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2007年10月の14件の記事

2007年10月30日 (火)

ルプー のブラームス ピアノ作品集

Lupu_brahms_pianoブラームス

2つのラプソディー 作品79
3つの間奏曲 作品117
6つの小品 作品118
4つの小品  作品119

ラドゥ・ルプー(ピアノ)

〔1970年11月、1975年7月 キングズウェイホール、ロンドン〕

ラドゥ・ルプーというピアニストをまともに聴いたのは、昨年10月のシューマンとグリーグの協奏曲のディスクだったが、いまさらながらだが大変感心した。その好印象があったので、中古盤で出ていたブラームスの晩年のピアノ曲集を買ってみた(これは、レーゼルの全集で欲しかったものだったがレーゼル盤は今のところ未入手)。

晩年のピアノ小品集というと思い浮かぶのが、グールドの晩年の録音だが、FM放送で流されたのを聞いた程度のかすかな記憶しかなくディスクでは持っていないし、また、今井信子のヴィオラによるブラームスのヴィオラ・ソナタの余白に、ヴィオラ・ソナタでピアノを務めているハリス・ゴールドシュミットというピアニストが、独奏で間奏曲など数曲を録音しているものを所有しているが、これはピアノの音色が独特で(ハイあがり?)あまり好印象がなく、これまで晩年の渋い小品集にはあまり馴染みになる機会がなかった。

ところが、ルプーのこの小品集は、ブラームスらしくない「色気」というか、枯れた音楽ではなくみずみずしい音楽になっており、感心した。まったく晩年のブラームスというイメージはない。このような演奏がブラームスの真価と言えるかは難しいところだが、楽しめる晩年のブラームスというのは、なかなか達成困難な課題だと思うので、それをクリアしたこの演奏はそういう意味でも価値があるのではなかろうか?

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カンボジアコーヒーを挽いて飲む

義弟夫婦がカンボジアのアンコール・ワット見物に出かけて、そのお土産にカンボジアのコーヒー豆を買ってきてくれた。生豆ではなく、ローストしたもので、名前はRatanakiri coffeeと書かれており、Product of Cambodia となっていた。ネットで調べるとまさにそのコーヒーが紹介されていた。http://www.ratanakiri-coffee.com/

Cambodiancofeeratanakiri4

以前コーヒーをよく飲んだ頃には、手動のコーヒーミルも持っていたのだが、引越しのときにその義弟にやってきたので、廉価なミルを探していたのだが、たまたま入ったスーパーに挽いたコーヒーの保存もできる密閉瓶つきのコーヒーミルが3000円ほどの廉価で売っていたので購入し帰宅後豆を挽いて、ペーパーフィルターで淹れて飲んでみた。

少々粗めに挽き過ぎたようで、ドリップがやけに早く終わってしまい、色としては薄いコーヒーになってしまったが、ものは試しに飲んでみた。

元々ローストされた豆の色が相当濃かったので、深煎りだろうとは想像していたのだが、味はその通り酸味はほとんどなく、苦いものだった。

その後、上記のリンクを見つけ、またその他カンボジアコーヒーを試してみた人のブログなどを拝見したが、エスプレッソ的に飲む飲み方が基本のようで、焙煎をうっかり強くしすぎたわけではないようだ。

苦いコーヒーも嫌いではないが、もう少しおいしく飲めるように、挽き方、淹れ方を工夫してみよう。

Cambodiancofeeratanakiri1 Cambodiancofeeratanakiri2 Cambodiancofeeratanakiri3

2007/12/16追記 150gでUSD6.00なので、日本円では(USD1=115円として)690円。100g では約520円なので、日本国内のコーヒー店で買うのとほぼ同じくらいの値段だ。現地としてはずい分高価なものだろう。フェアトレードがコーヒー取引の新しい潮流だが、これと関係しているものだろうか?

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2007年10月29日 (月)

平日の鉄道博物館なのに大混雑

今日月曜日は、先週土曜日の授業参観日の振り替え休日で、子ども達は休みだった。うらやましい。

昨日、早めに宿題を済ませておけば、振り替え休日にあわせて休みを取ったお母さんが、さいたま市にこの10月14日に新しく開館した鉄道博物館に連れて行ってあげるという約束をして勉強をやらせたこともあり、私は通常の勤務で行けなかったが、私抜きで出かけてきた。

平日なので開館直後とは言え空いているのではないかという私の予想はまったくはずれてしまい、ちょうど同じような振り替え休日が多かったのか、何が原因か分からないが、子ども連れや中学生の仲間連れというような来館者でごった返していたという。(他のブログの訪問記を読めば、平日は比較的空いているという情報だったのだが。)

まずは最寄り駅で前売り券を購入しようとしたが、すでに売り切れだと言われたという。それでも、当日券で入れるからと11時ごろ大宮駅に着いたところ、入場2時間待ちというプラカードを持った係員がおり、少し心配になったが、親子連れがぞろぞろ大成駅(鉄道博物館駅)方面行きの埼玉鉄道の方へ行くので、大丈夫だろうと思って行ってみたところ、2時間はかからなかったが入場に1時間弱かかったという。また、近くのコンビニも猛烈な混雑で、ようやく弁当を購入できたほどだったとのことだ。

入場してからは、さすがに内部は広く、古い交通博物館とは相当趣きが違っていたとのことだが、予約の必要なシミュレーターや豆電車のようなものは全然だめだったとのこと。また、大パノラマも通常は予約制だが、今日は入場者が多かったためか、立ち見でも可能ということで、予約は取らなかったとのこと。

平日でも、このような日があるということは、ここ当分の土日は混雑がすごいだろう。先週土曜日に放送された『アド街っく天国』の紹介の影響もあったのかも知れないねなどと子ども達が言っていたが、私のテツハクデビューは相当先になりそうだ。

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2007年10月28日 (日)

上杉鷹山が受けた教育 

以前、上杉鷹山を主人公にした歴史小説を読んだ際に、その孟子の政治哲学を基礎としたと思われる伝国の辞などに関心して、そのような政治姿勢を生んだのは、彼の素質だったのか、教育だったのかと疑問を呈したことがあった。

この10月27日土曜日の朝日新聞のBeという土曜日版に、そのことについてまとまった記事が出ていた。Be Entertainmentの『昔も今も』という連載で、教師④ 「平洲が吹き込んだ魂」という回がそれだ。春秋左氏伝 哀公元年の条 「国の興るや、民を視ること傷めるが如くす(中略)その亡ぶるや、民を以って土芥となす」を訓み、講義を聴いたとき、鷹山は涙を流したのだという。

これによると、鷹山はその素質、性格から、もともと民への憐憫の情を大量に持っていたようであり、平洲により知識の裏づけを加えられ体系化されたもののようだ。

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2007年10月27日 (土)

授業参観日の父母のおしゃべり

子どもの通っている小学校は、春(夏至の前)と秋の今頃の土曜日に授業参観日があり、朝の学活(ホームルーム)の時間から給食の時間を経て下校時間まで一日中見学ができるようになっている。これまでも毎週土曜日が休みなので妻と手分けして子どもが授業を受ける様子や学校内の様子を見学している。

今日は、時ならぬ台風20号が時速80kmを越えるようなスピードで伊豆諸島付近から銚子付近をかすめるように通過したこともあり、朝から雨脚が強く、参観の父母も少なかったが、好天の日などはそれこそ学校中が父母は幼児で溢れかえるようになることもある。

私が小学生だった頃の授業参観日と言えば、年に一度か二度、平日のあらかじめ決められた時間に父母(父は通常は勤務日なので、主に母親だった)が来校して、その時間帯だけ参観し、その後担任の先生と父母の懇談会などがあったように記憶しており、先生も児童もその日のその時間帯のみは結構改まった雰囲気で、また父母も結構改まった服装で静粛に参観したものだった。

ところが、現在は上記のような方法で学校を公開しているので、正門で不審者チェックは受けるものの、教室への出入りは自由ということもあり、授業時間中にも関わらず、特に母親達の井戸端会議的なおしゃべりが喧しく聞こえるのが当たり前のようになっている。最近では父親もそのおしゃべりに加わる向きもあるようで、当初は授業中の私語は慎むように躾けられた身にとっては驚くべきことだった。最近は皆慣れっこになってしまったのでそれほどマスコミも取り上げないのかも知れないが、大学の大教室の講義ではおしゃべりをするのが当たり前らしいし、また、小中学校の全校集会や、もっと改まった入学式、卒業式の際にも、私語でワイワイするのが当たり前のようになっていると聴く。

このようなことを書くと反発をくらいそうだが、大人でもTPOを弁えない人々が増えているということは、民度、文化レベルが下がって来ているのかも知れないと思ってしまう。

もっとも家父長制的な長幼の順、教師への盲目的な敬意などが否定されてきたこともこの背景にはあるのだと思うが、そのような封建制の遺物が撤去された後に、相互に敬意を払い合うような文化的な規範ができあがってきていないということを、この授業参観日における親の無駄話や子ども達の落ち着かなさが示しているのかも知れない、などと偉そうに考えた。

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2007年10月26日 (金)

洋の東西 の 住所、人名の順

9/19夜、子どもたちがドヴォルザークの『新世界から』の第4楽章を歌っていたので、夕食後にいくつか聞いてみようということになり、先日聞いたノイマン以外の、小澤/サンフランシスコ、ケルテス/VPO、セル/クリーヴランドの順に第4楽章を聞いてみた。

「ケルテスはどこの国の人?」というので、「ハンガリー。セルもハンガリー。ハンガリーは名指揮者が多い国なんだけど、ヨーロッパの国と違って、名前を 日本や中国と同じように姓名の順で呼ぶ国なんだ。それはチンギス・ハンのモンゴルがヨーロッパまで攻めていったことに由来するようだよ(後で調べたら、ローマ時代のフン族・匈奴やその後のアッティラの影響のようだ)。それで、有名な人ではバルトーク・ベーラ、コダーイ・ゾルタン、セル・ジョルジ、ケルテス・イストバーンという言い方になるんだって」というような会話をした。子どもたちはなかなか感心したらしい。

ハンガリー人(マジャール人)がモンゴロイド系か否かについては、論争があるようだが、一応下記の「下戸」遺伝子の研究によれば、モンゴロイドの遺伝子を含んでいる人もいるらしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ハンガリー#_note-0

ところで、そのことを今日思い出していたところ、西洋では住所も、まずは番地 町名 自治体名 国 というような順序で書くのだが、これは東洋の国、自治体名、町名、番地の順の方が合理的だろうと思い出し、少し考えてみた。

(郵便番号や電話番号は、西洋でも 大グループから小グループ(そして個人番号)の順に設定されているので、合理性から言えば大から小なのだと思うが)。

ただ、まず身近なところから、それを段々広げていく西洋風の書き方は、国を越え、大陸、地球、太陽系、銀河系などとその範囲を無限につなげていく書き方になるとも言える。逆に東洋風では、最初に規定した大グループを超える範囲については、記述ができなくなるということがある。

中国語の語順は、西洋語の主語+動詞+目的語SVOのような語順に似ており、同じ東洋系とは言え、日本語、韓国語の語順とは異なっているようだが、大から小の地名、人名の記述は中国ではいつの時代からのものなのだろうか? 

アラブではどうなのか、アフリカでは、ネイティブアメリカではどうなのだろうか?

*以前に書いておいたが、アップを失念していた記事。

追記:

WIKIPEDIA情報:

地名

Address (geography) 

Japanese addressing system

人名

Family name

Japanese name

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ディジタル時代のパブリックドメイン化とオリジナルの価値

このBLOGでも以前何回か触れ(リンクも張ってある)クラシック音楽の楽譜のパブリックドメインサイト International Music Score Library Project (IMSLP)が閉鎖されたという。巡回しているいくつかのBLOGで話題になっていた。

これまでシューマンのピアノ曲や『イスラメイ』などの記事のときに活用させてもらっていて便利だなと思っていたのだが、「国による著作権の扱いによって違法性がある場合があるので注意せよ」というサイトでのコメントが気にはなっていた。どのようなクレームがあったのか分からないが、青空文庫やプロジェクト・グーテンベルクなどのボランティア自身がテキストを底本を参照して独自に入力しているのとは違い、自らが楽譜編集ソフトなどを使って楽譜化したものではなく、著作権切れとされるクラシック音楽の出版譜を単純にpdf化してアップしただけのものがほとんどだったので、危惧を抱いてはいた。

先日『DS文学全集』というようなパブリックドメインものの記事を書いたおり、以前書いた『パブリック・ドメインについての違和感』を思うと内心忸怩たる思いもあるということを記したが、ネットではパブリックドメインに触れる機会が増えている。

しかし、このパブリックドメインなるものについては、著作権 COPYRIGHT(複写・印刷する権利)の 直接の対象である「ORIGINAL作品の創造者の権利」のほかに、音楽や文学作品では、一般に流布するようになるまでに清書、校訂、翻訳(これには音楽の演奏作業も含まれる)作業などが欠かせないもので、これらにも周辺的な権利が発生するはずだと思い、そのことを上記の『違和感』で書いてみたのだが。

簡単に言ってしまえば、既に創造者やその家族・子孫、出版社などの権利者が十分にその権利を享受した後には、それらの創造物は人類の共有であるべき文物(社会の共有財産)として組み入れるべきだという考え方がパブリックドメインの基礎なのだろう。ただ、これらによって生活を立てている個人、法人があるところにやっかいな問題がある。特に理論的には寿命がない法人の存在だ。

さて、そんなおり、先日の漱石展で刺激を受けて、このところ漱石周辺のエッセイなどを読んでいたら、折も折、下記の『直筆で読む「坊ちゃん」』という書籍が出版されたので早速もとめて読み始めた。

作曲家の楽譜も、オリジナルから清書され、印刷譜(総譜、パート譜)になる段階で、様々な人の手を経ることになるが、この書籍の冒頭の漱石全集編集者の解説によると、作家の原稿も楽譜同様、オリジナルから活字となるまでにはやはり様々な人の手を経由するようだ。現在、通常に入手できる文庫本や上記のパブリックドメインのウェブテキストなどは、どれもこれも同じテキストなのだろうと思っているが、(旧字旧かなは別にしても)オリジナルからの読み取りによって様々な異同があるようなのだ。特に、漱石の場合、独特な書き癖や、用字、変体仮名の使用などがあり、細かいニュアンス的な部分では、無視し難い疑問もあるのだという。まだ、原稿は冒頭の数ページしか読めてはいないが、それほど苦労なく読めそうだ。

ところで、デジタル電子情報は、劣化のない複製(COPY)が可能で、パブリックに共有されやすい。オリジナル情報は唯一性を保っているが、オリジナルは、非常に読み取りにくいものであることがこの「直筆」からよく分かる。そこから「活字」になるまでにある種の変容を受けざるを得ない。そして、それが著作権保護期間を経て、パブリックドメイン化する。

ディジタルデータは、複製の容易さとともに、簡単に変更できるという利点でありかつ欠点を持っている。その意味でも、オリジナル資料は重要であろう。もっと宇宙的な想像を働かせれば(その場合に人類そのものがそれに耐えられるかどうかは棚上げにしておくが)、バン・アレン帯で守られている地球にその保護を突破するような強烈な太陽風や宇宙線が降ってくれば、電磁気データの多くは変容を受けてしまうだろう(金属スパッタリング,エッチングによるCDやDVDは大丈夫か?)。ディジタル化、電子化はその意味では非常に脆いものだともいえる。

何を言いたいのか分からなくなってきたが、たとえ電子複製が席巻するようになっても、オリジナルの価値は非常に高いということだ。

現代のクリエーター(広い意味)達は、その多くがコンピューターをその創造活動に利用しているが、その意味ではオリジナルの喪失・変容という危険を絶えずはらんでいることを頭の隅においておくべきではなかろうか。その点、紙媒体は非常に火には弱いとは言え、『坊ちゃん』の原稿のようにこうして100年もの間保管され、そして写真版として出版も可能だ。(マイクロフィルムの保存性、耐変質性はどうなのだろうか?) また、酸性紙ではない、日本古来の和紙に書かれた文書などは、例の山本勘助実在説につながる市川(市河)文書など、甲州から信州、越後、会津、米沢を経て、釧路で再発見されたように、500年近い星霜を経ても当時の貴重な情報をもたらしてくれている。ディジタルデータにそのような長期間の保存性はあるものだろうか?単純な結論ではあるが、便利さの裏面にある欠点を忘れるべきではないだろう。

p.s. 日本では著者没後50年間の著作権保護なので、若くして49歳で死去した漱石の場合、その妻と子ども達は印税の恩恵を相当受けたようだが、孫まではその恩恵が伝わらなかったという(『漱石の孫』)。尤も、漱石との生活で辛苦をともにし、また漱石の心の病によりいわれぬ虐待的な仕打ちを受けたこともあった妻子の場合は、印税の益を享受する権利はあるだろうとは思った。そして妻鏡子や長男純一は、印税収入によって相当豊かな生活を送ったようだ。下世話な想像をすれば、このことも鏡子悪妻説に影響を与えているのかも知れない。

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2007年10月25日 (木)

小さな不愉快

毎日朝晩満員電車に揺られて通勤している。ほんの短い時間なのだが、いわゆる鮨詰めギュウギュウ詰めの満員電車で、朝の渋谷方面行きの東急東横線のように駅員が何人か待機していてプラットフォームで乗客を車内に押し込むほどではないが、駅ごとに降りる人を通すために降り、再び後ろ向きに強引に車内に乗ったりを繰り返さざるを得ないほどの混み方なのだ。

こちらに転勤してきた早々は、朝晩、特に疲れて帰る晩の帰りの電車までが朝並みの混雑なのには閉口し、また見ず知らずの乗客と身体を接触することに非常に抵抗があったが、そのような混雑には相当慣れてきた。

ただ、最近特にこのような激混みの電車内で携帯電話でメールをしたりWEBサイトを覗いたり、ゲームをしたりする人がいる。それも他人の背中に硬い部分が触れるか触れないかの距離で無理をしてやるため、やっている本人は気がつかないようだが、背中に結構触れる。特に電車が揺れるときなど不愉快な思いをする。携帯電話の車内での使用には、会話以外にもメールやゲーム、ウェブ閲覧も含まれるはずだが、どうもマナーが乱れている。

また、これは以前からだが、同じように激混みの電車内で本を読む人も結構おり、本の硬い部分が同じように背中に触れることがある。これが、同じように結構チクチク背中を刺激するのだ。

熱中している本人には他人の不愉快はほとんど意識できないようで、こちらが肩を揺すっても身をよじっても止めた人はいない。こちらが後ろを振り返るように視線を動かしてもダメだ。

混雑している車内で声を出して注意するには、思わぬトラブルの恐れがあるため、我慢していることが多いが、まったく不愉快である。

p.s. 思わぬトラブルと言えば、2年ほど前込み合う出勤時の駅の階段で、若いサラリーマンが肩で押してきたので、こちらも負けずに押し返したら、その男がまた押し返し、それを繰り返しているうちに奴さん、血がのぼったらしく、階段を上りきったところで、自分から押してきたのを忘れたのか、私に向かって「何のつもりだ」とすごんできたことがあった。一瞬周囲の人たちがさっと我々二人の周りから身を引いたのが分かった。こちらは急いでいるし、こんなところで言い争いをして暴力沙汰になったらと家族の顔も浮かんだので、無視をしてさっさと勤務先に向かったが、しばらくはアドレナリンの分泌か身震いが止まらなかった。先日の漱石展でも割り込みを罪悪感なしにするような理不尽な人間がいたが、そのような人というのはどこでもいるようで、そういる人物とかかずり合うのはできるだけ避けたいものだ。

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2007年10月23日 (火)

夏目漱石展 江戸東京博物館

東京墨田区の両国にある江戸・東京博物館で開催中の夏目漱石展を見に行ってきた。

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/kikaku/page/2007/0926/200709.html

http://www.asahi.com/soseki/

以前から訪れたいと思っていた博物館で、今年新聞店から2007年度の日本列島から発掘された遺物展というようなものの無料券ももらっていたのだが、そのときは結局足を運ばずじまいだったので、今回が初めてだった。

今年は、両国の国技館の隣にこの博物館ができてから15周年だといい、また、夏目漱石が朝日新聞社に小説記者というような肩書きで入社し、『虞美人草』の連載を始めてから100周年にあたり、さらに漱石の弟子で当時東北帝国大学の教授だった小宮豊隆が、空襲での消失を免れるために自分が東北帝大図書館長だったこともあり、1944年までに一括して漱石山房の蔵書・資料等を図書館に疎開させ、それがそのまま委託された形で保管されている貴重な「漱石文庫」を所蔵する当の東北大学が創立100周年ということで、その3つの記念年をあわせた形でこの展覧会が開催されたものだという。

http://www.library.tohoku.ac.jp/collect/soseki/index.html

妻がこの展覧会に行きたいということで、子どもたちはあまり乗り気ではなく(それでも博物館の常設展は楽しめたようだった)、私も文学者の展覧会は美術展や科学展ほどほど面白くないだろうとは思ったが、たまには女房孝行ということで行ってみることにした。

この博物館は、相撲の本場所が行われる国技館の隣にある少々奇矯な形の建造物(内部に広大な空間を作るため)だが、漱石展はその一階の特別展示室で開かれていた。

昼頃に両国駅に到着したので、博物館内の食堂で少々江戸情緒の感じられる深川丼や穴子定食などを食べたのち、特別展と常設展のチケットを求め入場した。(小学生は、常設展は無料だが、漱石展は有料。また後知恵だが上記の朝日新聞のサイトでは割引きクーポンが手に入ったが、事前の調査不足で使用しなかった。)

文学者の展覧会というと、私の故郷小諸に常設されている島崎藤村の藤村記念館で見慣れており、文学者の生い立ち、原稿、写真、初版本というところが主なもので、漱石展もその例に漏れなかった。しかしこの展覧会は、上記の東北大学の漱石文庫の収蔵品が主要展示物であるため、漱石が主にロンドン留学の折に生活費を削りながら収集した多くの書籍が並べられているのが特徴だ。漱石の細かい書き込みがあるページを見ると、彼がロンドンで神経をすり減らすまでに刻苦勉励した様子が如実に伺われる。ここに展示されているのはその一部だが、それでも膨大な書物である。シェークスピアを初めとする英文学者、詩人のものが多いが、心理学、社会学等の書籍もあるようだ。その多くの著者・書籍名はほとんどが知らないものだった。漱石が約2年間の孤独な留学生活で読み、読もうとした多くの書籍を見るにつれ、江戸時代の末に生まれ文明開化の只中に成長した最初期の英文学者としての漱石ということを思った。

(追記:他の方のblog記事を読んで思い出したのだが、漱石の西洋絵画への関心を示す蔵書も多かった。特にJ.E.ミレー(Millais)画ハムレットの『オフェリア』で有名なラファエル前派の作品を好んでいたようで、そのためか、『草枕』ではその『オフェリア』の画像について主人公がこだわっている様子を描写している。さらに、読書ノートについては、綿密に章立てごとに要旨をまとめているものもあり、非常に細かい字とともに漱石の几帳面な性格がうかがわれるものがあった。)

ほかに印象深かったものというと、漱石の大学予備門時代?の数学の答案用紙であるが、幾何の証明問題など、美しい英語の筆記体でペン書き(鉛筆?)によりビッシリと回答が書き込まれているのには驚いた。予備門では数学の成績も良好で、友人の薦めがなければ文学者ではなく、建築家を志していたかも知れなかったようだ。

また、(これは漱石の伝記では有名なのだということを後で知ったが)、帝大か一高へ提出した履歴書に「本籍 北海道・・・」と書かれている部分があったのには驚いた。これは、なんらかの理由(兵役逃れという説が強い)で本籍の東京から分籍したものだという。(http://www.iword.co.jp/iword/s05_10.html にまとまった記事あり。)

当時の東京朝日新聞の紙面には、朝日入社後最初に連載した『虞美人草』の新聞小説第一回のすぐ右隣に、勅令として東北帝国大学の設立の記事が掲載されており、その意味でこの展覧会は運命的なものであるようにも感じた。

正岡子規との交友を示す多くの俳句の添削などもあったり、晩年の漱石が描いた南画?水墨画や漢詩の掛け軸なども展示されていたが、漱石がフランスのJ.F.ミレー(Millet) のモノクロ版印刷の絵画を模写して彩色したものが現在山梨県立美術館にその原画と一緒に収蔵されているということも紹介されていた。

新潮文庫の漱石のカバーは印象深い図案だが、漱石も自著の装丁には相当凝ったようで、自らの装丁デザイン原稿なども展示されていた。

岩波書店の創立者岩波茂雄は、漱石山房によく顔を出していた弟子にあたる関係だったようで、岩波からの初の漱石全集が展示されていたり、『こころ』の原稿(岩波書店蔵)なども展示されていた。

なお、入り口には、漱石の等身大の上半身の人形(ロボット)が展示され、復元音声により、熊本の旧制五高時代の漱石の学校式典での祝辞の一部が繰り返し流されていたのは少々うるさかった。出口には、漱石のデスマスクとその石膏原型が並べて展示されていた。

出口の外の通路には特別展用ミュージアムショップが出店しており、漱石の著作のほかに、漱石に関する著作、それに関川夏央原作・谷口ジロー画の『「坊ちゃん」の時代』という劇画の文庫版(双葉文庫)も売られていたり、猫のTシャツや東北大が企画したという仙台の菓子店白松が最中の羊羹なども売られていた。国立大学が羊羹を企画し商売をするというのは、さすがに独立行政法人としての経済的な意味があるのだろう。廉価な方の「漱石の愉しみ」という羊羹セットを一つ求めた。

Souseki_youkan

会場は押し合いへし合いほどの来場者ではなかったが、絵や彫刻と違って一点一点じっくり目を凝らして見るような資料が多いので、見物人の動きが遅く、一通り見終えるまでに一時間以上はかかった。そのような状況なので、並んで見ている人の間に横入りするような若い女性もおり、そういう意味では不愉快なことがままあった。来場者のマナーの問題でもあるが、会場整理のうえで一工夫が必要ではなかろうかと思った。

『坊ちゃん』『吾輩は猫である』の題名を辛うじて知っている小学生の子どもたちにはつまらなかったようで、五分ほどで会場を一回りしてきて、その後しばらく会場内を行き来していたが、飽きてしまい私たちが来るのを一時間ほど出口のところで待っていたようだ。少々可愛そうだった。なお、この中は貴重な資料を守るため照明が暗くされ、もちろん写真撮影も禁止だった。

この特別展を出て、常設展には6階行きのエレベーターに乗って行った。エレベーターを出ると巨大な空間が広がっており、通常の建物の3階から6階を吹き抜けにして江戸や明治・大正・昭和の東京を様々な形で再現している展示スペースだった。入り口は、お江戸日本橋を復元した木造の橋。江戸の大名屋敷から、庶民の暮らし、物流、娯楽、防火などの展示、明治の文明開化、関東大震災、第二次大戦の空襲、戦後の復興期までを展示してあり、急ぎ足での見学だったが、結構面白かった。

P.S. 漱石展の翌日 夏目鏡子(漱石の妻)談、松岡譲(漱石の長女筆子の夫)筆の『漱石の思い出』(文春文庫)を買い求め読み始めたが、『「坊ちゃん」の時代』で描かれたエピソードのいくつかがここに生き生きと描写されており興味深かった。自伝的な小説『道草』は未読だが、これと併せて読むとまた面白そうだ。

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2007年10月19日 (金)

任天堂DS用 『文学全集』

しばらく、任天堂DSのゲームからは離れていたが、先日Wiiのリモコンのジャケットの無料配布の注文の際に任天堂のホームページを眺めていたら、DS用のソフトで、青空文庫に収納されている著作権切れ(パブリックドメイン)の日本文学の名作100冊が収録されたものが発売予定となっていた。

昨日電気店に立ち寄ってみたら「任天堂 DS文学全集」が平積みになっていた。値段は店頭販売で約2500円。パッケージには収録作品一覧はないが、ホームページで確認できるので要らないのだろう。既に読んだことのあるものも多いが、文学史で名前だけ知っていて実際に読んだことのないものが結構ある。田山花袋の『蒲団』、有島武郎、岡本かの子、尾崎紅葉の『金色夜叉』、織田作之助の『夫婦善哉』、折口信夫『死者の書』、菊池寛、国木田独歩、幸田露伴、小林多喜二、坂口安吾、高山樗牛、武田麟太郎、徳田秋声、徳富蘆花、二葉亭四迷『浮雲』、宮本百合子、横光利一など。もちろん、芥川、漱石、藤村、鴎外、賢治、太宰などの人気作品も多く入っている。(任天堂 公式サイト 収録作品一覧

DS自体、厚手の文庫本よりも少し重いが、持ちやすく、バックライトのおかげで少し薄暗い場所でも読めるので、実用に耐えそうだ。また、老眼用に大きい文字サイズも選べたりする。その他Wi-Fi経由でのダウンロードや通信機能もあったり、BGMなどの瑣末な設定もある。

これまでいろいろ電子ブックが発売されてきたようだが、この普及したゲーム機で容易に読書ができるのは画期的かも知れない。100冊そろっても大きさは変らないのが電子媒体の凄さだ。これで様々なソフトが発売されれば、なかなかだと思う。希望は、賢治全集、漱石全集、シャーロックホームズ全集、シェークスピア全集など、かつて相当大きい版型の全一冊シリーズで出たものがソフト化されれば、すぐにでも買うだろう。

なお、いろいろパラパラ(という擬音が本当にスピーカーから出る!)とめくってみたが、現在、漱石の『草枕』を再読している。あのグレン・グールドの座右の書(ベッドサイドの書?)として音楽ファンにはつとに知られるようになった随筆風小説で、初読のときは退屈だったが、東洋人にして西洋文化を知悉した知識人による東洋的な芸術論として読むときグールドの興味関心に少しでも触れられたような気がして感興が高まるように思う。

P.S. 自分の過去記事で、パブリック・ドメインについての違和感 などと少し偉そうなことを書いてはあるが、最近、パブリック・ドメインの商品を経済的な理由もあり、購入したり、利用したりすることが増えているのは、内心忸怩たる思いだ(^_^;)

(追記:2008/03/14 amazon 個人情報問題で、「Amazonレビューに初投稿してみた。折角だから、Amazon アソシエイトに参加してみた。」については削除、参加保留としている。)

追記:DS Wi-Fiコネクションのトライ

2007/10/28 追加ダウンロードできる作品をみてみたところ、漱石の『夢十夜』や岡本綺堂の『半七捕物帳一』などが含まれていた。このDSをWi-Fiによって無線アクセスポイントにつなぐのは、http://ja.wikipedia.org/wiki/ニンテンドーWi-Fiコネクション のセキュリティの問題の解説によって、使用暗号が旧式(これはDS本体の仕様上の問題でファームウェアの更新で解決できないらしい)だということを知っていたので、躊躇っていたのだが、いったん接続してダウンロードした後、すぐに設定をもどせばいいと考えて実行してみた。

簡単に設定できるアクセスポイントなので、『文学全集』に入っているコネクションガイドブックを参照しながらトライすると、ものの数分で接続でき、早速現在ダウンロード可能なブックをこれも数分でDSに収めることができ、また感想をアップロードし、ランキングもダウンロードできた。総合ランキング1位は『銀河鉄道の夜』、2位『我が輩は猫である』、3位『ごん狐』。その他感想別ランキングでは 痛快部門 1位『蝿男』。感慨深い部門は、『トロッコ』などと参照ができるようになった。

その後、PCで暗号設定を確認すると 確かに WEPに変更されていた。すぐにPCの設定をより強力な暗号に変更し、接続し直し、またWiiも一応接続し直したが、それに30分ほどかかった。

もっともこんな面倒なことをせずとも、DSステーションが設置してある電器や玩具の量販店に持って行けば設定なしにネット接続できるそうなので、今後必要があれば、これを使ってみようと思う。

追記:2007/10/30 Wii リモコンジャケットが1週間ほど前に届いた。早速装着して使ってみたが、これまでのリモコンの太さ・重さに馴れていたので、少々使い勝手が違う。うっかり落としたり、ぶつけたりしたときの保護としては有用だろうが、小学生の手には少し太く重くなりすぎたのではないかと思う。評判はどうなのだろうか?

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2007年10月17日 (水)

初秋の信州へ一泊二日

10/13,14の土日に、伯父伯母の入院見舞いに出かけてきた。子どもは土・日きっぷ(一律3000円)を使ったが、これほど安い割引切符はこれまで知らなかった。

まだ山の紅葉もかすかに始まった程度だったが、朝晩の冷え込みは10度Cを下回るほどで、まだ自宅ではタオルケット程度で寝ているのだが、掛け布団をきちんと掛けてちょうどいいほどだった。夕方には灯油ストーブを使った。

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2007年10月11日 (木)

青梅で遊ぶ 

10月6日から8日はまた三連休。体育の日が10月10日でないのは、どうも違和感がある。先週は、ずーっと喉と頭が痛かったのだが、そのうち気管支がゼイゼイいい始めて咳と痰が出始め、10/3,10/4と仕事を休むほどだるくなった。10/5の金曜日は休めなかったため少し熱があったが出勤してきたので、土曜日はまた寝て過ごし、日曜日はまだ微熱があったが、家族サービスで出かけてきた。

最初は、両国の江戸東京博物館でやっている東北大学図書館所蔵の夏目漱石資料展を見に行こうという予定だったが、子どもも興味もなさそうだし、人ごみもいやだということで、妻が青梅に行こうと言い出して、初めて行く事にした。

我が家からは、立川から青梅線に乗り換え片道訳1時間半程度。私は、あきる野市方面は数度来たことがあるのだが、家族は初めてで、東京とは言え田舎で山河の風情が面白かったようだ。

青梅市全体でレトロ路線をとっているようで、駅の待合室などが昭和30年代風に作ってあったり、懐かしい絵画調の映画ポスターが駅構内に張られており驚いた。駅の山側の小学校ではちょうど秋晴れの日に運動会が開かれていたようだった。

青梅より奥は、相当以前勤め先の山岳部の合同登山が開かれた大岳山まで入ったことがあるのだが、青梅は初めてだった。

まずは、目的地の青梅鉄道公園 http://www.kouhaku.or.jp/ome/index.html に行ってみた。この鉄道車両の展示公園は、交通博物館などのパンフレットで知ってはいたが、ようやく来れたという印象だ。青梅駅裏の丘陵の上にあり、徒歩で15分ほどだが結構上り坂がある。1960年代にできた施設なので、電車模型のパノラマレイアウトも古めかしいものだったが、子どもたちには大人気で、毎正時の運転には大勢の幼児たちがつめかけていた。なぜ男の子は電車模型が好きなのだろうか?実感として脳の性差は確実にあると思う。展示館は二階建てで屋上からは多摩から都心の方が眺められるが、新宿のビル群などは確認できなかった。

屋外展示は、ちょうど屋根掛け工事のため(恐らく近年PHの値が7よりも相当小さくなっている酸性雨の影響から古い鉄製の機関車などを保護するもの)、汽笛一声でも使われた2号蒸気機関車などの貴重な車両は見られなかったが、動輪が五つもあるE型だとか、子どもたちの憧れの、新幹線の0系だとかが展示されており、運転席にも座れることもあり非常に楽しめたようだ。近くの公園には、「タカトンボ」が群れていたが、先日のラジオ放送で聞いたように、赤トンボの姿はあまり見られなかった。昨年の夏には、更埴市の古墳公園で沢山のアキアカネの乱舞を見たのだが。

公園で2時間ほど過ごした後、駅と途中で見かけた赤塚不二夫博物館に子どもたちが行きたいというので、町の方にもどり行ってみた。駅前の青梅街道が駅と同様の昭和レトロ調に統一されており、その中心にこの博物館があるという設定だった。私と妻は外で待っていることにして、子どもたちだけで内部を見学したのだが、外で待っていると、博物館の係りの女性が、展示室の外は無料なので、腰掛けて待っていてもらってもいいですよ、と声を掛けてくれて、室内で『天才バカボン』のアニメを見ながら30分ほど過ごした。この周辺にはそれなりに観光客が詰め掛けていたが、全体的にはひっそりとした町の風情だった。

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2007年10月 5日 (金)

加藤廣『信長の棺』を読む

童門冬二の『直江兼続』を読み返し、続いて司馬遼太郎の『関ヶ原』を読み返した。その間、書店で目に留まった谷口克広著『信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反 (中公新書 1907)』も併読し、以前ベストセラーとなったときに買って読んだ加藤廣『信長の棺』を本棚の奥から探してきて読み直した。

太田牛一(おおた‐ぎゅういち(おほたギウイチ) 安土桃山時代の武将。通称資房など。織田信長、豊臣秀吉、秀頼に仕えた。著「信長記」「太閤軍記」など。一五二七~一六一〇頃Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988より)という実際に信長、秀吉に仕えた武将であり、「信長公記」「太閤さま軍記」を著した「歴史家」を主人公に据え、大胆な仮説により、信長の政治構想と宮廷の対立、光秀の謀反と宮廷および家康の伊賀逃亡・秀吉の中国大返し(反転)のつながり、秀吉の出自と桶狭間の戦勝などを活写した歴史ミステリーに分類される小説で、著者の小説としての処女作であり、相当話題を呼んだものだった。著者は、その後、この本に加えて、秀吉、明智左馬頭(さまのかみ、光秀の娘婿)を主人公とした小説を上梓して、三部作にしたようだが、後二者は未だ読んでいない。

先日、京都の町並みから信長当時の本能寺跡の一部が発掘され堀と石垣があったらしいという新聞記事が掲載されていたが、明智光秀による信長への謀反は、司馬遼太郎がよく引用する安国寺恵瓊の「あおのけに高転び・・・ 藤吉郎はさりとてはの者にて候」という予測にぴったりの、権力の頂点へもう一歩で上り詰めようとしたときに起こった驚天動地の事件だった。

この明智光秀による本能寺の変は、現在でも歴史家たちによりその主犯(共犯)と動機について多くの説が唱えられている。この小説での加藤廣の説も、現在唱えられている陰謀説(黒幕説)の一つとして分類されるものだが、この小説で面白いのは、信長の事跡を伝える点で最も価値が高いとされる『信長公記』という歴史書の著者である太田牛一を主人公の謎解きの探偵にして、消えたとされる信長やその小姓森蘭丸長定等の遺骸(遺骨)の行方を追ったところだろう。また旧本能寺が城郭的な構造を持っていたらしいというので、作者の建築上のフィクションも相当の蓋然性を持つだろう。なお、京都の阿弥陀寺という寺を開基した高僧が大きな役割を果たすのだが、その上人と織田家とのつながりはフィクションなのだろうか?

また、丹波焼(丹波国多紀郡今田(こんだ)村から産出した陶器。奈良・平安時代には須恵器を産し、鎌倉時代に中世陶器(焼締め陶)に転化した。日常雑器を焼いたが、桃山から江戸時代には茶陶にみるべきものを残している。Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988)の工人たちが、隆慶一郎の小説の主題であるいわゆる「自由民」(サンカ)的な性格を持たされ、彼等が歴史の陰で重要な役割を果たしているという設定も少々とってつけた(必然性に欠ける)ように思われることもあったが、面白かった。

読み終えた後、『信長公記』をネットで検索してみたところ、原文をPDFで読めるようにしたサイトもあった。これには、この小説で言及された『信長公記』の首巻も掲載されており、また、信長・家康による武田攻めについても詳しく書かれていた。以前、ルイス・フロイスの【完訳フロイス日本史〈1〉将軍義輝の最期および自由都市堺―織田信長篇(1) (中公文庫)】を3巻まで購入して読み進めたことがあったが、これと併せて読めば、また非常に面白そうだ。

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2007年10月 2日 (火)

映画『真珠の耳飾りの少女』(2003年イギリス)

9/26からフェルメールの『牛乳を注ぐ女』が国立新美術館で公開されているが、前景気を煽るためにかNHKのBS2で表題の映画が9/24に放映されていたのをビデオに収録しておき、急に11月ごろの気温になってしまった9/30の日曜日に家族で鑑賞した。

子どもたちも以前一緒にブリヂストン美術館に見に行ったルノワールだとか、この春に見たレオナルドだとか、ゴッホ、ピカソ、ダリなどの画家の名前を知っているが、このフェルメールは(最近買った世界史年表にも名前が出てこないので学校教育ではあまり教えられないようで)知らなかった。

2000年にこちらに引っ越してきたばかりのとき、上野の国立西洋美術館でちょうどフェルメールとレンブラントとオランダの画家たち展に家族で出かけて見た『恋文』が初めて生で見たフェルメールだったが、幼かった子どもたちをつれていったのだが、さすがにまったく覚えておらず、そのときに買った展示目録やフェルメール特集の「週刊美術」を出してきて見せたが、それほど興味を引かないようだった。私自身もフェルメールを知ったのは、ようやく20代になってからで、インターネットにつないでダウンロードした『デルフトの眺望』を壁紙にしていたこともあった。

さて、この映画だが、日本語版も出ている小説(白水社)を元にした映画だという。印象的な『真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)』のモデルが誰かを探ったフィクションであり、歴史上の有名人の伝記的な疑問を解き明かそうとして独自の想像を働かせたという点では、ベートーヴェンの不滅の恋人を扱った『不滅の愛』に通じるものがあった。

さて、フェルメールは、日本で言えば江戸時代の初期に活動したオランダの画家で、映画ではその生涯をすごしたデルフトの運河界隈の情景を巧みに再現しているようで、興味深かった。この頃のオランダは鎖国していた日本と長崎の出島を通じて交渉を持っていたということを子どもたちに話しながら見た。そう考えると港の船や商店などもまったく縁のない時代や場所ではなく思えたから不思議だ。

映画では、フェルメール家の年配の召使いが、『牛乳を注ぐ召使い』とそっくりだったり、フェルメールの妻が『手紙を読む青い衣の婦人』と同じ妊婦だったり、『真珠の<<首飾り>>の婦人』はパトロン夫人がモデルだったり、『合奏』そのままの場面のヴァージナル(ハープシコード?)がフェルメール家に置かれていて画家と夫人が演奏を楽しんだり、『水差しを持つ若い女性』をアトリエで描いていたりで、ところどころフェルメールの絵そのままの映像が非常に美しかった。また、屋根裏部屋での絵の具の調合の場面では、ラピスラズリや墨などの色素をすりつぶしたりと亜麻仁油と調合するなどの技術を習得するためにこそ画家の弟子入りが必要なのだろうということがなるほどと思わせるようによく描かれていて面白かった。

また、新教国であるはずのオランダだが、フィクションの若い召使いグリートの家やそのボーイフレンドの肉屋はプロテスタントであり、フェルメール家やそのパトロンは贅沢な食事を楽しむなどカトリックであったようで、その差異も丁寧に描かれていた。庶民のレベルでは共存していたようだ。

フェルメールが用いたと想像されているカメラ・オブスクラは、ディズニーシーのフォートレス・エクスプロレーションにも実物が置かれていたが、この映画でもレンズ付きのものが再現されていた。望遠鏡を発明したホイヘンスがちょうどフェルメールの同時代人であり、フェルメールはいち早くレンズを用いた機械を入手したという設定だろう。

その生涯の詳細があまりわかっていないフェルメールの残した印象的な『少女』のモデルとしてはフェルメールの娘ではないかと言う説も唱えられているが、自分の娘にあのような清潔とは言え、いわゆるコケットリーを持たせることはありえず、むしろ原作の小説、この映画の唱える説が相当蓋然的であるように思った。

この映画の主人公である『少女』を演じたのは、『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年作品でコメディに分類されるのだという!)での物憂げな演技が印象に残ったスカーレット・ヨハンソン。ファミリーネーム的には恐らく、スカンジナビア系の出身だと思うが、『少女』に瓜二つというわけではなく、『少女』の微笑よりも、堪える女性を感じさせた。台詞の少ない抑制的な演技がなかなかだった。

なお、映画と小説のエンディングは少々異なるらしい。またアメリカではR指定というだけあり、少々小学生には早い恋愛シーンもあった。

参考図版:WIKIMEDIA COMMONS フェルメール

フェルメールの作品は、その細部までの細かい書き込みのため、画像では比較的大きく拡大されて紹介されることが多いのだが、意外にも非常に小さい。

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