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2008年10月31日 (金)

10月の10番はマーラーの交響曲第10番

先週の日曜日の体育祭で、父兄飛び入りの綱引きがあり、以前隣近所が参加する運動会で綱引きでがんばった翌日に筋肉痛で参った記憶があったので少し躊躇したが、長男の手前出ないわけにも行かず出場した。綱は比較的細く、がんばって引っ張って1勝1分けの成績だったのだが、やはり月曜日から上半身が痛み、また風邪もぶり返してしまい、この2週間ほど体調不良だった。どうにもこうにも風邪が抜けない。高熱は出ないが微熱で身体がだるく、くしゃみ、鼻水、喉の痛みの後の咳と痰。

そんな中、10月の10番には何を聴こうかなどと場違いのようなことを一方では考えていたが、このブログではあまり取り上げることがない、マーラーの交響曲にしてみようかと思った。ハイドン、モーツァルトの10番は初期作過ぎるし、ベートーヴェン以降では、第9のジンクスで、一般的に著名なところでは、ショスタコーヴィチくらいしか10番を完成していないのではなかろうか?

有名な10番というと、そういうわけであまり思い浮かばないのだが、未完成ながらマーラーの第10交響曲というのは、第1楽章は一般的によく聴かれているし、第3楽章プルガトリオ(煉獄)も時々収録されている。それに加えて、全楽章の補筆完成版がクックなどの努力により完成しており、これも多くの録音が出ているほど。その意味で、ベートーヴェンの第10交響曲とは相当復元の意味が異なっている。

本来、交響曲『大地の歌』が、第9交響曲という番号をつけられるべきであり(第8番『千人の交響曲』が交響曲というジャンル名を冠せられているので、当然『大地の歌』は第9であるべきだったと思う)、現行の第9番が第10番とされてもよかったのだが、マーラーの第9のジンクスへの恐怖により(?)、第9は第10とはならず、第10番は未完のまま残されたという経緯があるし、ブルックナーにも00番と、第0番(これは作曲者自身の命名)があるのだから、未完成の第9番もあえて言えば10番あるいは11番となってもよかったのかも知れない。とはいえ、マーラーもブルックナーも敢えて、第9番をベートーヴェンの「顰に倣って」しまい、第9番をジンクスとしてしまったところに、西洋音楽史におけるベートーヴェンの支配力が垣間見えるのかも知れないなどと大上段の言い方をしてしまうほど、ベートーヴェンは仰ぎ見る高峰だったのだろう。比較的多作だったグラズノフも第9番は未完であり、ドヴォルザークは生前は、現行の第9番『新世界より』は第5番だった。

さて、マーラーの第10のクック復元版の録音は、以前このブログで記事にしたことがあった。クルト・ザンデルリング指揮のベルリン交響楽団のCD。それ以前、ジョージ・セルがクリーヴランド管弦楽団とマーラーの第10番の第1楽章と第3楽章『プルガトリオ』を収録したCDを入手しており、またテンシュテット/ロンドンフィルのスタジオ録音盤の全集でも第1楽章が収録されていた。

FM放送時代では、比較的短い(ザンデルリングもセルも23分程度、テンシュテットは30分近いが)ので、エアチェックしやすかったせいか、テンシュテットの指揮のものだったか、コンサートの放送録音をエアチェックしてよく聴く機会があったので、マーラーの交響曲の中では、割と耳なじみになっていた。

その後、セル没後30年の時に、ストラヴィンスキーの『火の鳥』組曲などと一緒に収録されていた上記のマーラーの第10番の第1楽章と第3楽章『プルガトリオ』を時々聴いた。マーラーをそれほど録音していないセルだが、わざわざこの未完の第10番を収録したというのは、それほどこの第10番に魅力を感じていたのかと思われるフシがある。セルとクリーヴランド管の透明で硬質な響きはこの世のものとは思えないようなこの第10番によく似合う。柴田南雄の岩波新書『マーラー』は、各交響曲ごとに柴田による?標題的なものが書かれていた。引越しの荷物片付けが未だで今すぐ取り出せないのだが、第10番は「死後の世界」だったような記憶がある。マーラーはほんの50歳そこそこで亡くなったとは言え、功成り名を遂げたそれなりに完結した一生だったので、この未完の第10番の第一楽章には余計「死後の世界」のような一種不可思議な情景が目に浮かぶような気がする。ダンテのLa Divina Commedia(神の戯曲、神曲)に由来する煉獄篇Purgatorioの名を冠す第3楽章もその想像の糧となる。(『神曲』と言えば、原文が韻文を用いた戯曲調で書かれていることもあり、岩波文庫のものは古語を多く使っているためか、容易に読みこなせず、第1巻で積読になってしまっているが、最近の光文社文庫での『カラマーゾフの兄弟』のように是非現代文により新訳を望みたいものだ。)

テンシュテット盤は、セル、ザンデルリング盤に比べて非常にゆったりとしたテンポの演奏だ。このテンポは、通常行われている第一楽章のみの収録ということもあるかも知れない。テンシュテットのロンドンフィルとのスタジオ録音は、あまり録音が優れていないという評判(しかし、全集の諸井誠の解説では、初出のLP時代には、レコ芸の月評の録音評デ93点とか95点を獲得したこともあるという)だが、私のいつも聴いている携帯CDプレーヤーに廉価のステレオイアフォンでは、高音が丸められているせいか結構滑らかであり、解像度は高くはないがくっきりとした音像で結構聴き易いものだと思う(その後リマスタリングされて出た『大地の歌』は交響曲全集の音質とは相当違いがあるようで、広がりがなくて少々聴き辛いことが今回連続して聴いてみて分かった。演奏そのものは悪くはないのだが。)。第10番は、この全集の中では比較的初期に収録されたもので、後に喉頭がんで惜しくも逝去したテンシュテットの体調は未だ悪くなかった頃のものだと思う。というより、テンシュテットは、ようやく1970年代後半に名を上げてきたのだった。そのテンシュテットも既にこの世を去って久しい。

こうして第10番までをいろいろな曲で辿ってきたが、近代になるほど番号付きの曲では第10という名曲は少なくなっていくようだ。第11、第12となるとさらにそれらが少なくなってしまう。既に交響曲で知る限りでは、ショスタコーヴィチくらいしかない。また弦楽四重奏曲にしても彼しか知らない。11を1+1=2とするか1に戻るか、また12を3にするか2にするか、という反則技も必要かも知れないと思うほど、同じジャンルで10曲を越えるというのは非常に難しいことだということが今更ながら分かってきた。

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