多様な情報を配信しており、なかには他のメディアではなかなか目にしないような情報が得られることがある。

【不思議の国アメリカ】 何でもありの返品制度が築くゴミの山 もその一つ。本当にこんなことが行われているのだろうか?あまりにも自分の常識とかけ離れているためにわかには信じがたいが、事実とすれば空恐ろしい。「お客様は神様です」どころの話しではないように思われる。

最近、日本でも比較的気軽に返品をするようになっているが、アメリカ的な消費者をスポイルする悪習の影響なのだろうか?

サイズ違いでも自分の判断のミスであり、明らかな不良品以外は返品できないものだと思うのだが・・・・・・

p.s. これも同じ筆者のコラムだが、やはり信じがたい小切手取引の実態が明らかにされている!

アメリカを読む」はまだこの2回だけだが、連載が楽しみである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月19日 (木)

ブロムシュテット シュターツ・カペレ・ドレスデンのベートーヴェン交響曲全集

Beethoven_skd_blomstedt_1

ベートーヴェン 交響曲全集
 第1番 9:03/8:32/3:26/6:09  〔1976〕
 第2番 13:05/12:33/4:06/6:43 〔1978〕
  第3番  15:02/16:47/5:49/11:49 〔1979〕
 第4番  12:09/10:31/5:50/7:10 〔1979〕
 第5番 8:05/11:21/8:53/8:52 〔1977〕
 第6番 9:31/12:40/5:44/3:42/9:51 〔1977〕
 第7番 13:31/9:57/9:45/9:03 〔1975〕
 第8番 10:02/3:56/4:47/7:50 〔1978〕
 第9番 16:55/13:48/16:24/25:09 〔1980〕
   デーゼ(S), シムル(A), シュライアー(T),アダム(B)
   ライプツィヒ放送合唱団、ドレスデン国立歌劇場合唱団
 Lukaskirche Dresden (ドレスデン ルカ教会)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 シュターツカペレ・ドレスデン(SKD)

5CD BOX BRILLIANT CLASSICS 99927 

ブロムシュテットとシュターツ・カペレ・ドレスデンによるベートーヴェンは、日本ではかつて徳間音工の手によりドイツ・シャルプラッテンレーベルで発売されていて、第九を集めていた折にその廉価盤を見つけて入手したことがあり、多くの第九の同曲異演盤の中でそのオーケストラの奏でる音響の美しさに感心したことがあった。

このブリリアントによる廉価盤ボックスセットはこれまで横目で見ながら、更に欲しいセット(セル、ジンマン、クリュイタンスは入手。クレンペラー、ノリントン、ケンペ、ヨッフム、クーベリック、フルトヴェングラーなどは未入手)ということもあり、触手が伸びなかったものだった。

ただ、近隣への出張の折に入手したクリュイタンスの全集が古い録音ながら相当面白かったので、第九の美しさを経験しており、その他の曲も地味ながら美しいといううわさのブロムシュテット盤も聞きたいと思っていた矢先、ブリリアントレーベルが国内代理店により販売されたのを見つけ購入した。

全体を聴き直してみると、繰り返しになるが、一言で言って美しいベートーヴェンだ。

シュターツ・カペレ・ドレスデンの各パートの自律的な充実とトゥッティでの豊かな倍音に満ちた響きは、ザンデルリング指揮のブラームスの第1番でも味わえたものだったが、この全集ではそれがどの曲でも味わえる。ただ、ザンデルリングの場合には求心的な印象を持ったが、ブロムシュテットの指揮によるこの交響曲集は、オーケストラが伸び伸び演奏しているのが見えるかのようだ。パートのなかで、特に目立つのは、ペーター・ダムが率いていた?ホルンのパートと、素晴らしく歯切れがよく良い音のするティンパニだろうか。勿論、弦楽器群、木管楽器、トランペットなどどのパートも素晴らしい。

よくブロムシュテットは、何もしていないというように言われることがあるが、決してそんなことはないと思う。オケのパートの自発性もあるのだろうが、『英雄』でのホルンパートの活躍は、特にスケルツォのトリオが有名で、その部分が美しいことも言うまでもないが、各楽章の普段はあまり聞こえないホルンによる声部がこの演奏に奥行きを与えてくれている。このような一貫したバランス調整は明らかにブロムシュテットの解釈と指示だろう。

一曲一曲が取り立てて強い個性を示す録音ではないが、これからも美しいベートーヴェンを聴きたいときには真っ先に手が出る演奏だと思う。

なお、このブリリアント盤は、ライセンスを Edel Classics,GmbHから受けているという。また、録音時期は西暦が記されているだけだが、同じ音源の第九で比較してみると、ブリリアント盤が1980年とだけなっているだけなのに対して、ドイツ・シャルプラッテン盤は、1979.4.9-11/1980.3.31 とあり、ブリリアント盤は恐らく録音完了時期のみを示しているものと思われる。また、合唱指揮は シャルプラッテン盤によるとライプツィヒがウェイグル、ドレスデンがフリューゲルということだ。

収録は、フィルアップの序曲集は、まったく含まれておらず、交響曲のみというのも潔い。

*SKDの他の録音
  若杉弘指揮 マーラー 交響曲第1番

  ザンデルリング指揮 ブラームス 交響曲第1番

 スイトナー指揮 モーツァルト 『魔笛』

 C.クライバー指揮 ヴァーグナー『トリスタンとイゾルデ』

 ヨッフム指揮 ブルックナー 交響曲第8番

* 昨年末来入手したディスクとドライブ音楽

| | コメント (0) | トラックバック (0)

音楽データ ダウンロードサイト

e-onkyo music というサイトを発見した。

クラシックのCD一枚が1500円程度と結構高いし、i-Podには転送できないらしいが、CD-Rには複数回書き込みができるようだ。リストも結構魅力的なラインアップではある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月17日 (火)

梅雨と台風の中 7/14ディズニーシー 7/15ディズニーランド

昨年の海の日の3連休にディズニーリゾート詣でをしたときは、少し雨には降られはしたものの猛暑に近い気温の中3日間遊びまくったのだったが、今年も同じ時期に一泊の予約を入れてあったので、台風4号の来襲を気にしながら出発した。

  *昨年の記事 ディズニーシー
          ディズニーランド&エクスピアリ

7/13(金)の天気予報だと、7/15に横浜市から千葉市付近のちょうど真上を台風の中心が通過するとのことだったので、事前キャンセルも考えたが、旅行代理店に電話しても(おそらく台風による予定変更でてんてこ舞いだったと思うがそれでも午後8時まで受付可能のはずなのに)午後6時頃何度呼び出しても応答がなかった。また、ツーデイパスポートで一日目はシー、二日目はランドで予約してしまっているので、もうやむをえないから一日目をじっくり楽しんで、二日目は交通機関の運転情報などを気にしながら遊び、適当なところで切り上げようということに相談がまとまった。また、昨年見逃したり、乗り損ねたりしたものを第一優先で回ろうという予定にした。

さすがに三連休初日だけあり、9時半ごろの舞浜駅は、雨だというのに相当の込み方だった。しかし、まだパスモ(スイカ)対応していないリゾートラインモノレールでシー駅まで行ったが、好天の昨年とは違い(昨年は5周年ということでも込んでいたらしい)雨天のためか入場口も空いており、園内一周のトランジットラインという遊覧船も空いていた。

Photo


ロストリバーデルタで船を乗り継ぎ、一周してメディタレイニアンエリアに戻った後、早めのお昼を取るため、『マゼランズ』というシーの中でも比較的落ち着いて(少々値が張る)レストランに入ってみた。室内の装飾はなかなか見事なもので、これを見るためだけに入ってもと思わせるほどのものだった。子どもたちは、16世紀のヨーロッパ人の世界発見の歴史マンガの影響か、エンリケ航海王子、コロンブス、マゼランなどの肖像画を面白がったり、妻は中世風のタペストリに興味を魅かれたようだった。レストランは入り口から地下におりる構造なのだが、中央の吹き抜け部分に16世紀ごろの巨大地球儀が30分に一周という速度でゆっくり回っており、天井部分にはテンペラ画の如き星座絵図が描かれており、また調度も凝っていて別世界へのトリップ感が沸き、他のアトラクションよりもワクワク感が味わえた。ランチセットと子供向けセットはいたって普通のシンプルなコース料理だったが、ウェイター・ウェイトレスの対応も親切で外の雨を気にせずにゆっくりとお昼を食べることができた。(これまでなら少々敷居が高いと感じていたが、先日デブヤで石ちゃんたちが、ディズニーリゾートを食べまくるというような企画で紹介してくれたのが、なかなかナイスだった。)

Photo_1


このマゼランズが含まれるフォートレス・オブ・エクスプロレーションズで、今度はフーコーの振り子もゆっくりと見た後、ガレオン船で遊び、その後、「海底2万マイル」、「キャラバンのカルーセル」、小虎が可愛い「シンドバットの冒険」を雨を気にせずに楽しんだが、海底をテーマとした魚のミニジェットコースターではビショ濡れになった。子どもたちはコースターデビューだったが、結構のG(加速度)にもかかわらず3回ほど続けて乗って楽しんだ。


Photo_2


その後屋内施設の「キングダム・オブ・トリトン」で1時間ほどゆっくり休み、篠突く雨の中、火山の下をくぐって「ストームライダー」(大型で強い4号台風が接近中なので現実とアトラクションの境目が薄くなったような違和感をかんじた!)などを楽しみ、ケープコッドの海岸線からアメリカンハーバーまで歩き、ホテル・ミラコスタの下を通り抜けホテル送迎バスの乗り込んだのは18:40頃。簡易レインコートを着けていたので上半身は問題なかったが既にスニーカーも半ズボンのももの部分もびしょぬれだった。残念ながらゴンドラは今回も見送ったし、前回訪問時は工事中で現在は最大の目玉である「タワー・オブ・テラー」は子どもたちが敬遠したのでパスした。ホテルは昨年と同じファウンテン・テラスホテルの4人部屋。


Photo_3


7/14の夜の台風情報では、7/15の午後5時には関東南部に達するということだったので、ランドは開場前に到着して遊んだ後、午前中で帰ろうということした。7/15は、6時半に起床し、ホテルを7時40分発のバスで出発し、8時前にランドに着き、入場の列に並んだ。台風など荒天のときには、アトラクションが止まらない限り、いつもの待ち時間が大幅に少なくなるのでパレードやショーは中止になってもかえってこのような日のアトラクションを目当てに来る人もいるらしい。また、遠方から事前予約した人たちなどはやむを得ず来たという感じで、結構年配の人たちも目にしたし、アジア系の外国人の姿も多かった。

事前に聞いていた通り、台風の日だけあり確かにほとんどスタンバイすることなく、次々にアトラクションを楽しむことができた。「スター・ツアーズ」、「ホーンティッド・マンション」、「ピノキオ」、「白雪姫」、「ピーターパン」と次々に乗り、またもや妻が入場後駆け足でファストパスを入手しておいた「バズ・ライトイヤー」も楽しみ、3D映画を見てから、アナグマのグランマ・サラの地下レストランで早お昼をゆっくり取った。昨年調整中で乗れなかった「ウェスタンリバー鉄道」をまったく待ちなしで楽しみ、「ジャングルクルーズ」も同じく待ちなしで楽しめた。これでもようやく12時を少し過ぎたほど。(プーさんとパイレーツは改装中。その他絶叫系はまだ子どもたちが敬遠するのでパス、トゥーンタウンも屋外なのでパス)。

午後から風雨が激しくなるだろうと予想したことと、雨の中グショグショの靴(子どものメッシュ系の夏用のスニーカーはすぐにビショ濡れになった)で歩き回るのもいい加減疲れたので、この辺で帰宅することにした。帰路、入り口のアーケード街では(雨のため屋外で出没できないので)着ぐるみキャラクターが多数愛嬌を振りまいており、子どもたちは運よく独占で何体かと記念撮影ができた(ロビンフッドのアナグマの神父さん、ピーター・パンのフック船長の部下ミスター・スミー、ピノキオのジミニーなど)。

帰宅の電車は、ガラガラにすいており、接続もよく、スイスイと自宅最寄り駅までたどり着けた。

なお、台風は陸地より相当南側を通過したとのことで、午後になると横浜でも風は強まったが、雨は比較的平穏だったようだ。後から考えると少々もったいなかったが、もし台風直撃となると、電車が不通となり、駅舎内や電車内でイライラしながら待つ恐れもあったのだから、無事に行って来れたのでよしとせざるを得ないだろう。それに混雑時なら一日かけても乗れないほどのアトラクションも短時間で待ちのストレスなしに楽しめたのだし。

それでも、この次は、日帰りで秋晴れの好天の日を目当てに行こうということになったのはオマケというところか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月13日 (金)

アルゲリッチのシューマン『幻想曲、幻想小曲集』 リコルディ録音

Schumann_argerich

シューマン

幻想曲 ハ長調 作品17
 11:17/6:52/9:30

  1. 幻想小曲集 作品12
    夕べに 3:25
    飛翔 2:57
    なぜに 2:04
    気まぐれ 2:56
    夜に 3:23
    寓話 2:31
    夢のもつれ 2:14
    歌の終り 4:44

    マルタ・アルゲリッチ 1976年録音 Dischi Ricordi による録音 (BVCC-3511)

自分のディスコグラフィーにない『幻想小曲集』を聴きたいと思い続けてきたが、大都市郊外のベッドタウンの中小のディスク店の品揃えでは、大作曲家とは言え、比較的人口に膾炙したもの以外は店頭には陳列されておらず、またネット通販では当然入手可能だが、際限もないディスク購入に陥りそうで自制しているため、これまで入手できなかった。 それが、7/11久しぶりで何か新品のCDを買おうと入った職場最寄のディスク店で、このCDを見つけて、少々迷いながら購入した。

アルゲリッチがRCAレーベルに入れた録音?という疑問もあったし、これまで聴いてきたアルゲリッチの演奏が猛烈すぎて、あまり好みではないということも迷った理由だ。

帰宅して解説を読むと、この録音当時はイタリアのRICORDI社がDGと併行してアルゲリッチと契約していたらしく、 その際に録音されたが、RICORDI社が様々な会社と販売契約を結んだため、これまで日本でもCBSソニーや学研、EMIなどから発売されたものだという。今回RICORDIがBMGに買収されて伊BMGとなったようで、晴れてまとめてRCAレーベルでの登場となったらしい。解説の最後には、エアチェックして何度も聴いた懐かしいイヴリー・ギトリスとのフランクのソナタ(とドビュッシーのソナタ)も掲載されていた。また、以前デンオンレーベルで入手できたハイドンとベートーヴェンのピアノ協奏曲もリコルディのために録音されたもので、手元のCD(COCO-6117)を見ると Licensed by DISCHI RICORDI S.p.Aと記されていた。

さて、このCDを早速聴いてみた。

『幻想曲』ハ長調は、これまでにケンプとキーシンの録音で比較的耳に馴染んでいる曲だ。

第1楽章冒頭の「魚が泳ぎまわるような」(以前参加していたFCLAでそのように形容した人がいた)楽想のピチピチした魅力や、第2楽章のあまり幻想曲的ではない、元気な行進曲風の主題などは、シューマンの魅力に溢れ、アルゲリッチも切れ味のよい音楽を奏でる。第3楽章は、夢幻的な分散和音の上に半音階的なメロディが奏でられるあたりなど、音色をぐっと曇らせてヴェールのかなたの夢の世界を歌うかのようだ。なるほど、確かに楽想による音色の使い分けは天才的だ。

『幻想小曲集』。

『夕べに』は、これも弱音主体の柔らかな音で微妙な心象風景を描いている。

『飛翔』は有名曲だけあって、何度も聴いた記憶がある。ただ、いつも思うのだが、なぜこの曲の題名が『飛翔』なのだろうか。「焦燥」感を非常に強く感じる曲ゆえに、軽やかで伸びやかなイメージのある『飛翔』という言葉とはあまり合わないように思うのだが。アルゲリッチの演奏は、荒々しいほどの音色で短調から長調へのめまぐるしい移り変わりを描く。解説によればこの形式は、古典的なロンド形式なのだという!

『なぜに』 前の曲とはまた対照的に「ゆっくりと繊細」な曲。

『気まぐれ』 スケルツォ的な雰囲気の作品だが、長調と短調の移り変わりがその気まぐれを示すかのよう。

『夜に』 『クライスレリアーナ』のクライスラーのモデルE.T.A ホフマンの恋愛ものに由来するという。これまた感情の起伏が激しく、焦りと安らかさが交錯するかのようだ。最後は劇的に終わる。

『寓話』 とは、「動物などの話にかこつけて、教訓的な内容をあらわした物語」の意であるが、『子どもの情景』につながる内容を持つ。ゆっくりした部分は、『詩人は語る』ではないが、物語の読み聞かせのようなモノローグ調。一方それにはさまれる急速な部分は、いたずらっ子が落ち着き無く動き回る様。

『夢のもつれ』 不思議な言葉だ。いかにも文学青年シューマンらしい。もつれ合う夢想は、ゆっくりしたテンポではなく、トリルを交えた急速なフレーズからなる。中間部には主要部がからみつき、その後主要部が再現される。

『歌の終り』 終曲。輝かしく堂々たる讃歌で始まる。このあたりの分厚い響きではさすがのアルゲリッチの音も少々濁り気味なのが残念だが、曲そのものがそうなのだろうから仕方が無い。このような音楽を聴くとアルゲリッチのブラームスというのも聴いてみたくなるが、彼女はあまり弾かなかったように記憶する。コーダは低音がかすかに響きながら静かに終わる。

アルゲリッチのこの1970年代の演奏は、集中力といい、テクニックといい間然とするところのないもので、このCDを一息に聞かせる力をもっている。音色も透明感があり美しい。ディジタルリマスターの成功も一因だろう。

以前電脳郊外散歩道さんの『ルービンシュタインのシューマン「幻想小曲集」を聞く』を読ませてもらって、それまで馴染みのなかったルービンシュタインのシューマン(『カルナヴァル』と『クライスレリアーナ』)を聴く機会を得たが、今度はピアニストは違うとはいえ、『幻想小曲集』もいつでも聴けるようになったのはうれしい。また、『幻想曲』もケンプやキーシンとは違う魅力が溢れている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月12日 (木)

セルとギレリスの『皇帝』(米EMI盤)

Szell_gilelis_emperor ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調(『皇帝』)

エミール・ギレリス(ニューヨーク・スタインウェイ)

ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団

<1968年 セベランスホール、クリーヴランド>

〔EMIのためにCBSの録音陣による録音〕

〔CD記載のタイミング表示Ⅰ:20:08,  Ⅱ&Ⅲ:19:20、実測ではⅡ:8:58, ⅢAllegro に切り替わる瞬間から10:18〕

併録:
自作テーマによる32の変奏曲ハ短調 G.191 (10:45)
Wranitzkyの『森の娘』によるロシアふう主題による12の変奏曲 イ長調 G.182(11:44)
『アテネの廃墟』のトルコ行進曲による6変奏曲 ニ長調 作品76 (7:09)

RCAレーベルのためにデッカの録音陣がロンドンでハイフェッツとサージェントによる協奏曲(ブルッフの協奏曲、スコットランド幻想曲、ヴュータンの5番)を録音したように、ここではEMIのためにCBSの録音陣がベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音しEMIにマスターテープを提供したという。このアメリカ製のCDのパンフレットには、このときのセッションがまったく短い時間で終わったことなどのエピソードを含めて、演奏者への言及をほとんど見たことがない外盤としては珍しくパンフレットのp.6-p.14にわたって次のような興味深いレポートが書かれている。

1968年にエンジェル/EMIは、セヴェランス・ホールでベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲とこのCDで聴かれる変奏曲(ハ短調の32変奏曲、Wranitzkyの『森の娘』による12変奏曲、『アテネの廃墟』のトルコ行進曲による6変奏曲)を録音するために、ギレリスとセルを連れてきた。

その時点でセルとクリーヴランド管はC.B.Sレコード(米コロンビアレコード)と契約を結んでいたため、このセッションは、エンジェルのためにコロンビアレコードによって録音された。・・・ 

この数年前からEMIのクラシック部門のディレクターであるピーター・アンドリーが始めたギレリスによるベートーヴェンのピアノ協奏曲プロジェクトだったが、セル/クリーヴランド管との第3ピアノ協奏曲の共演後、ギレリスからアンドリーに彼らとの全集録音の提案があった。・・・

オーケストラ、アメリカ音楽家協会、コロンビアレコード、モスクワの文化省との数ヶ月に渡る交渉後、セッションが開始されたのは1968/4/29。

EMIは、コロンビアレコードの熟練したクルーである プロデューサー:ポール・マイヤー、レコーディング・エンジニア:バディー・グラハムとフランク・ブルーノと契約した。ピーター・アンドリーはエンジェルのジョン・コンヴィーと一緒に進捗を精しく見守った。ニューヨークスタインウェーのトップ調律師フランツ・モアが駆けつけた。

その数年前ギレリスはレニングラードで番号順に全集を録音したがそれは不幸な経験に終わったので、今回は番号順ではないことにこだわり、3番からセッションが始められた。ギレリスは迷信深く、11という数字には落ち着きをなくした。 

セルとクリーヴランド管のいつものやり方は、中断なしに各楽章を2度レコーディングするというものだった。そして必要な挿入はピンポイントでセルから練習番号や小節数で指示され、しばしばセルが口笛でそのパッセージを示した。オーケストラは例外なく準備が整い、調子が整った。ギレリスもそのやり方に合わせ、彼はよく油を注されたピアノ演奏機械のようだったが、彼の指からつむがれる音楽はまったく機械的ではなかった。・・・ギレリスは、プレイバックを聴ききわめて満足だと告白した。・・・

セルとクリーヴランド管のおかげで五曲の協奏曲は、四回の長いセッションで録音された。ピーター・アンドリーは「なぜヨーロッパでは一楽章に3時間も費やすのか?ここでは、1曲の協奏曲が4時間でできる。信じられない。」と語った。五曲の協奏曲がたった数日で完成したので、エンジェルは数ヶ月、数年に渡る細切れで録音された全集より、目的や表現の上でずっと統一性があるだろうと表明した。早くも10月にはこのアルバムは店頭に並んだ。(ハイ・フィデリティ・マガジンの記事の引用)

この記事により、この録音がウォルター・レッグのプロデュースによるものではないことが伺われる。また、この録音より数年前のギレリスのソ連時代のベートーヴェンの協奏曲全集が彼にとって不幸な経験だったということも語られているのが興味深いが、1958年のプラハでのK.ザンデルリングとの共演はライヴ録音だし現在ブリリアントで入手できるマズア指揮のライヴ録音は1976年のものなのでそれとは違うようだ。(メロディアレーベルなどにはその全集があるのだろうかと思ってネットを探したら、テスタメントから一部出ているようだ。「鎌倉スイス日記」さんの記事によるとヴァンデルノートとレオポルト・ルートヴィヒという指揮者との共演で全集を作ったらしいEMIのボックスでも一部を入手可能だ。)それと、この録音がギレリス側からの申し入れによるらしいのも面白い。また、ヨーロッパでの数ヶ月、数年にわたる細切れ録音としては、少々時代は遡るが同じEMIレーベルのクレンペラーの録音データがそれにあたるように思われる。私が聴けるクレンペラーの録音はどれも素晴らしいものだが、特にブラームスの1番交響曲など非常に細分化された録音データになっている。

なお、この録音の翌年の1969年、セルの招きでギレリスはザルツブルク音楽祭にデビューし、オルフェオがライヴ録音を発売したセル/VPO,ギレリスによるオールベートヴェンプロを演奏したのだった。

この録音は、高校時代の音楽鑑賞の時間に、芸大を卒業したという音楽の先生が、「物理の名物先生そっくりの分厚いメガネを掛けた指揮者セルのオーケストラをバックに、透明な音色を持つギレリスが素晴らしい音楽を奏でている」とベルト(ワイヤー)ドライブの高級ステレオで聞かせてくれた記憶がある。非常に印象に残っていた録音だ。最近になってようやく中古店で、1986年発売のこのアメリカ製のCDを入手できた。

『皇帝』と呼ばれるこの曲は、これまでLPではバックハウスとイッセル=シュテット/VPO, グルダとシュタイン/VPO。CDでは、フライシャーとセル/CLO, R.ゼルキンと小澤/BSO, グルダとシュタイン/VPO, アシュケナージとメータ/VPOで聴いてきた。この中で刷り込みは、バックハウスだろうか。

改めて、「鋼鉄のピアニスト」と呼ばれたギレリスと、セル/クリーヴランド管の録音を聴いてみると、上記のレポートにあるように、鋼鉄どころか非常に「油の効いた精密機械」の演奏というイメージで、そこに非常に精緻な音楽を作るセル/クリーヴランド管がバックを務めるというのだから、よく言われるようにソリストと指揮者&オケによる競奏ではなく「室内楽的」に協力し合って奏でるまさに協奏曲になっている。

セルの指揮も強引なリーダーシップというものではなく互いに尊重し合いながら透明感のある音楽を奏でている。私としては、この曲にはもっと「外連み」のような俗受けするアプローチや、ヴィルトゥオーゾ性を剥き出しにした丁々発止のアプローチの方が、曲の成立事情から言っても似つかわしいように思うので、今のところ少々物足りなさを覚えてはいる。

なお、セル晩年のEMI録音は、有名なドヴォルザークの8番を初めとして、オイストラフとロストロポーヴィチとのブラームスのドッペル・コンツェルト、オイストラフとの同じくブラームスのヴァイオリン協奏曲、シューベルトの『ザ・グレート』が残されているが、これらもCBSの録音陣によるものなのだろうか?というのも、CBS録音にはあまり聴かれない強奏部分のビリつきが、どの録音からも聞こえるのはどうしてなのだろうと思うからだ。特に残念なのは、何度も書いているが『ザ・グレート』。大変優れた演奏だと思うが、マスターテープ管理の問題か、CBS録音とEMIのマスタリングの相性の問題か、いずれも名演奏だと思うだけにそのビリつきが気になってしまうのは残念だ。中ではドヴォルザークにはそのような音質上の問題はほとんどないとは思う。

追記: 2007/12/19

2007/11/18に べっく という人からコメントをいただいた。何の挨拶もなしで、自らのブログ、ホームページも入力しないコメントだったので、不愉快に思いながら、挑戦的な疑問に答えないのも癪に障るので、一応調べて返答したが、いまだに返信もない。

このことが結構棘のように気にかかっており、これまでいろいろ調べてみたが、英語のサイトでGilels Discography で Google検索したところ、よくまとまったものが二件ほどヒットした。

そのうちの一つ Emil Gilels Discographyには、

Concerto for piano #3 in C minor op. 37
Leningrad SO conducted by Sanderling, Kurt  rec. 1957, Leningrad

と書かれており、推測通り1957年にK.ザンデルリングの指揮による録音のあったことが記されているが、これはレコード(CD)番号が書かれていないため、どうやらお蔵入りになったものらしい。これが、いわゆる「不幸な経験」だったのだと推測される。

また、レニングラードでnumerical orderで録音されたというのは、何かの誤解のようで、#3,#4,#5が1957年、#1,#2が1958年となっている。ロシア語の翻訳の齟齬か、記者の誤解だったのだろうか?(それとも私のミスリードか?)

なお、こちらのディスコグラフィーによると、

27/10/1966 - Cleveland - Live - Cleveland S.O./Szell

ILLUMINATION iLL-Sze-30/31 (2CD)
CULT OF CLASSICAL MUSIC COCOM1013 (4CD)
DISCO ARCHIVIA 326 (3CD)
とあり、セルとのEMレーベルのスタジオセッションの前に、コンサートでこの3番を共演していることが書かれていた。

なお、別のEMIの録音では、1957年に#1,2をヴァンデルノートの指揮パリ音楽院オケと、#4,#5をルートヴィヒ指揮のフィルハーモニア管と録音しているが、#3だけは、1954年にモノでクリュイタンス指揮のパリ音楽院オケと入れているようで、これも#3への拘りの元なのかも知れない。

追記:2008/09/08  RSSリーダーを整理していたところ、この記事が紹介されているブログをたまたま発見した。何と以前書店で売られていたEMIと小学館のクラシックインというシリーズにこの『皇帝』が収録されていたとのことだ。

2012/5/29追記:ギレリスのEMI録音集が2010年に発売されているのを見つけた。

| | コメント (12) | トラックバック (1)

2007年7月10日 (火)

ブレンデルの『クライスレリアーナ』

Brendel_kreisleriana1_1 Brendel_kreisleriana2

ロベルト・シューマン

『クライスレリアーナ』 Kreisleriana 作品16

アルフレート・ブレンデル Alfred Brendel

〔1980年8月27日~29日、ロンドン、ワトフォード、ADD〕

シューマンのピアノ曲は、同い年のショパンの華麗、繊細で完璧な定型詩に比べて、微に入り細を穿った散文詩のような魅力を持っているように思う。それがなぜか私を魅了する。特に『クライスレリアーナ』は、これまでもケンプ、ルービンシュタイン、アルゲリッチと聴いてきたが、それぞれの大ピアニストの個性が浮き彫りになるようで、非常に面白かった。もっとも、どこからどこまでが一曲なのか分からないような形式が曖昧模糊とした非常にロマーンティッシュな小品の集まりであり、また譜面を見ても複雑なリズム書法によって書かれていることが歴然としており、非常に気分の振幅の激しい難曲ではあるけれど。

その曲を今度は、ブレンデルのCDで聴いてみた。ブックオフで、最初はフィリップス系の名曲全集『An Excellent Collection of Classical Music』の分売で廉価で入手したら、その数日後、フィリップスの正規盤でまったく同じ内容のものが売っておりこちらも入手してしまったという確信的なダブリ買いで手元に2枚あることになってしまった。

ブレンデルは、以前にも書いたように実際にリサイタルを聞いたことのあるピアニストでもあり、相当以前からマリナー/ASMFとの共演によるモーツァルトのピアノ協奏曲集やシューベルトのソナタを愛聴していたピアニストで、その表現と音はもっともしっくりくるピアニストの一人だ。

吉田秀和氏は、彼のモーツァルトをエスプレッシーヴォのモーツァルトと呼んだが、私にはどちらかと言えば安定感がある技巧の上の繊細なピアノの音色により、奇を衒わない誠実な音楽を作るピアニストというイメージができている。

このシューマンの難曲も、激しい感情的な振幅も描かれてはいるが、アルゲリッチのような没我的な激情は聞かれず、細かい音もゆるがせにしない客観的な円満な音楽になっているように聞こえる。シューマンの狂気を表現しなければという立場からは、予定調和的な演奏としてあまり評価されないのではないかと思うが、非常に立派で丁寧な演奏により音楽としての形がしっかり聞き取れる気がする。

大ピアニストたちが奏でる音楽は、いずれも紛れも無いシューマンの音楽なのだが、ブレンデルの演奏するシューマンには、後の狂気よりもクララを勝ち得て伴侶とする新生活への期待感、幸福感が聞き取れるような気する。

追記: 2008/02/08 mozart1889さんの同じ音源のCDの記事にトラックバックさせていただいた。

追記、編集:2008/02/09

*『クライスレリアーナ』の記事とタイミング

ホロヴィッツ    (1)2:34 (2)7:01 (3)3:35 (4)3:19 (5)3:20 (6)3:55 (7)2:14 (8)3:38
ブレンデル         (1)2:44 (2)8:06 (3)4:39 (4)3:58 (5)2:57 (6)4:16 (7)2:07 (8)3:21
アルゲリッチ       (1)2:35 (2)9:40 (3)4:32 (4)3:54 (5)3:08 (6)4:11 (7)2:06 (8)3:27
ルービンシュタイン(1)2:56 (2)8:53 (3)4:41 (4)3:12 (5)3:19 (6)3:37 (7)2:19 (8)3:57
ケンプ               (1)2:45 (2)7:40 (3)3:46 (4)3:45 (5)3:29 (6)4:15 (7)2:25 (8)3:40

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年7月 5日 (木)

テレビドラマ『エリザベス1世』 NHKBS2

『エリザベス1世』~愛と陰謀の宮廷~ 前、後編をビデオに録画しておいたものを見た。

イングランドと結婚したといわれた処女王(1533-1603)の後半生を描いたもの。前編は、寵臣レスター伯との長い関係、カトリック国フランス王弟アンジュー公との結婚話。スペイン領オランダのプロテスタント救援、そして従姉妹のスコットランド女王メアリー・スチュアートの処刑。チューダー朝音楽では、恐らくバードのヴァージナル(ハープシコード)音楽をエリザベス女王が弾く場面も出てくる。1588年のスペイン無敵艦隊Armadaとの戦いで前編は終わる。

日本では、ちょうど文禄慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)の頃だ。

まだ小国だったイングランドの宮廷の荒っぽい様子がよく描かれている。

(1998年には映画も作られているようで見たいと思っている。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 3日 (火)

新海誠 アニメーション『ほしのこえ』

6/30土曜日の夜BS2のアニメ劇場という番組で、『茄子 アンダルシアの夏』というジブリ作品ともう一作の後に、以前から名前だけは知っていた新海誠の『ほしのこえ』を見ることができた。

美しい映像と胸キュンものの青春設定もさることながら、光速を越える移動方法であるワープ航法と携帯電話のメールを題材にしての光の速度でも8年間かかる遠距離(シリウスの惑星)からのメッセージが非常に印象的だった。16歳のときに出したメッセージが8年後の24歳の相手に届くということ。宇宙の広大さとを直感させられた。(ただ、光速移動に近づくほど時間の進み方が遅くなるというアインシュタインの相対性理論によれば、光速以上で移動したヒロインと地球に残されたヒーローの時間の進み方は当然違うはずなのだが、その辺はどうなるのだろうか?という疑問は残った。)

子どもたちは、メカのデザインがガンダムそっくりだと驚いていたが、メカニックデザイン担当は、ガンダムシリーズのそれを実際に手がけた人だったので、まさにそのものだったようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

7/1 ETV特集で吉田秀和氏が取り上げられた

7/1 22:00-23:30 NHK教育テレビで、 <<ETV特集「言葉で奏でる音楽」 吉田秀和の軌跡▽93歳今なお現役音楽評論の巨星▽カラヤン・グールド・ホロビッツ…名演奏の数々を書きつづって60年・20世紀音楽史の生き証人が自らの生涯を語る▽小澤征爾・中村紘子・石田衣良・堀江敏幸・・・>> という内容の番組が放送された。

私が敬愛する吉田秀和氏は、93歳の今も頭脳も明晰で立ち居振る舞いも矍鑠としており、現在もNHKFMの土曜日夜9時の『名曲のたのしみ』の放送を毎週続けているのだという。ここ10年以上FM放送からは離れてしまったので知らなかったが、奥様が逝去された後も、原稿用紙には向かえなかったが、毎週一回の放送は続けられていたというのだ。1970年代後半から1980年代前半の私の高校、大学時代は、確か日曜日の朝が放送時間でちょうどモーツァルトの放送時期だった。毎週熱心に聴いたものだ。特に大学に入ってからは、モーツァルトの後期の曲を何度もエアチェックさせてもらった。セルとクリーヴランド管による交響曲第39番などはモノのラジカセでのFMのエアチェックだったが、何度も聴いたものだった。

さて、今回の番組では、知られざる吉田秀和氏の日常が非常に興味深かった。毎朝6時起床。奥様が逝去された後も、これまで30年以上続けてきたメニュー ゆで卵(ご自分で茹でて、「卵がびっくりする」ようにびっくり水を掛ける)、紅茶とドイツパンの食事を用意し、静かに朝食を取られている。

オーディオには凝らないというが、鎌倉の昭和時代的な木造の日本家屋のご自宅で、30インチ程の薄型モニターディスプレーをトール型のスピーカーの中心に据えて、ゆったりとイスに座り、楽譜でときどき確認してメモをとりながら、音楽を聴かれている。

番組では、ちょうどチェリビダッケのチャイコフスキーの第5番を聴かれていた。「テンポが遅い点に特徴のあるチェリビダッケが、遅いゆえにこれまでにない新たな魅力を引き出しているか。それとも単に緊張感のない演奏に終わっているか。」などというポイントを考えながら聞いていると語る。

再現映像を交えた93歳までの生涯や奥様のことや、近くに住む長女の方と一緒に鎌倉の商店街に買い物に行かれる日常も紹介されていた。毎日、ソーセージやハムを含む肉類を食べているとのこと、水戸芸術館の館長として今もあの遠い水戸まで足を運び、水戸室内管弦楽団の定演にアドバイスをし、本番でもスタンディングオベーションをするほど元気さを保たれている。超人的な活躍ぶりがこれからも続いて欲しいと願わずにはいられない。

ブログを検索すると多くの方がこの番組について書かれていた。それらを読んで自分でも思い出したのだが、吉田秀和氏が自分が今でも原稿用紙をこつこつと埋め、譜例も自分で五線紙に書いたものを原稿用紙に貼り付けることが生きがいだと語り、実際にその映像を見て感心したのを思い出した。吉田氏は、そのことについて、「詩人のヴェルレーヌがドガと知り合い、ドガが実に丹念に絵筆を走らせていることに半ばあきれて、『なぜそのように熱心に書くのですか』と聞いたところ、ドガが『木を書くにしても、葉を一枚一枚丹念に描くことが楽しいのだ』と答えた」というエピソードを紹介してくれていた。

*吉田秀和氏関係の自己記事リンク

  吉田秀和氏(93)に文化勲章(2006/10/27)

  吉田秀和氏 復帰 「レコード芸術」で (2006/4/5)

 私の座右の書 吉田秀和「世界の指揮者」など(2005/10/18)

 世界の指揮者 世界のピアニストなど(2005/2/8)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 1日 (日)

クレンペラーの『田園』

Pastoral_klemperer_1

ベートーヴェン 交響曲第6番『田園』
  12:58/13:17/6:32/3:44/9:11 〔1957年10,11月〕
フィデリオ序曲  6:55 〔1962年2月〕
レオノーレ序曲 第3番 14:32 〔1963年11月4,5日〕

オットー・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団

キングズウェイホール、ロンドンでの録音


ブックオフでよく見かける『新・名曲の世界』というEMI系の名曲シリーズは、私にとっては結構素晴らしい録音が収録されている。昨年入手したセル/クリーヴランド管によるドヴォルザークの8番を初めとして、ガブリーロフとムーティによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲・『イスラメイ』・『ラ・カンパネラ』、バレンボイムの旧録の『悲愴』『月光』『熱情』、そしてこのクレンペラーの『田園』交響曲だ。

『田園』は、ワルター/コロンビア響によるLPの「名盤」を中学生の頃から聴き続けてきたが、どうもオケの音響が粗い部分が耳につき、あまり好みではなかったが、それでも当時は同じ曲を複数枚購入することなど夢のまた夢で、定評のあるこの盤をそれこそ何回も聴いた。私には『田園』よりもむしろ『コリオラン』序曲の方が好みだった。(『英雄』もワルターとコロンビア響が刷り込みだったのだが、こちらは非常に気に入っていた。フルトヴェングラー的な有機体の運動のようなドラマチックな『エロイカ』もいいが、このワルターは古典的で軽快でスマートな音楽で、『田園』ほど響きが不自然でなく、飽和せず自分好みの演奏だった。)

さて、その後『田園』の音盤としては、バーンスタイン/VPO、セル/クリーヴランドO、クリュイタンス/BPO、ブロムシュテット/ドレスデン・シュターツ・カペレ、ジンマン/チューリヒ・トーン・ハレO、C.クライバー/バイエルン・シュターツ・カペレと購入して聞いてきたが、いずれも一長一短で、セルの第一楽章は絶品だが、第ニ楽章以下が少々流れが悪いと感じたり、クリュイタンス、ブロムシュテットという定評のあるものでもアンサンブルの精度や音色的な面で満足できなかったりしていた。ところが廉価で入手できることもあり、この『田園』を興味本位で入手して聴いてみたのだが、意外や意外これが実にいい。

クレンペラーは、テンポが遅く大河のような演奏をするというイメージがあるが、私には、遅さはそれほど気にならず、むしろヴァイオリンの対抗配置による弦楽合奏のクリアな音楽や、木管を浮き立たせた楽器バランスによって、渋いイメージとはまったく対照的な華やぎを覚えるほどだ。

このBlogでは何度も書いているが、特に古典派のオーケストラ作品の演奏では、ヴァイオリンの対抗配置による効果は捨てがたいものがあるように思う。クレンペラーはこの配置にこだわってきたようだが、それがこの『田園』でも生きている。現代の大編成のオーケストラでは、音の時間差によりアンサンブルが整いにくいのだとは思うが、クレンペラーの録音ではそのような乱れはほとんど感じられず、左と右で掛け合ったり、第一ヴァイオリンが高い音で対旋律を弾き、第二ヴァイオリンが主旋律を弾くというような場合、くっきりとした対照が聞き取れるのが大変面白い。第一楽章は、いくつかの録音を聞いても、低弦のアンサンブルがうまく合わないのが気になるものが比較的多いのだが、クレンペラーではそのような不満がない。

また、クレンペラーの楽器バランスでは(実演ではどうだったのか分からないが)、鮮明な弦楽合奏の上に、木管群がくっきり聞こえることが多いようだが、『田園』では第2楽章を初めとして、フルートやオーボエ、ファゴットが自然の象徴として特に活躍するが、このバランスがもたらす効果が相当私にとってアピール力が強いようだ。

農民の踊り、嵐、感謝の歌と続く後半部分でもじっくりと安定した音楽作りは変わらないが、メリハリや運動性、そして感謝の感情の表出まで過不足なく聞き取ることができる。

LPでは、クレンペラー指揮はまったく所有しておらず、CDでもこのように少しずつ入手して聞く程度なのだが、今のところどの録音も他とは一線を画する独特な魅力を感じさせてくれるものが多い。奇を衒ったものではない(人格的には非常に個性的な人物だったらしいが)ところが、また凄いと思う。

ベートーヴェンは第九についで2枚目だが、このような聴き応えがあるほどのものをEMIから出ている全集でじっくり聴きたいものだと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

depression という状態

depression という言葉には、①意気消沈,憂うつ,スランプ;抑うつ状態[症],うつ病のほかに、

②不景気,不況,不振;不況期 ③くぼみ,くぼ地,低地 ④ 低気圧 ⑤押し下げること;降下,低下,沈下;低下した状態 ⑥〔天・測〕水平俯角(ふかく)というような意味があるようだ。

また、訳語としては、①に類するもので、「ふさぎの虫」という面白い言葉もある。

(Progressive English-Japanese Dictionary, Third edition  Shogakukan 1980,1987,1998/プログレッシブ英和中辞典  第3版  小学館 1980,1987,1998)

この中で低気圧は、大気圧が低い状態とはいえ、不活発とは正反対で、むしろ上昇気流の活発な状態により雨や風、雷など天候の変動に大きな影響を与えるのだから、その他の鬱状態や不景気のような停滞や落ち込み状態とは現象的には概念が異なるような気がする。ただ、低気圧が近づくと、人の心の状態が落ち込んだりするケースが多いようで、心理面からは同列の効果を持つのが興味深い。

自然現象にはサイクルとか波とか繰り返しながら生成消滅するものが多い。一時期流行ったヴァイオリズム(バイオリズム)も肉体、感情、知性に波があるということに着目したものだ。大局的な視点からは自然現象の一種だろうが、人間の経済活動における好況、不況の波も同じだろう。

最近の日本では、30才代の中堅サラリーマンに「鬱」症状つまりderpessionを訴える人が増えているという。バブル崩壊1990年以降の失われた10年?の不況期に企業が新人採用を手控え、その間以降に少数採用された社員への負担が、企業の年齢構造の不均衡によって増しているということだろうか?

唐突だが、年金問題、教育問題、医療問題などなど、日本国の機能不全が今日のようないびつな状態を招いており、国民もそれに対して政治行動ができないほどに教育されてしまっている。まったく評論家風の言い方になってしまうが、depressionの蔓延についても、国の経済、金融政策の誤りのつけという部分が大きいのではあるまいか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »