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2008年5月の18件の記事

2008年5月31日 (土)

ブレンデルのベートーヴェン『月光・悲愴・熱情』(1970年代録音)

雨の土曜日。先日までの初夏の気温から一挙に春先の気温に下がってしまった。

今年でブレンデルは現役引退すると表明したとのことで、手持ちのハイドンやシューベルト、シューマン、ブラームスなどを聴いているが、最近ユニバーサル系のシリーズものJupiterというシリーズで、1970年代フィリプス録音の「三大ソナタ」が入手できたので、気軽な気持ちで聴き始めてみた。

ベートーヴェン 

ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調 作品27の2『月光』
 6:04/2:25/7:34

ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 作品13『悲愴』
 9:42/5:19/4:32

ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調 作品57『熱情』
  9:55/6:40/8:11

ウームとうなってしまった。ブレンデルのベートーヴェンをこれまでほとんど聴いてこなかったのを後悔している。生演奏の『ディアベリ変奏曲』を聴いたり、『エロイカ変奏曲』をCDで聴いた程度で、協奏曲やソナタも始終FM放送を聴いていた頃には耳にしたのだろうが、エアチェックでもLP,CDでも何故か購入する機会がなかったのだ。

ピアノの音色の滲みのなさ、音色・表情の切り替えの的確さ・素早さ、指回り、構成力、緻密さ、そしてフィリップス録音だけあって録音に気になる癖が少ないなど、私にとって十二分に満足できるものだった。

一般には、三回目の全曲録音の90年代のものの評価が高いようでそれも聴いてみたいし、古いVox時代のものにも興味があるが、今から約30年前の壮年期の70年代のブレンデルだから余計に今の自分にピッタリするのかも知れない。90年代の来日時にテレビ放送で視聴した後期の三大ソナタは、演奏の完成度の点で少々不満が残るものだったので。

曲順にちょっと印象をメモしておこう。

『月光』は、第1楽章は遅くもなく速くもないテンポで粘らずに奏されるが、ペダルの使い方が巧いのだろう和音も濁らず、オルガン的な低音もしっかり持続され、継続する八分音符三つのリズムもゴツゴツせずに滑らかで付点音符も嫌味がない。中間部のクレッシェンドの盛り上がりもまことに自然だ(それだけ精密ということだが)。第2楽章は、主部も比較的重いテンポでダイナミックの幅も大きく取っており、音色的にも曇り気味なので、「二つの深淵の間の花」のような愛らしい音楽にはなっていない。第3楽章のクライマックスに向けての助走というイメージだ。第3楽章は、激しい情緒ながら厳格で細部まで繊細な神経が感じられる演奏だ。この楽章はピアノソナタにおける『エロイカ』的な飛躍のような音楽で、濃厚な情緒を幅広いピアノフォルテの能力によってまさに鍵盤狭しと荒れ狂うように表現するが、ブレンデルはそれを崩すことなく、音色や和声的な濁りも感じさせず大きなスケールとダイナミックによって描ききっている。

『悲愴』は、初期作であることを感じさせる比較的ノンレガート的な弾き方で、小気味よい音楽になっている。第1楽章のグラーヴェも鈍重な響きになることなく、主部の低音のオクターブによる持続もゴツゴツせずに、若々しいセンチメントに溢れた主題を疾走させている。(なお、この楽章はR.ゼルキンのようにグラーヴェ冒頭からリピートする例があるが、ブレンデルのリピートは、主部から。)展開部のグラーヴェはためらいがちで少々遅い。コーダの和音は決然と終わる。第2楽章の美しいメロディーもロマンティックに崩すことなく、品格が感じられる。第3楽章のロンドはこの音楽そのものが本来的に持っている少々感傷的な甘さも湛えつつ、駆け抜ける。

『熱情』は、第1楽章の冴えた高音の音色が目覚しい。非常に技巧的な音の細かい部分では少し指回りが苦しいところもあるように聴こえるが情緒の真正さが感じられる。第2楽章の変奏曲は、多くの演奏で比較的空虚さを感じてきたが主題の柔らかい音色と和声の流れが分かるような演奏が素晴らしく、その後の変奏の描き分けも統一感があるにも関らず多彩な音楽を聞かせてくれる。ディアベリ変奏曲でもそうだったが、変奏曲が巧いように思う。第3楽章も意識や情緒の気まぐれな中断がなく、音楽としての内容の維持が提示部なら提示部で持続するような音楽作りが感じられる。その意味で非常に安定して信頼性の高い音楽だということが言えるのかも知れないと思った。展開部になるとその一貫した情緒やアーティキュレーションに微妙に変化がもたらされる。この辺りが構成感がよくつかめる要因なのだろうと思う。プレストでは、主部よりテンポアップされている。新主題と第1主題によるコーダは、精密さと熱狂の絶妙な結合が聴かれ、崩れがまったくない。ここで、第1主題の対旋律を抽出して提示するのはこれまであまり耳にしなかったので新鮮だった。

ブレンデルは、上で挙げた作曲家のほかモーツァルト、リストなど自らレパートリーとなる作曲家を絞り、深めていったという意味でオールラウンダーが多い現代ではユニークな方のピアニストだと言えるだろう。バッハも得意としていたが『平均律』は録音されていないのだろうか、という思いがある。バッハのフーガを、現代ピアノの機能を十分に発揮させたブレンデルの明晰なピアノで聴いてみたい。

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2008年5月29日 (木)

5/29は『春の祭典』初演日だそうだ

「1913年5月29日 パリで、ストラヴィンスキーのバレエ「春の祭典」がニジンスキーの振付けで初演される。」

初演者 ピエール・モントゥーの指揮のものを聴きたいのだが、まだ聴いたことがない。

最近は、長男も「ハルサイ」よりもボロディンを好んでいるためあまり聴く機会がないが、久しぶりに 小澤/BSO のしなやかで軽快な演奏を聴いてみよう。ドラティ、C.デイヴィス、ゲルギエフのものもいいが、モントゥーが常任を務めていたことがあるBSO は、その伝統が残っているかも知れない。

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2008年5月28日 (水)

小澤征爾 武満徹 『音楽』(新潮文庫)

先日の新聞の広告を見たら、2008年のサイトウキネンフェスティバルのオペラは、ヤナーチェクの『利口な女狐の物語』を取り上げるのだという。以前にも確かヤナーチェクを取り上げたことがあったので、小澤征爾は結構ヤナーチェクのオペラが好きなのかも知れない。ただ、小澤氏は椎間板ヘルニアのため現在休養中だということで、水戸室内管弦楽団の定期公演に代演を立てるという新聞記事を読んだ。是非夏までには治癒して欲しい。公演を見るのは無理だろうが、是非舞台を映像に記録して後日市販して欲しい。

さて、この文庫だが、オリジナルは昭和56年(1981年)刊行されたもので、既に27年も経ってしまった。しかし、自分が未だ若い頃のものなので、なんとなくつい昨日のような気もする。いわゆる同時代という感じだ。武満徹も勿論元気だった頃、もう長野県の御代田町に居を構えていたのだろうか?

同じく対談集で大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した後に、小澤征爾と対談した『同じ年に生まれて』もそれなりに面白かったが、この『音楽』も面白かった。ただ、あまり深みが感じられない。昔、ああだった、こうだったという回顧談が多いように思う。もっと武満の発言を読んでみたかったが、どうも小澤のペースの対談のようだ。ざっくばらんで物怖じしない人柄のようなので、無理からぬところはあると思うが。それでも、武満が「岩城宏之の指揮がよかった」というところでは、小澤が相槌を打たないところなど、結構なるほどと思うところもある。

ちょうど中国が四人組の追放の前後で、武満が訪中、小澤が単身訪中し北京のオーケストラでブラームスを振り、その後ボストン響を引き連れて訪中という頃に当たっており、その意味で、その時代の記録としては結構面白い。

最近、中国出身のユンディ・リとラヴェルのピアノ協奏曲で共演したCDが出たり、ランランとは以前から共演していたりで、中国出身の音楽家の出現を当時から予想していたが、それが実現したのは喜びだろうと思う。

ただ、日本の音楽界についての言及は、何回かの対談を合わせたものだけあり、多少自己矛盾しているような発言も見受けられ、そのことが結構アンビバレントな感情を窺わせるようにも思う。

20世紀の日本を代表する稀代の音楽家同士の対談で、それなりに貴重なものだが、やはり深みという点で物足りなさを覚えてしまうのが、残念だ。

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2008年5月27日 (火)

アニメ映画『アズールとアスマール』(ミシェル・オスロ監督)

一休している間に見た映画の話。

2007年?日本公開されたばかりのフランスのアニメーションのようで、DVDを妻が借りてきた。借りてきた本人も子ども達も、また私も内容をまったく知らず、またアニメーションのオープニングが子ども向けのいわゆる「つかみ」要素の少ないものだったため、妻は居眠り、子ども達は不平たらたらだった。

どうやら、ジブリミュージアムによる海外アニメの紹介シリーズの一本のようだ。

見ているうちに、非常に質の高い色彩表現に驚かされ、またアラブ風のエキゾチシズムにも魅了されていく。絵柄は、ヨーロッパのタペストリーを彷彿とさせる様式的な要素が強い。

子ども達も私も次第に引き込まれ、次第に物語は高潮していき、最後は予定調和的な大団円にいたり、カタルシスを得られた。

一言では言い切れないが、敢えてテーマを示せば、ヨーロッパとアラブ(北アフリカ)文化の対立と融合を寓話として描いたものだろう。

フランスと言えば、旧植民地の北アフリカや、中央アフリカから多くの移民が移住して来ているが、自らが招いたことであるのに、狭量な愛国主義者たちによる差別、宗教弾圧(ベールの禁止)の様相とそれに対する反発(暴動)が近年続いている。この映画はそれらに対するフランス内部からの意思表示の一つなのかも知れないとも思った。

特典映像では、一時期テレビCMもやっていたらしく、CFも収録されていたが、これまでまったく知らなかった。「キリクと魔女」という作品もこのオスロという監督の作品だといい、この名前は聞いたことがあったのだが、世界は広いと思った。日本的なアニメーションとは対極的で、その日本的なアニメーションの総本山のジブリがこれをリリースしているのもまた懐が広い。なお、アラブの小公女(リトルプリンセス)が登場するが、この日本語吹き替えがイメージ通りで、特典映像でオスロ監督も誉めていた。

追記:記事を書いた後で、ネットを検索したら、非常によくまとまっており、また私の感じ方に近い意見を発見した。『超映画批評』というページ 『アズールとアスマール』95点

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2008年5月26日 (月)

ベートーヴェン 交響曲第5番 最近入手した録音(クレンペラー、カラヤン、飯守)

5月の5番。

Klempler_beethoven5_8 ◎今更ながらだが、クレンペラーの演奏は、テンポは遅いがまったく弛緩しておらず、逆にそのテンポが雄大さを強調して素晴らしい。しかしクレンペラーの場合雄大と言えども、茫洋とした細部の不徹底はまったくなく、むしろ細部の明晰な積み上げが雄大さにつながっているのだと感じる。吉田秀和氏の『世界の指揮者』では、ヴィーンフィルとのライヴラジオ放送の演奏のことが書かれていた(新潮文庫版 P.70-71) が、それを読み直してまさにここに書かれているような演奏をこのフィルハーモニア盤でも聴くことができた。本当にクレンペラーを聴くと毎回驚かされる。未だ聴いていない録音も多いので余計楽しみなことだ。 8:52/11:08/6:13/13:18 (1960年録音)

ちなみにバーンスタイン/NYP の1961年録音 8:38/10:11/4:59/11:27(提示部リピート)で、第一楽章のゆっくりしたテンポが似通っている。久しぶりに聴いてみたら、非常に柔和で優しい第一楽章で驚いた。LPでそれこそ何度も聴いた演奏で、その後いろいろ聴き比べるうちに、緊張感に乏しい粗が目立つ演奏のようなイメージになっていたが、こちらが遅いテンポのもの(クリップスのモーツァルトやクレンペラーの多くの録音)を味わえるようになって来たためか、味わい深い演奏だった。ただ、終楽章は解放的で荒ぶる演奏だ。

Beethoven_5_karajan_bpo ◎カラヤン/BPO は、1977年録音盤。7:07/9:27/4:37/8:38
所要時間的にはカラヤンのものはモダン楽器のものとしては非常に速い部類だ。クレンペラーは逆に非常に時間を掛けており、また第4楽章は提示部リピートを忠実に行っているので余計その差が広がる。これまで、カラヤン/BPOのベートーヴェンはほとんど聴いてこなかったが、"The Great Composers"シリーズの記念すべき第1巻が出ていたので購入して聴くことができた。(フィルアップは、1960年代の序曲集「エグモント」、「コリオラン」、「フィデリオ」、「レオノーレ3番」)。カラヤンの指揮と聴かなければ、巧い演奏だという感想が素直に出るのだろうが、1974年のC.クライバーの録音(7:17 / 9:56 / 5:07/ 10:48 =提示部リピート) の後、カラヤンがどのような演奏を聞かせるかに興味があったが、同様に動的で引き締まった古典主義的解釈だが、今聴くと意外にもこのカラヤン盤の方がしっくりする。一時期は、クライバー盤が自分としても決定盤のように感じていたが、やはりこちらも聴き方、感じ方が変わってきたようだ。タイミングは、カラヤンとクライバーは大変似ている。

◎飯守泰次郎/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 2000年7月27日東京文化会館ライヴ 6:50/ 9:11/ 7:33/ 10:13

これは、ベーレンライター新版に基づく日本初の全集ということで話題になったもの。真正なベーレンライター新版に基づくものではなかったが、モダン楽器によるピリオドアプローチを取り入れた演奏ということでは、例のジンマン指揮のチューリヒ・トーンハレの全集のもの(6:49/ 8:45/ 7:19/ 10:25 )に通じるものがある。これまでのモダン楽器による解釈、演奏スタイルとは異なるもので、軽快で鋭く、クライバーに比べてもより躍動的な演奏になっている。

数年前にもセルとライナーの演奏でこの5番を聴き比べたが、様々なアプローチが楽しめ、非常に面白い。

クリュイタンス/BPO<1958>                  8:24/9:51/5:29/9:08
クレンペラー/PO<1960>                    8:52/11:08/6:13/13:18
カラヤン/BPO<1977>                        7:07/9:27/4:37/8:38
ブロムシュテット/SKD <1977>              8:05/11:21/8:53/8:52
K.ザンデルリング/PO<1980?>             8:04/10:38/6:05/10:23
飯守泰次郎/東京シティ・フィル             6:50/ 9:11/ 7:33/ 10:13
---
ライナー/CSO<1959/5/4>          7:30/10:05/5:26/8:01
セル/CLO<1963/10/11&25>         7:31/10:01/5:30/8:32
セル/VPO<1969/8/24>            7:45/10:13/5:35/8:34(拍手を入れて9:12)

フルトヴェングラー/BPO<1947/5/27Live>  8:44/10:55/5:37/8:11
バーンスタイン/NYP<1961/9/25>      8:38/10:11/4:59/11:27
バーンスタイン/VPO<1977/9>        8:38/10:19/5:23/11:17
C.クライバー/VPO<1974/3&4>        7:17/9:56/5:07/10:48
小澤/BSO<1981/1/24&26>         7:15/10:18/5:26/8:24
ジンマン/チューリヒ・トーンハレ
        <1997/3/25&26>        6:49/8:45/7:19/10:25

追記:2008/10/07 うっかり、モントゥー/LSO<1961>の録音のことを忘れていた。昨晩、交響曲の第4番が聴きたくなり、2枚組みの2、4、5&7番が手近にあったので取り出したが、さて上記の記事でこのCDのタイミングを書かなかったような気がして、確かめてみたら書いてなかった。

モントゥー/LSO <1961>                     7:08/9:11/5:01/8:51 
   上記のリストの中では、タイミング上は、カラヤン<1977>とライナー<1959>が比較的似ている。演奏は、三者とも非常に異なるけれども。久しぶりに聴いたところ、最後まで聴いてしまった。なんて「面白い」演奏だろうか。モントゥーの録音には何か新たな発見があるような気がする。特に今晩面白いと感じたのは、第4楽章。ヴァイオリンの対抗配置ということもあるのだが、あれこんなフレーズがこんなところにあったっけ?というような部分がところどころにあり、80数歳の指揮者の音楽の凄さに改めて感服した。

 

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2008年5月25日 (日)

指揮者のテンポ保持の難しさ

今日、5/25(日)の「題名のない音楽会」で、ゲストのジャーナリスト鳥越俊太郎氏がモーツァルトの第40番交響曲の第一楽章の提示部第1主題部までを指揮したが、次第にテンポが遅くなっていくのが聴いていて分かった。

その実演の後、司会者の佐渡裕氏が、テンポを維持するのは、CDを聴きながら指揮の真似をするのと違い難しいと語っていたが、このテンポの維持能力というのが職業指揮者の必要条件の一つだろうと思った。以前から有名曲で同じ指揮者の時期の違う録音を聴き比べを楽しみそのタイミングを比較することをときおりやっているが、同じ指揮者ならば録音時期や楽団、場所が異なっても、ライブでもスタジオでもほぼ同じテンポが維持されているのはに驚かされた(セルのCLO,VPO、バーンスタインのNYP, VPOのベートーヴェンの第5など)。トスカニーニがその点ではまったくプロフェッショナルな正確さを持っており、当時まだ編集技術が高度でなかった時代には切り貼りが非常に容易だったのだという。またそのような正確なテンポ感を持っていたがゆえに、トスカニーニはフルトヴェングラーの即興的な演奏をアマチュア的だと評していたとも聞く。

私事だが、以前、コーラスをやっていたとき、指揮者やリーダーが不在のとき、私も練習指揮をやってみたことがあったが、テンポがどんどん速くなってしまい困ったことがあった。ピアノを弾いていても、弾けるテンポでつい弾いてしまい、あるべきテンポでの演奏がなかなかできない。

今回の鳥越氏の場合には、演奏後に、自分の音楽がやけに遅いなと感じたと語っていたが、オーケストラ(東京シティフィルハーモニー)がその次第に遅くなる指揮のテンポに追随して聞かせたのもなかなか高度な演奏であろうと思った。めったにそのような稚拙な演奏を聞くことができないので、逆にあの「のだめ」のときの下手な演奏のような面白さがある。その点、他の応募指揮者たちは子どもも大人もなかなか素晴らしい指揮を繰り広げていた。

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小復活、名曲探偵アマデウス事件ファイル#7 モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調

しばらく休んでいたが、少し復活した。連休明けのストレスで、心療内科で投薬をしてもらったが、それがよく効き、朝が起きれなくなってしまった。思い切ってじっくり休んだ。また、先週月曜日の吹き降りの大雨の朝、鉄筋コンクリート造りの最上階ではないのに、外壁に激しく打ち付けた雨が滲み込んだのか天井から雨漏りがしてしまい、その対応にも追われるなど、激しい波のある半月だった。そんなこんなでしばらく休養した。

土曜日と今日日曜日も雨が降っているが、吹き付ける雨ではないためか、今のところ雨漏りはしていない。工事は外壁にあるだろうと思われる隙間を埋めるものになるようで、しばらく時間がかかりそうで、この際雨漏りのあった部屋(子ども部屋)の大量のおもちゃ類を整理しようということになった。(自分のCD,書籍も収拾がつかなくなりつつあるので整理が必要なのだが。)

さて、先週の日曜日の夜の23時からの番組をビデオ録画しておいてみた。

櫻井淳子扮する銀座のクラブのママ(卯たひめの雪乃)。客の小説家に恋をした。その小説家は気まぐれで悪魔的でその心が分からない。彼がそのママの店を訪れたときそこのピアノで弾いたのがテレサ・テンの『つぐない』(窓に西日の当たる部屋は・・・)のメロディーによく似た曲。そしてその男は姿を現さなくなった。この曲に託したその男のメッセージとは? ママの恋はどうなるのか?

例外的なニ短調の曲。第1楽章は不安を感じさせるシンコペーションとアウフタクトの低音リズムが組み合わせられる。「アンサンブル・プリマベーラ」という室内楽団体?による実験(シンコペしない、する)も面白かったが、それほどの違いは感じられなかった。

オケによるシンコペとアウフタクトも第1主題部の前半だが、ピアノが独自の主題を奏する。これがこの曲の特徴。この主題について毎回登場する玉川大学の准教授、野本由紀夫氏は「ため旋律」と呼び、8度の飛躍とため息、10度の飛躍とため息のように「がんばろう、だめかも。がんばろう、だめかも」の繰り返しだと語る。なるほど。このピアノ協奏曲は、いわゆる「おきて破り」で、同時代の例のサリエリのピアノ協奏曲変ロ長調の冒頭部分が比較のために用いられたが、これがなかなか聴き応えのありそうな曲だった(ナクソスなどで聞けるだろうか?)。このような祝祭的な華やかな曲に対して、暗く、静かで、オケとピアノが違うメロディーを扱うのはデモーニシュで非常に珍しいとのこと。

第2楽章(の主部)は、親しみやすくおだやか。安堵と調和の世界。高音の旋律と低音の伴奏がちょうどソプラノとテノールの女声と男声による二重唱のよう。よりそってデュエットをしているかのようだ。この楽章は Romance (英語ではロマンスだが、ロマンツェと読む)という名前。

BGMがジュノムに切り替わり、モーツァルトのピアノ協奏曲論(音楽通もそうでない人も楽しめるのがピアノ協奏曲の極意)が紹介、フォルテピアノの開発も大きな影響。ベートヴェンはカデンツァを作曲し愛奏、ブラームスもこの曲を愛奏したことが紹介される。

また、ママが登場。「彼がお店に現われたが、私のことを無視して冷たくする」。まさに第3楽章の冒頭の追い立てられ不安に突き落とされたまま走り続けるよう。「告白に対する拒絶」。属九の和音(最も激しい不協和音)も用いられている。しかし、第1楽章のピアノ主題が、それに続いて現われる。一種のバリエーション。モーツァルト国際コンクール優勝の菊池洋子によれば、第3楽章の主題は、第1楽章のそれに比べてより前向きな感じを受けるとのこと。「希望や救い」がある。そしてピアノとオケが会話を始める。両者の関係に前向きの変化が始まったことを示唆するかのよう。第1楽章:不安。第2楽章:安堵、第3楽章不安を秘めながら希望への光を見せるという図式。

筧(アマデウス)探偵「どんなに悪魔的な人だとしても、これが彼からの精一杯の気持ち」「彼はあなたを想っている。美しいメロディーこそが彼の気持ち」

第3楽章の演奏。指揮はデュトワ。ピアノは、ピョートル・アンデルジェフスキという東欧系の若手男性ピアニスト。第1カデンツァは自作?(ベートーヴェンのではないようだが。)再現部でピアノのメロディー(第1主題)をオケが引き継ぎ、第2カデンツァ。最後は、ニ長調に転調して祝祭的な雰囲気で華やかに終結。

以上のように結構勉強になった。第1楽章のピアノだけに現れるアイガングと呼ばれるメロディーが『つぐない』に似ているというのは新発見で驚いた。またこれが第3楽章の主要主題として変奏されて登場するというのも、解説書には出ていたかどうか覚えていないが、なるほどと思った。そして、その主題がオーケストラでも奏でられる。第2楽章の穏やかなメロディーは、女声と男声の二重唱のようということも。

この番組だけを見れば、なるほど巧くできているという風に感じる。

が、この後、久しぶりにハイドシェックとヴァンデルノートの盤でいざ全曲を聴きなおしてみると、第1楽章にしても第2主題はピアノとオケの対話になっている。第2楽章のロマンツェ(モーツァルトは、この形式名を「グラン・パルティータ」や「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」でも用いておりやはり穏やかな主部と不安げで急速なテンポの中間部で構成しているのが見られる)の中間部の同じ速度ながら突然テンポが上がり非常に焦燥感のある非常に不安げな音楽に転換することを、この番組のストーリーは敢えて省いている。というように、この番組の不満な部分も次第に表れてきた。

これまで『ゴルトベルク』はそれなりに全曲を扱っていたが、『悲愴』は、第1、第4楽章のみ。『死と乙女』は第1、2楽章のみ。『前奏曲集』も数曲のみ。そして『ピアノ協奏曲』は、一応全楽章だが、ストーリーにこじつけるため(あわせるため)に部分的に敢えて省略したところがある。新たな啓示はあるのだが、この番組のストーリーがその曲全体を十分に説明しつくしたとは言えないところに注意をする必要があるように思った。(十分条件と必要条件という言葉で説明したいが巧くいかない)

なお、この第20番とそれに続く対照的な第21番の協奏曲と、有名なシンフォニー第40番と第41番との不思議な関係については、ずっと以前自分のホームーページに冗談のような対話編を書いてみたことがある。なかなかの着想だと自分では思うのだが。題して「モーツァルトの隠し絵」。

事件ファイルの#1(ボレロ)、#2(ブラームスの第4交響曲)は、見逃したが、これで#7まで見たことになる。今晩のBS2は、シューベルトの再放送。また来週はチャイコフスキーの再放送で、次回新作はシベリウス「フィンランディア」、続いてベートーヴェンの「月光」、シューマンの「子どもの情景」と続くらしい。

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2008年5月19日 (月)

一休み

しばらくブログを休む所存。充電後、再開予定。

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2008年5月13日 (火)

『ナルニア国物語』1~7読了

月曜日に診察を受け、よく眠れる薬を処方してもらったところ、翌火曜日の朝は起きられず休息。

ディズニー映画『ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女』に続いて、第2章『カスピアン王子の角笛』が公開されるということで、書店では岩波書店には珍しく、ハードカバーもペーパーバックスも並べてディズニーとのキャンペーンをはっている。否、最近ではゲド戦記でも岩波は同じことをやっていたと思い返す。

少年少女向けのファンタジーはこのブログのテーマでもあったのだが、このような有名な作品をこの年代になった面白いと感じるかという懸念はあったが、結構面白かった。

C.S. ルイスは、かのトールキンと親友でもあり、言語学者でもあり、敬虔なキリスト者でもあったというところが、この物語の奥深さを醸し出しているのかも知れない。

そのようなキリスト教的な知識や解釈がなくても、パラレルワールド、魔女の造形、異形のものたちなどの奔放なイマジネーションなど結構面白いものだろう。

意外にも1950年代に年1冊ずつ書かれたものだというが、今や古典のひとつで、こうして映画化されたのだろう。先日、DVDで第1巻『ライオンと魔女』を見直したが、もともと映像化が仕組まれていたものではないだろうが、結構よい出来だった。

なお、ペペンシー兄弟の兄弟、ピーター、エドマンドのどちらかはあのチャールズ・ダーウィンの5代後の子孫だということが、先日のダーウィンの特集番組で紹介されていた。

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2008年5月12日 (月)

名曲探偵アマデウス 事件ファイル#6 ドビュッシー『前奏曲集第1巻』

フランス料理のシェフ 飛石蔵人 (トビシ、クロウド !)の相談。

ピアノは、ドビュッシーの全ピアノ作品を日本人で初めて演奏した中井正子というピアニストの演奏。解説は、ピアニスター?Hiroshi。

つぶれかけのレストランに、フランス修業時代の師匠からメッセージ。帆、亜麻色の髪の乙女、音と香りは夕暮れの大気に漂う。沈める寺。

前菜: 帆 ふわふわした響きは、全音音階のため。ピアニスターヒロシが、童謡『蝶々』『ロンドン橋』を全音音階で弾いてみる。面白い。有名な全音音階の例:鉄腕アトムのイントロ。ドビュッシー「不毛な伝統から音楽を解き放ってやりたい」

スープ:亜麻色の髪の乙女。変ト長調だが、いわゆるヨナ抜きの五音音階。スコットランド民謡などの影響。小舟にてがBGM。1889年のパリ万博でのインドネシア、ジャワ島のガムラン音楽。あらゆるニュアンスがこの音楽にはある(ドビュッシー)。料理にも引き算が必要。

メインディッシュ:音と香りは夕暮れの大気に漂う。

中井正子の解説。イ長調にロ音のフラットでスパイス。属七の和音の連続による色彩感。五感を研ぎ澄ませ。

すべてを鐘の音の如くピアノで響かせる。

「沈める寺」 不完全な和音、完全な和音、ペダルを踏んで低音部を響かせ、沈む様を描く。
すべての味を響かせるやる気、情熱を取り戻し、フレンチレストランはその後三ツ星にランクされた、とさ。

その後、サムソン・フランソワの『前奏曲集』を聴いた。ベロフやミケランジェリに比べて、味付けが濃厚で面白かった。

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2008年5月11日 (日)

アシュケナージのチャイコフスキー『四季』

Ashkenazy_tchikovsky_seasons ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893)

四季-12の性格的描写(Les saisons - 12 Morceaux caracteristiques*)Op.37bis(1875~76)[p][12曲]
1月「炉ばたで(Au coin du feu)」 2月「謝肉祭(Carnaval)」 3月「ひばりの歌(Chant de l'alouette)」 4月「松雪草(Perce-neige)」 5月「白夜(Les nuits de mai)」 6月「舟歌(Barcarolle)」 7月「草刈り人の歌(Chant de faucheur)」 8月「収穫(La moisson)」 9月「狩り(La chasse)」 10月「秋の歌(Chand d'automne)」 11月「トロイカで(Troika en traineaux*)」 12月「クリスマス(Noel*)」

題名:http://www.interq.or.jp/classic/classic/data/perusal/saku/index.html 参照

併録: 瞑想曲Op.72-5, 少し踊るようなポルカ Op.51-2, 熱い告白、やさしい非難 Op.72-3,
子守歌 Op.72-2 (Op.72 は『18の小品』)

アシュケナージ(ピアノ) 
〔1998年12月12-13日 ドイツ ベルリン、テルデックスタジオ、1998年9月26-27日 ギリシャ アテネ ディミトリ・ミトロプーロス・ホール(メガロン・アテネ・コンサート・ホール)〕POCL-1903 (466 562-2)

アシュケナージのデッカ録音はどうも音色が自分好みではなく、これまでもあまり積極的に聴くほうではなかったが、チャコフスキーのこの「四季」の曲集を持っていなかったので、店頭で目に付いたこのCDを購入した。

比較的新しいアシュケナージの録音だが、この録音は響きの点でもにじむような不満がなく、アシュケナージの多彩な音色を味わえるものだった。

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2008年5月 6日 (火)

名曲探偵アマデウス 事件ファイル#5 シューベルトの弦楽四重奏曲『死とおとめ』

日曜日の深夜11時半から放送のものをビデオ録画しておいて5月5日の月曜日に鑑賞した。

5月4日の日曜日は、ちょうど「藤子F不二夫」特集をやっていて、その大ファンの長男が是非行きたいといっていた杉並アニメーションミュージアムを見学に行ってきた。中央線の荻窪駅で下車し、北口を出て、青梅街道に沿って西へ約1.5kmほど歩いて、荻窪警察署の信号を左に折れると杉並会館という区立の会館があり、その3階にこのミュージアムがある。入場料は無料。http://www.sam.or.jp/ 展示品を見たり、アフレコを体験したり、トレースで絵を描いたり、DVD室で好きなアニメを見たり、映写室で藤子F不二夫の作品(チン・プイ)を見たりして半日ほど楽しめた。

翌5月5日は、天気もよくなく、一日家で過ごし、子ども達は休み中の宿題を全部終わらせたが、ちょうどお昼ごろ、事件ファイル#5を楽しんだ。

題材は、『死とおとめ』の第1楽章と第2楽章。第1楽章では、わずかの小節数の間に、何と6回も転調をしているということがこの音楽の特徴として指摘されていた。また、有名な歌曲『死と乙女』の冒頭の葬送行進曲的な音楽をテーマにした変奏曲だが、短調の部分から急に長調に転調するときの「属9の和音」?の使い方の素晴らしさが指摘されていた。通常、短調から長調に転調するときに使われるこの和音は、フォルテやアクセントなどで強調されるのだが、シューベルトは、ここでデクレッシェンドの後に大変ひっそりと奏でるように指定してあるということが、玉川大学の准教授(先日の悲愴でも登場)が語っていた。

この曲を書き始めた頃のシューベルトは、不治の病梅毒に自分が冒されたことを意識しており、体調も悪かった。絶望的な気分で作曲を始めたが、次第に死と正面から向き合い、それを受け入れるようになっていったというようなストーリーだった。

この曲は、これまで非常に不吉な音楽として捉えていたのだが、今回のような「前向き」の捉え方ができるというのはこじつけとも思えず、参考になった。

女性三人、男性一人(チェロ)の古典四重奏団という団体が演奏を担当したが、なかなか巧い演奏だった。

ディスクでは、非常にスケールの大きいように聴こえてしまい苦手だったアルバン・ベルク四重奏団のものと、「シューベルティアーデ」のセットで、往古の名盤のブッシュ四重奏団のものを持っているがこれまであまり熱心に聴いていなかった。少し前向きに聴いてみよう。

5月6日(火)連休最終日は、久しぶりの好天に恵まれ、湿度も非常に低く爽やかな初夏の一日だった。大山詣でをしてきて、リフレッシュでき、体調は非常に快調だ。

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2008年5月 3日 (土)

『物理が苦手になる前に』(竹内淳 岩波ジュニア新書)

高校になって習った物理の授業は、非常に無味乾燥だった。中学までは理科少年でもあり、また伝記が好きで科学者の伝記などをよく読んでおり、原子物理学などにも興味を持っていたのだが、そのような想像をしていた物理と高校物理はまったく違っており、むしろ化学の方が周期表などで元素を扱っており面白かった。『相対性理論』の一般向けの解説書などは、それなりの興味を持ってその後も読んだりはしたが、いわゆる「物理」からはすっかり離れてしまっていた。

これもたまたまブックオフで見つけたのだが、カバーの裏側に「物理という科目や数式へのアレルギーをとりのぞき、教科書だけでは絶対に味わえない物理学の魅力的な世界に誘います」とあり、この本の出版時は早稲田大学の理工学部の応用物理学科の助教授の著者が前書きで「高校二年でこの科目に出会ったときに大嫌いになりかけた。責任転嫁をするつもりではないが、ある程度努力しても分からないというのならそれは教科書や教育方法などのどこかにも相応の責任があるはずだ」と共感を覚える本音が書かれていて、読んでみようと思った。

力 F , 質量m, 加速度 a とすると F=ma の式が成り立つ などと言われてもチンプンカンプンで、複雑な現象をなぜそんな単純な式で一律に表現ができるのかという疑問が湧いてしまうのだが、それを超短詩型の俳句の背後に広がる深遠広大な世界や、野球のピッチャーの投げるボールのスピード、F1カーのスピードなどから速度、加速度と説明していき、微分、積分までうまく説明している。私には慣性の法則(惰性)は、躓きの石ではなかったが、加速度がなぜ重要視されるのかが、高校時代にはよく理解できていなかったようだ。自然落下運動の重力加速度 g についても 9.8m/秒の2乗 という数値について記憶が戻ってきた。 

ただ、慣性の法則が理解されるようになったのは、6世紀の疑問の提示から17世紀のガリレオまで約1000年かかったという記述は、科学史の結果だけを教育しようとしている現代の教育の欠陥をあぶりだしているように思えた。

同じことがp.81には、「慣性の法則、力=質量×加速度、作用反作用」をニュートンの運動の第一法則、第ニ法則、第三法則と言い、ニュートン力学の真髄はこれで終りだが、これを高校では2、3時間で学んでしまう。しかし、人類が最初に手がかりをつかんでからこの法則性を浮かび上がらせるまで優に十世紀以上を要したとされているのも面白い。

ただ、 F=ma については、力(物理力とされる)が、質量と加速度との両方に比例関係にあることはなんとなく分かるが、なぜその二つの要素を掛け合わせる式になるのかはよく分からない。どうもこの辺がごまかされたような気になってしまうのだ。そして、それらの数式を数学的に組み合わせて式を整理して結論を導き出すやり方には、さらに論理の飛躍があるような気がしてごまかされているような感覚がさらにする。

作用、反作用については、実感からは分かる。衝突の物理も、自動車事故から野球のボールをバットで打つときの衝突、ラグビーやサッカーのフィジカルコンタクトなど興味深い題材を使っている。

8のコペルニクス的転回については、以前小学生が地動説を理解していないということが大々的に報じられたときに自分でも記事にしたのとほぼ同じ趣旨のことがより分かりやすく整理された形で書かれており我が意を得たりという感じだった。

9ニュートンのりんご 10神のジグソーパズル についても要領よくまとめられており、この辺の宗教史、科学史の部分がより面白い部分だ。運動方程式を使えばあらゆる力学的な運動が予見できるという信念がその後の技術発展を支え、そして、電磁気学、相対性理論、量子力学についても触れられている。

私自身も、責任転嫁になってしまうが、先日の三角関数の余弦定理にしても、これらのニュートン力学の三つの法則にしても、文系的な人間には背景にある数学史、科学史の説明が授業のリードなどにあればもっと興味を持てただろうと思う。ともあれ、面白い本だった。三日坊主ではないが、すぐに忘れてしまってあいまいになってしまうのだが。

p.s. この本の著者は、現在早稲田大学の教授であり、講談社ブルーバックスの『高校数学で分かる』シリーズで評価の高い教育者でもあるようだ。教育者と言えば、哲学者ヴィトゲンシュタイン(ウィトゲンシュタイン)の小学校教師時代のエピソードは非常に示唆的だ。また、物理学、数学と言えば、半可通的な言い訳になるが、カール・ポパーの反証可能性のことを思い出してしまう。大学時代の友人がポパーを信奉していたのを思い出す。彼は数学教師の息子だった。


 

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リヒテル、ボロディン四重奏団の『ます』五重奏曲

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シューベルト
ピアノ五重奏曲 イ長調 作品114 D.667 「鱒」(ます)

スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)
ボロディン弦楽四重奏団員
 ミハイル・コペルマン(ヴァイオリン)
  ドミトリー・シェバーリン(ヴィオラ)
 ワレンチン・ベルリンスキー(チェロ)
ゲオルク・ヘルトナーゲル(コントラバス)

13:27/8:28/4:24/7:38/9:55
〔1980年6月18日、オーストリア、シュロス・ホーエネムス〕

熱狂の日(La Folle Journée au JAPON)というフランス生まれの音楽祭が日本でも開催されるようになってこれで4回目(4年目)らしい。ベートーヴェン、モーツァルト、「民族のハーモニー」についで、今回はシューベルトとのこと。今年は実家にも帰省しないので、行こうと思えば聴きに行けるのだが、どうも出不精なので足が向かない。訳の分からないチケットの入手が一番面倒だ。チケット前売りや当日券の有る無しに思い悩むのは精神衛生上、私にとってはよくない。

それでも、シューベルトが注目されるということで、この曲を。新緑の季節は、ちょうどこの五重奏曲にふさわしいということもあるが、今日の憲法記念日は昨日からの雨が残っている。朝8時ごろ、ようやく空が明るくなり始めた。

さて、以前からエアチェックで親しんできたこのリヒテルとボロディン四重奏団という超ド級のイメージのある演奏の録音が、シリーズものの超廉価で入手できたので、聴いてみた。

河島みどり『リヒテルと私』にも登場したが、このボロディン四重奏団は、リヒテルが主宰したフランスのツール音楽祭でも常連メンバーで、いわゆるリヒテルファミリーの一員だったとのこと。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の全曲録音で知られたクァルテットなので、リヒテルとのアンサンブルは超ド級というイメージがして派手で大味な演奏の記憶があったのだが、聴きなおしてみると意外にも気心が知れた同士の親密な演奏が楽しめた。

相変わらずシューベルトにおけるリヒテルのピアノの音色は輝かしく美しい。

なお、楽譜を確認したわけではないがリヒテルはフィナーレのリピートを行っているようで、タイミングが非常に長くなっている。

リヒテル盤 13:27/8:28/4:24/7:38/9:55
ホルショフスキー盤 9:21/7:43/4:05/8:16/6:44
ブレンデル盤 13:25/7:05/3:54/7:42/6:10

 

参考記事:

2006年3月16日 (木) ホルショフスキー、ブダペストQの鱒五重奏曲
 

2008年1月16日 (水) シューベルト ピアノ五重奏曲『ます』 ブレンデル、クリーヴランド弦楽四重奏団員

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小笠原流の蕎麦の食べ方

日経BPNETがクラシック音楽など多彩な情報発信をしているのでたまに見るのだが、トレンディーネットのライフクリエイティブサイト L-Cruise という少々優雅で縁のなさそうなページに、面白そうな記事が載っていたので読んでみた。

武士の礼法で知られる小笠原流が今でも現存し、その宗家は女性で小笠原敬承斎という方らしい。その人の談話をまとめた記事が「和食を楽しむ(1) 蕎麦を品よく粋に食べる」というもの。

いわゆる小笠原流は、幕府の高家の系統の小笠原流 (弓馬術礼法小笠原教場 小笠原流礼法)と、豊前小倉藩主(明治維新後伯爵)の系統の小笠原流礼法 があるようで、なかなかややこしい。上記の和食の記事は、後者の宗家によるもののようだ。

「お蕎麦は音をたてて食べる」は間違い とのことである。

池波正太郎『男の作法』には、「そばは、二口、三口かんでからのどに入れるのが一番うまい」とあり、「クチャクチャかんで食べる」のを戒め、また「藪」のような濃いおつゆの場合にのみちょっとつけるのが美味しく、普通の薄いつゆの場合にはどっぷりつけてもよい、とある。作法としては、美味しく食べることが主眼のようで、音をたててすすることについては触れられていない。

いわゆる江戸落語では、蕎麦の食べ方は、すすりこむように、手繰るように食べるとされているようで、「時そば」などの演目を話す際には、その独特な音を立ててすすりこむ食べ方がよく知られているので、蕎麦のすすりこむ食べ方としてはその影響が結構強いのかも知れない。

ちなみに、wikipedia の 蕎麦の食べ方では、

そばの香りや喉越しを楽しむために食べるときに音を立てることが許され、その点で世界的にも稀有な食品である。

多くの蕎麦好きは、蕎麦の香りを重要視する。新蕎麦の季節ともなれば尚のことである。そうした蕎麦の香りを存分に味わうには、空気と一緒に啜り込み、鼻孔から抜くようにして食べるのが最良である。結果として音を立てることになるが、なんら恥じることはない。

とある。特に第一段落は、ここまで言い切るのも微妙ではあるが、おおやけの場で音を立ててもいいということが常識として黙認されているのでそのような言い方もありなのかも知れない。そういえばお茶漬けなどは音が立ちやすいが、感覚的に人前で音を立てて食べるのはあまり行儀がよろしくないような気もするし。

ただ、香りを味わうためだけなら、茹でて水にさらす蕎麦切りよりも熱湯で蕎麦粉を捏ねるだけなので味も香りも濃厚な蕎麦がきという食べ方もある。

自分自身は、ざる蕎麦、盛り蕎麦などの冷たい蕎麦の場合には、自然にすすりこむので音が立つように思う。長野県の戸隠神社の中社で秋分の日に行われる蕎麦食い競争に出場したことがあるが、ぼっちと呼ばれる一口大に丸めた蕎麦をそれはそれは猛烈な勢いですすりこんだ。ただ、その食べ方だと胃に空気が溜まりやすいようで、優勝した人は、後でテレビニュースの映像で確認すると、すすりこまずに上品に「モグモグ」噛んで飲み込んでいた!

盛岡のわんこ蕎麦は、朱塗りのおわんに一口だけそばつゆ付きの蕎麦が入れられるのですすりこむというよりも飲み込む感じだった。

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2008年5月 2日 (金)

ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第4番 ルビオ・クァルテット

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ショスタコーヴィチ

 弦楽四重奏曲 第4番 ニ長調 作品83(1943年)

  ルビオ・クァルテット

  〔2002年4-9月、ベルギー、Mullemの教会での録音〕

  1.Overture (moderato con moto)    8:03
  2.Recitative & Romance (adagio)   10:53
     3.Waltz (allegro)                          5:59
     4.Theme & variations (adagio)      10:47   

 

まだ、ホームページを更新していた2003年に購入したもの。それ以来積んどく状態が続き、まだ全曲を聴いていない。バルシャイの交響曲全集も寝入りばなの睡眠導入でようやく全曲聴いたのだが、全部が全部きちんと音楽に向き合って聴いていない。ショスタコーヴィチの生誕100周年の2006年にも聴こうと思いつつ結局聴かず仕舞いだった。

今回4月の4番という自己流の企画で、これまで未聴だったり、まともに記事を書いていない音盤を聴きなおしており、先日カラヤンのブラームス交響曲第4番から三回連続で結構重い内容の音楽を聴いてきたので、この辺で少し気分転換をしようと思い、いくつか棚から取り出して来たうち、これを聴いてみようと思った次第。

ただ、聴くと言っても、まったく耳なじみのない曲ではあるし、楽曲解説もこのCDに付いている英文のものしかないので、把握という点ではひどく心もとない。バルトークの場合は、結構聴いて理解したいという動機付けがなぜかあったのだが、ショスタコーヴィチにはあまりそのようなものがない。ただ、交響曲が、公衆に向けての作曲家のメッセージであるとしたら、弦楽四重奏曲は、個人的な心情の吐露であるとも言われるが、ショスタコーヴィチのような立場の作曲家の場合、それが許されたのだろうか?シンフォニーとクァルテットをちょうど同じ数、15曲残したこの作曲家の場合、ソ連の歴史と絡めて時系列的に追って行く聴き方で、何かを聴けるかも知れないとは思うし、看過できない存在ではある。

というふうに書いてきたが、いつの間にか5月に入ってしまった。ハイティンク指揮の交響曲第5番、第9番をゲットして聴いたところ、なるほど指揮者、オーケストラによって同じ曲でも聴きやすさが違うなと思い、またショスタコーヴィチへの興味が湧いてきた。まったくこの曲については触れていないが、この辺でアップしよう。

 

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岡田暁生『オペラの運命』(中公新書)

『西洋音楽史』よりも前に書かれた本だが、『西洋音楽史』を読了後に購入。これも非常に面白い。快刀乱麻的に明解に書かれているが、あまり強引さを感じず、納得させられる部分が多い。まとめ方のうまさだろうか?先日、NHKの『魔笛』を題材にした番組の折にこれを引き合いに出したが、ようやく読了した。『音楽史』はほとんど一気読みだったが、こちらは少々時間がかかった。『音楽史』に登場する器楽曲に比べて、オペラはなじみがない作品が多いからだろう。何しろ、モンテヴェルディの『オルフェオ』も『ポッペア』も『ウリッセ』も、グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』も、ロッシーニもヴェーバーもヴェルディもプッチーニも、ヴァーグナーも、オペラ史に残る作曲家、作品のほとんどが未だまともに聴いたことのないものだから。

目次のようにざっくりまとめると、

絶対王政の王家の祝典としてのバロックオペラ、オペラセリア。

啓蒙時代のブルジョア階級の台頭、斜陽貴族とモーツァルトなどのオペラ・ブッファ。ロココ趣味。

フランス革命後のブルジョアとフランス・グランド・オペラ(マイヤベーア)。最大の娯楽産業、カジノ・売春・さくら(宣伝)。

ドイツ・東欧の「国民」オペラのイデオロギー性(イタリア統一とヴェルディ)と異国オペラ(アイーダ、蝶々夫人、トゥーランドットなど)、中南米のオペラハウス。

ヴァーグナー 王になった作曲家。

ヴァーグナー以降、オペラのライヴァル映画の登場。そしてエーリッヒ・コルンゴルド、マックス・スタイナー、ニーノ・ロータ、ジョン・ウィリアムズの映画音楽。ベルクの『ヴォツェック』、ショスタコーヴィチの『鼻』。

日本におけるオペラについては触れられていないが、ある意味、独墺オペラの総本山の一つ、ヴィーン・シュターツ・オーパーに東洋人の小澤征爾が音楽監督として就任しているのも、近現代文明の源流であるヨーロッパとアメリカの文化による世界の席巻過程の果てと、その終りの始まりを象徴するのかも知れない。

日本人は、このような重層的な歴史把握が苦手で、多くの古典が同一平面に並べられる傾向があるが、そのような音楽実践と受容自体、また現代を象徴することなのだろうな、などと思った。


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2008年5月 1日 (木)

池波正太郎『真田太平記』を10年以上かけて読了

池波正太郎『真田太平記』新潮文庫版 全12巻

1. 天魔の夏
2. 秘密
3. 上田攻め
4. 甲賀問答
5. 秀頼誕生
6. 家康東下 ここまで1990年代に読んだ。 その当時、これ以外の真田ものはほぼ読了。上田市の池波正太郎真田太平記館も訪れ、旧真田町(上田市)の国道は生活道路で、真田本城、真田屋敷、ゆかりの寺院、角間温泉、鳥居峠、沼田なども訪れ、真田10万石の城下町松代も生活圏の一部だった。信之の菩提寺も訪れ、廟所にも参拝した。

その後、中断。最近は池波正太郎の剣客商売、鬼平犯科帳、梅安を読了。

そしてようやく。

7. 関ヶ原   ここから2008年3,4月に読んだ。
8. 紀州九度山
9. 二条城
10. 大坂入城
11. 大坂夏の陣
12. 雲の峰

最終巻の解説を読むと、作者は約9年を掛けて週刊誌に連載してこの大作を完成させたのだという。

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