グールドのモーツァルト ピアノ・ソナタ集
グールドのバッハ演奏は、現代では一種の権威と完全に認められているが、彼のベートーヴェンやモーツァルトについては、未だにプロとコンの両方の評価が拮抗しているように感じる。
今日も、iTunesでの音盤整理をしていて、モーツァルトのCDを何枚か読み込ませたが、その内の一枚にグールドのピアノ・ソナタ集(旧全集番号 No.8, 10~13, 15)があり、久しぶりにこの演奏を聴いた。
私のグールド入門は、中学生の時、LP時代に少し収録曲目は違うが、モーツァルトのピアノ・ソナタ数曲と幻想曲ニ短調が含まれたものだった。バッハを聴いたのは結構時間が経ってからだ。
なぜこのLPが我が家にあったかだが、父が当時ピアノを習っていた小学生の私の弟に参考になればと買ってやったように思う。父もグールドのバッハの評判は聴いていただろうが、まさかモーツァルトがこのような演奏だとは想像していなかったに違いない。LPでは、確か「トルコ行進曲」が第3楽章に配置されたK.331の第11番がA面の最初に入っていた。あの有名な優美な民謡風主題が、グールドの演奏ではポツリポツリというノンレガート、ノンスラーのアダージョよりも遅いくらいのテンポで、タドタドしく弾かれ始める。
ある日家に遊びに来た従妹(小学生で当時ピアノを習っていた)は、これを聴いて率直に「何て下手なピアノ!子どもが弾いているの?」と言ったものだったが、私達兄弟は、この演奏が刷り込みだったので、この曲はこのようなものだと思い込んでいた。その意味で、当時はこれが偶像破壊的な演奏だとも知らずに、この非常にユニークな演奏(と解釈)を純粋に楽しんでいたのだった。
自分でもこの曲の第一楽章のテーマ部やトルコ行進曲を弾けるようになってから、改めて聴きなおすと、とても同じ楽譜から生まれた音楽だとは思えないほどの「凄い」演奏だと感じる。グールドは、特にK.331の第一楽章では、このような変な演奏をしているにも関らず、例の歌声はしっかり記録され、相当「乗って」いる演奏には聴こえる。「ラララティララ」とか歌っているのだから、まったく参って?しまう。しかし、このたどたどしくゆっくりと始った変奏曲が、次第に滑らかなテンポに変じ、特に右手と左手の独立性が高いというのか、和声音楽を対位法的に再構成しているといのか、普通の演奏では聴きもらすようなフレーズが歌っているのが聴こえてくるなど、とても「面白い」ことは確かなのだ。そして最後は、第3楽章を先取りするかのような「トルコ風」の速いテンポで駆け抜ける。周到に計算された上での即興的な演奏になっている。メヌエットもノン・レガートを多用したあまり和声音楽的に聴こえない演奏。普通なら単なる伴奏の左手が、メロディアスに動く。あまりにも有名な第3楽章は、アレグレットではなく、モデラートかアンダンテのテンポで、alla Turka ではあるが、alla Marcia として、「トルコ行進曲」と通称されながら、まったく行進曲的でない演奏ばかりであることにアンチテーゼをぶつけたような「おもちゃの行進」のようなマーチのテンポでの演奏になっている。
シュタイアーが来日したときのピアノフォルテ演奏は、スタジオ収録のCDでも同じような「即興的?」な演奏が聴けるそうだが、異形のモーツァルトという感が強かったが、このグールドのは、同じく異形であり、ピアノの先生から即座にだめだしを食らう演奏と解釈であることは今でも変わりないが、それでも面白さはピカイチかも知れないと思う。
なお、第8番は猛烈な速さが特徴。第10番、12番、13番、15番は、特異なアーティキュレーション、左手のフレーズの強調、などはあるが、テンポ面ではこの8番や11番のようなユニークさは少ない。今から思えば、フォルテピアノ的な演奏イメージを目指していたようにも聴こえる。(12番の第三楽章Allegro assaiや13番の第一楽章などは息も継がさない猛烈なテンポで、ゲオン的な tristesse allante をグールドとモーツァルトとが二人で体現しているかのような演奏。初心者のための15番も速い。AndanteはAllegrettoほど。意外にロンドは猛スピードではない。)
バッハの演奏でも、独創的過ぎるほどで、それを人前で弾くのは相当勇気が必要だったことと思うが、このモーツァルトにしても、このような解釈、スタイルで録音に残すのも同じように非常に勇気がいることだったろうと思う。
なお、CDには録音日が詳細に書かれているが、一日で録音したものもあるにはあるが、第11番などは、1965年と1970年の録音日付になっている。細部の修正を施したものか、それとも伝えられるようにいくつものテンポのテイクから、つぎはぎをして再構成したものなのか。1964年にコンサート(ステージ)・ドロップアウトをした後の、孤独なスタジオ録音作業に入ってからの録音なので、コミュニケートというよりも、独り言、モノローグとしての性格が強いが、それでも演奏者は、作曲者とのコミュニケートに没頭しているようにも聴こえるのが不思議だ。
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