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2010年1月23日 (土)

岡田暁生『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』(中公新書2009)

2009年6月25日初版(2009年10月15日4版)の新書。帯には、第19回吉田秀和賞受賞となっている。

岡田暁生氏の中公新書の音楽書は、これまでにも『西洋音楽史』『オペラの運命』の2冊を読んでおり、どちらも明快な文章が読みやすく、また視点が新鮮で興味深く読んだものだった。

今回の「評論」?は、音楽リスナーに対する啓蒙のような表題だが、内容を読んでみると、これまで私もこのブログで断片的に考えて書き付けたような音楽の意味伝達や、形式把握の問題などがさすがに要領よくまた多くの参考文献や実例を元にして語られていて、改めて上手いものだと思った。この著者の本を読むと、頭の中で漠然と考えていたようなことがらが整理されて提示されているという感じで、その部分で共感できるし、面白いと感じる。

第1章 音楽と共鳴するとき - 「内なる図書館」を持つ では、「好み」が社会集団に属するもの(クラシックピアノ学習者の集団とジャズを愛好する集団の違い)という至極当たり前のことが語られていた。村上春樹の音楽エッセイ「意味がなければスイングはない」が、音楽を聴く究極の意味を伝えているものとして引用されていた。

第2章 音楽を語る言葉を探す - 神学修辞から「わざ言語」へ

音楽は言葉を越えるもので、言葉では音楽は語れないという言明はドイツロマン主義に淵源があるという指摘、特に音楽評論家としてのシューマンが多数引用されている。

ただ、それは分かるとしても、シューマンによるかどうか定かではないショパンの「お手をどうぞ」変奏曲への少し的外れな「ドイツ人による」賛辞をシューマンのよるものとして、ショパンがそれに対して毒舌を吐いているのを引用しているのは、いかがなものだろうか。

「このドイツ人(これをシューマンのことだとみなす意見が強い:望 岳人注)の想像には本当に死ぬほど笑った。」というショパンの言葉が、「諸君、脱帽したまえ、天才だ」で始る有名な評論に対して、ショパンが友人に送った手紙に載っているというのだ。

これには、実際はシューマンの評論に対してではないという意見もある。(このドイツ人というのは、シューマンの岳父 クララの父のヴィークであるという意見とショパンの作品2についての詳述。) 以前このことについては、下記のように書いたことがあった。

ショパンがポーランドを離れ、ヴィーンにデビューした頃、シューマンはショパンが作曲した『「ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」の主題による変奏曲  変ロ長調 (Variations on the theme "La ci darem la mano")Op.2』を、自分が筆を執っていた『一般音楽時報』で激賞し、2人の天才音楽家の間には交流が生じたようだ。(評論文は、シューマン著・吉 田秀和訳『音楽と音楽家』p.16 <<作品2>>で読める。)ショパンもシューマンには、バラード第2番を献呈している。(ただし、このサイトによると、ショパンはシューマンの「誤解」について冷淡だったようだ。しかし、その通説に対する反論もありこちらの方が説得力がある。この間のシューマンとショパンについては、海老澤敏『巨匠の肖像』バッハからショパンへ <<ショパンの肖像>>に要領よくまとめられている。) 2006年11月14日 (火) ケンプの シューマン 『クライスレリアーナ』

(この通説と反論のサイトはどちらもリンク切れ。私の考えは以下のコメントの通り。)

ショパンの伝記にはあまり詳しくなく、シューマン側の伝記しか知らなかったので、ネットで、「お手をどうぞ」変奏曲を調べていたところショパンのあまりの失礼な手紙にびっくり仰天して、その反論がないか探したらようやくあったというものです。

ショパン側の(なんだか敵対しているような書き方になってしまいましたが)評論家・伝記作家はショパンのために書いたことかも知れませんが、今と なってはシューマンの鑑識眼の高さとショパンの偏狭な趣味(彼らの音楽作品によく表れていますが)を彼らが逆に証明してしまっているのかも知れない、と少 々シューマン側に肩入れした見方もできるかも知れないと思います。

第3章 音楽を読む - 言語としての音楽

これについては、私も以前から吉田秀和氏の落語の名人とのアナロジーによるデムス評からのインスパイアで、似たようなことを考えたことがある。

2006年11月 9日 (木) イエルク・デムスのシューベルティアーデ

これについて10年ほど前Nifty-serveというパソコン通信時代のFCLAというクラシック音楽の会議室にも投稿したことがある。

落語や戯曲の台詞を、意味や背景、様式を十分把握していない例えば来日した外国人のような人が日本語でそれなりの発音で流暢に話すのと、専門家の噺 家や俳優がそれぞれのその人なりの癖のある語りぶりで話すのとでは、伝わる意味の内容や量が違うのではないかという仮定。それが、楽譜的には即物的に正し く確実に弾いた音楽(極端にはmidiの音楽)と、少々怪しいタッチでも様式や意味内容を十分踏まえた上で弾いた音楽との違いと同じようなものではないか と、書いたことがある。デムスの音楽には、ヴィーンを初めとしたヨーロッパで、多くの一流の音楽家たちの間で成長したピアニストの持つ音楽語というものは どういうものかを聞けたようなリサイタルだった。

学校教育でも伝達できるようにマニュアル化、組織化、グローバル化されている西洋クラシック音楽であり、音楽に国境はないとはよく言われることでは あるが、例えば日本人があの相撲の拍子木の次第に間隔の短くなるリズムを特別な訓練がなくても見よう見真似で打てるのと違い、あのようなリズムの伝統のな い西洋では、あれを楽譜に表すことも困難で、プロの打楽器奏者でも苦労するといことがある、という。また、蝉や鈴虫のような虫の音を聴く際に西洋人と日本 人では、それを雑音と聴くか、意味のある音と聴くかという点で脳の使い方まで違うという有名な話があるが、洋の東西の音楽についての感性の差は以外に大き いものだとも言えるかも知れない。そういう考えは、西洋音楽を日本人である自分が聴くということについての懐疑にもつながり、なかなかつらいのだが。

さて、この中で、第3章 「音楽を読む」 p.121-p.122 で シュナーベルによるシューベルトのD.959のイ長調ソナタ(第20番)の第4楽章(終楽章)の録音について、「『言語としての音楽』と『サウンドと しての音楽』の違いが端的に理解できる録音」として挙げられていた。「名優のモノローグ」のようだとされ、ポリーニやブレンデルの録音は「ラジオのDJ」 のようだとされていていて興味深く読んだ。シュナーベルの録音は幸い「シューベルティアーデ」というBoxに入っているので、聴いてみた。また、リファレ ンスとして、その前にケンプの録音も聴いてみた。

ケンプの録音は、以前に聴いたときは曖昧模糊とした印象しか抱かなかったのだが、第4楽章だけを取り出して聴いてみたところ、やけに親しみ深い音楽 として聞こえてきた。とても好みの音楽であり、演奏ではないか。そして、シュナーベルの方を聴いてみた。岡田氏の言う通り、確かに「言葉」としての分節や 抑揚が明瞭で、メリハリが利いているのだが、ケンプに比べてどうかといわれると、好みとしてはケンプかも知れない。

第4章 音楽はポータブルか?- 複文化のなかで音楽を聴く では、現在の音楽鑑賞が、様々な文脈(文化、時代、地理、思想などなど)の基で行われていることなどがまとめられている。ここでは、アドルノによるフルトヴェングラー(コン プロ)と、トスカニーニ(プロ コン)の論評の紹介が面白い。

この中のp.164 では、ポリーニのショパンのエチュード「黒鍵」が俎上に載せられているが、この曲のコーダの両手オクターブの、八分音符を3つに分けた3連符でのコーダ部分について、ポリーニのリズムがショパンの意図とは違うと指摘していて、あれっと思った。手元に楽譜がないのでIMSLPでダウロンードして楽譜を参照してみたところ、最後の3小節は、こうなっている。

Chopin_op10_5_3

「(3連符の)16分音符+16分休符+16分音符<この音符から両手オクターブの開始>(これで8分音符一拍分の音価)+3連符+3連符+3連符(これまでで1小節分)、8分音符+8分休符+4分音符、2分音符(フエルマータ付き)」 というリズムになっている。

これを擬音化すると「タ(休符)タ、タタタ、タタタ、タタタ、ターン」だろう。フレーズの切れ目の関係で、実際フレーズとして印象に残るのは、「タ(休符)」の後からのフォルテシモでのオクターブスケール降下「タ、タタタ、タタタ、タタタ、ターン」だろう。(読点で休符が入るわけではないので、実際には「タタタタタタタタタタ、ターン」とタがスタカートで10個続いて演奏される。)

これを岡田氏は、フォルテシモでの両手オクターブの開始の(3連符の)16分音符を「タン」と表して(いるのだと思うが)、8分音符を「ターン」として、「タン、タタタ、タタタ、タタタ、ターン」の「3割のリズム」で弾かれるべきだとしている。そして、同じ部分のポリーニの録音は、「タン、タタ、タタ、タタ、タタ、タ、ターン」と「2割のリズム」に変えていると書いてある。これだと、ポリーニの方は最後のターンの前のタが一つ多いことになる。誤植(原稿入力ミス)なのか、それとも詳細に分析的に聞くとそのように音が聞こえるのか、疑問だ。

興味があったので、実際にポリーニの録音、アシュケナージ、ホロヴィッツ(1971)のを比較して聞いてみた。(ただ、ここだけを取り出して聞いたことがなかったので、聞きなれないうちは音符が細かくは追えなかったことを正直に告白しなければならないが)アシュケナージはポリーニと同じように「2割のリズム」に聞こえるし、ホロヴィッツでもきちんと3連符(3割のリズム)が聞き取れるかと言うとそんなことはない。ホロヴィッツはコーダ直前のフレーズでいったんテンポを落とし、この下降両手オクターブで一気に終わらせるという演奏をしている。

この黒鍵エチュードの主部のように3連符が音程が異なっていれば「3割のリズム」の単位として聞き分け易いが、コーダのように下降のスケール(オクターブだが)になると連続して弾かれるのでどこが切れ目かははっきりしないように聞こえてしまうのだ。むしろ彼らのようなテクニシャン、ヴィルトゥオーゾではない、ポーランドの伝統を忠実に継承したショパン弾き(ハラシェビッチとかチェルニー・ステファンスカとか?)の演奏の方が、「3割のリズム」が聴き取りやすいのだろうか?

また、エチュード作品25の2のニュアンスについてのこの本でポリーニのリズムの区切りが「2割のリズム」と指摘されているのが正しいかよく分からないが、ポリーニとアシュケナージを比べてみると確かにアシュケナージの方がリタルダンドなどでテンポを落としていることもあり、3連符がはっきり聞こえるしニュアンスが豊かに聞こえる。ポリーニはテンポが速いこともあり、右手の3連符のまとまりがきこえにくく無窮動的につらなっているように聞こえる。

Op.25-2 の冒頭

Chopin_op252_2

シューマンとショパン、ポリーニのリズムへの言及については、このように物言いもあるが、全体を通しては、やはり示唆的、啓蒙的、刺激的な部分が多く、結構インスパイヤされた。

総じて、音楽の本質は人間同士でのコミュニケーシュン的な営為ということで、このようにステレオイアフォンで孤独に(感想を誰かと共有し合うこと なく)音楽を楽しんでいるような状況は、少し否定的にみなされているようで、(とはいえ、一応一方的ではあるが、このブログで関心を持つだろう不特定多数 の読者に向けて音楽の感想や印象を語ってはいるのだが)、友人知己などと生演奏で場を共有する努力を続けることは必要だろうとは思う。

アマチュアコーラスへの参加からも離れて、巣籠りリスナーになってしまっている自分を省みると内心忸怩たるものがある(^_^;)

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コメント

三連符のお話、その実態は分からないものの、ショパンの音楽において特別な意味合いがあるのかどうか?結論はどうのようになっているのでしょう?

録音で同じように弾いている人が少なくないと言うことで、根拠はあるのでしょうね。それがどれ程の音楽的な意味合いがあるかどうかですよね。

正直、それほど認識されているという事は録音時に指摘されているのは当然なので、その意図が解説されなければまともな音楽評論にはなりません。

投稿: pfaelzerwein | 2010年1月24日 (日) 23:36

Op.10-5のポリーニの録音については、コーダの下降オクターブの箇所の演奏について「楽譜を知っている人がこれを聴いたなら、ひょっとすると仰天するかも知れない」「まるで威風堂々の行進曲のようである」というのが、著者の感想です。要するに、「歴史の文脈」150年以上にわたるショパンの受容史の中で形成されてきた規範とは異なる解釈と主張しているようです。

録音以来40年近く経とうという人口に膾炙した名盤について、今回初めて気が付いたように書かれているのに驚きました。この著書に「3割のリズム」で弾いている実例が挙がっていればすっきりするんですが。

Op.25-2についても「ポリーニはここでもリズムをタラ、ララ、ララ・・・と作り変える」と書かれています。また最近の録音である夜想曲でも3拍子系が4拍子になっているとも指摘し、これはポリーニの解釈というよりも手の癖かも知れないという想像を述べています。

ただ、この著書自体は音楽評論集ではなく、この著者が考える「ポリーニの間違い」を例に挙げて、参照点としての「歴史の文脈」つまり「150年以上にわたるショパンの受容史の中で形成されてきた規範」との食い違いを示すことにより、ポリーニはショパン演奏を「徹底的に脱国籍化しており、ブーレーズや初期シュトックハウゼンのセリー音楽が求めるような奏法 - グラデーションもリズムの揺れも完璧に数値化されている奏法でもってショパンを弾いた点が画期的だ」ということが言い得るということを主張したかったようです。著者のレトリックもあり、著者のストレートな主張かどうかが読み難いのですけれど。それゆえ、コンテキストの読み違いもあるかも知れませんが、御容赦を。

この著者には、その意味で改めて回りくどい言い方ではなく、ポリーニのショパンのエチュードを他の「歴史の文脈に添った模範的なショパン演奏」をリファレンスにして改めて詳細にレビューしてもらえれば面白いと思っています。多数のピアニスト関係の著作があるようなので、あるいは既出かも知れませんが。

さて、Youtubeには、ポリーニのここでの話題の録音もありました。
http://www.youtube.com/watch?v=gqHL2nvWs2U&feature=related

コルトー(彼が歴史文脈に添った存在かはわかりませんが)のop.10-5, op.25-2もありましたので、これとの比較など面白そうです。

◆コルトーのop.10-5 http://www.youtube.com/watch?v=MgmXEBAKMUg
 コルトーの場合には3分割(3連符)が聴き取れたように思いました。

◆ツィメルマン http://www.youtube.com/watch?v=h5jHxXMcnPU
 とても律儀にスタッカートと3連符が分かるように弾いていました。

◆この他にパデレフスキ、リパッティ、バックハウス、アラウなどが聴けるようです。

◆コルトーのop.25-2 http://www.youtube.com/watch?v=ua8BuCEV9ck

◆横山幸雄教授のレッスン http://www.uenogakuen.ac.jp/12etudes/index.html
op.10-5でのレッスンもありましたが、コーダでは特に3連符であることを際立たせるようにとの指導はありませんでした。

◆ルービンシュタインの貴重な映像(白黒)
http://www.youtube.com/watch?v=y1qch7SwFiM
「タタ、タタタタ、タタタタ、ターン」と聞こえる。

◆英語版wikipediaにはこのop.10-5の詳しい項目が立っていましたが、そこにコーダをグリッサンドで弾いているというRosentahlというピアニストのことが出ていました。何とYoutubeにはその演奏が登録されているではありませんか。これも歴史の文脈の支流のひとつでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=1s2q5E_Mfbc&feature=related

◆ブゾーニの1922年の録音も登録されていましたが、コーダの部分など、相当「編曲」してあり、唖然としました。

http://www.youtube.com/watch?v=f-M5R3gQjek&feature=related

投稿: 望 岳人 | 2010年1月25日 (月) 21:53

ようやく読み終えました。前半は、経験的になるほどと思える内容が多く、比較的らくに読み進めましたが、後半は確かめながら読むには当方の力不足、歯が折れそうでしたので(^o^) 噛み締めて味わうまでにはいたりませんでした(^o^)/
「聴く」と「する」の二分法は、そんなに大事なのですかね〜。自然科学や料理や農業でも、「味わう」層から「する」層へ移行することが称揚されるのでしょうか。人間の営みは、もっと別な角度で見ることができるはず、と思ってしまいます(^o^;)>poripori

投稿: narkejp | 2010年2月21日 (日) 09:58

narkejpさん、コメントありがとうございました。

この本の読後感は、同じ著者の『西洋音楽史』『オペラの運命』に比べてすっきりしたものではありませんでした。今回は音楽史の叙述とは違い、この著者の主観的な「聴き方」を説明したものだと思いますが、率直にそれをさらけ出すのではなく、幾重にもレトリックで身を包んで本音をもらしていないような隔靴掻痒的な印象を持ちました。論旨がよく分からないものですから、枝葉末節的な点で「つっこみ」記事を書いて見ましたが、あまりすっきりしないですね。

投稿: 望 岳人 | 2010年2月21日 (日) 11:36

シューマンについての記述は、評論としては「変」でした。
「シューマンのピアノ曲・・・クライスレリアーナ・・・。若いとき極度の思い入れがあった。ときめきと絶望がせわしなく交錯するその焦燥感。・・30歳前後に何も感じなくなった。今、彼の音楽の夢想と性急さがいかにも未熟で青臭いものに聞こえる。」
とは、まったく気の毒な「聴き手」です。ホロヴィッツだって、この曲をレコーディングしたのはそれなりの年齢だし、それを聴いて大好きになった私もそれから30年過ぎましたが、今でも、聴くと胸のざわめきを感じます。
ショパンとシューマンのいきさつについては諸説あるようですが、ショパンが多少シューマンについて「変」といったからといって、それで、シューマンの評価にしてしまうのはいかがなものかと。実際、クララとのことはともかくとして、ブラームスはシューマンを師と仰いでいたのだし。
http://www.geocities.jp/imyfujita/kreisleriana/index.htm
といろいろ文句を書いてしまいましたが、私は、「今でも」クライスレリアーナが大好きで、その上、「ETAホフマン」の小説が嫌いなので、そのことをホームページにしています。
クライスレリアーナという曲名は「文字遊び」という謎です。

投稿: 藤田伊織 | 2010年4月26日 (月) 06:02

藤田伊織さん、コメントありがとうございます。

貴ホームページは以前にも訪問させていただいたことがあり、中でも『クライスレリアーナ』については勉強させていただきました。

それまでの『西洋音楽史』『オペラの運命』では主観と客観のバランスが取れていたように感じていましたが、『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』での岡田暁生氏は、主観に傾き、それも論文としてまとめるためか、「評論」としては意を尽くしていないようで、結構疑問を感じる記述が多いように思いました。岡田氏はこの本を書きながらジャズを聴くことに耽溺していたと書いていますので、その意味からもロマン派の粋とも言うべきシューマンの音楽の評価が相当に偏向したバイアス(音楽の聴き方)になっているのではなかろうかと懸念しております。紺屋の白袴、医者の不養生のように思ったものです。

投稿: 望 岳人 | 2010年4月28日 (水) 22:42

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» 岡田暁生『音楽の聴き方』を読む [電網郊外散歩道]
岡田暁生著『音楽の聴き方』(中公新書)を、ようやく読み終えました。前半は比較的すんなりと読めましたが、後半はなかなか難しい。体裁はコンパクトな本ですが、あちこちで議論になりやすい性格を持った、けっこうハードな本のように思います。 本書の構成は次のようになっています。 第1章 音楽と共鳴するとき〜内なる「図書館」を作る 第2章 音楽を語る言葉を探す〜神学修辞から「わざ言語」へ 第3章 音楽を読む〜言語としての音楽 第4章 音楽はポータブルか?〜複文化の中で音楽を聴く 第5章 アマチュアの権利〜して... [続きを読む]

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