カテゴリー「書籍・雑誌」の127件の記事

2008年7月 2日 (水)

『ボクたちクラシックつながり ピアニストが読む音楽マンガ』 青柳いづみこ (文春新書622)

2008年2月20日第1刷、同年5月10日第2刷の比較的新しいクラシック音楽関係のエッセイ。

2006年6月 6日 (火) フジ子・ヘミング 「奇蹟のカンパネラ」の記事を書いたときに、青柳いづみこオフィシャルサイトの執筆&インタビュー 評論「進化するフジ子ヘミング」/「すばる」  2006年8月号を発見し、それ以来ときおり新聞記事などで目にするピアニスト・エッセイストだが、愛好まんが『のだめカンタービレ』や『神童』『ピアノの森』を題材にしたエッセイと帯にあり、手に取ってパラパラ読んでみたところ、「目の敵にされるホロヴィッツ」だの「ゼルキンとホロヴィッツのバトル」だの興味をそそってやまない小見出しが目に入り、税抜き定価730円と高いが購入したのだった。

現在、流行している音楽漫画を題材にしたのはタイムリーなのだろうが、いわゆる際物で、数年したら、訳が分からなくなってしまうことだろうと心配しつつ読み始めたが、「のだめ」の部分を除いても、ピアニスト、指揮者論として、プロフェッショナルとしての裏話的な話も書かれており、一般愛好家にはとても面白い本だった。

「目の敵にされるホロヴィッツ」の章では、日本の現役ピアニストたちの1992年時点での談話が載っているが、若林顕(あきら)氏「リヒテル。ホロヴィッツとコルトー」、横山幸雄氏「リヒテルとミケランジェリ」、清水和音氏は「アシュケナージが20世紀で一番優れたピアニストだと思う」、アンドラーシュ・シフ「アラウ」と、いわゆる作曲家の意図の尊重、楽譜への忠実とそれのアンチテーゼとしてのホロヴィッツという対立構図のようだった。プロのピアニストが言うのだから一理はあるのだろうが、ホロヴィッツのピアノ演奏は、それほど作曲家の意図に反し、楽譜に忠実でないだろうか? グールド、ポゴレリッチ、ブーニンなどホロヴィッツよりも楽譜の指示から離れたピアニストはいるわけだし、先日じっくり聞いたホロヴィッツの『クライスレリアーナ』にしても楽譜に忠実ではないだろうか、少し気になるところだった。

まあ、そのような違和感もあったにはあったが、全体としては特にピアノ音楽に関心のある人なら一読しても損はないという盛りだくさんの内容で、できれば「のだめ」のストーリーはある程度知っている方が楽しめるかも知れないという本だった。

指揮者の謎という章はあるが、掘り下げるべき内容に比べて、文章の量が短すぎたようには思った。

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2008年6月11日 (水)

先日の『題名のない音楽会』と『名曲探偵』が書けないのは

帰路によく立ち寄るスーパーマーケットに、埼玉県羽生市(はにゅうし)の東亜酒造製のウィスキー『ゴールデンホース 武州』というのが置いてあり、地ウィスキーというのも面白そうだと思って購入して、夕食後飲み始めたところ、口当たりと喉越しがよく、このところアルコール飲料と言えばビールか発泡酒だけだったので、つい気分よく飲んでしまっている。

そこで、ソロモンのベートーヴェン 後期ピアノソナタ集について雑文をものそうと思ったが、順延。

日曜日朝の『題名のない』は、『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』特集。『佐渡裕の題名日記』という番組連動ブログが立ち上がっており、そこでおよそのことはわかってしまうのだが、結構面白かった。やはり指揮者にとっても、オケにとっても難曲であるということが確認できてほっとした。

『名曲探偵』は、『フィンランディア』が題材だったようだが、ビデオ録画をまだ見られずにいる。見たら少し感想を書き付けてみたい。

今、ワルター(ヴァルター)指揮コロンビア交響楽団によるブラームスの交響曲第1番を聴いている。ファーストチョイスにはふさわしくないが、この曲を結構聴いて来た耳には、演奏のできのよしあしは別にして、さすが大巨匠の指揮だという部分が聞かれて面白かった。パンフレットの解説は、門馬直美氏で「ワルターの音楽の世界~常に微笑を忘れず』というもの。

また、読んでいる本は、あの青柳いづみこさんの文春新書『ボクたちクラシックつながり ピアニストが読む音楽マンガ』というもの。『のだめ』、『神童』、『ピアノの森』を題材に、ピアニスト論が多岐に渡り面白い。

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2008年5月28日 (水)

小澤征爾 武満徹 『音楽』(新潮文庫)

先日の新聞の広告を見たら、2008年のサイトウキネンフェスティバルのオペラは、ヤナーチェクの『利口な女狐の物語』を取り上げるのだという。以前にも確かヤナーチェクを取り上げたことがあったので、小澤征爾は結構ヤナーチェクのオペラが好きなのかも知れない。ただ、小澤氏は椎間板ヘルニアのため現在休養中だということで、水戸室内管弦楽団の定期公演に代演を立てるという新聞記事を読んだ。是非夏までには治癒して欲しい。公演を見るのは無理だろうが、是非舞台を映像に記録して後日市販して欲しい。

さて、この文庫だが、オリジナルは昭和56年(1981年)刊行されたもので、既に27年も経ってしまった。しかし、自分が未だ若い頃のものなので、なんとなくつい昨日のような気もする。いわゆる同時代という感じだ。武満徹も勿論元気だった頃、もう長野県の御代田町に居を構えていたのだろうか?

同じく対談集で大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した後に、小澤征爾と対談した『同じ年に生まれて』もそれなりに面白かったが、この『音楽』も面白かった。ただ、あまり深みが感じられない。昔、ああだった、こうだったという回顧談が多いように思う。もっと武満の発言を読んでみたかったが、どうも小澤のペースの対談のようだ。ざっくばらんで物怖じしない人柄のようなので、無理からぬところはあると思うが。それでも、武満が「岩城宏之の指揮がよかった」というところでは、小澤が相槌を打たないところなど、結構なるほどと思うところもある。

ちょうど中国が四人組の追放の前後で、武満が訪中、小澤が単身訪中し北京のオーケストラでブラームスを振り、その後ボストン響を引き連れて訪中という頃に当たっており、その意味で、その時代の記録としては結構面白い。

最近、中国出身のユンディ・リとラヴェルのピアノ協奏曲で共演したCDが出たり、ランランとは以前から共演していたりで、中国出身の音楽家の出現を当時から予想していたが、それが実現したのは喜びだろうと思う。

ただ、日本の音楽界についての言及は、何回かの対談を合わせたものだけあり、多少自己矛盾しているような発言も見受けられ、そのことが結構アンビバレントな感情を窺わせるようにも思う。

20世紀の日本を代表する稀代の音楽家同士の対談で、それなりに貴重なものだが、やはり深みという点で物足りなさを覚えてしまうのが、残念だ。

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2008年5月13日 (火)

『ナルニア国物語』1~7読了

月曜日に診察を受け、よく眠れる薬を処方してもらったところ、翌火曜日の朝は起きられず休息。

ディズニー映画『ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女』に続いて、第2章『カスピアン王子の角笛』が公開されるということで、書店では岩波書店には珍しく、ハードカバーもペーパーバックスも並べてディズニーとのキャンペーンをはっている。否、最近ではゲド戦記でも岩波は同じことをやっていたと思い返す。

少年少女向けのファンタジーはこのブログのテーマでもあったのだが、このような有名な作品をこの年代になった面白いと感じるかという懸念はあったが、結構面白かった。

C.S. ルイスは、かのトールキンと親友でもあり、言語学者でもあり、敬虔なキリスト者でもあったというところが、この物語の奥深さを醸し出しているのかも知れない。

そのようなキリスト教的な知識や解釈がなくても、パラレルワールド、魔女の造形、異形のものたちなどの奔放なイマジネーションなど結構面白いものだろう。

意外にも1950年代に年1冊ずつ書かれたものだというが、今や古典のひとつで、こうして映画化されたのだろう。先日、DVDで第1巻『ライオンと魔女』を見直したが、もともと映像化が仕組まれていたものではないだろうが、結構よい出来だった。

なお、ペペンシー兄弟の兄弟、ピーター、エドマンドのどちらかはあのチャールズ・ダーウィンの5代後の子孫だということが、先日のダーウィンの特集番組で紹介されていた。

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2008年5月 3日 (土)

『物理が苦手になる前に』(竹内淳 岩波ジュニア新書)

高校になって習った物理の授業は、非常に無味乾燥だった。中学までは理科少年でもあり、また伝記が好きで科学者の伝記などをよく読んでおり、原子物理学などにも興味を持っていたのだが、そのような想像をしていた物理と高校物理はまったく違っており、むしろ化学の方が周期表などで元素を扱っており面白かった。『相対性理論』の一般向けの解説書などは、それなりの興味を持ってその後も読んだりはしたが、いわゆる「物理」からはすっかり離れてしまっていた。

これもたまたまブックオフで見つけたのだが、カバーの裏側に「物理という科目や数式へのアレルギーをとりのぞき、教科書だけでは絶対に味わえない物理学の魅力的な世界に誘います」とあり、この本の出版時は早稲田大学の理工学部の応用物理学科の助教授の著者が前書きで「高校二年でこの科目に出会ったときに大嫌いになりかけた。責任転嫁をするつもりではないが、ある程度努力しても分からないというのならそれは教科書や教育方法などのどこかにも相応の責任があるはずだ」と共感を覚える本音が書かれていて、読んでみようと思った。

力 F , 質量m, 加速度 a とすると F=ma の式が成り立つ などと言われてもチンプンカンプンで、複雑な現象をなぜそんな単純な式で一律に表現ができるのかという疑問が湧いてしまうのだが、それを超短詩型の俳句の背後に広がる深遠広大な世界や、野球のピッチャーの投げるボールのスピード、F1カーのスピードなどから速度、加速度と説明していき、微分、積分までうまく説明している。私には慣性の法則(惰性)は、躓きの石ではなかったが、加速度がなぜ重要視されるのかが、高校時代にはよく理解できていなかったようだ。自然落下運動の重力加速度 g についても 9.8m/秒の2乗 という数値について記憶が戻ってきた。 

ただ、慣性の法則が理解されるようになったのは、6世紀の疑問の提示から17世紀のガリレオまで約1000年かかったという記述は、科学史の結果だけを教育しようとしている現代の教育の欠陥をあぶりだしているように思えた。

同じことがp.81には、「慣性の法則、力=質量×加速度、作用反作用」をニュートンの運動の第一法則、第ニ法則、第三法則と言い、ニュートン力学の真髄はこれで終りだが、これを高校では2、3時間で学んでしまう。しかし、人類が最初に手がかりをつかんでからこの法則性を浮かび上がらせるまで優に十世紀以上を要したとされているのも面白い。

ただ、 F=ma については、力(物理力とされる)が、質量と加速度との両方に比例関係にあることはなんとなく分かるが、なぜその二つの要素を掛け合わせる式になるのかはよく分からない。どうもこの辺がごまかされたような気になってしまうのだ。そして、それらの数式を数学的に組み合わせて式を整理して結論を導き出すやり方には、さらに論理の飛躍があるような気がしてごまかされているような感覚がさらにする。

作用、反作用については、実感からは分かる。衝突の物理も、自動車事故から野球のボールをバットで打つときの衝突、ラグビーやサッカーのフィジカルコンタクトなど興味深い題材を使っている。

8のコペルニクス的転回については、以前小学生が地動説を理解していないということが大々的に報じられたときに自分でも記事にしたのとほぼ同じ趣旨のことがより分かりやすく整理された形で書かれており我が意を得たりという感じだった。

9ニュートンのりんご 10神のジグソーパズル についても要領よくまとめられており、この辺の宗教史、科学史の部分がより面白い部分だ。運動方程式を使えばあらゆる力学的な運動が予見できるという信念がその後の技術発展を支え、そして、電磁気学、相対性理論、量子力学についても触れられている。

私自身も、責任転嫁になってしまうが、先日の三角関数の余弦定理にしても、これらのニュートン力学の三つの法則にしても、文系的な人間には背景にある数学史、科学史の説明が授業のリードなどにあればもっと興味を持てただろうと思う。ともあれ、面白い本だった。三日坊主ではないが、すぐに忘れてしまってあいまいになってしまうのだが。

p.s. この本の著者は、現在早稲田大学の教授であり、講談社ブルーバックスの『高校数学で分かる』シリーズで評価の高い教育者でもあるようだ。教育者と言えば、哲学者ヴィトゲンシュタイン(ウィトゲンシュタイン)の小学校教師時代のエピソードは非常に示唆的だ。また、物理学、数学と言えば、半可通的な言い訳になるが、カール・ポパーの反証可能性のことを思い出してしまう。大学時代の友人がポパーを信奉していたのを思い出す。彼は数学教師の息子だった。


 

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2008年5月 2日 (金)

岡田暁生『オペラの運命』(中公新書)

『西洋音楽史』よりも前に書かれた本だが、『西洋音楽史』を読了後に購入。これも非常に面白い。快刀乱麻的に明解に書かれているが、あまり強引さを感じず、納得させられる部分が多い。まとめ方のうまさだろうか?先日、NHKの『魔笛』を題材にした番組の折にこれを引き合いに出したが、ようやく読了した。『音楽史』はほとんど一気読みだったが、こちらは少々時間がかかった。『音楽史』に登場する器楽曲に比べて、オペラはなじみがない作品が多いからだろう。何しろ、モンテヴェルディの『オルフェオ』も『ポッペア』も『ウリッセ』も、グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』も、ロッシーニもヴェーバーもヴェルディもプッチーニも、ヴァーグナーも、オペラ史に残る作曲家、作品のほとんどが未だまともに聴いたことのないものだから。

目次のようにざっくりまとめると、

絶対王政の王家の祝典としてのバロックオペラ、オペラセリア。

啓蒙時代のブルジョア階級の台頭、斜陽貴族とモーツァルトなどのオペラ・ブッファ。ロココ趣味。

フランス革命後のブルジョアとフランス・グランド・オペラ(マイヤベーア)。最大の娯楽産業、カジノ・売春・さくら(宣伝)。

ドイツ・東欧の「国民」オペラのイデオロギー性(イタリア統一とヴェルディ)と異国オペラ(アイーダ、蝶々夫人、トゥーランドットなど)、中南米のオペラハウス。

ヴァーグナー 王になった作曲家。

ヴァーグナー以降、オペラのライヴァル映画の登場。そしてエーリッヒ・コルンゴルド、マックス・スタイナー、ニーノ・ロータ、ジョン・ウィリアムズの映画音楽。ベルクの『ヴォツェック』、ショスタコーヴィチの『鼻』。

日本におけるオペラについては触れられていないが、ある意味、独墺オペラの総本山の一つ、ヴィーン・シュターツ・オーパーに東洋人の小澤征爾が音楽監督として就任しているのも、近現代文明の源流であるヨーロッパとアメリカの文化による世界の席巻過程の果てと、その終りの始まりを象徴するのかも知れない。

日本人は、このような重層的な歴史把握が苦手で、多くの古典が同一平面に並べられる傾向があるが、そのような音楽実践と受容自体、また現代を象徴することなのだろうな、などと思った。


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2008年5月 1日 (木)

池波正太郎『真田太平記』を10年以上かけて読了

池波正太郎『真田太平記』新潮文庫版 全12巻

1. 天魔の夏
2. 秘密
3. 上田攻め
4. 甲賀問答
5. 秀頼誕生
6. 家康東下 ここまで1990年代に読んだ。 その当時、これ以外の真田ものはほぼ読了。上田市の池波正太郎真田太平記館も訪れ、旧真田町(上田市)の国道は生活道路で、真田本城、真田屋敷、ゆかりの寺院、角間温泉、鳥居峠、沼田なども訪れ、真田10万石の城下町松代も生活圏の一部だった。信之の菩提寺も訪れ、廟所にも参拝した。

その後、中断。最近は池波正太郎の剣客商売、鬼平犯科帳、梅安を読了。

そしてようやく。

7. 関ヶ原   ここから2008年3,4月に読んだ。
8. 紀州九度山
9. 二条城
10. 大坂入城
11. 大坂夏の陣
12. 雲の峰

最終巻の解説を読むと、作者は約9年を掛けて週刊誌に連載してこの大作を完成させたのだという。

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2008年4月15日 (火)

相倉久人『新書で入門 ジャズの歴史』(新潮新書203)

岡田暁生『西洋音楽史』でジャズの歴史をコンパクトに分かりやすくまとめていたので、もう少し詳しくそれについて知りたいと思っていたところ、やはり新書で『ジャズの歴史』が目に留まり、読んでみた。

ジャズの音楽家は、断片的な固有名詞とその音楽をわずかばかり知るだけ。ただ、フュージョンやクロスオーバーとか呼ばれている時代がちょうど学生時代の同時代だったことで少し聴いてみたことがある程度で、ジャズの歴史の概観などはほとんど知らなかったので、非常に面白かった。

コルトレーンとしては非常に例外的に親しみやすいとされる『バラード』しか聴いたことがないので、そのフリージャズの極致を聴いてみたいと思わされた。

また、奴隷としてアフリカ大陸から連行されてきたアフリカン・アメリカン(黒人)の文化・伝統とヨーロッパの文化・伝統が時に交じり合い、時に対立しながら、ジャズという音楽ジャンルが変貌を遂げて来たという概観的な流れは、いろいろな意味で面白いものだと思った。

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2008年4月 6日 (日)

日本の鯨肉食は戦後の一時期に急増した

新聞を既に回収袋に入れてしまったので、いつの日付けのものだったか分からなくなってしまったが、珍しく新聞社らしい記事が読めたので印象に残ったのが、タイトルのような事実の指摘記事だった。3月末の朝日新聞だったと思う。

その記事を探して検索してみたが、そのままの記事はヒットせず、朝日新聞の社説と、週刊朝日の書評記事が見つかった。どうやら、朝日新聞社として昨今の調査捕鯨問題に対するオピニオンが基礎になっているらしい。

どちらの論も無理がある 捕鯨論争(社説) (朝日新聞東京本社発行 5月19日付朝刊)
これはいつの年のものか明記されていないが、下関市でのIWC総会をきっかけに書かれたものだということが、検索して分かった。この社説と、以下の書評記事、そして最近の2008年3月ごろの記事は、ほぼ一貫している。

 捕鯨は日本の食文化だという声も強い。だが、沿岸地域のなかに昔からあった捕鯨・鯨食の伝統と、食糧難をきっかけに国民全体が鯨肉を食べるようになった戦後の経験は、区別して論じるべきだろう。

書評記事はこれ:捕鯨問題の歴史社会学 [著]渡邊洋之 2007年の記事だが、今回の3月の記事と主旨は同じだ。

 だが、本当に捕鯨と鯨肉食は日本人の伝統的な文化なのだろうか。日本人はいつごろから鯨を食べるようになったのだろうか。渡邊洋之『捕鯨問題の歴史社会学』は、この問題を研究した学術論文である。

 結論からいうと、捕鯨も鯨肉食も近代になって普及したものだ。明治になって爆薬を装填したモリを打ちこむノルウェー式捕鯨が導入され、捕鯨会社が いくつかできた。ただし、砲手はノルウェー人、作業員の多くは朝鮮人。これによって捕鯨が盛んになり、鯨肉も一般に食べられるようになった。それまでは網 による捕鯨が一部の沿岸で行われていただけ。

 捕鯨に対する感情はさまざまだったようだ。たしかに鯨を捕って食べる地方もあったけれども、鯨を神様に見立てて捕鯨をタブー視する地方もあった。

 明治時代には捕鯨に反対する動きが各地であった。本書には青森県で起きた捕鯨会社事業場の焼き打ち事件が紹介されている。死者・重軽傷者まで出したというから大事件だ。誰もが鯨肉を喜んで食べていたわけではない。

2008年3月ごろの記事はこれをもう少しまとめ、シーシェパードの船長への電話インタビュー(徹底的な菜食主義者ということが明らかになった)も含まれていたが、グラフなどで戦後の一時期だけ鯨肉消費があがり、その後商業捕鯨が原則禁止になったことで、鯨肉が給食や家庭から姿を消したことを書いていた。日本の伝統食文化であるというのは、どうやら感傷的な思い込みの面もあるようだ。

C.W.ニコルの『勇魚(いさな』は素晴らしい小説だったが、このような伝統的沿岸捕鯨は一部だけだったのだという。そして、最終段落の事件は、実際に八戸市で起きたものだったことが記事では書かれていた。

その意味では、久しぶりによい新発見の記事だと思ったが、2002年頃から主張は一貫していたわけだ。

私は、上記の『勇魚』や、『美味しんぼ』の影響で日本の伝統的な沿岸捕鯨と、戦後の食糧難対策としてのノルウェー式捕鯨による鯨肉摂取とを混同していたようだ。

伝統とは言え、和歌山太地の伝統と、鯨を神と崇める青森八戸の伝統のような対立するものがあり、また文楽人形のゼンマイにも鯨のヒゲが重要だったという『美味しんぼ』の指摘も重要だが、それはやはり近代的な商業捕鯨と分けて考えるべきだろうと思う。

欧米の側も特にエイハブ船長の『白鯨』や、米国の捕鯨船への薪炭・水供給要請がアメリカによる開国要求の背景の一つであったように、鯨油の取得が一時期欧米による鯨資源の浪費だった時代もあったことをよく肝に銘じておくべきだと思う。

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2008年4月 2日 (水)

角山栄『茶の世界史』を読んだ

先日の『コーヒーが廻り世界史は廻る』 に続いて、同じ中公新書の『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』(中公新書596)を読み終えた。こちらは、1980年初版というので、相当古い本だが、2002年で27版と相当ロングセラーとなっているようだ。

コーヒーの歴史もそれまでは俗説しか知らなかったが、この茶の歴史も興味深いものだった。意外にも西欧に入ったのは、大航海時代で15世紀から16世紀頃のことで、コーヒーと踵を接するようにして紹介されたのだという。大陸諸国では、カフェイン飲料としてコーヒーが主流となったが、イギリスとロシアでは、茶が主流になったのは、ヨーロッパの性格に思いを馳せるとなかなか面白い。

また、アメリカ、カナダで緑茶が相当の期間嗜まれていたということもこの本で初めて知った。開国以降の日本が、絹に次ぐ輸出品として相当大量に北米に緑茶を輸出していたということはほとんど知らない歴史だった。最近また茶の輸出が話題にのぼっているけれど、茶は明治の日本の経済を支えた重要な輸出品だったのは意外だ。それが、インド、セイロンの紅茶との競争に敗れ、ほぼ現在のような茶の世界地図になったのだという。

イギリスが茶を飲むようになった当初も緑茶が主だったというのは、驚くべきことで、紅茶の歴史はまだ比較的新しいのだという。それが、大英帝国の威光により、イギリス王室御用達の銘柄が今では緑茶国日本でもむやみに有り難られているのもおかしい。

なお、イギリスのインド植民地政策は、上手な支配によって行われたというのが、前回のコーヒーの本でも取り上げられたことだが、アングロ・サクソンは、インドの綿製品をつぶすために、綿織物の職人の目をつぶし指を切るというような残酷なことを行ったことが、この本に紹介されていた。また、砂糖も西インド諸島(カリブ海)で生産するために、多くの黒人奴隷を王の名の下に、三角貿易により連行してきたこと、銀の流出を抑えるためアヘンを中国(清)に持ち込み、それに抗議した清国を相手に言いがかり的な戦争をふっかけて、香港などを直轄植民地化したことなど、当時の大英帝国の帝国主義、植民地主義による乱暴な行為は、まったくひどいもので、そのような過去にはまったく口をつぐんで正義面、地球の主面している欧米諸国は、一度猛省をすべきではないのだろうかと、改めてつくづく思ってしまった。昨日見た映画『オリバー・ツイスト』(ディケンズ原作)の冒頭、教会の慈善団体が運営する孤児院の理事達の偽善者としての描かれ方は痛烈だった。あのような紳士たちが本国で植民地経営の恩恵にあずかり、その意味ではホームズやワトソンと言った中産階級的な紳士連も同じ穴の狢であろうか。

茶とコーヒーという現代社会では当たり前の嗜好品の経済史を通じて、この近代社会の非常にゆがんだ一面が活写されており、大変勉強になった。上品なお紅茶、奥深いコーヒーなどと脳天気なことを言っていられない気分だ。それかあらぬか、最近コーヒーの飲み過ぎのせいか胃酸過多気味で、少しコーヒー断ちをしている。

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2008年3月27日 (木)

臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』

3/25から3/26にかけてココログ(フリー以外)がメンテナンスに入っていたため、投稿はフリーのサブブログの方にしたが、そのときに書いた中公新書を早くも読み終えた。

実に面白い本だった。1992年に初版というのだが、これまで背表紙も見た記憶がないので、逆に驚いている。ネットを検索すると、結構この本の感想や書評が見つかるので、それなりに有名な本ではあるようだ。

コーヒーの歴史が人類史の中でも比較的新しく、イスラム神秘主義が生みの親だとは知らなかった。それが、ヨーロッパでは修道院で意識を覚醒し、欲望を沈静させるということで、尊重されたという経緯があるようだ。そして、これがイギリスではコーヒーハウスにより有名なロイズの保険を生み出し、一方でその欲望沈静化作用を言い立てられた結果イギリスではコーヒーは廃れ紅茶が飲まれるようになったとか、フランスではカフェがフランス革命のゆりかごとなったり、ドイツでは市民革命の鬼子ファシズムを生んだりと、またその背景に西インド諸島、東アフリカでの植民地と黒人奴隷労働があるなど、コーヒーというカフェイン嗜好飲料がとてつもない働きを近代史の上で残しているということが読み物として面白く語られていた。副題の『近代市民社会の黒い血液』というのは、言い得て妙だと思った。

またイギリス人の支配、ドイツ人による官僚による匿名性の支配という図式(p.188前後)の提示は非常に面白いものがあった。

近著で、『パンとワインを巡り 神話が巡る』というのも出ているようだ。こちらにも興味がある。

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2008年3月25日 (火)

大河ドラマ『篤姫』も面白い

日経の回し者ではないが、日経トレンディネットという サイトも結構面白い。

大河ドラマ『篤姫』の快進撃はこれからも続く! そう断言できる根拠とは? 2008年3月22日
という記事は、なるほどと思わせる予想記事になっている。

それほど期待せずに我が家でもこの大河ドラマを見始めた。歴史上の女性を主人公にしたものでは、永井路子原作の北条政子を扱った『草燃える』は、岩下志麻の迫力のある演技もあり、非常によい出来だったが、『女太閤記』のような通俗的なホームドラマに堕さずに、それなりの品格を保ったドラマになっているように思う。宮崎あおいは、少々庶民的な顔立ちだが愛嬌があり、幾島役の松坂慶子ともどもなかなか見せてくれる。

司馬遼太郎の多くの幕末史を扱った作品は、主に倒幕側を主人公としており(例外的に、『最後の将軍』があるが)、その裏面史である13代家定、14代家茂、15代慶喜将軍の様子についてはあまり知ることがなかった。

そこで、興味を持ち、宮尾登美子の原作(講談社文庫、上下巻)を購入して読み始めた。

歴史小説としては、少々野暮ったいが、宮尾登美子流の引き込むような筆力によって、現在下巻を読んでいるところだ。


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2008年3月20日 (木)

2冊のクラシック入門書

3月19日は子どもの卒業式出席のため有給休暇を取得して出席してきた。非常に独特の個性を持った子どもなので、級友との付き合い、団体生活・行動等々、いろいろな心配はあったが、特に毎学年の担任の先生(毎年クラス替えがあり、6年間別の先生)のご指導のおかげで、何とかひどいいじめにも合わずに6年間を過ごすことができた。卒業式に列席し、長そうであっという間の6年間を回想すると、ビデオカメラで撮影しながらも時折ウルウルとしてしまった。これからは、そのような個性を矯めようとはせずに、マイペースで学習することのできる中学校へ進むことができることになったので、個性を生かして成長していってもらいたいと願っている。

昼過ぎに式も終り、少し雨模様の中帰宅後、久しぶりの週日の休日をのんびりと過ごした。昼寝も出来たので、風邪も大分治まってきた。

先日購入した樋口裕一『笑えるクラシック 不真面目な名曲案内』(幻冬社新書)は、ラ・フォル・ジュルネのアンバサダーを務める音楽愛好家の手になるもの。笑いを武器にいわゆる堅苦しいジャンルに切り込むものというと、宮田光雄『キリスト教と笑い』(岩波新書)を思い出させるが、名曲案内の方はより気楽にクラシック音楽に楽しんでもらおうという意図で書かれたもので、寝転んで読むのに最適な本だった。中ではラヴェルの『ボレロ』についての解説は、非常に納得のいくものだった。フランス音楽についての捉え方も鋭いと思った。また、リヒャルト・シュトラウスへの日本の一般的な音楽ファンの印象を踏まえての評価も、なるほどという感じをもった。前半は、このボレロを含んで、『第九』『英雄の生涯』『レニングラード』が詳細に論じられ、第2部は膨大な数のオペラが笑いをキーに紹介。第3部は思わず笑ってしまう名曲が列挙されていた。オーケストラ曲とオペラがほとんどだが、面白い視点からの名曲案内で結構啓蒙された。これからハイドンの交響曲第60番『うっかり者』を聴いてみたいと思う。まだ例の全集では聴いていない曲のようだ。

また、先日現役オーボエ奏者としては引退して指揮者・教育者として再スタートを切った宮本文昭『疾風怒涛のクラシック案内』(アスキー新書)も、入門書ではあるものの、特にドイツの一流放送オーケストラの首席を務めた名プレーヤーで、あのヘルムート・ヴィンシャーマンの弟子でもあるので、実際の音楽実践と、これからの指揮者としての抱負が混じった音楽案内も、結構興味深いものがあった。ただ、シューベルトの交響曲第2番のフィナーレへの妄想?は、改めて曲を聴きなおしたが、やはり妄想ではなかろうか? 交響曲第5番であのヴァントにしごかれた話も面白かった。こちらもオーケストラ曲とオペラを扱っているので、他のオーボエが活躍する室内楽曲についても書いて欲しいものだ。

「名曲案内」もいろいろ出ているが、やはり切り口が明快なものが面白いようだ。百科全書的にあれもこれもというとどうしてもくどくどしてしまうから。

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2008年3月19日 (水)

今日も風邪気味

3/18は、何とか仕事には行ってきた。帰宅して、食事を摂ったらまた具合が悪くなってきた。テレビでは、『でぶや』が最終回を迎えた。ホンジャマカの石ちゃんこと石塚とパパイヤ鈴木のコンビによる食べ物番組で、深夜放送の時代からときどき楽しんで来たが、とうとうこれで終りだという。でぶキャラの社会進出に果たした役割は大きいかも知れない!?

ところで、チベット暴動問題は非常に懸念されるところだが、全人代を標的に、それより前に新疆ウイグル自治区でも航空機テロ未遂があったのだという。民族・宗教対立が20世紀末から21世紀初頭の国際政治のキーワードだが、多民族大陸国家の中国でも北京オリンピックでの世界の注目をきっかけにして、外部アピールの意味も込めてそのような対立が表面化しているように思われる。

同じ多民族大陸国家であるロシアもチェチェン問題などではムスリム独立派を暴力で抑え込むという同様の対応をしながら、それほど西側からの非難は強くはなかったと記憶するが、潜在力ではスーパーパワーである黄色人国家の中国は、その比較からすると欧米側からの非難が強いのではないか?ビョークとかいう歌手がチベット問題を上海で取り上げたらしいが、欧米内でのそのような問題を取り上げることはないのだろうか?他人の粗はよく見えるが、自分の頭の上の蝿をまず追うのが先決ではないのか?かといって、中国内の少数民族の漢民族化による弾圧・強制が正当化されるものではないのだが。

音楽は今日も休みだが、ブックオフの年度末の書籍半額セールで、俵孝太郎『新・気軽にCDを楽しもう』(1993年)、宮本文昭『疾風怒涛のクラシック案内』(2007年)、樋口裕一『笑えるクラシック』(2007年)、相倉久人『ジャズの歴史』(2007年)という音楽関係の書籍を入手。政治評論家の俵孝太郎氏は、音楽愛好家だということは知っていたが、こんな本を書いていたとは知らなかった。

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2008年3月17日 (月)

『のだめカンタービレ』#20

日曜日に『のだめカンタービレ』#20を購入して読み終えた。今回は、ターニャと清良のコンクール(世界的に有名なフランスのコンクールなのでロン=ティボーがモデルだろうか)が主に描かれ、のだめがそのコンクールに刺激を受けながら、真一とともに苦闘する様子が書かれていた。ターニャが弾く『クライスレリアーナ』は、アルゲリッチ的な演奏を連想させた。ただ、アルゲリッチには歯切れの良さは備わっているので、少し違うかも知れないが、全身全霊没入型としては同じ仲間かも知れない。

全体的に、これまでになく不穏な雰囲気が漂う巻だった。

相変わらず多くの曲が登場し、のだめがオクレール先生からレッスンを受けた多くの曲目リストが公開されたりもしていた。先日もちょうどポリーニの演奏で取り上げたショパンの3番や、まだこのBLOGではあまり書いていないが、ベートーヴェンの後期3大ソナタの中でも愛好する第31番のソナタが登場する本格的な展開で、それらの曲へののだめや真一のコメントの台詞がなかなか新鮮で「ため」になった。

このように独奏曲が主体だが、協奏曲もコンクールだけあって多く登場し、ベルクのヴァイオリン協奏曲ラヴェルのピアノ協奏曲も登場した。

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2008年3月 3日 (月)

ビゼー 『カルメン』を聴き、見る

Carmen_vhs_maazel Carmen_callas

初演カレンダーによると、

3/3/1875 ビゼーのオペラ「カルメン」がパリのオペラ・コミック劇場で初演される。

ということで、3月3日のひな祭りの日は、昨日取り上げたメンデルスゾーンの『スコットランド』交響曲のほか、この名曲『カルメン』の初演日にもあたっているという。

左のVHSヴィデオは、マゼール指揮、ロジー監督による映画で、例のモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』と同じコンビによるもの。管弦楽は、フランス国立管弦楽団 タイトルロールのカルメンは、野生的な容姿も魅力的なジュリア・ミゲネス・ジョンソン。ドン・ホセにドミンゴやエスカミーリオにはライモンディといった一流の歌手を揃えた上で、ロケの迫力もあり、非常に見ごたえのあるオペラ映画になっている。現在は入手困難のようだが、是非DVDでも再発売を願いたいものだ。

右は、言うまでもない、マリア・カラスがタイトル・ロールを歌ったもの。指揮は、あのジョルジュ・プレートル。カラスの独特の発声で好悪が分かれるものだが、それでもやはりその迫力は否定できない。私の『カルメン』入門であり、今聞いてもすごいと思う録音だ。

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2008年2月27日 (水)

佐伯泰英の時代小説を読み始める

佐伯泰英という作家の時代小説は、「平成の大ベストセラー」として大変な人気らしい。大体、ベストセラーというと、比較的敬遠しがちなのだが、朝日新聞の土曜日版(be Business)の「逆風満帆」という連載記事で取り上げられて、その内容に興味を持ったので、入手して読んでみたところ、流行作家にありがちなやっつけ仕事的な味の薄さや文章量の少なさはあまり感じず、相当濃密な味わいのある作品になっているので驚いた。

最初に読んだのは、双葉文庫の『居眠り磐音(いわね) 江戸双紙』シリーズの『陽炎の辻』という小説。とにかく、この小説家は、書き下ろしが多いことが特徴だということで、その筆力は驚くべきものがある。この『居眠り』シリーズも相当の巻数を数え、20巻を越えているようだ。

また、「逆風満帆」にもエピソードとして紹介されていた時代小説としての処女作『密命 巻之一 見参!寒月霞斬り』(祥伝社文庫)もその後に入手して読んでみたが、こちらも面白かった。まだ、時代小説の書き始めということもあり、設定上少々大げさすぎるように感じる部分もあったが、それでも面白い。ベストセラーになるのも無理からぬところだろう。「逆風満帆」にもエピソードで紹介されていたのだが、この作品が売れなければ、この小説家が今このように膨大な時代小説を書いていなかったかも知れない可能性のある転機となったものだというので、運命というものの不思議さを感じる。

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2008年2月16日 (土)

ラフマニノフ 交響曲第2番 初演満100周年

Rachmaninov

Rachmanino_previn

ラフマニノフ

交響曲第2番 ホ短調 作品27

ロリン・マゼール指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団〔1982年12月録音〕

 17:53/9:21/15:29/13:07

アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団 〔1973年1月録音〕

  18:59/10:00/15:37/13:59

先日もバッハの独奏チェロ組曲(無伴奏チェロ組曲)のときに言及した『(続)私の名曲・レコード探訪』(柴田南雄)には、p.99 に 「ラフマニノフ ピアノ組曲と交響曲 ペキネル姉妹、マゼールとアシュケナージー」という章があり、意外にもマゼール/BPOの録音が高く評価されていて驚いた。

そのマゼール/BPOの録音が、左のPANORAMAシリーズに収録されている。これまで何度も聴いてきたのは、ラフマニノフの2番のカットなし演奏をスタンダードなものに定着させた右のジャケットのプレヴィン/LSOの録音。

柴田氏のエッセイは、題名から分かるようにアシュケナージ指揮のACOによる第1交響曲と並んで、マゼールの第2、3交響曲の録音が取り上げられている。

プレヴィンによるラフマニノフ交響曲の復興の功績は認めつつも、マゼールの解釈・指揮を新たなラフマニノフ像と位置づけているが、現在この録音の評判は一般的にはそれほど高くはないようだ。私自身もパノラマシリーズを購入したのが『鐘』を聴きたいと思っていたので、このマゼールによる(ヴォカリーズも含まれている)演奏をそれほどじっくり聴いていないので、なんとも言えないが、この本をきっかけにこの2枚を聴き比べてみたいと思う。

今年は1908年の1月某日にラフマニノフのこの曲が初演されてからちょうど100年だという。

プレヴィンとロンドン響の演奏は、当時のソ連楽旅でも「モスクワの聴衆、特に女性を泣かせた」とプレヴィン自身が自慢するほど感覚的に鋭敏で、情緒表現に徹したものだと、柴田氏は評している。確かに、映画音楽に紛うほどの甘美さを持ち、実際日本のテレビドラマでも使われたこともあったらしい(このCDの音源というわけではないが)。その情緒纏綿たる演奏の魅力は一種抗し難いものがある。

マゼールはと言えば、それに比べてまずは変わった演奏だという印象が強い。これをきっかけにじっくり付き合ってみようと思う。

追記 2008/2/16

リンクさせていただいているアマオケホルン吹きの音盤中毒日記(山本晴望さん) が所属されている沼津交響楽団内の ■コラム:「~を聴く」シリーズで、山本さん自身が現在連載されている「『ラフマニノフの2番』を聴く」に、この曲の作曲の経緯と初演年月日が明記された記事があり、読ませていただいた。

 「ラフマニノフの2番を聴く」4・・・・作曲の経過 

・ 1908年1月26日 ペテルブルクで初演 ラフマニノフの指揮
・ 1908年2月2日  モスクワで再演  ラフマニノフの指揮 

ということで、月日も明確になっているようだ。

追記:2008/03/23の記事で 電網郊外散歩道さんが、プレヴィン/LSOの録音を記事にされており、トラックバックさせてもらった。

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2008年2月 3日 (日)

カザルスの無伴奏チェロ組曲第1番ト長調(Opus蔵)

Casals_vc_suites あっと言う間の1月も過ぎ、今日はいよいよ立春前の節分。昨日は、もう一度基本に戻ろうではないが、今や録音芸術の古典でもあるカザルスのバッハの「独奏チェロ組曲」(一般的には無伴奏チェロ組曲)を、最近の盤起こしのCDで聴いてみた。

Opus蔵というレーベルのもので、EMI盤の古いSP盤からLPで再発されたもののエアチェックではよく聞いた音源がどのように聞こえるのか興味があった。(最近ではNaxosからも出ているようだが。)

1938年の録音。久しぶりにスピーカーから音を出して聴いてみると、子ども達は「何このパチパチという音、いつの録音?」と文句を言い、台所からは妻が「誰の演奏? カザルス? いい音ね」と来る。子ども達は、LPのスクラッチ音さえ生体験としてはほとんどないので、パチパチ音が続くこと自体気になるようだ。私も妻同様、パチパチ音を除けば、こんなに実在感のある生々しいチェロの音はそうは聴けないように感じた。一言で言えば、この盤起こしは成功だと思う。昔のSPにこんなに豊かな音が入っていたというのはまったく信じがたいほどだ。こうなると、SPを高級機で愛好していた既に物故者になってしまった昔の通人たちの「SPはいい音がしていたもんだよ。」というのも、単なる懐古趣味ではないと思われてくる。特に、これは独奏の弦楽器であることも影響しているのだとは思う。

さて、2007年9月 1日 (土) J.S.バッハ 独奏チェロ組曲(無伴奏チェロ組曲) ヨーヨー・マとビルスマ という記事で、おこがましくも故・柴田南雄氏の『(続)わたしの名曲・レコード探訪』(音楽選書48 音楽之友社)ばりの聴き比べを試みたのだが、この正月に実家の本棚の奥から見つけ出してきた(昭和61年4月10日 初版)。それを改めて読み返しているのだが、いろいろと面白い記事が多い。当時は読むだけで実際に聞けなかった音盤なども実際に耳にする機会が格段に増えたからでもある。

この本を読みながらいろいろ改めて聴きなおしてみたいものもあるが、今回はBWV1007 ト長調の第1楽章を、カザルス、マ、ビルスマの順で家族で続けて聴いてみた。マの演奏はさすがに滑らかで、ダイナミックも大きくとっており、今でも優れた演奏だと思う(柴田氏は、上記の著書で、1番から6番までどの曲も馬友友青年の妙技に塗りつぶされているというような少々辛口のコメントを残されているが)。ビルスマのCDをかけるとやはり、音程が低めであり、弾き方の違いも子ども達にも分かるようで、「変わった演奏だね」との感想。「エンドピンという現代のチェロにはある道具(装置)がないため、膝で挟んで演奏しているらしいよ」と一応説明をしておいた。

1938年というと、ナチスがオーストリアを併合した年であり、ヨーロッパは危機的時代へ向かっていた頃でもあり、その時代の緊張感の影響もあるのだろうし、そしてカザルスのバッハの音楽の力への信仰もあるのだろう、現代もある意味危機的時代ではあるが、それとは異なる精神的なエネルギーを感じることができるような気がした。

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2008年1月30日 (水)

藤沢周平『用心棒日月抄』シリーズ読了

1月3日のトランヴェールに始まった藤沢周平『用心棒日月抄』シリーズ全4作読破計画もようやく一昨夜完了した。

第2作『孤剣』、第3作『刺客』と快調に短編集を読み進めてきたが、第4作『凶刃』にいたって少々これまでのリズムとはなんとなく違い話の筋がすんなり頭に入って来なくなってしまった。少々、デプレッション気味のときには、難解な書籍の読解力が急激に落ちるのでそれかとも思ったが、相変わらず藤沢周平の文章め平明で明瞭なのでどうしたことだろうと思いつつ、この第4巻を読み終えるまで約1週間ほどかかってしまった。

現代の大きめな活字の文庫で400ページほどなので、調子のいいときは一晩で読んでしまう分量なのだが、これまでのリズムとの齟齬があってこうなってしまったらしい。というのも、うかつな話だが、ようやく終盤になってから、この第4巻がこれまでの連作短編とは違い長編だということに気が付いたのだ。

また、第3巻と第4巻との間にある10数年という時間差も、それまでの小気味よさとは違うものを醸し出していたのかも知れない。

ともあれ、トランヴェールできっかけをもらった読書も一通り終わった。池波正太郎や岡本綺堂など江戸の情景描写の先達のせいか、藤沢周平のこのシリーズで江戸の風景や季節感、情緒をあまり感じたことはなかった。それよりも、もっと濃厚で普遍的な人間模様を味わうことができたように思う。そういう意味でトランヴェールの特集へは仇をなすようだが、江戸の地名や風物を求めさせる点では、池波正太郎の方が吸引力は強いように思った。逆に藤沢周平の小説は、土地の匂いよりももっと人間に力点を置いているように感じる。

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2008年1月23日 (水)

グリュミオーの『スペイン交響曲』、サン・サーンス ヴァイオリン協奏曲第3番

Grumiaux_lalo_sainsaens ラロ(1823-1892) スペイン交響曲 ニ短調 作品21
  7:25/4:12/6:16/8:11  (間奏曲省略版) 

サン・サーンス(1835-1921)
 ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調 作品61
 8:36/8:15/10:50  〔1954年6月21-23日、パリ、モノーラル〕

 序奏とロンド・カプリチオーソ 作品28 8:44

  ハバネラ 作品83 9:34  〔1956年11月26-29日、パリ、モノーラル〕

アルテュール・グリュミオー(Vn)
ジャン・フルネ指揮 コンセール・ラムルー管弦楽団 

ラロの『スペイン交響曲』とサン・サーンスの3番のヴァイオリン協奏曲は、以前からよくカップリングされており、この古い録音の名演奏盤の入手前には、このブログの記録では2003年にチョン・キョンファの同じ曲目のCDを購入して楽しんだことがある。また、LP時代には、パールマンの演奏による『スペイン交響曲』とラヴェルの『ツィガーヌ』のカップリングを父親が買ってきて、このスペイン情緒のたっぷりした(自分にとってはポピュラー音楽に近い感覚の)親しみやすい音楽を楽しんだものだった。

ラロのこの曲は、オリジナルは五楽章制だが、古い時代には(フランチェスカッティ盤もそうだったと思うが)第3楽章のイテンテルメッツォを省略する形で演奏されることが多かったようで、このグリュミオー旧盤でも同じく省略されており、少々もったいない。

さて、この録音は、モノーラル末期でまだステレオに移行する前のもので、当時父が購読していた『藝術新潮』の当時のバックナンバーが実家に保管してあり、高校時代にそれを棚の奥から引っ張り出して、アポロンのトスカニーニ、ディオニュソスのフルトヴェングラーというような音楽評論を読んだのを思い出すが、モノーラルからステレオへの移行期にも、SPからLP, LPからCDへの移行期と同じような音質議論があったのが分かる。初期のステレオは、両側の立体感を強調するために、中抜け的なバランスがあり、それならば良質のモノの方がよいというような主張が幅を利かせていた時代もあったらしい。

閑話休題。グリュミオーは好きなヴィオリニストで、このブログでもこれまでにヘンデルとバッハや小品集を取り上げたことがあるが、これほど古い録音は初めてかも知れない。1921年生まれの彼がまだ30代半ばの新進気鋭の頃の録音ということになる。オーケストラは1913年生まれのフランス指揮界の名匠だったジャン・フルネの指揮によるコンセール・ラムルー管弦楽団。現在では日本の佐渡裕(ゆたか)が指揮者を務めていることでも知られ、ハスキルとマルケヴィッチのモーツァルトのピアノ協奏曲21、24番の名録音でも自分にとっては親しい。(「のだめ」関連では、千秋真一とジャンのオケのどちらかがこのラムルーをモデルにしており、もう一方はコロンヌなのだと思う。)

モノラール論議ではないが、聴き始めは多少違和感があるが、艶やかなグリュミオーの美音をたっぷり楽しめるもので、メインの2曲のほかに、サン・サーンスの佳曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」「ハバネラ」をオケ伴で聞けるのもお得な感じだ。