« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »

2007年9月の31件の記事

2007年9月26日 (水)

遠藤周作『侍』

遠藤周作の『侍』は、大学に入った頃に出版されたもので、講堂や文系学部があった青葉城の二の丸跡の片隅に支倉常長の銅像が建てられていたり、そこから広瀬川方面に下っていったところにある県立博物館に支倉常長の展示があったりしたこともあって、ずーっと読みたいと思いながら、20年以上たってようやく読むことを得た。(支倉焼きという和風の洋菓子は食べたことがあった。)

最近この作品を改めて読もうと思ったのは、隆慶一郎の『捨て童子・松平忠輝』や『影武者・徳川家康』に家康と伊達政宗によるノベスパニア(新スペイン、メキシコのこと)との国交・通商使節として支倉がソテーロ神父を通訳として遣わされたことが、時代小説として面白く描かれていたからだ。

この『侍』は、隆慶一郎の陽性な海外渡航計画(これは最後まで描かれることはなく、家康による禁教令も描かれずに終わっている)とは異なっている。

遠藤周作は、ユーモラスな狐狸庵先生ものにはまったく縁がなく、『海と毒薬』『沈黙』『イエスの生涯』『キリストの誕生』『マリー・アントワネット』『女の一生』などのシリアスな小説をにこれまで読んできた。学生時代に読んだ『イエス』と『キリスト』は、日本人カトリック教徒の手による独特なイエス解釈だという評を当時の恩師に聞いたこともあったが、それでもその弱き惨めな日本的とも言われる遠藤のイエス像は、共感の持てるものだった。

支倉常長は著名な人物ながら、キリスト教の禁教令により常長の子孫が迫害されたこともあり、その生涯の史料の多くが失われたために、その実像については、名前ほどには史料が残されておらず、遠藤周作の小説家としての想像力が多いに働いた作品ではあるようだが、新潮文庫の米国人の教授の解説にあるように、相当の蓋然性を持った創造であるようだ。

この『侍』では、主人公「長谷倉六右衛門」は、殿の下命に基づく評定所の決定により、ノヴェスパニアとの交易を命ぜられ、日本人が塩竈で建造したガレオン船で太平洋を横断、そしてメキシコを横断し、ついには大西洋までも横断して、スペイン、ローマへと旅をし、方便的な洗礼を受けるが、失意のうちに帰国し、最後には切支丹として処刑されるという理不尽ともいうべき仕打ちを受ける。ここで作者は、日本社会の持つ独特の集団性、個人の集団への埋没、祖先崇拝による他宗教の変質を、『沈黙』と同様に印象深く描ききっている。

天正少年遣欧使節についても触れられているが、安土桃山時代から江戸時代初期というその後の日本の性格を規定した鎖国・切支丹禁教について教えられることが多い小説だった。娯楽性の高い小説もいいが、たまにはこのような本格小説もいいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年9月25日 (火)

電車とバスの博物館(川崎市 宮崎台)

東急電鉄と東急バスが、東急田園都市線宮崎台駅の高架下とその周辺に設置した博物館。公式サイトはこれ

朝日新聞土曜日beのアンケートにも出ていたが、土曜日から月曜日の三連休は結構不評らしい。私も成人の日、体育の日がずれるのはどうも感覚的にそぐわないし、飛び石連休の方がいい場合もある。先週は一日少し遠出したが、今週は天気もはっきりせず、家族の意見もまとまらなかったので、家でダラダラして過ごしたが、どうもすっきりしないので、月曜日に少しクルマを走らせてでかけてきた。

とにかく入場料が安い。大人100円、こども50円で、当日の入・出場が自由。かつての「交通博物館」や横浜市の「市電保存館」に比べると手狭だが、身近な東急電鉄の古い車両も見られることもあり、少し鉄道マニア(鉄ちゃん)的になっている子どもたちには結構面白かったようだ。

私は、別館でYS-11のコックピットに座り4分間ほどのシミュレーション飛行をやってみたが、スロットルや、操縦桿、計器類など面白いものだった。無事離着陸できたが、アシスタントの係りの人がほぼ操縦をやってくれるので、こちらはただ手を添える程度で済んでしまったのは、少々物足りない感じではあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月20日 (木)

スイトナー/SKD モーツァルト後期交響曲集

Suitnermozart オットマール・スイトナー(スウィトナー)指揮 シュターツカペレ・ドレスデン

 モーツァルト 交響曲第33、34、39、40、41番 (徳間音工、ドイツ・シャルプラッテン)2枚組み 〔1974年-1975年、ドレスデン・ルカ教会〕定価2,000円(ブックオフ定価 500円) 


まったくの想像だが、スイトナーのドレスデンのボックス(10枚組み)を入手した人が、上記曲目が全て含まれている上に35,36,38番なども収録されているようなので、手放したものと思われる。

オケの響きは相変わらず美しい。特に、第40番の第2、3楽章では弦の静謐で透明な音楽にうっとりとしてしまった。

聴きなれた後期の三曲の交響曲をスイトナーの指揮で聴くと、これまでのスイトナーの印象とは少し違い、結構直線的で武骨な面も聞こえた。それを強く感じたのは、第41番のフィナーレ。非常に勢いがあり、ためを作ることもなくインテンポでグングン前に進む。有名なフガートもバリバリとした音楽になっている。

また、第40番の第1楽章もセルの特に東京ライヴのような柔軟さはあまりなく、生真面目できっちりとした楷書風の演奏だった。

聞きなれない曲の33番、34番も結構楽しめた。

スイトナーの音盤は、先に記事にした同じSKDとの『魔笛』のほかに、ベートーヴェンの『第9』がある程度。

しかし、N響の指揮者としてしばしば来日したおりには、FM放送などでよく聴けたものだった。

私が唯一N響の定期演奏会を聴いたのは、スイトナー指揮によるブルックナーの交響曲第8番の演奏だった。(多分このページに書かれている1986年の演奏会だったと思う12/17か12/18かはメモの記録がどこかに行ってしまい分からない。)

この生演奏が、それまで茫漠としていたブルックナーが急に面白くなったきっかけだった。教育出張かなにかの折、比較的早く宿に戻れた日に、新聞に出ていた演奏会案内を見つけ、当日券を電話予約で取った。初めて入ったNHKホールの舞台に向かって右側の最前列に近い席で音響バランスはあまりよくなかったが、身じろぎもせずに聞き入ってしまったのを思い出す。オーストリア出身でクレメンス・クラウスの薫陶を受け、主に東側で活躍した指揮者で、ブルックナー指揮者としてはそれほど名高いわけではないと思うが、ブルックナー初心者にも分かりやすい音楽で、雄大な音楽に包まれる感じを味わった。

スイトナーは、しかし、東独が消滅するのとほぼ時を同じくして、事実上の引退状態になって今に至っているようだ。

ヘルベルト・ケーゲルのようにピストル自殺を遂げた指揮者もいるし、クルト・マズアのように民主化・自由化の旗手として活躍した人物もいる。またザンデルリングのように、ソ連から戻り、東独で活躍し、西側でも最後の巨匠として名を成した人もおり、まだ自由化前の東独から亡命?して、西側のオケで活躍したテンシュテットのような人もいる。東西冷戦は、音楽界に東西の競争心を掻き立てる一方大きな爪あとも残した。スポーツ界では、ちょうど東ドイツを初めとする東側のステート・アマチュアが特にオリンピック競技で世界を席巻した時代があったが、音楽でも国家主導の下、西側への優位を使命として与えられて活動させられた人々が多かったのではないかと思う。それが、突然の壁の撤去により、精神の均衡が崩れる人がいたのも無理からぬことだった。

イデオロギー対立が世界規模では終結したと思えば、民族対立、そして今は文明の衝突とも言われる事態になっている。

スイトナーの活躍を思うにつれ、東ドイツという今は消滅してしまった共産主義国家の体制化での音楽活動というものを改めて考えざるを得なくなってしまった。今や、東西冷戦、鉄のカーテンの向こう側の記憶が薄れ、たとえば、当時のムラヴィンスキーとレニングラード・フィルによる録音や、これら多くの東ドイツ、チェコ・スロヴァキア、ポーランドなど東側諸国の音楽家の当時の状況を忘れての単純な演奏比較は、時代精神でもある演奏様式の違いの意識とともに、避けなければいけないことではあるのではあるまいか?

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2007年9月19日 (水)

エフゲニー・キーシン ピアノリサイタル  2001年4月29日(日) みなとみらい大ホール

2001年に行ったリサイタルの感想文を若干編集して再度コピペ。

ピアノ版の『展覧会の絵』(リヒテルのソフィア・ライヴ)について書いていて、そういえば生演奏でこの曲を聴いたと思い出したので、検索が容易なように改めてアップする次第。

------------------------------

みなとみらい大ホール 2001年4月29日(日)19:00開演

◎ピアノソナタ第1番(シューマン)
◎トッカータアダージョとフーガハ長調BWV564(バッハ/ブゾーニ)
◎展覧会の絵(ムソルグスキー)

相当以前のことだが、キーシン12歳の時のショパンのピアノ協奏曲第1番モスクワライヴのカセットテープを妻が友人から借りてきたので聞いたが、非の打ち所がない完璧な演奏に驚かされたものだった。

その後、キーシンファンになった妻が、小澤・ボストンとのラフマニノフの3番のCDを買ってきたのを聞いたのだが、あまり感心しなかった。だが、フィルアップされたカーネギーホールリサイタルライブからのラフマニノフやリストが素晴らしい演奏だった。コンチェルトの方の録音の音量設定レヴェルが低すぎるので、折角の演奏が十分味わえないのかも知れないと思う。

さて、リサイタルだが、子どもがまだ就学前なので、横浜に越してきてからは、コンサートには出かけられなかったが、みなとみらいの公演は託児室があり、妻と二人で聴くことができた。

もともと私自身はそれほど関心がなかったピアニストで、妻がリサイタル券を予約したので、少々気が重いと思いながらでかけた。それでも、元を取るために、それまで最後まで聴きとおせなかった難曲シューマンのピアノ・ソナタ第1番を手持ちのCD(アシュケナージ)で何度も聞いたり、ブゾーニ編曲のバッハは入手できなかったので、原曲のオルガン版(ビッグズ)を購入して聞いたりしてしっかり予習していった。

感想を一言で言うと、技巧も表現力も音楽性も安定性も一級品だった。特に凄まじいばかりのフォルティッシモでも音が割れず、複雑なパッセージでも音が濁らず、ピアニシモもよく通り、レガートも滑らかだった。メインプログラムの『展覧会の絵』では、よりレッジェーロでノンレガート的な軽やかさを求めたくなる部分もあったが、それは欲張りというものだったか?

アンコールを計8曲(5曲ほどで子どもを迎えに行ってしまったので)やったサービス精神も立派なエンターティナーである。いわゆる妙技も披露してくれた。

----------------------------------

6年も前のリサイタルなので、正確には覚えていないが、ホロヴィッツやリヒテルのライヴ録音に比べても、まったく技術的には遜色のない演奏だったと記憶している。しかし、彼等に共通する鬼気迫るような集中力や高揚感のような、少々羽目を外したとも言える感情的な解放はあまり感じられなかった。キーシンの演奏には、いい意味でのそのような人間的な部分が不足しているのかも知れない。ただ、そのメインプログラムに比べて、アンコールでの気分転換のようなサービス精神は、ピアノを弾くこと、聞いてもらうことが楽しくてたまらないという風情が感じられ、そのギャップに戸惑った。

このときに、リサイタルの感想でも書いたキーシン12歳のときのショパンの1,2番のCDを私が購入し、シューマンの幻想曲とリストの超絶技巧抜粋のCDを妻が購入して今も手元にある。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年9月18日 (火)

ホロヴィッツの『クライスレリアーナ』

Schumann_horowitz_kreisleriana

ロベルト・シューマン(1810-1856)

クライスレリアーナ 作品16

ウラジーミル・ホロヴィッツ(ピアノ)

〔1969年12月1日、ニューヨーク市30番街スタジオ〕


究極の『クライスレリアーナ』という評判のあるホロヴィッツのCDを入手して聞いてみた。

これまで、ホロヴィッツのピアノはもちろん録音でしか聴いたことがなく、アメリカのホワイトハウス(?)での演奏会の映像をかつてテレビで見た覚えがあり、あの「ひび割れた骨董」のときとその後の来日のときのどちらかはFM生中継で聴いた(ベートーヴェンの後期のソナタOp.110?が印象に残っている)。しかし、多くのピアノ音楽愛好者やプロのピアニストがホロヴィッツの演奏を絶賛するのは知っていながら、自分としてはあまり感激したり感心したりしたことはなかった。

古くは、トスカニーニとのブラームスの2番の協奏曲や、チャイコフスキーの1番は、トスカニーニの短いフレージングのブツギレの音楽とホロヴィッツのバリバリとやかましい音色でむしろ敬遠したい方のものだった。

ホロヴィッツが原曲の譜面に手を入れたと言われる『展覧会の絵』も豪快かも知れないが、他の『展覧会の絵』の演奏に比べて音楽的な内容が乏しく伝わってくるものがないように感じる。また名盤と言われるスカルラッティのソナタ集も、美しい音色や繊細な表現は見られるものの、突き放したような表現、音楽への愛おしさを感じさせない表現が、どうも耳につく。ベートーヴェンの三大ソナタも、ショパンの2番のソナタを含む名曲集も、ホロヴィッツの凄さというのはこのようなものなのだろうかという否定的な感想の方が多かった。またスクリャービンやラフマニノフはあまり親しめないでいる。比較的気に入ったのは、以前にも記事にした同じシューマンの『子どもの情景』のモノーラル録音の入った古いRCA録音のもので、中ではドビュッシーやフォーレが面白かった。

このシューマンも評判の高さは聞いていたものの、また裏切られるかも知れないと敬遠して、入手をためらっていたものだった。

しかし、その不安感はいい意味で裏切られた。

まず、このCDは、全体的に音色に嫌味がないように聞こえる。1曲目の『トッカータ』作品7にしても、2曲目の『子どもの情景』作品15にしても突き放した仕事ではなく、念入りに演奏しているようだ。第6曲の『大事件』のピアノの響かせ方は好きではないが、次の『トロイメライ』の繊細な音色と演奏は他に得がたいほどのものだ。

さて、メインの『クライスレリアーナ』作品16だが、第1曲目から、これまでに聴いたどの録音よりも高い精度で楽譜がリアライズされているように聞こえる。(私自身が楽譜を見ながらでも強弱の表現がどのようになっているかの把握は苦手だからホロヴィッツのデュナミークが正確かどうかはよく分からないし、アウフタクトの速いアルペジオ的なパッセージとシンコペーションによるリズムの崩しは目でもあまり追いきれていないのだから偉そうなことはいえないが)。

また第2曲でも第1中間部の入り組んだ譜面が解きほぐされているかのように聞こえる。(なお、第2中間部のリピートはしていない。) 

第3曲での、主部の最後の和音の力強い音色にはしびれるし、中間部の曖昧模糊とした音楽も朧な雰囲気を出しながら、精緻に弾かれている。そしてコーダの強烈な打鍵は肺腑をえぐる。

第4曲の前半のモノローグも、中間部の下降アルペジオ(『詩人の恋』の『まばゆく明るい夏の日に』を思わせる)も自家薬籠中の表現という趣。

第5曲、付点リズムのスケルツォ、劇的な中間部、そしてスケルツォとめまぐるしく表情が変わるが、それぞれ的確で素晴らしい。

第6曲の右手と左手の対話のようなゆっくりした音楽も両手の表情が雄弁だ。

第7曲は、ホロヴィッツの指捌きの見事さが特に味わえる。弾きにくそうなパッセージもあいまいさを残さずに音にしている。

第8曲は、ホロヴィッツはこの特徴的な執拗なリズムをゆったりと始める。中間部も執拗なリズムが豪快に繰り返されるが、また第1部の静かなリズムにもどり消え入るように終わる。

失礼な表現ながら、あまり知的なイメージのなかったホロヴィッツだが、楽譜を見ながら聴くと、この『クライスレリアーナ』は、相当緻密に楽譜を読み込んでいるのではないかと思われた。

いかにも盛期ロマン派のピアノ小曲を束ねた全体としては30分近い曲だが、ホロヴィッツの演奏で聞くと統一感というよりも一曲一曲の個性が描き分けられて聞こえる。また、アルゲリッチのような没入型と違い、客観性も保たれており、激情的な表現も聞こえるが、鋭利なテクニックのためか、混沌のようには響かず、風通しのよい音楽に聞こえるのも意外だった。

一般の評価とは違うかも知れないが、ホロヴィッツのシューマンは知的だった。

なお、このCDには、『アラベスク』作品18、『花の曲』作品19も収録されている。

*『クライスレリアーナ』の記事とタイミング

ホロヴィッツ    (1)2:34 (2)7:01 (3)3:35 (4)3:19 (5)3:20 (6)3:55 (7)2:14 (8)3:38
ブレンデル         (1)2:44 (2)8:06 (3)4:39 (4)3:58 (5)2:57 (6)4:16 (7)2:07 (8)3:21
アルゲリッチ       (1)2:35 (2)9:40 (3)4:32 (4)3:54 (5)3:08 (6)4:11 (7)2:06 (8)3:27
ルービンシュタイン(1)2:56 (2)8:53 (3)4:41 (4)3:12 (5)3:19 (6)3:37 (7)2:19 (8)3:57
ケンプ               (1)2:45 (2)7:40 (3)3:46 (4)3:45 (5)3:29 (6)4:15 (7)2:25 (8)3:40

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月17日 (月)

ガヴリーロフのバラキレフ『イスラメイ』

Gavrilovtchaikovskynr1lisztbarakire

 ミリイ・アレクセエヴィチ・バラキレフ(1837-1910)

『イスラメイ』(東洋風幻想曲) (7:53)

アンドレイ・ガヴリーロフ(ピアノ)

〔1977年7月13、15日、ロンドン、アビーロード・スタジオ〕

(併録 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 ムーティ指揮フィルハーモニア管<1979>, リスト『ラ・カンパネラ』<1977>)

今年の冬ブックオフの250円-500円の棚で見つけた東芝EMI 新・名曲の世界67というシリーズもの。以前から聞きたかった『イスラメイ』が聴けるので購入した。

これまで一回通しで聴いただけだったが、子どもがリストの『愛の夢第3番』を聴きたいというので、取り出したCD(フジ子ヘミング、シフラ)に『ラ・カンパネラ』が収録されており、この曲の聞き比べを一緒にしたのだが、そのとき一緒に『イスラメイ』をステレオセットで聴いた。

小型のインナーイヤーステレオイアフォンで聴くのとは違い、スケール感が感じられ面白かったし、密室的ではないためか、ガヴリーロフの豪快で緻密な演奏を楽しめた。

『イスラメイ』は、ピアノ曲史上最も演奏困難な難曲として知られていることは以前から知っていたのだが、このCDで聴くまでは聴いたこともなかった。恐らく、バラキレフの曲を聴いたのも初めてだと思う(FM放送の流し聴きは除いてだが)。

以前、インターネットホームページでピアノの難曲を特集したページがあったが、そのようなマニアックでディープな世界もあるのかと思った程度であまり関心がなかったし、その方面でアムランなどの超絶技巧のピアニストやゴドフスキーというピアニストが編曲したショパンの練習曲集などについても一時は噂を耳にしたものだが、ブームの元になったそのサイトも更新を停止しているようだ。

ただ、この『イスラメイ』は、ラヴェルが『夜のガスパール』を作曲するにあたって影響を受けたというような話を聞いていたこともあり、興味があった。

今はIMSLPがあるのでこのような少し知られた曲ならすぐに楽譜を確認することもできるが、聴いてみただけでもとにかく同音連打が激しく使われたりする曲のようだ。ピアニストはものすごく疲れるだろうと思う。

ただ、この曲はそのようなヴィルトゥオジティを要求するだけでなく、音楽の素材の面でも魅力的であり、それが単なる超絶技巧曲とは一線を画すのではないかと思える。

ロシアの五人組のリーダーであるバラキレフだが、この曲で用いた音楽素材は、ロシアの辺境である黒海地方やタタール人に起源を持つものらしい。五人組のリーダーがそのようなところにロシアらしさを求めたためだろうか、wikipediaによれば、リムスキー=コルサコフも、ボロディンもこの曲に敬意を表して、それぞれの有名な自作『シェエラザード』や『イーゴリ公』に引用をしているらしい。ロシアらしさとは何かという回答の一つがこの曲にあるのではなかろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

理論物理学の5次元理論

BS特集「リサ・ランドール 異次元への招待」 http://www.nhk.or.jp/bs/teigen/

敬老の日の休日で、昼過ぎに偶々テレビを付けたら面白そうな番組をやっていて見入ってしまった。

アインシュタインが解決できなかった、重力、電磁気力、「強い力」(強い相互作用)、「弱い力」(弱い相互作用)の4つの力のうち、重力だけが極端に弱いことの説明を可能にする理論(統一場理論)として、ハーバード大学教授のリサ・ランドール女史が、5次元の宇宙(縦、横、高さ、時間、5次元目の要素)を理論的に提唱しており、それが実験によって確認される可能性があるという。

3次元の世界は、5次元の世界(?)に囲まれるように存在しているというのだが、その考え方自体は難解で、素人に容易に理解できるようなものではない。これを数式だけで(鉛筆と紙だけで)考え付くというのだから、理論物理学者という人たちは凄いものである。

面白かったのは、このリサ・ランドール(Lisa Randall)という全米数学コンクールで一位になったこともある理論物理学者が、数学、特に幾何学に興味を持つきっかけになったのは、幼いころ母親に買ってもらった『不思議の国のアリス』だったというところだ。数学者でもあった筆名ルイス・キャロルの本だったということもあるだろうが、ナンセンスなファンタジーも子どもを思わぬ方向に導くことがあるものだ。

現在、リサ・ランドールは、ノーベル賞にもっとも近いと注目されているのだという。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

江ノ島展望台見物と円覚寺拝観

猛烈な残暑の好天。朝鮮半島付近を移動する台風11号へ吹き込むせいか、生暖かく湿気を多く含む南風が強い一日だった。

三連休なので、行楽に行こうということで、久しぶりに湘南と鎌倉を訪ねた。

子ども達は、東海道線と江ノ電に乗るのが楽しみ。横浜から藤沢まで東海道線で行き、藤沢から江ノ電で江ノ島。江ノ島でこれまで登ったことのない展望灯台に行き、その後鎌倉まで江ノ電に乗り、北鎌倉で古寺を楽しもうということになった。最寄駅で鎌倉江ノ島フリー切符を購入。これで藤沢から大船の間、JR,江ノ電、湘南モノレールを一日乗り降り自由となる。

東海道は新型車両で、先頭車両の運転席を見ながら。最近『電車でGO』というゲームをやっているので、運転手さんの操縦に興味がある子ども達は新型車両の立派で広い運転席に感激していた。

江ノ電は古い車両から新型車両まで多くのバリエーションの編成が走っており、電車好きとしては面白いらしい。

P9160022 江ノ島へ向かう道筋に新しく開店した風流亭という店で、お昼。最近は、湘南の海で水揚げされる生シラス、釜揚げシラスが名物としてテレビでも何度も取り上げられ、この店でも食べることができた。ちょこ網という地魚料理が多く、地魚の天丼もおいしかった。少々贅沢なお昼だったが、満足。すいとんもおいしかった。


好天の連休の中日だけあり、江ノ島は観光客で込み合っていた。熱風が吹き、日差しも9月中旬などというものではなく、少しクラクラするほどだったので、展望台までは楽をして、有料エスカレーターのエスカーに乗ってしまった。大人350円、小人170円(下りは徒歩しかない。)展望台は、庭園への入場料が200円、展望台利用料が350円。別料金かと思ってエスカー乗り場で割引券を買わなかったので、少し損をしてしまった。


P9160034 少し雲があったので富士山は見えなかったし南の方向には伊豆大島も見えるのだそうだが、これも霞んで見えなかったけれど、残暑の強い日差しに照らされ湘南の海が輝き、荘厳な趣があった。海に突き出た島の上、本来は灯台でもあるこの展望台から見ると、水平線が円形に広がっているのが実感できる。


眺めを堪能した後、観光客で込み合う江ノ電で鎌倉駅へ。ここで下車せず、横須賀線に乗り継ぎ、隣の北鎌倉駅で降り、古寺探訪。

P9160049 こちらに転勤になってから鎌倉には何度も訪れたが、北鎌倉で降りたのは初めてだった。すでに3時を過ぎていたので、日差しも弱まってきたのだが、空は晴れ渡り、風もまだ温度を下げ切ってはいない。まずは最寄の円覚寺に。さすがに鎌倉五山でも有数の規模を誇る寺院だけあり、広大な寺域だ。臨済宗の総本山ということで、禅宗らしい装飾を退けた清雅な雰囲気がある。寺域に入っただけで空気が違うように感じた。約1時間ほどかけてぐるっと拝観したが、中学・高校の歴史教科書にも掲載される円覚寺の舎利殿は、11月の3日から5日と、正月に公開されるだけとのことで、外観も拝することもできなかった(なお、この舎利殿の一部の実物大模型が、馬車道の県立歴史博物館で見ることはできる。写真は、山門)。

次男は暑さ疲れとお土産の件で少し機嫌が悪く、最寄の円覚寺を拝観しただけになってしまった。建長寺はまた次の機会になる。

なお、帰宅後、ダルそうなので熱を測ったら37度ちょっとあった。私も少し熱っぽく、夏風邪を少しひいたらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月15日 (土)

明治時代の教科書に現れたオオカミ

P8120060  この夏休みに松本城と旧開智学校を見学してきたが、開智学校の展示物の中に興味深いものを見つけた。

(左は、開智学校の正面玄関。天使と雲、龍の組み合わせが面白い。)


P8120067_22階の資料展示室に展示されていたものの中に明治時代の動物図録と教科書があり、そこに、ヤマイヌ、オオカミが掲載されていたのだ。左は「獣類一覧」という掲示用の図録に掲載されているヤマイヌの図。「ヤマイヌ 豺 深山ニ棲ム猛獣ニシテ他獣ヲ残(?)食ス 飢ニ迫レバ人ヲモ害ス」とある。ニホンオオカミの研究での躓きの石となっている「ヤマイヌ」の記述がここにもある。


P8120069

こちらは、教科書(副読本?)。

肉食獣類。狼。おほかみ。

(1)種類1 狼  2 豺 ヤマイヌ とあるのが上記の関連で興味深い。

(2)部分  頭 長シ  ○口 長ク且大ニシテ耳下ニ至ル 耳ハ小ナリ ○体 犬ニ似テ大ナリ ○脚 蹼(みずかき)アリテ能ク水ヲ渉ル ○毛 灰色ニシテ白色雑ル ○歯 甚ダ鋭利ナリ

(3) 常習 性猛悍兇暴ニシテ餓ユルトキは人ニ迫ル 深山ニ棲息シ他獣ヲ害シ (以下略)

ニホンオオカミの絶滅は、通説では明治38年(1905年)とされており、明治初年にはまだ全国各地にはオオカミは棲息していたものと考えられる。実際に長野の深山に棲息していたかは不詳だが、教科書としては上記のように児童に教えられていたようだ。この開智学校の洋風校舎は、明治9年に竣工したという(ちなみに中込学校は、明治8年に竣工)。教科書、図録自体がいつのものかは記されていたと思うのだが、写真としては撮影してこなかったが、明治期のものであったことは確実だ。

参考:オオカミに関する記事

*関連記事1
*関連記事2
*関連記事3
*関連記事4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月14日 (金)

川崎市立日本民家園

川崎市立 日本民家園の記事は、故郷関係の別ブログでも書いたが、なかなか面白い屋外展示だった。既に40年ほど前に、日本の民家研究を専攻する学者が川崎市に残されていた古民家を保存展示したことがきっかけで生まれたもののようだ。

先に書いたラーメンを食べに出かけたついでに、クルマのナビに従って川崎市の岡本太郎美術館を目指して行ったのだが、美術館の入り口の手前にこの広大な園があり面白そうだからと入ったこの展示園をすっかり楽しんでしまった。

子どもたちにとってはまったく過去の歴史に属することであり、私や妻にとっても自分たちの父母の実家がかつてこのような茅葺屋根の民家だったことがあり、泊りがけで遊びに行って数日泊まったことはあってもそこで本格的に生活したことはなかったのだが、それでも、非常に懐かしさを感じた。

懐かしさのよって来たるところは、大人にとっては幼児体験ではあるのだが、子どもにとっては少々異世界に属するものだったかも知れない。それでも、古くは縄文時代の堅穴式の住居からこの江戸時代、明治、大正、昭和まで、農山村・漁村の庶民の暮らしは(狩猟採集移動生活から定住農業への大転換はあったにしろ)、生活レベルでは、いわゆる人間の生物サイズ(『ゾウの時間 ネズミの時間』)に見合った生活という点で、大差はなかったのではなかろうか?数千年間遺伝された我々のゲノムの中にも、自然環境の範囲でそれに見合った生活の記憶がしまいこまれているとすると、それがこのような伝統的な民家への懐かしさを思い起こさせるのかも知れないなどとも思う。

囲炉裏の火で真っ黒にすすけた室内の柱、土間の固い土と石の感触、少し土臭く、かび臭いような茅葺の独特の香り、屋外は残暑で30度を越える暑さなのに、室内は薄暗くひんやりしている。屋外の板張りの狭い農具置き場の内部が日に照らされて暑くて居られないのとは対照的だった。

ほとんどの民家が、江戸時代頃に竣工したもの。村内では比較的地位や財産のあった名主クラスの民家のようだ。

周囲は、生田緑地という、多摩南部の古くからの森林が保存された自然公園なので、木々は相当深い。当然のごとく、蚊もいる。その他の昆虫の姿も見かける。蝿の姿は見かけなかったが、当時は牛や馬を牛舎や屋内の厩で飼っていたし、便所は肥えとして使うために当然汲み取り式で、多くは屋外にある。春から秋にかけては、多数の虫の襲来に耐えねばならなかったものだろう。マラリアが日本にあったかは調べていないが、和辻哲郎の『風土』か『ヨーロッパ古寺巡礼』かに、古くからのイタリアの町が低湿地を避けて高台に建設されているのは、蚊の害を防ぐためだと書かれていたのを覚えている。日本のかつての暮らしも、もちろん生活のための水利、防災、耕作地とそれら害虫との関係によって、集落の位置が自然に決まっていったのだろうと思う。

古民家を訪ねて、懐かしさ郷愁を感じるが、その反面にあった様々なマイナス面を克服してきたのが、近現代史であったことも忘れてはならないだろうとは思う。自然礼賛は心地よいことではあるが、山野でのキャンプで不便さを感じるように、人類史の長い期間、人類は絶えず飢えと戦い続け、人生そのものが現代人のような労働と余暇の混合ではなく、生活することがそのまま人生だった時代が長かったということだろう。

現代では、過疎自治体に残された古民家を再生させて住み付く人もいるようだが、端でみるほど容易な暮らしではないと思う。しかし、現代の生活が忘れてしまった何かを取り戻すよすがになることかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ムソルグスキー 『展覧会の絵』(リヒテルのソフィア・ライヴ)

Mussorgsky_gulini_richter

モデスト・ムソルグスキー(1839-1881)

組曲『展覧会の絵』(原曲のピアノ版)

スヴャトラフ・リヒテル(ピアノ)

〔1958年2月、ソフィア、ブルガリア、ライヴ録音〕


昨年の秋、手持ちの『展覧会の絵』の聞き比べの記事を投稿したが、その後、リヒテルの『展覧会の絵』を聴きたくて、このCDを購入した。

                  
ホロヴィッツ         リヒテル
1.Promenade 1:22        1:25
2.Gnomus 2:20                2:27
3.Promenade 0:49           0:45
4.Il vecchio castello 3:49  4:50(4+5)
5.Promenade  0:28         
6.Tuileries  1:06             0:57
7.Bydlo 2:36                  2:15
8.Promenade 0:36          0:33
9. Ballet des poussins dans leur coques 1:17  1:09
10.Samuel Golednberg und Schumuyle  2:18  1:42
11.Limoges- Le marche 1:17                       1:17                     
12.Catacombae(Sepulchrum romanum) 1:17   3:52(12+13)
13.Con mortuis in lingua mortua 2:21
14.La cabane sur des pattes de poule 3:30    2:51
15.La grande porte de Kiev 4:28                  4:57

Wikipediaによると1958年といえば、西側デビューが1960年というので、まだソ連の鉄のカーテンに閉ざされた状態だったはずだが、このライヴ録音は西側でも発売されたのだという。よくもこのような状態の録音が残されたものだと思う。マルPマークによれば、初発売は、フォノグラム・フランスにより1959年だった。

リヒテルのソフィア・ライヴは、録音年代は比較的古く残念ながらモノ録音になっている。冒頭のプロムナードの最初の方で確かにミスタッチがありリヒテルの動揺が聞き取れるが、それほど気になるほどのものではない。音質も、ホロヴィッツのヒストリー録音に比べると格段に聞きやすい。

ただ、この評価の高いライヴ録音を聴いてもそれほど面白さを感じないのは、自分のこの曲への熱中度が相当低くなったためだろうか。高校時代には、オーマンディとフィラデルフィア管の演奏をよく聞き、どの曲も耳なじみではあるのだが。

中では、最初からフォルテでピアノが壊れるのではと思うほどガンガン鳴らす『ビドロ』は、荒っぽいが燃焼度が高い演奏だと思う。この曲あたりから、リヒテルも興に乗ってきたように聞こえる。

ライヴということもあり、全体に洗練された演奏ではなく、ロシア的な豪快さと神経質さが綯い交ぜになったものだが、ピアノ表現の幅広さを象徴するような演奏でもある。バーバ・ヤーガは猛烈な演奏。キエフの大門は、とろどころ苦しいが、ヴィルトゥオーゾの面目躍如だ。最後にはピアノの調律がずれたようにも聞こえるほど。

なお、このパノラマシリーズには、ジュリーニ/CSOのラヴェル版の『展覧会の絵』、若きマゼールとBPO(1959年)による『はげ山の一夜』、ヤルヴィ指揮ファスベンダー(Ms)による歌曲集『死の歌と踊り』、、プレトニョフによる『ホヴァンシチナ』前奏曲(モスクワ河の夜明け)、アバド/ヴィーン国立歌劇場による『ペルシャの女奴隷たちの踊り』、ヴィシネフスカヤ(S)とマルケヴィチによる『6つの歌曲』、カラヤン/VPO、ギャウロフ等による『ボリス・ゴドゥノフ』の抜粋が収められている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

かぐや姫月へ旅立つ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070914-00000038-mai-soci

<H2Aロケット>「かぐや」搭載し打ち上げ成功 種子島 9月14日11時37分配信

とうとう「かぐや」が月へ旅立った。先日日経BPのメール配信で、日本の月探査機打ち上げ迫る、独走の目論見崩れる (2007/09/07) という記事を読んでいたので、少し水を注された感じだったが、とにかく打ち上げは成功した。おめでとう。

あとはうまく月を周回する軌道に乗って、鮮明な映像を見せてもらいたいものだ。

なお、今夕放送のテレビアニメ『ドラえもん』は、ちょうど「かぐや姫」を題材にしたものをやっていた。偶然だろうか?

それにも刺激されて、DVDでキューブリックの『2001年宇宙の旅』の最初の20分ほどを家族で鑑賞したが、長男は結構面白いといい、次男はわけが分からないと不評だった。リゲティで始まり、R.シュトラウスでの月から眺めた地球からの日の出の映像は相変わらず見事だった。J.シュトラウス2世の音楽に乗っての宇宙ステーションへの旅も、素晴らしかった。1968年ごろには、2001年にはこのような宇宙への旅が実現すると考えられていたのだろうかと子ども達から少しクレーム(?)が出た。

H2A(HⅡA)に関する自己記事
かぐや姫に関する自己記事

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月13日 (木)

グリーグ ホルベルク組曲(ホルベアの時代から) カラヤン/BPO

Grieg エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)

ホルベルク組曲(ホルベアの時代から)作品40
(古いスタイルによる弦楽オーケストラのための組曲)
 
    前奏曲 2:54/サラバンド 4:14/ガヴォットとミュゼット 3:48/アリア 5:47/リゴードン 3:57

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〔1981年3月録音〕


今日もしつこく、パノラマシリーズから。

この曲もBGMなどでたまに耳にするが、作曲者は誰だったかと思い迷うことのある曲。

それもそのはずで、グリーグがバロック時代の組曲のスタイルによって作曲した曲なので、もちろん古典派以降の和声音楽であり近代風ではあるが、予め聞き知っていなければ、誰の作品かを当てるのは結構難しいように思う。もっとも知ってから聴くと、そこここにグリーグ的な個性が聞き取れるのだが。

このホルベルク(ドイツ風の発音)のための組曲は、ノルウェー生まれのグリーグが、デンマークのホルベアというちょうどJ.S.バッハの同時代に活躍した文学者の記念祭用に作曲されたものだという。ヴァイキングやノルマン・コンケストやデーン人の侵略ではないが、北方ゲルマン系であるノルウェー、スウェーデン、デンマークなどは下記のような支配、被支配の関係があったりして相当文化的にも共通性があるようだ。

ホルベアとは「デンマーク文学の父」とも「北欧のモリエール」とも呼ばれる文学者ルズヴィ・ホルベア(Ludvig_Holberg、1684年 - 1754年)のことである。ホルベアはグリーグと同じノルウェーのベルゲンに生まれ、当時ノルウェーがデンマーク統治下にあったことから、デンマーク王フレゼリク5世の元、主にコペンハーゲンで活躍した。(WIKIPEDIA 「ホルベア」より)

グリーグに素朴さを求める向きには派手過ぎるということになるだろうが、この曲はBGM的に気軽に聴ける曲だが、さすがにカラヤン/BPOは、現代オーケストラの弦楽合奏のショーピースとしても通用するように、豪華にスタイリッシュに演奏している。

このCDには、同じカラヤン/BPOの『ペールギュント』第1、第2組曲に、『十字軍の兵士シグール』という珍しい曲。それから、コワセビッチとC.デイヴィス/BBC響によるピアノ協奏曲(これはフィリップス原盤、できれば持っていないツィメルマンとカラヤンの演奏が望ましかった)、ギレリスの抒情曲集からの抜粋、ネーメ・ヤルヴィ指揮のエーテボリ響によるノルウェー舞曲というものも入っていて、これ一枚でグリーグ入門としては十分な内容になっている。

追記:2007/09/16
  昨日9/15土曜日に、子ども達がチャイコフスキーの『スラブ行進曲』とグリーグの「行進曲とか変奏曲とかなんとか曲というの」というのを夏休みに少し長く滞在した祖父母の家のテレビ(カートゥーンネットワークというアニメ専門局が田舎のケーブルテレビで見ることができる)で聞いたので、CDで聞かせてというので、チャイコフスキーはすぐに「これだろう?」と聞かせることができたが、グリーグの方は名前があいまいなので、知られた曲ならと『ペールギュント』組曲の行進曲風を聞かせたがだめ。『抒情組曲』のオケ版(バルビローリとハレ管)での「農民行進曲」などもだめ。また、ノルウェー舞曲でもだめで、それではと聞かせたホルベルク組曲の『前奏曲』がドンピシャだったという偶然があった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月12日 (水)

ハイドンのチェロ協奏曲 第1番、第2番 フルニエ, バウムガルトナー/ルツェルン音楽祭弦楽合奏団

Haydn_cello_concertoヨーゼフ・ハイドン(1732-1809) 作品集 
これもパノラマシリーズ。

以下は、自分のホームページからの引用

ハイドン作品集 UCCG-3165/6 2枚組み (2,000円) パノラマシリーズ

◆交響曲第94番(1791年) 第100番(1794年) 第104番(1795年)   カラヤン指揮 ベルリンフィル 〔1982年1月、ベルリン〕

カラヤンの特徴がはっきりと表された演奏。ボリューム豊かで滑らかで少々鈍重な貴婦人と行った風情。同じ現代オケによる演奏でもデイヴィスのものとの差が歴然。

◆チェロ協奏曲第1番ハ長調(1765年頃,1961年発見、1962年蘇演)
                   第2番ニ長調(1783年、1950年代に自筆譜発見)   

フルニエ(チェロ) バウムガルトナー指揮ルツェルン音楽祭弦楽合奏団  〔第1番:1967年5月、第2番:1964年2月〕

フルニエのチェロが素晴らしい。バウムガルトナーとルツェルンは、LPで所有しているバッハのブランデンブルク協奏曲の指揮者・オーケストラだが、オーケストラはハイドンにしては、少々独特な抑揚があるように聞こえる。

◆アンダンテと変奏曲 ヘ短調 (1793年)  ブレンデル(p)
  〔1985年7月、ロンドン〕  

ソナタの一楽章らしい。ここに収録されなければ聞けないような珍しい曲。

◆トランペット協奏曲ホ長調 (1796年)  ハーセス(Tr) アバド/シカゴ交響楽団
   〔1984年2月〕

名手揃いのシカゴ交響楽団の中でも高名なトランペッター ハーセスの演奏。但し、アメリカのトランペットはもっと音の抜けがいいと想像していたが、違った。

現在パノラマシリーズは、1,500円だが、2000年頃は2,000円だった。これもデフレの一種だろうか?ケースのデザインも2000円時代の方が少しだけ凝っていたという違いはあるけれど。

ハイドンのチェロ協奏曲第2番は、古典派のチェロ協奏曲としてはもっとも著名なものだろう。同時代のボッケリーニが大量のチェロ協奏曲を残してはいるのだが。

『海辺のカフカ』では、わざわざフルニエのチェロと限定して、20世紀になって発見されたチェロ協奏曲第1番の方が小説中に引用されていたが、恐らくこの音源のことを指しているのだろう。

この作品集は、フルニエによる第1番と第2番が楽しめる点で価値があるものだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月11日 (火)

シベリウス カレリア組曲 カム/ヘルシンキ放送響

Sibelius

ヤン・シベリウス(1865-1957)

カレリア組曲作品11

 間奏曲 4:04, バラード 7:17, 行進曲風に 4:15

 オッコ・カム指揮ヘルシンキ放送交響楽団

〔1975年10月、ヘルシンキ〕

今日もパノラマシリーズから。 のだめでも使われて、曲名当てにはずれたのが、この「カレリア組曲」で、CDで聞きたいと思っていたところ、このパノラマシリーズに入っていた。落穂ひろいに成功した。

このシベリウスは、カラヤン/BPOのオンパレードで、悲しきワルツ、トゥオネラの白鳥、フェラスとのヴァイオリン協奏曲と交響曲第5番と『フィンランディア』が彼等の演奏。また、交響曲第2番は、オッコ・カム(カラヤン・コンクールの優勝者だったと思う)とBPOによるものだ。

カレリア組曲の健やかな行進曲は、いつ聴いても前向きな気分になる曲だ。ポピュラーな『フィンランディア』がロシアの圧政を示す強圧的なブラスが特徴的で、最後は勝利に終わるとは言え、気分の振幅が激しいのだが、民族色が濃いカレリア組曲は、クレルボ交響曲の民族性に通じる素朴さと強靭さがあるように感じる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月10日 (月)

池波正太郎 仕掛人・藤枝梅安シリーズを読了

池波正太郎の三大シリーズの最後に、『仕掛人・藤枝梅安』を読み始め、最近第7巻を読み終えた。第7巻の読み応えのある長編が絶筆だとは知らずに読み進め、途中で絶筆と印刷されたところでは、何とも言えない気持ちになった。

仕掛人は、池波正太郎の造語であり、そのシステムも彼の独創によるものだという。江戸時代を舞台にして、人間の様々なありようを書いた作家だが、鬼平犯科帳の長谷川平蔵、剣客商売の秋山小平、そしてこの仕掛人の藤枝梅安、それにそれに連なる多くの脇役、準主役たちの生き様、死に様は多様で、バルザックの小説による社会史『人間喜劇』の日本版という趣だった。善と悪とは紙一重、コインの裏表という作者の思想が、この梅安では生の形でむき出しになり、作者自身正義感、良心の縛りにあって、梅安の仕掛人商売の実行を構想、創造するのは非常に困難だったという。その意味では作者入魂の作品であろうし、これが池波正太郎の寿命を縮めたのではないかとも思った。

この三大シリーズのほかには、真田太平記という長編があるが、これは未だ途中で全巻読破ができていない。数年前、会津征伐で、昌幸と信幸が袂を分かつあたりまでは読んだが、文庫本もほとんど実家においてあるので、確認してまた読み進めたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ラフマニノフ 『鐘』 アシュケナージ/ACO

Rachmaninov セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)
  『鐘』 作品35 (独唱、合唱とオーケストラのための詩曲)

  トロイツカヤ(S), カルツィコフスキー(T), クラウゼ(Br)

    アシュケナージ指揮 
   アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団・合唱団

  〔1984年11月録音、デッカ〕

これもパノラマシリーズ。この『鐘』を聴いてみたくて購入した。リヒテルのピアノ協奏曲第2番はダブリ購入(確信的)。また、アシュケナージとプレヴィンの『パガニーニの主題による変奏曲』もLP,CDがあるので、3枚目の重複になるが仕方が無い。なかなか、『鐘』だけでは売っていないので。

さて、ラフマニノフの合唱曲と言えば、『晩祷』が有名だが、この『鐘』も聞き応えがある。オケと合唱の重厚な和声とソリストのロシア語があいまって、初めて聴く曲だが、最後まで聴けてしまった。

銀の鐘、黄金の鐘、銅の鐘、鉄の鐘の四曲からなる合唱組曲だが、元々は合唱交響曲として構想されたものだという。ショスタコーヴィチの独唱と合唱とオーケストラによる交響曲の先駆をなすものかも知れない。

アシュケナージが珍しくACOを指揮したもの。この録音がこの曲の初めての鑑賞なので、他と比べようがないが、得意とするラフマニノフの音楽だけのことはあり、共感を持って演奏しているように聞こえる。

なお、このCDには、マゼールとベルリンフィルによる『ヴォカリーズ』と交響曲第2番が収録されており、マゼールらしい拗ね者的な音楽を聞くことができる。

関連: ラフマニノフ 前奏曲 嬰ハ短調 (C# minor, cis-moll) 作品3の2 (『鐘』)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年9月 9日 (日)

プロコフィエフ 交響曲第1番(古典交響曲) アバド/ヨーロッパ室内管

Prokofiev_abbado_argerich

セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)
 交響曲第1番ニ長調作品25『古典』
  クラウディオ・アバド指揮
   ヨーロッパ室内管弦楽団
   〔1986年、ヴィーン、コンツェルトハウス大ホール〕

 4:13/3:43/1:22/3:50

このパノラマシリーズは、主にDGの録音が収録されているが、ユニバーサルグループのフィリップス、デッカの録音も含まれることがある。主にカラヤン/BPOの録音が第一優先で収録されるようだが、このプロコフィエフは、カラヤンには録音はないようで、アバド、ロストロポーヴィチ、マゼールが指揮者によるものが収められている。全体的にカラヤン色が濃いのに少々抵抗のあるところだが、このシリーズは、落穂拾い的にライブラリに含まれなかった曲目を拾うのに結構適しており、これまでにR.シュトラウス、ラフマニノフ、シベリウス、グリークなどを購入した。

さて、プロコフィエフの古典交響曲だが、LP時代にフォンタナシリーズでヴィロツキ指揮のヴィーン響の録音(カップリングはスクロバチェフスキー指揮のショスタコーヴィチの5番だった)で自分としては早くから親しんできた曲だった。しかし、これまでCDでは聴いたことがなかった。大体プロコフィエフについては、セル指揮の交響曲第5番、ピアノ協奏曲第3番と『ピーターと狼』、『キージェ中尉』、ポリーニのピアノソナタ(戦争ソナタ)程度を持っている程度で、ヴァイオリン協奏曲も聴いたことがなく、この古典交響曲も聴きたかったので、このパノラマシリーズをもとめた。

アバドの音楽は、どうもこれまであまりよい印象がなく、LPではマーラーの5番とリュッケルト・リーダーに関心したことがある程度だった。CDでこのヨーロッパ室内とやったハイドンもどうも愉悦感がなく、緻密なアンサンブルも妙に肩が張った感じで感心できなかった。

この古典交響曲は、ヴィロツキの結構スタイリッシュで大づかみな録音に比べると、細部まで描写が詳細で、このような音楽が詰まっているのかという新たな発見があり、結構楽しく聴くことができた。

この2枚組みには、ミンツとアバド/CSOによるVn協奏曲第1番、アルゲリッチとアバド/BPOによるピアノ協奏曲第3番、マゼール/CLOによる交響曲第5番、ロストロの『ロメ・ジュリ』抜粋(キャピュレットとモンタギューの有名な行進曲は入っていない)、オブラスツォワの『アレクサンドル・ネフスキー』から一曲、リヒテルの『束の間の幻影』抜粋が収録されており、盛りだくさんで、別にピアノ協奏曲についてもグラフマンとセルによる録音と比べて見たいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 8日 (土)

ラーメン甲子園

クルマで20分ほどの駅ビル内に「ラーメン甲子園」という全国のラーメン店6軒ほど3ヶ月程度で入れ替わる方式のラーメンショップがあり、これまで数回行ってみたことがあるが、今日の昼に家族で出かけてみた。先日のテレビの食べ物番組で、その中に京都ラーメンが出店していておいしそうだったので、それを食べたかったのだが、今日行ってみたら店の入れ替えがあり見当たらなかった。それで、博多と富山のどちらにしようかという相談になったが、博多はこの辺でも食べようと思えば食べられるが、富山はめったに食べられないだろうということで、入ってみた。(富山豚骨ラーメン まんてん

トンコツベースだが、魚介系(シロエビなど)をミックスして、そこにマー油(ラードでニンニクをクロっぽくなるまで揚げた油)を掛けてあるというのが基本だった。麺は細めのストレートで少し硬め。トッピングでは特に珍しいものはなかった。博多が食べたいといっていた次男は、マー油の入っていない白ラーメンはおいしいと言っていた。コクはあるが、優しい味のスープで結構満足した。長男と私が替え玉を一杯取って分け合った。そのほかに一口餃子もあり、注文した。

このラーメン甲子園は、少し入れ替えのサイクルが早いようだが、それなりに流行っているようで、これで3年ほど続いているだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 6日 (木)

台風9号接近中

本州の東海上で発生した台風9号が太平洋高気圧の周囲を回って、小笠原、伊豆諸島を経由し、伊豆半島から湘南にかけて上陸しようとしている。

横浜でもさきほど暴風域に入り外では風雨が荒れ狂っている。

今回の台風は、高気圧に行く手を阻まれたため動きが遅いということで、対策には比較的時間が取れたため、昨日からベランダや玄関などの風に飛ばされやすいものを片付けたりし、停電に備えて炊き出しと鍋に水をくみおき、風呂の水を一杯にしておいた。とにかく、いつ停電になるか分からない(電線が切れたり、電柱が倒れたりはいつ起こるかわからないため)ので、懐中電灯、ランタン、携帯ラジオを用意し、アウトドア用の携帯コンロも用意した。

今はテレビを見ながら、警戒をしているところだ。

200709062140_2 これは、http://www.bosaijoho.go.jp/ 国土交通省の防災情報提供センターで見られるレーダーの21時40分現在の様子だが、静岡県(伊豆半島)、神奈川県(箱根付近)埼玉県、群馬県、山梨県では、相当の雨量を記録したようだ。

大自然の威力は猛烈だ。

子ども達は、今日は早期の下校はなかったが、私の勤務先では、定時前の退社が勧告された。また、明日は7時現在で暴風警報が発令されていれば学校は休校。私は、公共交通機関が運転再開するまで自宅待機ということになっている。これから深夜にかけて上陸なのだが、被害が少ないことを望みたい。

------
2007/09/07 7:35AM追記
 夜中の2時ごろから猛烈な風が吹き荒れ、「風の音にぞ驚かれぬる」と目が覚めてしまった。ちょうどその頃小田原付近に中心が上陸して、その後相模平野から多摩、埼玉、群馬と北上して今は栃木県付近に中心がいるようだ。幸い風による被害はなかったようで、停電も免れた。しかし、大雨、洪水、暴風警報は継続中で、小学校は休校になった。私は、交通機関が通常の運転本数の半分は動いているので、雨が小康状態になったら出勤だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 5日 (水)

パッヘルベルのカノンの「コード進行」と『少年時代』

井上陽水『少年時代』の序奏と パッヘルベルのカノンの「コード進行」が似ている?

久しぶりに『少年時代』のCDを聴いたら、小学生の息子たちが言うのだが、本当だろうか?

以前、パッヘルベルのカノンを聴き比べた折に、いろいろなサイトにあたったところ、このカノンの「コード進行」(バロック時代の曲なので後の古典派以降の和声的な考え方はあまりなかったと思うのだが)が、現代の日本の歌謡曲、ジャパニーズポップスの世界でも数多く使われているというのが実例を挙げていたものがあった。この『少年時代』は残念ながら入っていないが、前奏の冒頭はよく似ているように思う。

追記:2007/09/19

アクセス解析をみていたら、最近この記事へのアクセスが日に数件あるので、リンク元をみてみたら 「2007/09/17 ZARD(坂井泉水)をJポップの主役にのし上げたビーイング楽曲制作の手法」というBlog記事にこの記事へのリンクが張られていたのだった。

なお、バロック時代にも通奏低音のベース声部の上にチェンバロなどで和声が充填される数字付き和声があり、その動きを追えば、コード進行とほぼイコールになるのだという基本的な知識を忘れていた。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

隆慶一郎の小説を再読した

『捨て童子・松平忠輝』、『一夢庵風流記』、『影武者徳川家康』、『吉原御免状』『かくれさと苦界行』。

初めて読んだときには、その新鮮な設定に驚き、非常に楽しめたのだが、再読したところ、作者自身のイデオロギー(道々の輩、自由民による公界)の縛りがあちこちに見えすぎてしまうのと、歴史の通説に敢えて挑戦している部分はその都度、言い訳とまでは行かないが強弁が見えてしまい、少々つらいものがあった。

特に『家康』で、秀忠が執拗に影武者世良田二郎三郎を暗殺しようとする設定は、ハラハラドキドキはさせられるのだが、秀忠の存立基盤を考えたときにいかに感情的に激しても実行はありえないのではないかと思わせられた。それを敢えて性懲りもなく突き進む秀忠の非理性的な思考の設定が現実離れしすぎているように思えてしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

航空機によるCO2の発生

NASA、飛行機雲と地球温暖化の関連を指摘

先日の那覇空港での中華航空機のエンジン爆発を見て、今更ながら航空機が膨大な燃料を燃焼させて飛んでいることに気がついた。

それで、飛行機燃料 地球温暖化 で検索してみたところ、上記のような記事が目に留まった。

CO2の発生源としては、身近な自動車、火力発電所などが頭に浮かぶが、現在世界中を所狭しと飛び交っている飛行機は、この数十年の間に膨大に増加したのではなかろうか?北米や欧州では日常の足としてバス感覚で飛行機が飛んでいるし、日本でもそれは変らない。

日本航空が、そのサイトで、地球温暖化を食い止めるために私たちができること というQ&Aを掲載しているが、過去に比べて現在の航空機の伸びについては触れられていない。

CO2が温室効果ガスとして、地球温暖化の元凶であるという説が有力だが、そうならばその排出源としての飛行機にもっと注目してもよいのではないか?

HATENA でも、同じような疑問を持っている人がいて、

「航空機の燃料についていろいろなデータのあるsiteを教えていただきたい。具体的にはジェット戦闘機、ジャンボ旅客機、セスナ軽飛行機、中型ヘリコプターといった機種別で、搭載できる燃料量、種類、燃費、また航空機から排出のガスは、いわゆる地球温暖化問題での排ガス規制からは除外されているといると聞くが、その根拠などを。」という問いかけをしていた。

さらに、探すと 航空機の環境負荷  (ジェット航空機の騒音とエンジン排気ガス)という まとまったページを発見できた。 この中でも  飛行機雲と巻雲 というページでトップのNASAの研究に触れている。

どうも環境問題では、飛行機は特別扱いされているようだということがおぼろげながら分かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 4日 (火)

海音寺潮五郎『悪人列伝』近代篇

最近海音寺潮五郎の文春文庫が復刊されつつある。

加賀騒動は、この本で初めて知った。

歴史が当時の勝者側の宣伝と後世の創作によってこれほどゆがめられることも少ないだろう。当事者の大槻伝蔵という人物には面白がっては申し訳ないが、後世に伝えられた『加賀騒動』と海音寺潮五郎によるその全否定は非常に興味深いものだった。

『武将列伝』も全巻読んだことはないので、是非次には復刊してもらいたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イル・ジャルディーノ・アルモニコのブランデンブルク協奏曲

Ilgiardinoarmonicobrandenburg

エアチェックでは、名盤の誉れ高いカール・リヒターとミュンヘン・バッハ管弦楽団、LPではパウムガルトナーとルツェルン音楽祭弦楽合奏団というモダン楽器の伝統的なアプローチの演奏を聴いていたが、CDでは、小学館の全集に含まれているゲーベルとムジカ・アンティクァ・ケルンの先鋭的なピリオド演奏、そして今回のイル・ジャルディーノ・アルモニコの少々エキセントリックなピリオド演奏と、少々両極端な鑑賞になっている。

CDの帯(というのか背当ての紙)には「衝撃のバロック・アンサンブルによる超快楽バッハ!!」という惹句が書かれている。ジョヴァンニ・アントーニーニ(トラヴェルソ、リコーダー奏者)に率いられたこのイタリアのピリオドアンサンブルは、例に漏れずヴィヴァルディの『四季』が評判を呼んだ団体らしい。

このブランデンブルク協奏曲全曲の録音は、1996年10月、12月と1997年1月で、スイスのルガーノでのもの。

第4番の第1楽章や第3楽章は、リコーダーとヴァイオリンのソロが楽しい曲だが、オブリガートのヴァイオリンのフレーズをエンリコ・オンフリという奏者は、ゲーベル並みの猛スピードで、なおかつうねるような表情をつけて演奏してりしており、本当に思い切った演奏をしている。これが単なる虚仮脅しかどうかは、何回か聴いてみなければ分からないが、初めて聴く分には面白かったことは確かだ。

ジャケットは、ご覧のように、パンクロック風?だが、「ロックのような強烈にドライブする演奏、ヨーロッパの若者の間で圧倒的な支持を受けるグループ」という宣伝文句の趣旨と同じコンセプトでデザインされたもののようだ。ただ、ロックのようなとは書かれてはいるが、バッハの音楽はさすがに強靭で、相当いじった演奏だが、型崩れは起こしてはいない。

| | コメント (2)

音楽評論家の渡辺護さん死去

http://www.asahi.com/obituaries/update/0904/TKY200709040128.html

asahi.com の記事によると、 音楽評論家の渡辺 護(まもる)さんが、逝去したという。

7月30日、英オックスフォードで死去、91歳とのことだった。

著書は読んだことはないが、DGのLPなどに非常に格調のある緻密な解説を書かれていたのを思い出す。ベーム/BPOのモーツァルトの第40番、41番やブラームスの第1番の交響曲の解説が渡辺さんだったと記憶する。訳書では、『音楽美論』 エドゥアルト・ハンスリック著 (岩波文庫)を持っている。

新聞によれば、経歴は、東大文学部教授、在西ドイツ日本大使館公使、大阪音大教授などを歴任してその後英国へ移住されたのだというので、なるほどと思いまた驚いた。

Wikipedia には、最近新規項目として登録された 渡辺護氏の項目が立てられていた。

東大の美学といえば、確か故・大木正興氏もそうだったし、モーツァルト学者の海老沢敏氏、音楽評論家の遠山一行氏などと同じ出身だが、渡辺氏もアカデミックで該博な知識に裏打ちされたアプローチが特徴だった。

冥福を祈りたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今日の新聞のWIKIPEDIA記事

以前 2006年7月27日 (木)の記事 WIKIPEDIAを読むだけでなく などという記事を書き、その頃からWIKIPEDIAの編集に参加して、結構長続きしている。主に、クラシック音楽関係、郷土関係についての項目を編集している。

今日の朝日新聞の社会面に、WIKIPEDIAに関する特集記事が出ており、中で某新聞社がWIKIPEDIAの記事をマルマル無断引用したとか、米国ではWIKIPEDIAの信頼性に問題があるため新聞社が記者にその記事への引用を禁止したりするなど、洋の東西でマスコミもいろいろな意味でWIKIPEDIAの存在を無視できなくなっているようだ(asahi.comではこの記事はみつからなかった)。

確かにウィキペディアの記事は玉石混淆で、ムラも多く、いわゆる権威ある書籍の百科事典や各種事典と比べるとまだまだだと思う。例えば、遺跡の解説記事など、自分がオリジナル(といっても様々な典拠を読んで自分の知識となったものを書いたものなので、どこからが引用でどこからがオリジナルか分からないのだが丸写しは盗作として削除される)に作成したものでも、例えば平凡社の地名事典や市町村誌などを参照してみると、そのレベルの違いに愕然とすることがある。また、編集合戦による記事の流動や、価値観や思想的に対立のある項目での編集保護、荒らしに見られるように匿名性(半分以上が未登録編集者だという)に基づくあまり良心的でない書き込みも散見される。また、官公庁や企業が自分が関係する項目に関してウォッチしており、その意向にそぐわないような解説や項目などを削除するという行為が、実際にWIKIPEDIAがどのドメインから編集されたのかを追跡するアプリケーションによっても確認されるなど、「中立的な観点」を逸脱するような事例も報告されている。

しかし、インターネット上の百科事典の利点も数多く、世界的な事項などは、日本語の記述内容では不足だったりする場合には、自分でも少しは読み書きできる英語版(さすがにもっとも充実している)をすぐに参照できたり、内部リンクにより、次から次へと連想と同じように項目をたどれたり、最新項目がすぐにフォローアップされていたりするのは便利この上ない。また、いわゆるオーセンティックな百科事典には取り上げられないサブカルチャー分野の項目が充実しているのもネットの住人の興味関心ゆえだろう。

衆愚の記念碑になるのか、人類の叡智の金字塔になるのかは分からないが、これからも見守っていきたいと思う。

なお、COCOLOGのエンコードUTF-8とWikipediaの相性が原因なのか、相当前からWIKIPEDIAの日本語の項目名をこの本文でリンク作成しようとすると、いわゆる文字化けでリンクができなくなる現象が発生し解決できなかったが、同様の悩みを持っていた人がいたようで、思い立って「WIKIPEDIA ココログ リンク 文字化け」で検索したら trendleader ウィキペディアの和文キーワードのリンク方法 という記事が見つかりおかげさまで何とか解決できた。

実例: http://ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

このリンクの中にhttp://ja.wikipedia.org/wiki/交響曲第5番 (ベートーヴェン) があり、その中にNASAの木星及び深宇宙探査機ヴォイジャーが宇宙人へのメッセージとして搭載していったゴールデンレコード(Golden Record)の記事があったが、内部リンクがWikipedia内の該当記事とリンクされていなかったのを編集してみた。以前からどんな録音が積まれていったのか興味があり、FCLAで話題になったこともあったが当時は参加者のほとんどが分からずじまいだった。しかしいまやWIKIPEDIAでも、そこからつながるNASAのサイトでも容易に調べることができるようになっている。これは有用な知識の蓄積の例だろう。

追記:2007/9/9

9/8(土)朝日新聞朝刊の一面の左側、特集記事などが載るところに、上で書いた官庁によるWikipediaの記事の書き換えについて書かれていた。朝日新聞お得意の官庁批判が主で、企業によるものは特に触れられていなかったようだ。一応独自に取材したようで、厚生労働省、社会保険庁による某代議士批判を、社会保険庁の年金隠し、横領問題と絡めて批判していた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海里という単位

気象庁の台風情報を見ていたら、画面の下の方に

単位について:

  • 1ノット(kt)は1時間に1海里(NM)進む速さ。1海里は緯度1分(60分の1度)の長さ。
  • 1kt(knot) = 1.852 km/h = 0.5144 m/s
  • 1NM(nautical mile) = 1.852 km

という表示があり、気象と海里という単位に関係があるのだろうかと不思議に思った。

また、緯度1分の長さといえば、地球の極を通る経線(子午線)一周の長さがおよそ40,000kmなので、計算で出せるはずだと思って、エクセルを使って実際に計算してみた。

1.一周40,000kmを360度で割って、緯度1度あたりの長さを計算すると、111.111・・・km/度となる。

2.これを60分で割って、緯度1分あたりの長さを計算すると、1.85185・・・km/分となる。四捨五入すれば、1.852km
    つまり、1852m/分となる。

地球は、真球ではなく、縦につぶれた楕円体ということなので、厳密に言えば、低緯度と高緯度では、緯度(分)ごとの長さは高緯度の方が長くなるということだが、一周40,000kmの大雑把な上記の計算が、現在国際海里として通用しているらしい。厳密な計算によるもののちょうど平均値になるらしいのだ。

そして、海上交通などに関係しないとすぐにはピンと来ないノットは、1時間に1海里と進む速さということで、なぜこのような単位を使うかというと、海図が経線緯線によって描かれているため、海図で航路を計算する場合には、この海里という単位が有用だからというわけらしい。

現在の自分にはあまり役には立たないことだが、計算で出せるはずだと実際にやってみた答えが、国際単位と偶然にも一致したのはうれしかった。

なお、1852mは結構覚えにくいが、上記2の計算結果が、1.851851851・・・kmと851が循環する小数になっているので、逆にこれから覚えれば1852は自然に思い出せるように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 3日 (月)

モーツァルト ピアノ協奏曲第21番ハ長調 ペライア/ECO(旧盤)

Perahiamozart2123 モーツァルト
 ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K.467
   13:58(カデンツァ:ペライア)/6:57/6:37(カデンツァ:R.ゼルキン)
   〔1976年9月20日-22日、ロンドン、EMIスタジオ〕

 併録 ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488
        〔1984年2月16日、ロンドン、セイント・ジョンズ・スミス・スクエア〕 11:40/7:27/8:18

マレイ・ペライア(ピアノ&指揮)イギリス室内管弦楽団

先日の夕暮れ時、自動車のカーナビにMP3で取り込んだこの曲を、子どもの塾からの帰宅が日没後になったので出迎えに行ったときの待ち時間に、クルマのエンジンを切って、車幅灯だけをつけて聴いた。

カーステレオは、COMPRESSIONだとかEQUALIZERだとか、ディジタルでのホール、スタジアム等の残響調整だとかの機能がついており、その音質調整のせいかも知れないが、協奏しているオケの音量が非常に小さく、ピアノが独奏のように前面で鳴っているバランスで聞こえた。ペライアのモーツァルトもしばらく聴いていないし、確かこの録音の後も、再録音をしたのだっけ、それにしてもピアノがこんなにクローズアップで聞こえたかなどと思いながら、夕闇の中耳を澄まして聴いていたところ、この曲の調性はハ長調のはずなのに、やけに短調に転調する部分が多いことに今更ながら気がついた。

この曲は、邦題『短くも美しく燃え』という映画で第2楽章の天国的に優美な音楽が使われていることで、映画で使われたクラシック音楽には必ず登場する曲だ。以前カサドシュとセルのコンビの第23、24番のCDを買ったときに、彼等のコンビによる他の曲もいずれ欲しいと思ってネットで検索してみると第21番に人名らしい"Elvira Madigan"という題名(HMVのサイト)が大きく掲載されていてびっくりしたものだった。欧米でもこのスウェーデン映画"ELVIRA MADIGAN"(WIKIPEDIA英語版) というその題名(人名)と結び付けられ("Eliviraのテーマ"!)相当ヒットしたという。(この曲のサウンドトラックは、ゲザ・アンダがモーツァルテウムを弾き振りしたDGのステレオ初期のモーツァルトピアノ協奏曲全集とのことで、最近のDGの名曲シリーズでアンダのCDのジャケット写真として使われた女性はこの映画のヒロインのようだ。)

私ももこれまでグルダとアバドのLPを初めとして多くのピアニストの録音で聴いてきたが、ほとんど短調で書かれたような部分があるということにそれほど注意が向かなかった。

この曲は、ハ長調で書かれていることもあり、トランペットとティンパニが用いられ、第1楽章の冒頭部は、モーツァルトの他の協奏曲の冒頭でよく用いられる少々武骨な軍隊行進曲調で開始され、そのイメージが強かったのかも知れないし、途中のアインガングとかというピアニストの手すさび的なフレーズで第40番ト短調交響曲の第1主題が一瞬だけだが引用されるところに耳が囚われていたのかも知れない(これに関してはHPで我ながら小生意気なことを書いたことがある)。

ペライアのこの録音も何度も聴いているが、これまで今回のような印象は持たなかった。これは、周囲の環境(夕暮れ、クルマの中で一人でカーステを聴く、子どもを待ちながら)ゆえに耳が、短調に傾く曲調を捉えたのかも知れないなどと考えた。

私が音楽を聴くとき、その音楽から受ける印象は、周囲の状況、自分の心理状態に左右されることは以前からわかっていたが、このように聴きなれた曲でも、印象ががらっと変るような体験をしたのは興味深い体験だった。

◆参考記事

*グルダとスワロフスキーによるモーツァルト ピアノ協奏曲第21&27番

*リパッティで聴く シューマンのピアノ協奏曲 (モーツァルトの21番が併録)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 2日 (日)

プレヴィン/ロイヤル・フィルのヴォーン・ウィリアムス 交響曲第5番

Previnrvwilliams_nr5 レイフ・ヴォーン=ウィリアムス(1872-1958) 

 交響曲第5番ニ長調 
 トーマス・タリスのテーマに基づく幻想曲

 アンドレ・プレヴィン ロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団 

〔1988年7月6,7日 ロンドン ウォルサムストウ・タウン・ホール〕

子ども達の夏休みも今日で終了。明日から学校が始まる。といっても、現在2学期制のため、明日は2学期の幕開けではなく、1学期の普通の日で、始業式もない。ただ、9/1の防災の日が土曜日だったため、防災訓練が行われる。この2学期制は、元々授業時間の確保を目的にしたものだが、夏休みはまったく減らされず、10月1日の2学期の初めから数日は秋休みと称する授業時間の確保とは相反する休みが設けられており、教育委員会の意図が不明だ。

さて、これまでほとんど聴いたことのない作曲家レイフ・ヴォーン=ウィリアムスのCDが中古店で安く入手できたので、聞いてみた(最近買ったディスク 2007/5/16)。ヴォーン=ウィリアムス(英国の音楽界では、頭文字をとってRVWで通用するらしい)は、これまで『グリーンスリーヴズによる幻想曲』程度しか聴いたことがなく、交響曲をじっくり聴くのはこれが初めてだと思う。生没年を見ると、86歳の長寿に恵まれた人で、日本では明治5年から昭和33年となり、私の祖父母もしくは曽祖父母の年代にあたる。1870年代生まれの作曲家を挙げてみると V. Williams1872, Skryabin1872, Rakhmaninov1873, Reger1873, Schoenberg1874, Holst1874, Ives1874, Ravel1875, Kreisler1875, Falla1876, Canteloube1879, Respighi1879 あたりで、多士済々という趣だ。イギリスでは、Elgar1857, Delius1864が少し先輩になるようだ。

イギリスではヴィクトリア王朝(1819-1901)に教育を受けた世代になる。まさに大英帝国の最盛期に生を受け、母国の栄光と第1次大戦、第二次大戦期を過ごし、戦後まで生きた。

この交響曲は、1942年という第二次大戦中に完成したものだというが、非常にしっとりとした回顧調の曲想を持つもので、特に音階がアイルランド、スコットランド風の5音音階に基づくらしく、日本人にとっても懐しさを感じさせるものになっている。その反面、第2楽章のスケルツォ楽章でも音楽のエネルギー、躍動感には乏しく、40分ほどでそれほど長い曲ではないが、和声や旋律の美しさは感じるものの、主張に乏しい音楽という印象だ。それでも第4楽章は、ブラームスの第4交響曲と同様、パッサカリア形式を用いており、ようやく音楽に盛り上がりがもたらされる。

エルガーにしても、ディーリアスにしてもこのRVWにしても、なぜこの時代のイギリス系の作曲家の作品は、懐旧の情を感じさせる作風なのだろうか?また、それが現代のイギリスでも非常に好まれているというのも不思議だ。後期ロマン派は、和声的にもオーケストレーション的にも一つの爛熟したものであり、完成形で、その中では充足したものだとは思うし、ロシアのラフマニノフなどにも通じる分かりやすさもあるのは確かだが。

タリスの主題による幻想曲は、コーラス団体タリス・スコラーズがその名をもらったトーマス・タリスのテーマに基づくものだというが、CDに付けられた詳しい解説によると、タリスが1567年に作曲した9曲の賛美歌のうちの第3曲がそのテーマとして用いられたものだという。

プレヴィンとロイヤル・フィル、テラーク録音は、『ピーターと狼』『パーセルの主題による変奏曲とフーガ(青少年のための管弦楽入門)』で以前から耳に親しいが、穏やかでしっとりとした表現が特徴で、この交響曲と幻想曲でもほとんど刺激的な響きはなく慎ましやかであり、その反面明快さが不足しているように感じられる。

p.s. RVWのファーストネームの Ralph だが、通常の表記は「ラルフ」が正しいが、古い発音として「レイフ」があったとのことで、RVW自身「ラルフ」と呼ばれることに不快感を示したらしく、「レイフ」とするのがいいらしい。(これは、英国音楽史の「トリビア」的な情報で、その筋では有名なことらしい。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 1日 (土)

J.S.バッハ 独奏チェロ組曲(無伴奏チェロ組曲) ヨーヨー・マとビルスマ

『考える人』の特集で、アンナー・ビルスマの健在ぶりを見ることができたので、以前から下書きに保存していたこの曲集について、少し書いてみようと思う。

ヨーヨー・マとアンナー・ビルスマの独奏チェロ組曲(無伴奏チェロ組曲)の聴き比べは、私にとっては、言うのもおこがましいが柴田南雄氏の追体験をするような感じだ。

演奏様式の変遷の存在と、演奏様式が異なるものを同一平面で比べても意味がないということを教えてくれたのが柴田南雄氏の著作だった。

『わたしの名曲・レコード探訪 続』(音楽之友社、1986年) 、『おしゃべり交響曲』(青土社、1986年) 、『グスタフ・マーラー』(岩波書店、1984年)程度しか単行本では読んでいないが、『レコード芸術』などでもよくその謦咳に接したことがあった。むしろ『わたしの名曲・レコード探訪』は、その連載をまとめたものではなかっただろうか?

実家においてあるはずなのだが、今のところ見つからずにいる『わたしの名曲・レコード探訪 続』では、その当時の新録音だったヨーヨー・マの録音(1982年)と、その少し前に録音されたアンナー・ビルスマの録音(1979年)を比較していたのをよく覚えている。そこで、演奏様式の違いというものが語られていたと記憶している。

当時は、マの録音もビルスマのそれも聴いたことがなく、いつかは聞き比べをしてみたいものだと思いながらいた。

Ma_bach_1982 その後、マの録音は比較的早く入手できた(66DC5141-3)。独奏チェロ組曲については、エアチェックで 全曲ではないが何種類かの演奏者の録音を耳にしていた。カザルス、ジャンドロン、トルトリエなどだった。それらに比べてマの演奏の滑らかさはCDで聴くようになってからも特に印象深いものだった。屈託のない嬉々としたバッハというイメージがマのバッハだった。購入以来本当に何度も聞き楽しませてもらっている。今回久しぶりに聴いたところ、モダンチェロが充分に鳴り切った深い響きと呼吸の演奏で、「練習曲」風のものではなく、非常に感銘が深かった。


そして数年前ビルスマの70歳祝賀のボックスセットをもとめたところ、収録されていたのが、モダン楽器を使った最新録音ではなく、柴田氏が言及されていたバロックチェロ、ピッコロチェロを使った1979年録音だというのもうれしかった。

さて、今回は、IMSLPを検索にいったところ、バッハのこの曲集の楽譜の中に先日も『考える人』関連で名前の出たアンナ・マグダレーナ・バッハが清書をした筆写譜がPDFで登録されており、それをダウンロードしてこれらの曲集を聴いてみた。非常に美しいマニュスクリプトであり、それを眺めるだけでも音楽の創生の現場に立ち会うかのようだ。
Bylsma_70years_box_2 Bylsma_bach_1979

ビルスマの最初の録音は、バロックチェロによる(いわゆるエンドピンがないため膝で抱えて安定させながら演奏するため、モダンチェロに比べて演奏が難しいという)最初期のものだと思う。当時、ピリオドアプローチにはあまり興味がなかった(というよりも大学に入ったかどうかという年代でまだ俯瞰的に演奏を味わうというよりも、乱読ならぬ乱聴時代だった)ため、この録音の発売当時の反響はほとんど知らず、柴田氏の著作で初めて知った程度だった。録音以来30年近くも経過しているとは言え、私にとっては同時代の演奏家であり、その演奏を実演で聴いていることもあり、「練習曲的ではなく、語るバッハだ」と言われるこの演奏は、その独特の音色とあいまって非常に高カロリーであり、BGM的に聞き流せるようなものではない。ただ「語るバッハ」という先行イメージが高かったたため、相当訥弁なのかと予想していたら、そんなことはなく、バロックチェロの演奏の困難さにも関わらず、アルマンドやジーグなどの速い楽章では細かいパッセージも的確に音にされ、流動感もある。語るといわれるのでふさわしいのは、サラバンドなどの緩徐楽章で、ここではグールドのサラバンドと同じく、滑らかなレガートではなく、ぽつりぽつりと語りかけるような音楽になっている。ただ、正直に言うとマの録音が繰り返し聴いて「刷り込み」的になっていることもあり、この朴訥なビルスマの録音は初めは馴染めないものだった。

マとビルスマの音楽観は相当異なるもので、どちらが巧いとか下手とか言っても仕方がないものだというのは、柴田氏の著作から諭された事柄ではあるが、現代人の同じ音楽へのアプローチでも、これほど異なったものが聴けるというのは、また現代の面白さであり、難しいところなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »