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2007年11月29日 (木)

『反音楽史』『音楽史ほんとうの話』

先週の日曜日、母方の伯父の告別式に列席してきた。大正14年生まれで、太平洋戦争に応召し、辛うじて生還し、農業に打ち込み、伯父や母の生まれた頃の高冷地の寒村を日本でも有数の農業村に築き上げた一角を担った一生で、村の多くの親戚、知人が列席する盛大な告別式だった。改めて冥福を祈りたい。

母方の親戚の多い村のため、名前を知らぬ列席者の顔立ちは、遺伝子の不思議さを象徴するかのように、多くの人々がどこかしら似ている風貌をしているのを見て改めて驚かされた。

その前の連休から風邪気味だったが、告別式へは列車で往復して、その疲れが出たものか、喉が痛む風邪を引き、火曜日から勤務を休んでいる。風邪で伏せりながら、買い置いてあった本を読んで過ごしている。

先日読んだランドンの『モーツァルト』の訳者である石井宏氏の『反音楽史 さらば、ベートーヴェン』(カバーを取ると Contre-histoire de la Musique L'adieu à Beethoven というフランス語が書かれているのが微妙)を読んでみた。前半は、非常に面白かった。

ドイツ人がプロイセンによる富国強兵政策と平行して、音楽史というジャンルを創設しそれを愛国主義的・ショーヴィニズム・ジンゴイズム的にドイツ寄りに書いていったという指摘は非常に面白く、主にパウル・ベッカーなる音楽史家が俎上に挙げられている。そして、有名なモーツァルト研究家であるアインシュタイン(ケッヘルカタログ第3版の編纂者で、ユダヤ系の音楽学者で後に遠縁とも言われる物理学者と同じく米国へ亡命した)も引っ張り出されて、その愛国主義的なドイツ中心主義(イタリア軽視主義)を批判されている。

まず、この反音楽史は、いわゆるバロック以降の音楽史がドイツ中心に記述され、本家本元のイタリアが無視されて来たことに憤っている。また、このドイツ的な音楽史がその後の音楽の歩みを機制して、ついには12音楽派により音楽が行き詰ってしまったことを嘆く。そして、温故知新的な観点及び演奏者優位の観点から西洋音楽史を見直すべきだとぶち上げる。

しかし、この最後の壮大な構想はこの343ページに渡る著作では実現されておらず、尻すぼみの様相を呈しているのが残念だ。最後には、ジャズを持ち出して、その即興的な音楽を称揚し、楽譜・原典至上主義に陥っているクラシック音楽界を嘆いているが、木に竹を接ぐ観があり、いったいこれまで延々と論じられたことは何だったのかという肩透かしを食ったような気がしてしまった。

それでもモーツァルティアンとして知られる石井氏だけのことはあり、イタリア人が隆盛だった「18世紀のオペラ界、音楽界」において、モーツァルトの位置が実際にどうだったのか、ハイドンの位置は、ベートーヴェンは?という面は非常に面白く、またヴィヴァルディ、ヘンデル、ロンドンのバッハ(J.C.バッハ)等の復権という面では啓蒙的であり、勉強になった。また、モーツァルトの『魔笛』のフリーメーソン性については、多くの面から非常に疑わしいということも示唆されていてこれも面白く、なぜグルックがオペラ改革者とされながら、その後のオペラはグルックの影響を受けていないのかという疑問もこの本によって説明が付けられていた。

このような細かい部分では、非常に説得力がある記述が多いのだが、全体の構想があまりにも壮大過ぎるようで、部分部分エッセイとしては面白いが、大風呂敷過ぎる点と結論の尻すぼみさには「さらば、ベートーヴェン」という訣別の言葉もむなしいように思えた。また、音楽評論家でもあったシューマンの言辞について、多く語られているが、この辺りになるとこちらの理解が届かないのか、それとも筆者の言わんとしていることが散漫なのか、どうも隔靴掻痒だった。というのも、ドイツ音楽のもう一方のメインストリームであるヴァーグナーについて充分に語られていないのが、その直接的な要因ではあるまいか? 筆者の言うシューマン的なドイツ音楽賞賛からヴァーグナーが出たのでもあるまいし、またその後の音楽の展開は、この巨人ヴァーグナーの影響とそれとの対決、克服なしには語られないと思うからだ。また、ピアノという楽器の登場による器楽の興隆ということと、ドイツ音楽の隆盛という歴史的な現実も看過されているようにも思えた。

その意味で、この本が17世紀から19世紀のイタリア音楽の復権という点に絞って書かれていればもっとまとまった印象が得られたのではないかと思う。『アマデウス』に登場するジュゼッペ・ボンノが本来はドイツ系であり、アドルフ・ハッセもドイツ人ながらイタリアオペラの大家で、また『ドン・ジョヴァンニ』に引用されるソレルやサルティのことなど、モーツァルト史の裏面史という(むしろこちらが表面史かも知れない)面を強調した方が、よかったも知れない。むしろ、全体的な散漫さにもかかわらず、この辺りにこの本の真骨頂があるのだろう。

また、これ以前に買ってありところどころ拾い読みをしたままになっていた西原稔『音楽史ほんとうの話』も改めて読み直した。これは桐朋学園の音楽史の教授である西原氏の書き下ろしのエッセイで、珍しいエピソードがちりばめられておりこちらもなかなか面白かった。興味のあったのは、ロッシーニの早い引退の理由だが、これはこの本の記述が納得できた。また、意外だったのはシューベルトの晩年の経済状態と社会的地位。なお期待はずれだったのは、サン=サーンスが特にフランスで嫌われ続けていることの理由の説明。非常に興味のある点だったが、あまり明快な解説になっていなかった。なお、冒頭のバッハの最初のコレクターであるフォルケルとネーゲリについては面白かった。

西洋音楽史については、先年中公文庫から岡田暁生氏による通史として面白いものが出版されたというが、未読なので、いずれこちらも読んでみたいものだ。

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