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2013年9月10日 (火)

「風立ちぬ、いざ生きめやも。」 原詩の tenter という動詞

映画『風立ちぬ』に触発されて、堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読み返した。

映画の記事で書いたが、中学生時代に通読できなかったという記憶は誤りだった。読み進めるにつれ、この作品を読んだ時の記憶がよみがえってきた。

この小説の主部では、結核患者である婚約者節子とのサナトリウムでの療養生活が小説家のモノローグと日記で綴られるが、その年(「冬」1935年)の12月に彼女の病状がさらに重くなっていく様が描かれる。そして突然、その翌年(最終章「死のかげの谷」1936年)の12月(「幸福の谷」の対極)が始まり、前年の同じころの追憶として、病状が重篤となった節子のためにその父を電報で呼び寄せたところが描かれるのだが、父が到着した後の節子は書かれず、そこに存在しない節子へつい語りかけてしまうような孤独な冬の山荘での暮らしが描かれる。
(「殆ど三年半ぶりで見るこの村は」と冒頭にあるが、これは節子とK村で夏に出会って以来3年半ということで、彼女の最期から3年半ではない。この小説の時系列については、別にまとめてみたい。)

 

今から40年ほど前の少年の当時は、あらすじも知らず、伝記的な事実も知らず、節子が亡くなったのかどうかが気になって、最終章を飛ばすように読み、そこで仄めかされていたことはほぼ理解したが、事実がはっきりと書かれていないことにはぐらかされたような気分を持ったのだった。おそらく少年の当時の私には、愛する人を永遠に失ったことを描くことがどうしてもできず、最終章においてもその失われた人の気配を感じ、面影をたどるようにしか書けなかった堀辰雄の気持ちに思いいたらなかったのだろう。(それにしても、小説家がその小説の中でその草稿を書くという、巧まざるものと思われる入れ子構造は、意識すると結構読みにくいものだ。)

さて、「いざ生きめやも」という詩句を巡っては、ポール・ヴァレリーの原詩の誤訳だという意見が有力になっているようだ。

果たして誤訳なのであろうか? 映画の感想記事のコメント欄でも以下のように少し触れたのだが、このことについてもう少し考察してみた。

・・・・・、監督や制作者の意図に反することになるのだと思いますが、映画での二郎と菜穂子は、「生きねば」のキャッチフレーズに反して、ある種の諦念を抱いていたかのように思われました。

原作の「いざ生きめやも」の解釈問題にもなりますが、il faut tenter de vivre. 英語では、it must try to live. となるそうで、「生きることを試みなければならない」「生きようとしなければならない」と一面では、気持ちを奮い立たせるような解釈になるのでしょうが、その心理の裏側には、ただ「生きよう」という前向きさだけではなく、そのことを「試みる」「努める」 という心理的な段階であり、不安定な心理状態が隠されているようにも思えます。そこで、堀辰雄の「生きめやも」という反語的表現が効いてくるのではないかと思うのです。

風立ちぬ、いざ生きめやも。

この小説で有名になったこの詩句は、冒頭でヴァレリーのフランス語の原詩がエピグラフとして掲げられ、第1章(プロローグ)の序曲での印象的な場面で作者によってエピグラフを和訳したと思われるこの詩句が口ずさまれるのだが、それがリフレイン的に第2章「春」で、二人でサナトリウムに転地療養しようと決める前後でも以下のように再現する。一つは節子の告白として。そして、それに呼応する詩句として。さらに節子の自らの運命を悟った上での決意として変奏される。

「私、なんだか急に生きたくなったのね……」
 それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で……」

 それは、私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝いて出た、そしてそれから私が何んということもなしに口ずさむことを好んでいた、

風立ちぬ、いざ生きめやも。

という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、――云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉しい日々であった。

***

或る日、やっとのことで郊外にある節子の家までその院長に来て貰って、最初の診察を受けた後、「なあに大したことはないでしょう。まあ、一二年山へ来て辛抱なさるんですなあ」と病人達に言い残して忙しそうに帰ってゆく院長を、私は駅まで見送って行った。私は彼から自分にだけでも、もっと正確な彼女の病態を聞かしておいて貰いたかったのだった。
「しかし、こんなことは病人には言わぬようにしたまえ。父親にはそのうち僕からもよく話そうと思うがね」院長はそんな前置きをしながら、少し気むずかしい顔つきをして節子の容態をかなり細かに私に説明して呉れた。それからそれを黙って聞いていた私の方をじっと見て、「君もひどく顔色が悪いじゃないか。ついでに君の身体も診ておいてやるんだったな」と私を気の毒がるように言った。

***

私は、殆ど悲しげな調子でそう応じながら、扉の握りに手をかけて、それを引きかけた。
「あなた……」彼女の声は今度は殆ど中性的なくらいに聞えた。「いま、泣いていらしったんでしょう?」
 私はびっくりした様子で、急に彼女の方をふり向いた。
「泣いてなんかいるものか。……僕を見て御覧」
 彼女は寝台の中から私の方へその顔を向けようともしなかった。もう薄暗くってそれとは定かに認めがたい位だが、彼女は何かをじっと見つめているらしい。しかし私がそれを気づかわしそうに自分の目で追って見ると、ただ空を見つめているきりだった。
「わかっているの、私にも……さっき院長さんに何か言われていらしったのが……」
 私はすぐ何か答えたかったが、何んの言葉も私の口からは出て来なかった。私はただ音を立てないようにそっと扉を締めながら再び、夕暮れかけた庭面を見入り出した。
 やがて私は、私の背後に深い溜息のようなものを聞いた。

「御免なさい」彼女はとうとう口をきいた。その声はまだ少し顫えを帯びていたが、前よりもずっと落着いていた。「こんなこと気になさらないでね……。私達、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」

そして、サナトリウムでの二人の療養生活が始まる。

ポール・ヴァレリーのフランス語原詩は、
Le Cimetière marin という表題で、
http://fr.wikisource.org/wiki/Le_Cimeti%C3%A8re_marin
で見ることができるが、この詩の最終連の冒頭に

" Le vent se lève !… Il faut tenter de vivre !"

はある。

その英語訳では その詩句は、

"The wind is rising! . . . We must try to live!"

(by Paul Valéry, translated by Cecil Day-Lewis)
http://en.wikisource.org/wiki/The_Graveyard_by_the_Sea
と訳されている。

そして、その日本語訳(門司邦雄氏)では、

「風が起る!… 生きてみなければならない!」

http://rimbaud.kuniomonji.com/etcetera/cimetiere.html
(なお、この日本語訳を読んでみても、「海辺の墓地」は大変難解な内容だ。ただ、一部の詩句は、私には親しいシラーの「歓喜に寄す」を想起させるのだが。)

(フランス語入門の解説では、Il faut +原形 (主語は非人称、Il)「必要である。しなければならない。すべきである。」
http://daccord.seesaa.net/article/16254232.html

さて、この誤訳論議において、私の見た限り、この「めやも」の反語用法が原詩の原義を伝えていないという以外はあまり議論されることがないようなのだが、むしろここで重要だと考えられるのは、tenter (英語では try 「試みる」にあたる。try が endeavor になっている別の訳もあるらしい。) ではなかろうか、と思う (*1)

①ある行為が当為(すべきである must, should, shall, have to )であること 
②ある行為を試みることが当為であること
この二つは、当然ながら微妙にニュアンスが異なる。

日常会話では、①「さあ食べなくちゃ」は、既にその行為が可能であることが前提となっている。しかし、②「さあ食べてみなくちゃ」というのは、「してみる」の無い場合に比べて、その行為に対するある種の心理的な抵抗感や、その行為の実現可能性に対する懸念や不安、自由意思というよりも目に見えぬ強制などをニュアンス的に含んでいる。

有名な「土佐日記」の序言 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」の「してみむ」は、「上手くはいかないかも知れないが試みる」というエクスキューズのニュアンスが覗われる。

「さあ、生きなくちゃ」(少し軽い表現過ぎるが)と、「さあ、生きてみなくちゃ」も「してみる」という言葉のあるなしで、相当印象が異なる。

英語の用法:tryは努力の意を含み,試みが成功する可能性を示唆するが,attempt は努力の意を含まず,試みが困難で必ずしも目指した結果に結びつくとは限らない.try hard(一生懸命やってみる)と言えるが,×attempt hardとはいえない.endeavor 困難に打ち勝って目標の実現を図る試み.成功が自明のことには使えない.また×endeavor hardとはいえない.strive 苦労しながら懸命に試みる.(Progressive English-Japanese Dictionary, Third edition ゥ Shogakukan 1980,1987,1998/プログレッシブ英和中辞典  第3版  ゥ小学館 1980,1987,1998)

そのような観点から考えると、堀辰雄が、彼が好んだ西洋音楽における音楽の主題(テーマ)のようなこの詩句に対して、意思の助動詞「む」の已然形の「め」+ 反語の係助詞「やも」(下記辞典の(2)の2)を敢えて使ったのは、古文の伝統的な反語の解釈

「さあ、生きようか、いや、生きるつもりはない(「いや、長くは生きられはしないだろう」と読み替えたいところだが)。」

という反語表現の解釈を前提にした場合には、かなりの意訳になってしまうとの逡巡があったのかも知れないと想像する。だが、tenter という言葉のもつ微妙な心理的なバランス(*2), (*3)、「生きたいと思う、しかし生きられる可能性ははっきりしない」という綯い交ぜになったニュアンスをその日本語の古語訳に込めようとしたのではなかろうか、とも思えるのだ。それも、音楽形式のごとく、序曲で触れられ、更に提示され、再現されるときに、意味合いや色合いが異なる効果を持つように。

「やも」
(係助詞「や」「も」の重なったもの)
(1) 文中用法。文中の連用語を受け連体形で結ぶ。
1 疑問・反語の意を表す。*万葉‐九七八「をのこ也母(ヤモ)空しくあるべき」
2 詠嘆を表す。*万葉‐三七九一「古へささきし我れやはしきやし今日八方(ヤも)児らにいさにとや思はえてある」
(2) 文末用法。
1 活用語の終止形を受け、疑問・反語の意を表す。*万葉‐二二四「今日今日と吾が待つ君は石川の貝に交じりてありと言はず八方(やも)」
2 活用語の已然形を受け、反語の意を表す。*書紀‐允恭一一年三月・歌謡「常しへに君も逢へ揶毛(ヤモ)」(Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)小学館 1988)

ところで、この「(め)やも」の用例で、古くから人口に膾炙しているのは、万葉集 山上憶良の

「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」
 (銀母 金母玉母 奈爾世武爾 麻佐禮留多可良 古爾斯迦米夜母)

ではなかろうか。

「銀金宝玉なんて宝ものだって言うけれど、素晴らしい宝である子どもに匹敵するだろうか、いや、しないよ」。

この有名な実例からも「めやも」が「正しく」反語として解されないことを、堀辰雄自身が予想しなかったことは無かっただろうと思う。

追記:「めやも」について

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/intro/josi05.html

試みに、この詩句のいろいろな文語的な訳を考えてみると、

ストレートに「いざ生きむ」とか
否定の反語で「いざ生きざらめや」(生きざらむや)とか
少し試みの気持ちを込めて「いざ生きてみむ」
否定と試みで「いざ生きてみざらめや」(生きてみざらむや)
意志を強めて「まさに生きむとす」
意志と試みで「まさに生きてみむとす」
試みと当為を込めて「生きてみるべし」

などの候補もありえただろうか?五七のリズムに合うものは少なく、さらにどれも勇ましい感じで語感がよくない。このようなリズム語感の問題もあったにはあっただろうが、むしろ、堀辰雄自身は、「めやも」の「反語」性を十分意図して意識的に選択したのではなかろうか?
(係助詞「や」文末に用いられる場合は活用語の終止形・已然形に付くので、「めや」も「むや」もありうるように思う。) 

敢えて「いざ生きめやも」とすることで、上記のような希望と絶望の間の不安定な気持ちの揺れと、免れがたい結核による死と向かい合い、一日一日を大切に生きられるだけ生きたいという一種の諦念を表現しようとしたのではあるまいか。映画に触発されて小説を改めて読み直して、思いいたったのだった。

敢えて自分の言葉に直してみると、

風が吹き始めた。
(長くは生きられないかもしれないけれど、)生きられるだけ生きてみよう。 

となるだろうか

-----------------

(*1) 原詩の tenter  (努める 試みる) に着目した意見をとうとう見つけた。ただし、tenter に含まれるニュアンスが、私見とは少し異なる。 (2013/9/11) 

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa358940.html

質問:

「生きめやも」を肯定表現にすると?

堀辰雄の『風立ちぬ』で訳されているポール・ヴァレリーの詩の一節、
il faut tenter de vivre. は彼のように「いざ生きめやも」と訳すると、「やも」が反語(あるいは疑問)ですので、原詩の意味からは誤訳になる、と知りました。
では、「さあ、生きよう」「(努力して)生きてゆこう」「生きようと努めよう」という積極的、肯定的な意味の古文にするとしたら、どういう言い方が適しているでしょうか。
投稿日時 - 2002-09-15 12:32:43

回答:

>「さあ、生きよう」「(努力して)生きてゆこう」「生きようと努めよう」という積極的、肯定的な意味

質問はこうなっているので、「さあ、生きよう」ではないというのがあります。「生きようと努めよう」というのは、「……しよう」という「意志」だけでなく「積極的努力意志」ともいうべき表現です。

ただ、「生きようとしよう」ではなく、「生きようと努力しよう」です。

どうしてこういう「努力意志」になるかというと、元の詩が:

>il faut tenter de vivre.

であって、これは、「わたしは、生きようとする必要がある」「わたしは、生きることを試みるべきだ」などの意味で、「生きよう」という単純意志ではなく、かなり屈折した心理表現になっているのです。

わざわざもってまわった言い方になっているので、文脈解釈次第では、「わたしは生きることを試みるべきだ(そうなのか)」という「反問」があるようにも見える可能性があり、そで「やも」を入れた可能性があります。

少なくとも、フランス語は、「いざ、生きむ」というような、単純なことを云っていません。だからこそ、「(努力して)生きていこう」と「生きよう」に強調などの付加があるのだと思います。

私見では、「(努力して)生きていこう」なら、「いざ、生きむとせむ」という風な表現がよいのではないかと思います。「生きむとす」で、予定の「生きようとする」の意味で、これを更に「む」で意志にすると、「生きようとすることにしよう」で、意志が強調になります。

あるいは「生きむとつとめむ」もよいかも知れません。

原文のフランス語は、「生きむとすべし」「生きむべし」「生きむとつとむべし」のような感じだとも思えます。

投稿日時 - 2002-09-15 19:25:43

 (質問者の)お礼

 原詩の分析も加えて検討していただき、ありがとうございます。
tentreは英語でいえばattempt 努力する、つとめるという意味を含んでいますから、おっしゃるように単純に「~しよう」とは訳せないと思います。
ただ、「いざ」という感動詞によって、ある程度、意志が強調されているとも思えるのですが。
もっともil faut~(不定詞)de.......は「せねばならぬ」という義務、強い要請の意をもちますから、「いざ」程度では不足でしょうか。
このあたりで堀辰雄も悩んだのだと思います。(笑)
「生きむとせむ」が一番適した表現だというご指摘はまったくそのとおりだと思います。

 

投稿日時 - 2002-09-18 09:14:25

-----

(*2) フランス語の tenter のニュアンスについてのブログが見つかった。

風立ちぬ 本当はどんな意味? 2013年 08月 15日

訳しにくいには、動詞のtenterです。
試みるという意味なのですが、essayerとは 違います。

tenterとessayerはどう違うか?

esseyer de ~の場合は、出来る可能性を感じて、出来るだろうと思って試みる
tenter  de ~の場会は、うまくいくかどうか分からないが、思い切ってやってみる

Je essayerai de te voir demain 明日、君に会えるようにするよ は、いいですが、この場合に tenter de を使うのは不自然ですよね。

tenterは、Tente ta chace ! 一発当ててみなよ のように、 かなり可能性が低いニュアンスになります。

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(*3) 上記の(*2)の裏付けになると思うのだが、フランス語 tenter のニュアンスが英語に伝えられたものとして、英語の形容詞 tentative が挙げられる。

tentative
[形容詞] 《形式》
1 試験的な,仮の,一時的な
a ~ plan  試案
~ agreement  仮の合意.
2 不確かな,自信のない;煮えきらない;おずおずした,ためらいがちな.


[名詞] 仮説,試案;試み.

語源 中ラテン語←ラテン語 tentatus (temptare 試みる)「試みられた」

Progressive English-Japanese Dictionary, Third edition ゥ Shogakukan 1980,1987,1998/プログレッシブ英和中辞典  第3版  ゥ小学館 1980,1987,1998e

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参考情報:


小説「風立ちぬ」の感想
http://blogs.yahoo.co.jp/albireo_spica/17032926.html

矢野綾子について
http://ghibli.jpn.org/report/yano-ayako/

タツノオトシゴ(堀辰雄サイト)
http://tatsuno.shisyou.com/index.html

後に夫人になる加藤多恵への書簡
http://tatsuno.shisyou.com/words.html#syokan-s13-2-4-taeko

http://book.asahi.com/reviews/column/2013090500001.html?ref=com_fbox_d2

-----------

"いざ生きめやも" 誤訳 の検索結果は、膨大だ。自分もそうだが、特に映画が公開されてから関心が高まっているようだ。

http://www.google.co.jp/search?q=%22%E3%81%84%E3%81%96%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%81%E3%82%84%E3%82%82%22+%E8%AA%A4%E8%A8%B3&lr=&tbas=0&tbs=qdr:y,sbd:1&source=lnt&sa=X&ei=3K4uUvTDN8KjkAX_u4CQCQ&ved=0CCQQpwUoAQ&biw=1184&bih=819

「生きめやも」を巡っての意見さまざま

http://www2.toho-movie.jp/movie-topic/1212/05kaze_kaguya_sk.html

「いざ生きめやも。」というキャッチコピーが添えてありますが、これはどういう意味ですか?

鈴木プロデューサー: 「風立ちぬ」の小説の冒頭に、フランスのポール・ヴァレリーという人が書いたフランス語の詩が引用されていて、堀辰雄が訳しているんです。それが「風立ちぬ、いざ生きめやも」なんですね。いろいろな方が指摘していることですが、これはどうも誤訳なんじゃないかと言われています。直訳すると「風が吹き始めている。我々は生きなければならない」ということらしいんですが、堀辰雄は「風立ちぬ」、つまり「風が立った」と過去形にしてしまう。そして、「いざ生きめやも」は反語ですから、「生きようか、いや死のう」なんですよね。なぜ堀辰雄がそんな誤訳をしたのか、国文学史上ずっと論争が続いているそうなので、いろいろ悩んだんですが、そのまま使うことが堀辰雄への敬意に相当するかなと思って今回使わせていただきました

http://8917.teacup.com/akutamako/bbs/574

http://halleluya.no-blog.jp/amber/2013/03/post_bf00.html

http://gotzzz.tumblr.com/post/54177279710

http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20130731

http://takitaki.cocolog-nifty.com/kannsou/2013/07/post-4794.html

http://morinodiary.blog29.fc2.com/?m&no=453

http://blogs.yahoo.co.jp/pakinkinnou/32001850.html

http://t-sato.blog.ocn.ne.jp/my_housing/2013/08/post_eb41.html

http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qaetc/20130807-OYT8T00841.htm

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/maruta_t_t/view/20130822/1377256654

http://turner-b.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/25-9ebd.html

http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/11291298.html

http://blog.livedoor.jp/shubou37-iko/archives/32480291.html

http://promontory.cocolog-nifty.com/promontory/2013/08/post-12cd.html

http://promontory.cocolog-nifty.com/promontory/2013/08/post-a7fc-1.html

http://murasaki-cube.blogspot.jp/2013/03/blog-post_25.html

http://okwave.jp/qa/q358940.html

http://www.shin-araragi.jp/zakki_bn/bn_07/zakki0709.htm

http://english-fountain.blog.ocn.ne.jp/supplement/2005/07/post_5cff.html

http://english-fountain.blog.ocn.ne.jp/supplement/2005/07/post_5fc2.html

http://english-fountain.blog.ocn.ne.jp/supplement/2009/09/

http://blog.livedoor.jp/up_down_go_go/archives/5133928.html

http://misotukuri.wordpress.com/2007/08/31/%E3%80%8C%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC%E3%80%81%E3%81%84%E3%81%96%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%81%E3%82%84%E3%82%82%E3%80%8D%E3%81%A3%E3%81%A6%E8%AA%A4%E8%A8%B3%E3%81%AA%E3%81%AE%EF%BC%9F%EF%BC%8D/

http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10921287c.html

http://kbaba.asablo.jp/blog/2013/07/25/6918498

http://schale.exblog.jp/5516493

http://miyatajuku.blog61.fc2.com/blog-entry-859.html

http://yyy23.sblo.jp/article/71944934.html

http://mccammon.info/archives/92

http://d.hatena.ne.jp/masudako/20130823/1377269489

-----
「死のかげの谷 風立ちぬ」というキーワードの検索結果

https://www.google.co.jp/search?q=%E6%AD%BB%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%92%E3%81%AE%E8%B0%B7&rls=com.microsoft:ja:IE-Address&ie=UTF-8&oe=UTF-8&sourceid=ie7&gws_rd=cr&ei=AyUtUu-fJce2lQWN74DQBg#q=%E6%AD%BB%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%92%E3%81%AE%E8%B0%B7+%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC&rls=com.microsoft:ja%3AIE-Address

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今回はあまり参考にならなかったが、松岡正剛 641夜 
http://1000ya.isis.ne.jp/0641.html

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