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2011年7月10日 (日)

フルトヴェングラー ベートーヴェン交響曲全集・他 2011新リマスター

関東南部などは昨日梅雨が明けたとみられるとの「宣言」が出された。昨日も今日も一昨日までのじっとりとした湿気の多い暑さとは違い、カンカン照りの本格的な夏がやってきた。ただ、ここ一週間ほどは梅雨らしい雨はなかったので、実際にはもう少し早く梅雨が明けていたのかもしれない。

生誕125周年記念 Wilhelm Furtwängler The Great EMI Recordings に含まれている 2011新リマスターによるベートーヴェンの交響曲全集を聴いた。

リスニング環境は現在整っておらず、据え置き型CDプレーヤーのヘッドフォンジャックからのリスニングとポータブルCDプレーヤーでのリスニングで、大型スピーカーでのリスニングはしていない。

先日のブログ記事でも書いたが、ベートーヴェンの新リマスターは概ね大変聴きやすいものになっているようにい感じた。

これまでLP,(FM放送),CDで聴いたことのある第3、第5、第9で比較すると、楽器の分離(弦楽器群が団子にならずヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスが聴き分けられる、木管がしっかりとした個性をもって聞こえる、フルトヴェングラー独特の揃って力強いピチカートの効果がわかる、トゥッティでも音がそれほど濁らないなどなど)や、高域の伸び(寸詰まりにはそれほど聞こえない)があり、モノーラルの広がりのない音場でも狭苦しさはあまり感じず、音楽の力だけでなく音色の感覚的な美しさも感じられるものになっているようだ。

印象を断片的に(うまくまとめて書けないのだが)。

古いライブ録音である第2番はさすがにSPのサーフェイスノイズが大量に残っており、演奏自体はとても充実したものながら以前通りにヒストリカル録音的にしか聴くことができない。

第3番は、これまでLPで聴いた記憶に残っているピントのあっていないもやつきが解消され、フルトヴェングラーの音楽を十分堪能することができるのだが、逆に終楽章のコーダへ向かう部分など疲労感なども感じられるものになっている(丸山真男が晩年の録音を「張り子の虎」のようだと評したのは言い過ぎだと思う。ヴィーンフィルは憑かれたように熱演を繰り広げ、まるで「ウィーンフィル」ではないようだ)。ただ、「英雄」と言えば、ここで聴かれるようなフルトヴェングラー的なうねりのようなテンポの緩急のある解釈が一方の理想であるのだろうが、クリュイタンス的なインテンポで引き締まって溌剌とした軽騎兵のような運動性のある解釈にも抗しがたい魅力を感じる。

第九のEMI録音はこれまで最も多く聴いたフルトヴェングラーの録音。今回のリマスタリングで音が磨かれすぎていたり、ノイズリダクションが聴きすぎたのか、咳や物音などの会場ノイズが以前ほど聴きとれなくなっているようにも感じた。それでも、ドキュメントというよりは音楽に対峙できる。(参考:日本盤EMIの記事

第1 CD1の最初の曲で、音質の鮮明さに驚かされた。フルトヴェングラーは、この曲を特に大交響曲として扱うわけではなく、若々しいベートーヴェン像を描き出しているようだ。

第4 これだけ音質が鮮明になると、ギリシャの乙女的ではない、雄渾な演奏が十分に楽しめる。こんな録音が残っているのに、誰がいつまでもこの曲をギリシャの乙女などと呼んでいたのか疑問に思えてくる。確かに、カルロス・クライバーの残した第4番の録音はエキサイティングだが、そういう意味ではフルトヴェングラーはすでに十分エキサイティングなように思うのだが。

第5 1947年のベルリンフィルとの冒頭の不揃いながら恐ろしいほどの迫力のある演奏に比べて、セッション録音のこの録音はフルトヴェングラーでないほどの整った、客観的な解釈に聞こえるものだが、新リマスターにより付加されたのではないと思いたいが会場の残響も聴きとれるほど潤いのある録音になっている。これを聴くと、フルトヴェングラーの音楽は、今日聴かれるピリオドアプローチ的な日常的なものではなく、特別に濃密な時間を追体験するような感じを味わう。

第7 今回のリマスタリングにあたり、EMI本社で新たに発見されたムキズのメタルマスターを使用したとのこと。音質の潤い的には第5に譲るように感じたが、これも「ウィーンフィル」的でない、熱演。

第6 第1楽章のゆったりテンポゆえおどろおどろしいという評(諸井誠)もあったが、響きがすっきりしたためかそのような印象はなく、第5とは対照的な長閑さを味わうことができるし、第2楽章の情景も、農民の踊りや嵐から感謝の歌の迫力も素晴らしい。

第8 ストックホルムフィルとのライヴ録音。第2と同じく、SPのサーフェースノイズが残り、今回の新リマスタリングでも相当聴きにくい。また、プロコフィエフの古典交響曲ではないが、ベートーヴェンにしては温故知新的なこの曲を少々重く解釈しているようだ。ヴィーンフィルとのセッションが残されなかったのも、フルトヴェングラーがこの曲と第2番をそれほど重要視していなかったためだろうか? ストックホルムフィルは、現在でもそれほど聴く機会のないオーケストラだが、相当貧弱な録音にもかかわらず、ライヴにしてはなかなかのアンサンブルで引き締まった好演のように思われる。

(なおベートーヴェンには関係のない細かい点だが、付属の英仏独語によるパンフレットのデータは、ブラームスの第2から第4はベルリン・フィルなのにヴィーン・フィルとなっているように目立つ間違いがあるのは惜しい。とはいえ、そのような欠点は本質的なものではない。)

フィッシャーとのピアノ協奏曲第5番やメニューヒンとのヴァイオリン協奏曲も聴きごたえがあり、少々情緒過多なのかもしれないが、ベートーヴェンが音楽に希求した、“Von Herzen ― möge es wieder zu Herzen gehen ! 心より出で  ― 願わくば再び、心に帰せられんことを!” を実現した演奏というものがこのようなものかもしれないと感じさせるものだった。メニューヒンとのヴァイオリン協奏曲は、テスタメントによるリマスターで、ヴァイオリンの音色が大変美しく聴くことができる。またフィッシャーのピアノもところどころ苦しいパッセージがあるものの、高潔な印象の音楽だ。

大雑把にいえばベートーヴェンの作曲の動態的で緻密な構造性をクローズアップしてきたのがノイエ・ザハリヒカイト以降の解釈なのであろうし、その客観性を保った再現音楽によっても十分感動することがあるのだが、表層的なメカニカルの面では、再現性・忠実性が完全とは言えないフィッシャー、メニューヒン、フルトヴェングラーの音楽が、心に沁み、その緩徐楽章などはほとんど祈りの音楽に聞こえる(ような気がする)というと点が、彼らが途切れることのなかったドイツ音楽の本流の末裔であるという証なのかもしれない、などと少々大げさなことを考えてしまった。

以前、カルロス・クライバーが亡くなったときに、同様に本能的なところがあるフルトヴェングラーの音楽をその対照であるかのように書いたことがあったが、クライバーの振る同じ曲を聴いても、思惟に誘われるようなことがほとんどないのに、フルトヴェングラーを聴くと、なぜかいろいろ考えさせられてしまうのは、不思議なことだ。

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