カテゴリー「書籍・雑誌」の162件の記事

2009年12月23日 (水)

上橋菜穂子『獣の奏者』第3巻、第4巻

現在、アニメーション化されて今週の土曜日に最終回を迎える『獣の奏者』(第1巻、第2巻)の続編が出るという噂はネットで知っていたが、数ヶ月前の新聞の一面広告で宣伝されたのには驚かされた。

もう一月ほど前になるが、妻が図書館に借り出しの予約を入れていたのだが、ようやく借りられる順番が回ってきて、第1巻、第2巻からファンになった長男と競うようにして読み終えた。次男はアニメは楽しんでいるので、家族から読め読めと奨められてもまだ読もうとしないのは不思議だ。

壮大な構想という点では、やはりアニメーション化された守り人シリーズの方が優れているのだろうが、獣の奏者は、闘蛇と王獣という魅力的な想像上の動物が物語の重要な部分を占めるので、その点が非常に魅力がある。人間の兵器として使われるそれらの獣の存在は、現代の核兵器、生物兵器などのアナロジーで、かつてその兵器である獣を使った戦争によって一国が壊滅するほどの悲劇が起こったという前史が、物語の基礎を形づくっている。

上橋菜穂子は、私とほぼ同年代のオーストラリアのアボリジニに造詣の深い文化人類学者であるが、その知識や経験を生かしたファンタジーは、文化人類学の影響からアーシュラ・ル=グィンに通じるものがあるが、ユング心理学的な深遠さは持ってはいない。舞台が架空の東洋の古代、中世あたりに設けられることが多いようで、その面からもアジア的なテイストが感じられる。アニメーションにもなった『十二国記』(小説は未読)も連想されるが、膨大な筆量は凄いと思う。

第1、2巻は、作者自身が言うように、完成した物語であるが、その大団円は、それまでの詳細な叙述に比べてあっさりとしたものだった。それが余韻を生んではいたのだが、やはりその謎、その先を望んでしまっていたので、第1、2巻で満足した読者でも、第3、4巻には満足することだろうと思う。

なお、アニメーションは、原作の第1,2巻をある程度翻案しているが、これは作者自身もこれに関っており、その取り組みが第3、4巻を生む下地にもなったとのことである。

以前の記事: 2007年8月31日 (金) 上橋菜穂子のファンタジーが面白い

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2009年7月23日 (木)

図書館で借りて『1Q84』(村上春樹)を読んだ

たまたま図書館で話題の小説を1,2と借りることが出来て読んでみた。

読み物としては、一息に読める流れのあるストーリーで2日も掛からずに読み終えた。ストーリー的には波乱万丈ではあるが、比較的単純だ。

自分もブログで取り上げたが、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』のラジオ放送が、この物語の世界の支点になっているようだが、これはよく言われるように、チェコの作家カフカへのオマージュなのだろうか?ヤナーチェクはチェコでもモラヴィアだが。

リトル・ピープルは、『精霊の王』の日本古層の神、ミシャクジやもう少しポピュラーなスクナヒコナ、コロボックルを想起させるようなものがあったが、1、2巻(4月から6月、7月か9月)では十分にイメージが膨らまずに、消化不良のまま提示されたような感覚を持った。

小説「空気さなぎ」は、劇中劇ならぬ小説中小説として興味深いものだが、この不可解さ自体そのまま、本編である『1Q84』の分かりにくさにつながっている。

現実に社会との軋轢の大きい三種類ほどの新興宗教や極左団体がモデルになっていた。これは、それら新興宗教がいまだに強固な信仰者を集め、また、社会問題としていまだに未解決なものであることから、結構小説家的には勇気のあるモデル設定だったとは思う。

3巻10月から12月、4巻1月から3月は果たして書かれるのか?

物語的には、余韻というか不満足さというかカタルシスが得られないまま、ここで終了しても、それなりのまとまりは感じられるのだが、その後を書いてもらいたいという希望もある。

オチというか影響というか、殺しのテクニックは、池波正太郎の「梅安」シリーズを思わせた。また、これは必ずしもあたっているとは限らないが、物語世界の現実世界への侵食は、ファンタジーではよくある手法だが、ふとミヒャエル・エンデの『はてしない物語』をふと想像させるものがあった。

音楽としては、ジャズの薀蓄はよく分からないが、バッハの平均律と「マタイ受難曲」のアリアが登場したのには驚いた。

ただ、全体的には暴力と性が主題の一つでもあるので、中高生にはお薦めしたくないというのが本音だ。

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2009年6月15日 (月)

中村紘子『コンクールでお会いしましょう』(中央公論社)とヴァン・クライバーン・コンクール

アメリカのヴァン・クライバーン・コンクールで、辻井伸行さん(20)が1位となった先週のニュースは、彼が生まれながらの全盲というハンディキャップを背負っていることもあり、大々的に報じられ、帰国後の公演やコンクール前に録音されたCDも大変なセールを記録しているという。

ヴァン・クライバーンといえば、冷戦時代のソ連で開催された第1回チャイコフスキーコンクールを何と仮想敵国人でありながら(またはそれゆえに)圧倒的な好評で優勝し、その凱旋はアメリカン・ヒーローそのもので、彼の録音したチャイコフスキーやラフマニノフの協奏曲は(現在も現役盤として立派に通用する水準だが)、当時のアメリカで大々的なベストセラーとなった。

我が家にはそのヴァン・クライバーンが、いわゆるショーマンではないピアニストとして脱皮しようと試みた頃の、ベートーヴェンのいわゆる三大ピアノソナタのLPがあり、私にとっては、これがこれらの曲への入門音盤となったということでも恩を感じているピアニストである。このLPのジャケット写真を以前このブログで紹介したことがあるが、そのまさにプロフィール(横顔)を見ても、彼がそのような華やかな栄誉や過大な期待を背負うようなギラギラとしてタフな野心家ではない雰囲気が窺がわれる。一夜明ければ有名人そのままに、その後彼は厳しい批評にさらされ、彼は心身の調子を崩し、ピアニストとしては大成しないまま引退し、その後、ヴァン・クライバーンの名を冠したコンクールの名誉主催者としての地位にあるといい、先日の辻井氏の1位のときにも、暖かいコメントを寄せている。

ヴァン・クライバーンとチャイコフスキー・コンクール、ヴァン・クライバーン・コンクールそのものについて、さすがの筆致で書かれているのが、表題の中村紘子女史による『コンクールでお会いしましょう ---名演奏に飽きた時代の原点』だが、ここで、ヴァン・クライバーン・コンクールについて、その優勝者達が、その後のリーズ国際で優勝したあのラド・ルプー以外に世界的ピアニストとして大成した人がいないという不可思議な事実を記している(単行本 P.85)。この優勝者に与えられる法外なリサイタル契約が、せっかくのその才能を早い段階ですりつぶしてしまうのではないかというような趣旨のことが書かれていた。特に、あのカーネギー・ホールでのリサイタルが鬼門だという。

だから、辻井氏の優勝(1位)には快挙だとは思いながらも、素直に喜べない部分がある。既に、日本のマスコミやプロダクションは、中村紘子女史という大御所が書いたこのような基本的な情報を棚上げにして、辻井氏の才能を消費しようとしているかのように感じて、少しうそ寒い感じがする。

コンクール出身者としては、ポリーニにしろ、ツィメルマンにしろ、ショパンコンクールでの優勝は、演奏家人生の入り口に立っただけだということを自覚してか、それからさらに研鑽を積んだ上で、改めて世に出たという実例もある。是非、賢明な諸氏は、音楽コンクールの優勝は、オリンピックや世界選手権の金メダルが象徴する世界のその時点でのトップということとは違い、たまたまそのコンクールに参加したプロ演奏家志望の演奏者の中で1位になったに過ぎないということをもっと知るべきだ(ほとんど中村女史の受け売りだが)。

盲目の鍵盤楽器奏者としては、高名なチェンバリストであり、オルガニストだったヘルムート・ヴァルヒャの存在を忘れることはできない。また、日本のピアノ界でもヴァン・クライバーン・コンクールよりもさらに権威のあるコンクール、ロン・ティボーで2位を獲得した梯剛之(かけはし たけし)氏や、ヴァイオリニストでは、和波孝禧(わなみ たかよし)氏など、障害をものともせずに活躍している演奏家もいる。

祝福の輪が広がることは結構なことだが、まだ20歳の学生でもあり、じっくりとレパートリーを広げるだけの研鑽の時間がもてるように周囲が配慮してあげて、稀有とされる才能が消費されるのは避けてもらいたいものだと思う。

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2009年6月 8日 (月)

夕刊連載小説『親子三代、犬一匹』252回で完了

朝日新聞夕刊に連載されていた 藤野千夜:作、風忍:え のほのぼのとした家族小説が今日最終回を迎えた。

取り立てて劇的な筋書きもなく、比較的平凡な家庭(著者がモデル?)の日常風景を描写した小説だったので、我が家では私だけが結構楽しんでいたのだが、妻は途中で読むのをやめ、子ども達は読んでいなかった。

中高一貫の名門男子学校を受験する少年、マルチーズ?の犬を「猫可愛がり」する高校生の姉、絵本(童話?)作家の母、その亡夫の母と亡夫の弟が一家。

そこに少年の初恋や、中学受験、義理の弟と義理の姉の若い頃?からの微妙な関係などなど、そこそこ興味をそそられる設定がからみ、さらにそこに一家の中心は自分だと思い込んでいるような小型犬が君臨し、姉がそれを溺愛するという図がいつも伴ってくる。

少年、少女向けでもなく、かといってペット小説でもなく、ファミリー小説とでも言うジャンルに強いて入るものだろうか。

犬の病気とか、突発的な出来事とか、劇的なストーリーにいつ転換するのかという少々サスペンスのような雰囲気も漂ったが、トビ丸という愛犬がすやすやと「寝たふり」をする描写であっさりと終わってしまった。

p.s. 朝刊の小説は、例の『徒然王子』の後で、正統的な時代小説『麗しき花実』(乙川優三郎:作、中一弥:画、村田篤美:題字)が既に111回を迎えている。酒井抱一と同時代の女流の蒔絵師理野という女性の蒔絵への傾倒を、おそらく専門的な知識を基に、当時の蒔絵界、絵画界の様子などを交えながら、綿密に描いた時代物で、毎日楽しみに読んでいる。

さかい‐ほういつ(さかゐハウイツ)【酒井抱一】 江戸後期の画家。本名、忠因(ただなお)。姫路藩主酒井忠似(ただざね)の弟として江戸に生まれた。仏門に入ったが、すぐに隠退し、江戸根岸に雨華庵をいとなみ、書画俳諧に風流三昧の生活を送った。絵は、狩野派、沈南蘋(しんなんぴん)派、浮世絵などを学んだが、のち、光琳に傾倒し、独自の画風を開いた。代表作「夏秋草図屏風」。(一七六一~一八二八)Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988

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2009年5月 1日 (金)

『巨匠(マエストロ)神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか』(ノーマン・レブレヒト、文藝春秋社)

1996年8月1日、第1刷。原著のCopyright記載は1991年となっている。確か、2000年か2001年に図書館で借りて読んだのが最初だったと思うが、ちょうどその前後、楽壇の裏話、スキャンダルのような本がいくつも出版されたようだった。ジョーン・パイザーの『レナード・バーンスタイン』も途中で読むのがつらくなるような内容だったし、小澤征爾とボストン響の対立・葛藤を描いた「コンサートは始まる―小澤征爾とボストン交響楽団」も1989年の日本発売で、トランペット奏者と小澤の対立・葛藤が理解不能ながらも生々しく、当時録音され発売されていたマーラーの交響曲を聴きながら複雑な思いに駆られたものだった。

さて、この『巨匠神話』の翻訳はあまりにも意味がとりにくい文が多い。検索してみたところ、このブログも指摘していたのを見つけた。私だけの感想ではないようだ。

この翻訳書は、老舗文藝春秋社の出版のものだが、高校生の出来の悪い英文和訳若しくはコンピュータの自動翻訳的な感触だ。原文にあたったわけではないが、自分の英文和訳の経験からそのように感じた。こういうのは、えてして原文の方が細部は別にして論理的な把握は可能なものだ。

出版社の社員である編集者という存在が、このような書籍では重要なようだが、果たしてこの本の担当編集者の人は、このような難解な日本語をスラスラと理解できたのだろうか?

原文は、内容的に刺激的な暴露、批判を含んでいるので、いわゆる「百科事典」的な平易でストレートな表現ではなく、反語や二重否定、暗喩、直喩などのレトリックを用いたものではないかと想像される。翻訳としては、そのようなレトリックまでも日本語で表現しようとしているのか、若しくはそこまで思いいたらず、直訳調で訳してしまったのか分からないが、なんとも意味がとりにくい訳文が頻繁に登場するので、恐らく後者であろう。

流石に音楽家の名前など固有名詞上の、日本での音楽書の通用的な表現からははずれてはいなかったが、それでも 恐らく ボストン響を ボストン管としていたところがあった。

2008年のカラヤンの生誕200年、2009年の没後20年が続いていることもあり、カラヤンを聴き直し、再評価し、または、新たな批判を加えるような書籍がいくつか出版されているようだが、この巨匠神話はハンス・フォン・ビューローあたりから始まる包括的な指揮者史の中で没後のカラヤンを位置づけており、なかなか読ませるものがあるように思った。ただ、他の指揮者についてもそうだが、個々の演奏や録音についての評価はこの著者独自のものがあまりないようで、伝聞的であり、相互矛盾があったりして少なからず混乱が見られる。

余談的には、中流の中年男性がクラシックの交響楽の支持者であり、米国では中上流婦人層が地域のフランチャイズ交響楽団のボランティアだという構図の指摘は面白かった。

Norman Lebrecht で google book 検索した結果

同じ著者のこのような本もあるようだ。

Maestros, Masterpieces and Madness: The Secret Life and Shameful Death of the Classical Record Industry

ただ、なんにしても内幕ものは面白いことは面白いが、後味がよくないことが多い。知らなくてもいい事実というのもあるものだ。それを暴き出して公衆の面前に備えるのがいいことかどうか。公的な人間にも私的な部分は当然ある。人それぞれだが。

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2009年4月30日 (木)

『イヴの七人の娘たち』 (ブライアン・サイクス著)

大野晶子訳、ソニー・マガジンズ刊。2001年11月10日 初版第1刷。

ミトコンドリア・イヴ。

現代ヨーロッパ在住の人々の七人の母系先祖。

現代日本在住の人々には九人の母系先祖がいるという。

同じ著者の『アダムの呪い』をずい分以前に読んだことがあったが、その前に出版されて話題になっていたもので、長いこと読みたいと思っていたものがようやくブックオフで入手できた。

当時話題になり、女優の天海祐希が共通のミトコンドリア遺伝子を持つ女性を中国、シベリアに訪ねるという番組をみて面白かった記憶がある。

ただ、読了後、WIKIPEDIA での「ミトコンドリア・イヴ」の解説を読むと少し理解が混乱するようなところが出てくる。

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2009年4月24日 (金)

佐藤優(まさる)『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮文庫)

最近、J-CASTニュースというサイトを時々読んでいる。

テレビのワイドショーや新聞や電車の中吊りの雑誌の広告見出しにより世論が形成されているという時代でもあるので、その解説記事として読むと、なかなかメジャーなマスメディアが取り上げないような下世話な話題や裏話、与太話が興味深い。

なかで、傑作だと思ったのが、「中川元大臣「ウソ」暴いたのは 「質問主意書の鬼」鈴木宗男だった」というもの。あの田中眞紀子衆議院議員と鈴木宗男衆議院議員が相討ちのようにして外務省・外交の表舞台から姿を消し、その後、醜聞まみれにされ、マスコミと世論に叩かれながら衆議員に再当選した鈴木宗男という人物に驚きをもっていたことはもあり、先日もちらっとテレビに写ったのを見て、「まだ」何かやっているようだという感想をもっていたのだが、この記事を読んで精力的な政治活動のすさまじさを思い知らされた。

そんな矢先、ブックオフで面白そうな本はないかと探していたら、その鈴木宗男議員と一緒に逮捕された怪しげな「外務省」のラスプーチンこと佐藤優のノンフィクション『国家の罠』という本が目に留まったので、先般からの興味の導きもあり購入して読み始めた。

まだ係争中の事件の被疑者でもあるので、そちら側からの一方的な情報ではあるので、と当然割り引いて評価すべきものなのだが、読み進めるにつれて、この一連の事件のただ事でなさというものが伝わってきた。

小泉内閣当初の田中外務大臣の就任とそれに続く一連の外務省関係のスキャンダルについては、マスコミ報道というよりも、テレビのワイドショーや新聞や電車の中吊りの雑誌の広告見出しの影響で、あの少し関西の漫才師を想像させるような鈴木氏の風貌や語り口の軽さもあり、私も勿論その一員なのだが、彼およびそれにつながるとされた佐藤氏などを相当軽くあしらったような記憶がある。

今話題となっている検察による「国策捜査」について、検事とのやりとりが非常に詳しく書かれており、また容疑者として500日以上も東京拘置所(刑務所ではない)に拘留された様子がなまなましく書かれている。

自己弁護の書でもあるが、当時の日露平和条約締結に向け、ロシアと北方領土での駆け引き、外務省の情報戦略の第一線で、エリツィン後はプーチンだという情報を入手したくだりなどスパイ小説よりも事実に即しているだけあり、非常に引き込まれるものがある。

著者は、まだこの本に書かれた訴追理由による裁判の被告ではあるようだが、活発に論壇活動も行っているようだが、日露関係については既に過去の人となってしまっているのだろうか。先日の3.5島論などが飛び出すようではこの先も思いやられる。

ところで、J-CASTには、民主党が政権をとると困るのが外務省で、鈴木宗男が副大臣として乗り込んで来て、大掛かりな報復人事や機密費問題などを洗いざらい白日の下にさらすかも知れないというような記事も載っていた。政治の世界は闇が濃いようだ。

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2009年2月19日 (木)

『天地人』下巻をようやく読了

上・中巻は、結構楽しんで読めたのだが、その後しばらくして下巻を妻が図書館から借りて来てくれて、読み始めたところ、読書のペースが上がらずに、むしろ結構苦労しながら最後までたどり着いた。史料的には、直江兼続の活動が確認できるのは、謙信の後継者争いである御館の乱の前後かららしい。つまりそれまでの兼続は、後世のフィクションとしては何とか確認できるが、父親の樋口某が薪炭役人だったのか、それとも家宰(家老)的な存在だったのかもはっきりしていないようだし、またその妻で兼続の母親の出自も(この原作とドラマでは、直江家の生まれとなっているが)はっきりはしていなようなのだ。そんなわけで、フィクションの部分や、関ヶ原の戦いまでの昇り龍の如き兼続の活躍は痛快なのだが、関ヶ原以後の、家康の風下に立つようになった上杉家と兼続が描かれた下巻は、著者のこの時期の兼続と景勝に対する評価も少し及び腰的になっていて、どうも弁護的な色合いが感じられ、すっきりしなかった。これが最も下巻の読了に時間がかかった理由のように思える。その意味で、兼続の伝記小説としては、尻すぼみだった。人物像も明確な像を結ばず、散漫な印象を受けた。

これに比べると、童門冬二の『北の王国』は、文章力や小説としての品格はあまり感じられないのだが、関ヶ原後の兼続の米沢での活躍、及び、兼続没後のお船の活躍にも触れられていて、それなりに納得ができた。『天地人』の方は、下巻は急に淡々とした筆運びになってしまい、小説のあらすじを読んでいるような起伏のなさになってしまっている印象を持った。藤沢周平の『密謀』でも、会津、庄内、佐渡の120万石の領地が、米沢30万石に石高を削られて移封されたことの事態の重大さ、そしてそのような苦境に負けずに上杉の家を残した兼続の努力が感じられたのだが、火坂の『天地人』は淡々とした運命論者になってしまったかのようで、違和感を感じてしまった。

ところで、話は小説、ドラマから離れるが、一挙に「愛」の前立てが有名になった兼続の兜だが、確か以前所用で何度か銀座に行ったときに見かけて2度ほど入ったことがあるのだが、米沢ラーメンを食べさせる「愛」という名前の店が歌舞伎座の近くにあった。米沢という東北地方の質朴なイメージと、強烈な情緒を発する「愛」という名称のギャップに戸惑ったのだが、米沢の人にとっては、兼続の「愛」という旗印(にもしたらしい)が、敢えて店名にするほど、誇りに感じているのだなと、今更ながら思い出した。

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2009年2月15日 (日)

島田雅彦の新聞連載小説『徒然王子』完

この作家は、現代日本の天皇家への関心が強く、またタブーを敢えて意識しないのか、現実の天皇家の人々をモデルにした小説をこれまでにも発表してきた。(無限カノン三部作)

女性天皇など、天皇家の将来のお世継ぎ問題がマスコミ、世間をにぎわし、秋篠宮家に待望の男宮の誕生があって、それらの問題もいつの間にか先送りされたかのような時期に、『徒然王子』の新聞連載はスタートしたように自分の記憶としてはある。

「王室」のお世継ぎであるテツヒト王子が、「徒然王子」の主人公。コレミツが従者だが、これは源氏物語の光の君の従者、惟光(これみつ)から取ったことは明らか。第一部は、この王子の現世での妃探しの遍歴と、過去(あの世)への旅立ちを描いていた。

今日少しフィナーレの重みが物足りない感じで完結した第二部は、テツヒト王子の前世、つまり輪廻転生を辿る旅であり、それがそのままニホンの歴史を順にたどっていく旅という構成になっていた。印象に残っているのが、始皇帝の不老長寿の妙薬探しを命ぜられた徐福の蓬莱への旅に同行した中国人としての前世であり、彼がニホンにたどり着き、ニホンの弥生時代人?の娘と愛し合うという章、また那須与一の弟として九州に逃れた平家の落人を追跡し平家の姫君と結ばれる章。最後の江戸時代の大阪からの東海道道中は少し冗長だったが、この章の最後の吉原の花魁とのエピソードはなかなか読ませるものがあった。

そして、現世に戻ろうとしたところ、実は・・・という設定が、少し場当たり的であり、意外でもあった。全体としては、コメディータッチだったが、内容的には至極シリアスな内容だったと思い、毎朝楽しみにしていたが、最後は少々しりすぼみだったかも知れない。

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2009年2月 9日 (月)

日経PC21 3月号 USBメモリーを挿すだけで高速化 XPでも・・・

DVD&CDへの記録・コピーについては、結構あいまいな知識でおこなっているので、今回この雑誌の特集「撮る、観る、残す、DVDのすべてを理解」が目に留まり、久しぶりに購入した。

ネットでPC関係の大概の情報は入手できるが、紙の雑誌のようにパラパラと browsing して、興味を持ちそうな記事を読むというのは、ウェブやPCが相当高性能化しても、なかなかできない。新聞でもそうだが、紙媒体の一覧性やざっと見当を付けるような見方、読み方というのはなかなか捨てられない利点だと思う。

今回も、まったく予想していなかった記事がこの雑誌から二件見つかった。一つは、デジカメに挿入する記録用のSDカードに予め無線LAN機能を内蔵させておき、いちいちUSBコードでつないだり、カードを取り出してリーダーに挿入したりの手間が省けるというもの。すでに米国では普及が始っているという。Wi-Fi ならぬ Eye-Fi という名称だという。まだ少し高価だが、いずれは普及するような気がする。ただ、セキュリティ面が少し心配ではあるが。

もう一つは、Windows Vista の Ready-boost 機能を XPでも使えるようにしたソフト(フリーだが、起動から4時間限定。有料版はその制限を外せる)が入手できるようになったという記事。ebooster という名前のソフトだが、先日廉価で買った4GBのUSBメモリが手元にあるので、早速試してみた。既に購入から3年半も立ち、RAMも増設が必要な動作スピードになりつつあり、どうしようかと迷っていた矢先だったので、この記事に従ってインストールしてみた。(日経PC21 3月号 p.104-107)。要するにキャッシュメモリを増量して速度を稼ごうというもの。簡単にセットできたので、付属の速度計算ツールで測ってみたら、雑誌の例では、約1.66倍の向上だったのが、私のPCでは、約3倍の向上という劇的な効果が見られるようだ。興味のある方は、eBoostr で検索をかけると関連サイトが表示されるので、自己責任で試行していただきた。確かに4時間経つと、自動終了して「購入」を奨められるが、結構すぐれものかも知れない。

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