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2007年8月16日 (木)

8/12『風林火山』紀行 市川文書(市河文書)と栄村常慶院

夏休みに、実家で『風林火山』の放送を父母も一緒に見た。

本編は、山本勘助が、長尾景虎(上杉謙信)を鉄砲商人に化けて探索に行ったところ疑われて捉えられ宇佐美駿河守に預けられるという、少々脚本家の想像力が行き過ぎた内容で、父などはあまりに作り物、嘘話が多すぎると脚本家を批判していたが、確かに最近の『風林火山』は、勘助が主人公とは言え、行きすぎが目立つようだ。北条氏と関東管領上杉氏の河越夜戦に勘助が参加したり、今回のように細作(スパイ)として根来、堺、駿河と越後を往来したりするのはやりすぎだろう。井上靖の原作は、晴信と由布姫と勘助の三角関係的な感情に焦点をあてていた人間ドラマだったが、それだけでは一年間の大河ドラマは持たないのだろうから仕方がないといえば仕方がないが。

番組の最後に流される『風林火山』紀行は、それに比べて毎回淡々としており、楽しみにしているものだが、今回は『甲陽軍鑑』での山本勘助の活躍への批判として明治時代に唱えられた不在説を覆す唯一の史料である『市川文書』について紹介し、その市川(市河)氏が戦国時代に領有していた領地長野県下水内郡栄村の館跡とその菩提寺常慶院を紹介していたが、これを見て父母が驚いた。というのは、飯山線の横倉駅(栄村)が国鉄時代の父の勤務地であったことがあり、家族で一年以上暮らした土地だったからだ。父の話しによると、箕作(みつくり)というかつて私が一年生のほんの数日だけ通ったことのある堺小学校のあった地域にその常慶院があり、当時の栄村の村長も市川さんといい、市川氏の子孫だったという。また、市川氏が中世以来の豪族だったということは、当時地元の人たちにも聞いたという。私自身も、自分が暮らしたこともあり、自分が結婚した後も、懐かしくなって妻子を連れて村内を巡ったことのある地なので、非常に感慨深かった。

さて、『市川文書(市河文書)』が伝えられたその市川氏は、信越国境の微妙な位置にありながら一時武田信玄の傘下におり、その際に信玄の花押入りの書状が山本「菅助」により市川藤若(市河藤若)という人物にもたらされたのだという。武田氏滅亡後、市川氏は上杉景勝の傘下に入り、景勝の会津、米沢の移封に従って江戸時代を生き抜き、明治の世を迎え屯田兵として北海道に渡ったらしい。その子孫の方が大河ドラマ『天と地と』の放映を見て、信玄の花押入りの文書が映されたのをみて、家に伝わった古文書を確認したところ、自分の祖先が信玄から貰ったらしい書状を見つけ、鑑定してもらったところどうやら真筆らしいということになったのが、発見の経緯だという。その中に山本「菅助」なる人物の名前がはっきり書かれていたことで、歴史家や愛好者の間で話題を呼んで今日に至っている。(よくもそれほど古い古文書を信濃から会津、米沢を経て北海道まで大切に持っていかれたものだと思う!)

現在伝令将校(豪族への使者)が信玄側近のしるしという解釈が一般的なようで、それによって山本「菅助」が信玄側近とされてはいるようだが、その他の同様の有力豪族への使者が持っていった事例の文書には、著名な武将の名前が書かれているものが現存しているのだろうか?そうなれば、それは山本「菅助」が信玄側近だったという有力な補強証拠になるだろうとは思うのだが、そのような文書の存在はあまり喧伝されていないように思う。そこが少々疑問点だと思っている。

p.s. これに関連してwikipedia の「栄村」の記事を少々追加編集した。全国の無数の城跡をホームページで紹介されている方のページにはしっかりと、栄村内の市川氏の城郭が二箇所も紹介されており、リンクできるようにした。日本でも有数の豪雪地帯ではあるが、その雪と千曲川の恵みで、古来より相当米作が盛んだったようで、その経済力と千曲川の水運が、恐らく市川氏の基盤だったのではないかと想像したりしている。

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