曲の出来栄えと、演奏の出来栄え
クラシック音楽という再現芸術で受ける感銘は、曲そのもの、演奏そのもの それぞれから受ける割合はどの程度の割合なのだろうか、などと素朴な疑問を呟くことがある。
とても大雑把な疑問だが、少年の頃クラシック音楽を聴き始めて以来、時に応じて念頭に思い浮かぶものだ。
世評で圧倒的な名曲と言っても、趣味に合わない演奏などではかえってイラつくことが生じるし、またそれほどの名曲でなくても演奏によって感銘を受けることはままあることだ。
様々な要素が複合しているので、一概には言えないのだが、自分にとってある一定の許容度以上の演奏では感銘を受けるような曲の場合には、曲そのものの持つ力の方が若干大きいのかも知れないとも思ったりする。
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コメント
モーツァルトのピアノ協奏曲などでは、たいていどの演奏家のものでも楽しめてしまいます。無条件幸福です。その意味では、曲の力が大きいと感じます。演奏家による違いというのは、味わいの違いで、気分や体調、あるいは年代によって受け止め方も変化します。通勤の音楽で聴いているラヴェルのピアノ協奏曲は、ほんとに魅力的な曲ですが、ずっとアルゲリッチとアバドの演奏で聴いてきました。最近、サンソン・フランソワとクリュイタンスの録音を聴いて、曲の魅力にあらためて気づかされました。根本は曲の持つ力、演奏家はその個性にしたがい、様々な味わい方を提供するのかな、と思います。
投稿: narkejp | 2013年9月21日 (土) 05:54
narkejpさん、コメントありがとうございます。
自分でも何を念頭にして書いたのか、分からなくなった記事で、具体例を挙げずにお茶を濁したようなものになってしまいまいましたが、「自分にとってある一定の許容度以上の演奏」 技術でも音楽性でも、その一定のレベルというのが、それぞれの鑑賞者にあるように思うのですが、私で言えば、古いところでは技術的にあれこれ言われることの多いシュナーベルのピアノや、シゲティのヴァイオリンでも、十分楽しむことができます。
また、個性的な演奏家のものも、これも自分基準で、あまり度が過ぎていなければ、楽しむことができるようです。昔のロマンチックなアプローチでも、その後のノイエ・ザハリヒカイトでも、さらに近年の古楽器でもある程度はなんでもござれです。ある一定レベルの演奏なれば、曲の出来栄えの良しあしが大きいのかも知れないと思います。
投稿: 望 岳人(Mochi Takehito) | 2013年9月21日 (土) 23:03