吉田秀和 季刊『音楽展望』 ブレンデルの引退
これまでは、朝日新聞の夕刊に掲載されていたはずだが、今朝の朝刊を朝の出勤前の忙しい時間帯にパラパラ目を通したところ、文化面に、季刊となった吉田秀和氏の『音楽展望』が掲載されていて驚いた。見出しは、「ブレンデルの引退 明暗の世界が生む深み 律儀な演奏に境地を見る」というもの。
昨年のバイロイト音楽祭に続いて、今年も元気に渡欧されたときの模様が書かれているのだが、その中のエピソードとして、今季でのブレンデルの引退の話題が出てくる。
意外なことに、最近の吉田氏はブレンデルを敬遠してきて、今回の渡欧時にもヴィーンでポリーニのリサイタルを聴いたのだが、その数日前のブレンデルのそれは聴けなくて、残念だったと正直に書かれている。
以前、ブレンデルが近年日本であまり注目を浴びなくなっていると書いたところ、よくコメントをいただくドイツ在住のpfaelzerweinさんから、ヨーロッパでは考えられないことだという書き込みをいただいたことがあったが、日本では吉田御大からして「このところ敬遠してきた」と書かれているのだから、そのような風潮を感じていた私の感覚もまるっきり方向違いだとはいえないようだと思いつつも、なんだか寂しい思いが去来した。
ただ、吉田氏は、帰国後、ブレンデル自選?のフィリップスの8枚組みのCDを聴き、特にベートーヴェンの第4ピアノ協奏曲がとりわけ味わい深かったと書かれている。ポリーニのような「磨き立てた石畳みたいに艶光するピアノの音の美しさ」と比べて陰翳の深みのあるブレンデルの音の性格を捉え損なっていたという。そして、同じベートーヴェンの作品126の『6つのバガテル』の演奏を通じて、改めてブレンデルへの再評価を書かれている。
吉田氏の健在と健筆を喜び、そしてブレンデルの今季での引退とその公演を吉田氏が聴けず記事が読めないのを惜しむという少々ambivalentな猛暑の朝だった。
ブレンデルの作品126は、以前記事にした「エロイカ変奏曲」のCDに収録されているので、今宵はこの曲を静かに味わってみよう。
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コメント
初めまして。pfaelzerweinさんのところから参りました。
お陰様で知らなかった吉田氏の復活を教えられ、件の「音楽展望」も欧州版で読むことが出来ました。
ブレンデルのリサイタル初めて聴いたのは77年頃、「幻想」や「レリーク」を含むオール・シューベルトで今考えても当時の私には何とも勿体無いプログラムで、実際高校生の私にはシューベルトのソナタは冗長なだけでした。
その後たまたまパリで暮らすようになり、圧倒的感動を受けて漸くブレンデルの凄さに気付いたのは87年のシューベルトの遺作ソナタ3曲をいっぺんに弾いたリサイタルの時でした。
「動機の展開」とは異なり、主題を「調的対比」を通じて執拗かつ魔術的に「反復」していくシューベルトの音楽が与える驚くべき力に衝撃的啓示を与えられ、その後シューベルトの音楽は私にとって知的興味の対象としても、情緒的インパクトでも重みを増すばかりで、そのことを初めて教えてくれたブレンデルには大きな敬意を抱いてきました。その後20数回はリサイタルやコンチェルトを聴いたと思います。
ブレンデルの素晴らしいところは、彼がそうした音楽的発見を知的説明臭をまったく感じさせず、すべて音楽のレヴェルでナチュラルに響き渡らせることに成功していたことで、この強度の知的緊張と音楽的感受性のぎりぎりの合体は、個人的には90年代初めまでが頂点だったと思います。
その意味ではシューベルトの他、私には彼のリストが多くのことを教えてくれた演奏でした。
その後はかつてのピリピリしたような知的緊張がやや弛緩し、驚きはない演奏が多くなり、2000年以降は指もやや弱って好々爺的演奏が耳に付くようになり、私はここ数年足が遠のいてしまってました。パリの最後のリサイタルもパスしてしまった次第です。
数年前かつてあれほど感動して聴いた19番のソナタを15年ぶり位でリサイタルで聴いたのですが、知的にも情緒時にも何てことない演奏にちょっと失望させられてしまったものです。
日本での評価の変遷や吉田氏の文章はまったく知りませんでしたが、私の率直な印象も以上のようなものです。
パリでのコンサートの客の入りも、もちろん功成り名を遂げた大演奏家ですから、毎回一通り埋まりますが、以前ほど超満員売り切れではないコンサートが増えていた傾向も事実です。
仏批評も、「退屈だが誉めぬわけにも行かない」というホンネが透けて見えるものもありましたねぇ。
一方のポリーニも私にとって30年来、特にシューマン、リスト、ヴェーベルンで単に良かったではすまず、多くのことを教え考えさせてくれたピアニストという意味でブレンデルと双璧でしたけど、近年はさすがにあの「磨き立てた石畳みたいに艶光するピアノの音」の翳りが出てしまい、それに替わる何かがあるわけでもないので、やはり足が遠のいてしまってます。
吉田氏の仰るように、今のブレンデルが「陰翳の深みのある」滋味溢れる演奏を聞かせてくれる可能性はあるとは思うのですが、それに少しでも「老演奏家の退嬰」といった趣が感じられたとしたら私にとっては悲しいことです。やはりちょっと出掛けるのはコワさがあるんですよね。
投稿: 助六 | 2008年7月30日 (水) 09:37
「個人的には90年代初めまでが頂点」、「19番のソナタを15年ぶり位でリサイタルで聴いたのですが、知的にも情緒的にも何てことない演奏にちょっと失望」の二点の助六さんの指摘、先ずは現象として私も同意いたします。
まさに仰る通り、シューベルトに関しては嘗てのような「名演奏」はなくなりました。恐らく私が聞いていない87年ごろから、一部の曲は弾かなくなったようですし、自薦シリーズでもそれを間接的に認めています。
時間を空けて再び新鮮味を持って楽曲に対峙するようにしていたようですが、一般的に評価の高かったシューベルトに代わって、物足りなさを指摘されていたベートーヴェンにより以上の成果が見られるようになったのはその後のことで、さらにハイドン、モーツァルトへと関心が移って行ったように見えます。
それで、最後のゴール地点から昔の録音などを振り返ると、シューベルト解釈や位置付けや、またベートーヴェンの演奏解釈においても「遊びを残していた」のが明確です。ハイドンの演奏実践では、最後の制作録音からその後に発展があったとするのが私の見解です。
「海」のお話も大変興味深いのですが、それはまた改めて。
投稿: pfaelzerwein | 2008年7月31日 (木) 04:50
助六さん初めまして。pfaelzerweinさん こんにちは。
お二方とも長文のコメントをいただきまして、恐縮です。
ブレンデルの演奏スタイルの変遷小史のような貴重な情報をいただき、感心して拝読させていただきました。
手元にありよく聞く音盤は1970年代のものが多く、特にマリナーの指揮によるモーツァルトのピアノ協奏曲集を愛聴していましたので、1970年代の端正ナスタイルで、録音されたピアノの音にも透明感があった頃のものに最も親近感が湧くようです。
最近、音楽家の老いというものに興味があり、少なくとも70年代に巨匠と呼ばれていた音楽家は、老練、老熟、老成という年の取り方をしていたように思うのですが、最近は指揮者にしてもピアニストにしても、アンチエイジングの風潮ではないですが、老熟を拒み、不老不死のようにあくまでも老いと死に抗するような点で、逆に「退嬰」と見られたり、自らの若い頃の録音がディジタルほどではないにしても相当の水準の音響で聴けるので、それとの自己比較が相当プレッシャーになっているようにも思います。なかなか難しいものだと思います。
投稿: 望 岳人 | 2008年7月31日 (木) 22:59