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2007年10月26日 (金)

ディジタル時代のパブリックドメイン化とオリジナルの価値

このBLOGでも以前何回か触れ(リンクも張ってある)クラシック音楽の楽譜のパブリックドメインサイト International Music Score Library Project (IMSLP)が閉鎖されたという。巡回しているいくつかのBLOGで話題になっていた。

これまでシューマンのピアノ曲や『イスラメイ』などの記事のときに活用させてもらっていて便利だなと思っていたのだが、「国による著作権の扱いによって違法性がある場合があるので注意せよ」というサイトでのコメントが気にはなっていた。どのようなクレームがあったのか分からないが、青空文庫やプロジェクト・グーテンベルクなどのボランティア自身がテキストを底本を参照して独自に入力しているのとは違い、自らが楽譜編集ソフトなどを使って楽譜化したものではなく、著作権切れとされるクラシック音楽の出版譜を単純にpdf化してアップしただけのものがほとんどだったので、危惧を抱いてはいた。

先日『DS文学全集』というようなパブリックドメインものの記事を書いたおり、以前書いた『パブリック・ドメインについての違和感』を思うと内心忸怩たる思いもあるということを記したが、ネットではパブリックドメインに触れる機会が増えている。

しかし、このパブリックドメインなるものについては、著作権 COPYRIGHT(複写・印刷する権利)の 直接の対象である「ORIGINAL作品の創造者の権利」のほかに、音楽や文学作品では、一般に流布するようになるまでに清書、校訂、翻訳(これには音楽の演奏作業も含まれる)作業などが欠かせないもので、これらにも周辺的な権利が発生するはずだと思い、そのことを上記の『違和感』で書いてみたのだが。

簡単に言ってしまえば、既に創造者やその家族・子孫、出版社などの権利者が十分にその権利を享受した後には、それらの創造物は人類の共有であるべき文物(社会の共有財産)として組み入れるべきだという考え方がパブリックドメインの基礎なのだろう。ただ、これらによって生活を立てている個人、法人があるところにやっかいな問題がある。特に理論的には寿命がない法人の存在だ。

さて、そんなおり、先日の漱石展で刺激を受けて、このところ漱石周辺のエッセイなどを読んでいたら、折も折、下記の『直筆で読む「坊ちゃん」』という書籍が出版されたので早速もとめて読み始めた。

作曲家の楽譜も、オリジナルから清書され、印刷譜(総譜、パート譜)になる段階で、様々な人の手を経ることになるが、この書籍の冒頭の漱石全集編集者の解説によると、作家の原稿も楽譜同様、オリジナルから活字となるまでにはやはり様々な人の手を経由するようだ。現在、通常に入手できる文庫本や上記のパブリックドメインのウェブテキストなどは、どれもこれも同じテキストなのだろうと思っているが、(旧字旧かなは別にしても)オリジナルからの読み取りによって様々な異同があるようなのだ。特に、漱石の場合、独特な書き癖や、用字、変体仮名の使用などがあり、細かいニュアンス的な部分では、無視し難い疑問もあるのだという。まだ、原稿は冒頭の数ページしか読めてはいないが、それほど苦労なく読めそうだ。

ところで、デジタル電子情報は、劣化のない複製(COPY)が可能で、パブリックに共有されやすい。オリジナル情報は唯一性を保っているが、オリジナルは、非常に読み取りにくいものであることがこの「直筆」からよく分かる。そこから「活字」になるまでにある種の変容を受けざるを得ない。そして、それが著作権保護期間を経て、パブリックドメイン化する。

ディジタルデータは、複製の容易さとともに、簡単に変更できるという利点でありかつ欠点を持っている。その意味でも、オリジナル資料は重要であろう。もっと宇宙的な想像を働かせれば(その場合に人類そのものがそれに耐えられるかどうかは棚上げにしておくが)、バン・アレン帯で守られている地球にその保護を突破するような強烈な太陽風や宇宙線が降ってくれば、電磁気データの多くは変容を受けてしまうだろう(金属スパッタリング,エッチングによるCDやDVDは大丈夫か?)。ディジタル化、電子化はその意味では非常に脆いものだともいえる。

何を言いたいのか分からなくなってきたが、たとえ電子複製が席巻するようになっても、オリジナルの価値は非常に高いということだ。

現代のクリエーター(広い意味)達は、その多くがコンピューターをその創造活動に利用しているが、その意味ではオリジナルの喪失・変容という危険を絶えずはらんでいることを頭の隅においておくべきではなかろうか。その点、紙媒体は非常に火には弱いとは言え、『坊ちゃん』の原稿のようにこうして100年もの間保管され、そして写真版として出版も可能だ。(マイクロフィルムの保存性、耐変質性はどうなのだろうか?) また、酸性紙ではない、日本古来の和紙に書かれた文書などは、例の山本勘助実在説につながる市川(市河)文書など、甲州から信州、越後、会津、米沢を経て、釧路で再発見されたように、500年近い星霜を経ても当時の貴重な情報をもたらしてくれている。ディジタルデータにそのような長期間の保存性はあるものだろうか?単純な結論ではあるが、便利さの裏面にある欠点を忘れるべきではないだろう。

p.s. 日本では著者没後50年間の著作権保護なので、若くして49歳で死去した漱石の場合、その妻と子ども達は印税の恩恵を相当受けたようだが、孫まではその恩恵が伝わらなかったという(『漱石の孫』)。尤も、漱石との生活で辛苦をともにし、また漱石の心の病によりいわれぬ虐待的な仕打ちを受けたこともあった妻子の場合は、印税の益を享受する権利はあるだろうとは思った。そして妻鏡子や長男純一は、印税収入によって相当豊かな生活を送ったようだ。下世話な想像をすれば、このことも鏡子悪妻説に影響を与えているのかも知れない。

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