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2013年8月の6件の記事

2013年8月25日 (日)

市長選挙 8/25

選挙管理委員会ホームページ
http://www.city.yokohama.lg.jp/senkyo/

選挙人名簿登録者数 平成25年6月2日現在 2,987,379人
http://www.city.yokohama.lg.jp/senkyo/what/what20130602.html

投票者数861,728人
http://www.city.yokohama.lg.jp/senkyo/130825/sokuhou/sokuhou-t.html

投票率 29.05%
http://www.city.yokohama.lg.jp/senkyo/130825/sokuhou/sokuhou-t.html

期日前投票者数206,249人
http://www.city.yokohama.lg.jp/senkyo/130825/kijituzen20130824.html

現職(自民、民主、公明推薦)対共産推薦の前市議 (+泡沫候補)による選挙戦で、結果があまりにも見えていたため、まったく盛り上がらない選挙戦だった。約300万人の有権者の3割弱が投票したのみ。

このような低調な選挙を見るにつけ、選挙を権利ではなく、義務にするという議論もありうる。

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2013年8月14日 (水)

ヘンデル 合奏協奏曲集作品6全曲 ピノック指揮イングリッシュ・コンサート

2009年のヘンデル没後250年の記念年にも入手しなかったCDだが、この7月にブックオフに3枚ばら売りで廉価で売られていたので、購入した。

同じ店舗で、10年近く前に、作品3のCDを購入したことがあったが、ようやくの作品6の12曲全曲との邂逅といった感がある。

ヘンデルの気宇、気品と雅趣は、コレルリやヴィヴァルディ、テレマン、J.S.バッハに似ても非なるものがあり、何とも楽しめる。

トレヴァー・ピノック指揮 イングリッシュ・コンサート
 サイモン・スタンデイジ、エリザベス・ウィルコック(バロック・ヴァイオリン)、
 アントニー・プリース(バロック・チェロ)
 1981年、1982年録音

12の合奏協奏曲集 作品6  12 Concerti Grossi Op. 6
作曲年 1739年
編成 2vn,vc,弦楽合奏,バッソ・コンティヌオ

319 合奏協奏曲第 1番 ト長調
320 合奏協奏曲第 2番 ヘ長調
321 合奏協奏曲第 3番 ホ短調
322 合奏協奏曲第 4番 イ短調
Handel01


323 合奏協奏曲第 5番 ニ長調
324 合奏協奏曲第 6番 ト短調
325 合奏協奏曲第 7番 変ロ長調
326 合奏協奏曲第 8番 ハ短調
Handel02


327 合奏協奏曲第 9番 ヘ長調
328 合奏協奏曲第10番 ニ短調
329 合奏協奏曲第11番 イ長調
330 合奏協奏曲第12番 ロ短調
Handel03

参考情報:

この著名な(と思われる)楽曲だが、Wikipediaにも英語版以外では詳細な解説が掲載されていない。ドイツでも、日本語でも。ヘンデルの「不人気」?は世界的なものらしい。

ヘンデル 合奏協奏曲 作品6 Wikipedia (英語版)

ヘンデル 合奏協奏曲 作品3 Wikipedia (英語版)

ヘンデルの協奏曲 Wikipedia (日本語版)

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2013年8月13日 (火)

安彦良和 「ナムジ」「神武」 (記紀神話再解釈)

今年の初夏、5月か6月に、職場最寄の駅前書店で、中公文庫のこのコミックシリーズがなぜか平積みで売られていた。

ネットで調べてみると、1990年頃に発表された作品で、その当時にそれなりに話題になった作品だったらしいが、知らずにいた。このコミック・アニメーション作家の作品としては、ガンダムがあまりに有名だが、この記紀神話の再解釈ものは、荒神谷遺跡からの大量の銅剣出土などを契機とする梅原猛の出雲神話の再評価(「神々の流竄」の否定)に通じるようなものでは無かったのだろうか?

因幡の白兎神話などで子どもにも知られ、出雲大社に祀られる大国主命は、記紀神話の記述でも非常に多面的な性格を併せ持つ神のようだ。その子とされる建御名方神は、天照大神の使いの建御雷神の命に服さず力くらべをしたが負け、信濃国(長野県)諏訪湖まで逃れ、同地に鎮まったとされるが、古代信濃の諏訪が神話に登場し、諏訪神社が全国各地でいまだに尊崇されている事実と相まって、出雲と信濃という遠い国の間の古代の交流がどのようなものであったかなどと想像を膨らますのも楽しい。諏訪に入るには、険しい美濃から木曽の道よりも、日本海側を海路で巡って、糸魚川から安曇野に出、そこから諏訪に入るのが順路だろうと思うが、さにあらんか、大国主命と糸魚川の奴奈川姫との間の子が、諏訪に祭られている建御名方神と、神話でも語られている。

このような象徴的な神話を、リアリズム的な解釈により、ストーリー化したものが、このナムジ、神武で、そのストーリー性の巧みさには感心した。原田常治という人の「古代日本正史」(*)がこのタネ本であることを、著者である安彦氏自身が明らかにしている。

(*)神社伝承学 http://www2.plala.or.jp/cygnus/k1.html (真説日本古代史)

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2013年8月12日 (月)

大量の夏野菜をいかにして消費するか?

毎年この季節になると、田舎から夏野菜が大量に届く。父が家庭菜園で丹精した胡瓜、茄子、トマト、莢隠元、獅子唐辛子、ピーマン、じゃが芋(*)などなど。そのほか、赤紫蘇や岡鹿尾菜なども。

(*)最近読んだ牧野富太郎のエッセイによると、南米原産のじゃが芋 potato を 馬鈴薯と呼ぶのは間違いだという。

特に、今年は高冷地の田舎も猛暑の影響か、胡瓜と茄子の出来がよく、見事に大振りに実ったものがダンボール箱いっぱいに届いた。

また、妻の実家からは、信州黒姫山麓の農家産のトウモロコシと、地元産の桃が送られて、それに加えて妻の近所の友人から地元の家庭菜園でできた茄子なども沢山届き、臨時で八百屋を開店したいほどの盛況になっている。

先週初めから、妻が珍しく本格的な夏風邪を引き、その間の料理は夏休みの高校生の子どもたちや私が担当したのだが、冷蔵庫に入れる余地がないため段ボール箱に入れて、廊下に置いてある野菜の様子を、この土曜日にチェックしてみると、室内30度を超す高室温のため、せっかくの葉物は傷んでいるものもあり、茄子も胡瓜もしなび始めていた。

夏野菜料理と言うと、生野菜サラダや味噌汁のほかに、大量に投入した野菜カレーや、茄子とピーマンと玉ねぎによる油味噌が思い浮かぶが、それだけでは使いきれないと心配になり、結婚のときに買った素材別の料理ブックを開いてみたところ、ラタトゥイユなる料理が目に留まった。どうやらこの料理ならば、茄子、胡瓜、トマトを大量に一度に調理できそうだと目星がついた。フランス料理風な名前だが、イタリアやスペイン風でもあり、なかなかおいしそうだ。

レシピ通りではないが、適宜アレンジして調理してみたところ、特別に調味料は使っていないにもかかわらず、野菜の甘みと旨味が混然一体となったなかなか結構な味の料理が出来上がった。自己流のポイントは、ニンニクを隠し味にするため玉ねぎを炒める前に最初にオリーブオイルで炒めること(イタリア料理では当たり前?)と、コンソメなどの固形スープが無かったのでその代わりに粉末の昆布だしの素を使ったことだろうか?グルタミン酸とイノシン酸の相乗効果ということが美味しんぼ情報として頭に残っていたが、今回のはトマトと昆布のグルタミン酸相乗効果であろうか?

R0012704

土曜日の夕食には、スパゲッティを茹で、このラタトゥイユをソースとして和えて、夏野菜スパゲッティにしてみたが、もしかしたら「お金が取れるかも」と密かに自画自賛できるほどのレベルだった。

翌日の日曜日は、午前中からラタトゥイユ第2弾に挑戦してみた。今回は胡瓜を入れ忘れたことや、使い残しのじゃが芋や莢隠元を使ったこともあり、途中から方向転換して、この野菜の煮物ラタトゥイユ風をベースにした夏カレーにしてみた。ただ、玉ねぎとトマトの甘みと旨味と酸味が際立っているせいか、カレールーを投入しても、ベースの味にカレーの風味が少し負けてしまい味のバランスがあまり整わない気もしたが、それなりに野菜を美味しく消費できた。

ところで、昼食の付け合せは、ゴーヤの炒め物。卵や肉を入れたチャンプルー方式にしなくても、ごま油で炒めて、鰹節を掛けるとそれなりに美味しいことが分かった。

夕食もカレーで、大量の野菜が入っているのだが、さて胡瓜をどうしようかと思い、夕食には胡瓜の炒め物を試してみた。先の料理ブックの胡瓜の章に、生食するのが普通だがビタミンCを分解する酵素が入っているため、中華料理では熱を加えて食べることもあると書かれていたことにヒントを得た。やはりゴマ油で炒め、フライパン蓋で少々蒸し焼きにして熱を通し、軽く振り塩をしてから、中華スープ(ラーメンスープの残ったもの、昆布だしの入った麺つゆでも可)を加えて、少し冷ましてから食卓に出したところ、胡瓜独特の青臭味も抜け、中華風漬物とも言えるいい味になっていた。大量に取れる夏場の胡瓜を腐らせずに日持ちさせるためには、実家の母が佃煮にして保存するようにしているが、毎食の生食のサラダや塩もみなどに飽きたときには、この炒め物もなかなかよいのではないかと思ったりもした。

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2013年8月11日 (日)

村上春樹の旧作品のまとめ読み 

2013年4月、新作の「多崎つくる」 が出版された。「1Q84」の第4部が発刊されるのではないかとの自分の予想が外れた。「1Q84」の第1部、第2部は、妻が図書館から借りてきたものを読んだので、第3部を自分で購入したときも相当記憶が薄まっていて、十分味わった感じが無かった。そこで、この4月から5月に掛けて、「多崎つくる」を読む前に、村上春樹の旧作を読んでみようと思いついた。先日ブックオフで「ハリポタ」があまりに廉価だったのに味をしめ、何店かめぐってみると、村上のハードカバーも多くが廉価で入手できる。その内、「世の終わりとハードボイルド、ワンダーランド」は古書店で入手できず、新刊書を購入した。

初期作のいくつかを除く多くの小説、村上が自らまとめたインタビュー集、「アンダーグラウンド」などのノン・フィクションを読んでみて、これまで自分が、彼の小説を、エンターテインメント系の「リアリズム」小説として無理な努力を重ねながら読もうとしていたことが分かった。先入観の問題で、はぐらかされた感じが強かった。

ただ、そうは言っても、リアリズム小説として書かれたという「ノルウェイの森」にしても、はぐらかされ感からは逃れられない。それでも、主要作をざっと通読してみて、面白さを感じたのは、「世の終わりとハードボイルド、ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」だった。オウムによる地下鉄サリン事件で被害を受けた人たちやその遺族の人たちへのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」は、いつの間にか風化しつつあるこの「大事件」に関する重要な資料であるようには思った。

ところで、今回「1Q84」を第1部から通して読み直してみて、1Q84の第3部の章の数が31で、3章ずつサイクルを作っていることに改めて気が付いた。

31章が、ミソヒトモジのメタファーだと以前読んだときには考えた。ところが、今回Book1,2 の2章ずつのサイクルでそれぞれが、24章というのは、おそらくバッハの平均律(*)クラヴィラ曲集の1、2巻とも長・短調のセット×12回で24曲(そもそも、バッハはなぜ2集作曲する必要があったのだろうか?)の隠喩だとされていたこともあり、第3章の31章はゴルトベルク変奏曲(アリアと30の変奏曲。変奏は、3曲がセットになっている。そのセット内では、第1曲目が特徴的な舞曲による変奏、第2曲目が技巧的な変奏、そして第3曲目が、1度=同度からセット毎に次第に度数を増やしていくという作曲技巧上の超絶技巧で作られたカノンによる変奏で、第27変奏では9度のカノンとなっている。ただしダカーポで冒頭のアリアが再現されるので、円環が閉じられるように、しめくくられ、その意味で32曲とも言いうる。)に関連づけれらるのかも知れないとも思われた。

第30変奏のクオドリベットが雑多な要素の融合も行われているが、小説では、第1章が牛河の章、第2章が青豆、第3章が天吾となっている。少々牽強付会かも知れないが、以前、島田雅彦という小説家が「音楽探偵アマデウス」というテレビ番組で、ゴルトベルク変奏曲の変奏曲の数とひと月の日数との関連に触れていたことも思い出した。

(*)最近読み直した芥川也寸志の「音楽の基礎」で、しっかりと「平均率」と書かれていたのには驚いた。一か所だけでなく、何か所も同じ表記だったので、おそらく間違いではないのだろう。

(元記事 2013年4月)

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2013年8月10日 (土)

電子ブックLideo で「大菩薩峠」を読了した

中里介山の『大菩薩峠』を読了した。

電子ブックリーダーでなくても、PCなどにより青空文庫で読むことはできるのだが、どういうきっかけだか、ときおり話題に上るこの大作・問題作を、昨年末にLideo を購入してから読み始めた。断続的に読んでいたので、2013年の6月までまでかかってしまった。

読む前のイメージと、読後感はまったく異なるものだった。

大正時代から昭和初期の剣豪小説ということだったので、深沈たるイメージの古臭い感じの文体で、陰鬱な内容が延々と続くのだろうと思っていたのだが、先入観に反して、饒舌な文体による、多くのな登場人物が江戸や甲州を中心として、西は京都、南は奈良、紀伊半島、伊勢、北は金沢、仙台、および中部山岳地帯(白骨温泉、高山)、海上、無人島を舞台にしての活劇だった。八方破れと評してもいいもので、残念ながら、最後は未完に終わってしまっていた。

大衆小説でもあり、一種の思想小説的な側面も持っているもので、長いことは長いが、主人公の存在が最後にはどうでもよいようになってしまう大群像活劇で、大旅行小説の破天荒なストーリーへの違和感を抱かなければ、少々ばかげているとは思いつつも、通読は可能ではなかろうか? 

時代設定は、明治維新直前であり、その意味で藤村の「夜明け前」の頃に一致するのも、何らかの因縁を感じさせる。

このような膨大な巻数の大長編には、電子ブックは似合っているのかも知れない。

(元記事 2013年6月)

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