カテゴリー「自然・環境・生物」の112件の記事

2009年6月 9日 (火)

地球温暖化人為説への懐疑論は低調となっているようだ

太陽活動の停滞とその影響によるミニ氷河期の訪れの可能性について、世間の関心が高まっているのは、私のような素人のブログ記事へのアクセス数が増加していることにも現われているようだ。

素人ながら、現代が地質年代の上では第四間氷期にあり、いつ氷河期に入るかわかっていないこと、いまから約6000年前に「縄文海進」という自然現象がおそらく自然の地球温暖化の結果として起こっていたということから、現代の気温の急上昇が必ずしも人為的なCO2を初めとする温室効果ガスの影響だけではないかもしれないという懐疑を持っている。「縄文海進」の原因はなんだったのかは寡聞にして知らないが、現代のような人為的な温室効果ガスの排出があったはずはないので、現在将来の資源として有望視されている海底のメタンハイドレードの大量崩壊とか、太陽活動の活発化とか、ミランコビッチサイクルとか、おそらく何らかの要因が予測されるのだろうと思う。

また、そんなわけで、現代の地球温暖化が必ずしも人為によるだけの現象ではなく、もっと大きな気候変動サイクルの中の一こまなのかも知れないということも考えられるのではないか、という懐疑が生じてくる。そこで、私は素人ながら「人為的な原因説」には懐疑的な懐疑論者になるのだろう。

太陽活動は、あまりにも巨大な自然現象であり、その前では人間の歴史など取るに足らず、ましてや生命の歴史でさえ、瞬間の輝きでしかない。カンブリア爆発と呼ばれるような生命の突発的な大発生と、その後の「大量絶滅」が何度も繰り返されている。恐竜の大量絶滅も、白亜紀末の大量絶滅であり、その後、哺乳類の時代である新生代に入り、今にいたっている。その「生命の爆発」と「大量絶滅」に太陽活動が関与していないということは否定しがたい。

それでも現在、最新のデータの積み重ねと合理的な推論の積み重ねによる学説として有力なのは、やはり人為的な原因による地球温暖化だという。そのあたりは、その主唱者である科学者の一般向けのコラムに詳しい。

温暖化科学の虚実 研究の現場から「斬る」!(江守正多) 人為起源CO2温暖化説は「正しい」か?(09/02/09)

ここでは、地球物理の権威 赤祖父俊一氏やブルームテクトニクスの丸山茂徳氏、海洋研究開発機構 地球シミュレータセンター草野 完也氏、横浜国立大学環境情報研究院 自然環境と情報部門 教授 伊藤公紀氏などの懐疑論者が論破されていることになっている。

WIKIPEDIA には、地球温暖化に対する懐疑論という項目もあり、江守氏や気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change、IPCC)の論に立った整理がなされている。

江守氏のコラムでは、最近の太陽活動の不活発に関する 太陽活動が弱くなっている?――温暖化への影響は(09/05/27) というものも早速書かれている。

また、地球環境研究センターのQ&Aでは、「寒冷期と温暖期は定期的に繰り返しており、最近の温暖化傾向も自然のサイクルと見る方が科学的ではないのですか。また、もうすぐ次の寒冷期が来るのではありませんか。」に対して、阿部フェローが綿密に否定論を展開している

「太陽活動の変動の詳しいメカニズムはまだ明らかになっていないため、今後数十年から100年の間の太陽活動の変化による気候変動予測は困難です。しかし、 太陽活動の変化が過去2000年間に起こった程度の強弱で繰り返されると仮定するなら、その影響による気温変動幅は小さいことから、今後100年で予測さ れる人為的な温暖化を打ち消して寒冷化することは考えられません。」

マウンダー氷期のようなミニ氷河期の心配はないということらしい。

地球温暖化防止が、人為的なものだとして、現在のようなエコロジー運動によってそれが食い止められるかどうかということについても懐疑的ではあるが、それでも職場ではエコ委員をやっていたり、率先してクールビズに着替えたりしているのだから我ながら首尾一貫していないこと甚だしい。

懐疑論の親玉だったブッシュ政権とその取り巻きの経済界が政権交代で表舞台から去ったことも、世界的な懐疑論の退潮には大きく影響していることだろうと思われる。

それでも、自分は同様なシミュレーションを用いた天気予報の精度が相変わらず低いことをもってしても「人類の知見は幼い」という暴論とも言うべき持論をもっており、現在の温暖化シミュレーションにしても、何らかの重要なファクターが漏れているかも知れないという可能性はあるのではないかと、懐疑的な見方を続けていくことだろうと思う。

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2009年6月 7日 (日)

一日順延された春季運動会を応援に出かけて日に焼けた

予定では、6月6日(土)開催予定だった次男の小学校の運動会だが、あいにくの金曜日からの降雨で今日日曜日に順延された。仮に日曜日がだめなら、平日の明日月曜日、火曜日・・・ということでとにかくこの時期に運動会が行われることになっていたが、金土とはうってかわった朝からの快晴に恵まれて無事運動会が挙行された。

最近、近隣の小学校では春の時期に運動会が行われることが多くなっているが、これも小学生の中学受験の影響だという話もあるようだ。新入生の1年生にとっては練習期間が短くて大変だろうとは思うのだが。

今日は、快晴なのはよかったのだが、夏至の直前の最も太陽の力の強い時期にあたり、気温も急上昇して、父兄も日陰の場所に席を確保できた人たちは何とか日焼けを免れたが、そうでない人たちやもちろん児童、先生たちは猛烈な日差しに肌を真っ赤にしていた人が多かった。熱中症も心配されたが、どうやらそのような症状が出た人は、知る限りではなかったようだ。

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校庭には、メタセコイヤが学校のシンボルとして植えられているが、そのほかに桜も既に大木になっているものがあり、今日はちょうどその木陰に助けられた。この写真は、ちょうど陣取った場所からみたところ鮮やかな若葉紅葉になっている木があり、8年間この学校の運動会には通い続けたが初めて気がついたもので、大変美しい見物だった。

先日、生意気なことを書いた「五月晴れ」だが、今日は旧暦の5月15日になるそうなので、一応古来からの「皐月晴れ」の範疇に入るのだろう。まだ梅雨入りはしてはいないが、爽快な新暦の五月の晴れとは違い、夏至の南中高度の高さの日差しは、ここ数日、「ミニ氷河期」で相変わらず注目を集めているようだが、太陽黒点が現われず、太陽活動が不活発になっている(その影響が実際に顕著に現われるのは数年後か?)といいながら、日焼けの強さに、太陽の偉大さを改めてかみ締めた(とは大袈裟か?)。

ところで、最近、医薬品のネット通販の規制が話題になっているが、それかあらぬか、海外の医薬品販売業者だろうか、いわゆる医薬品の(といっても普通のものではないが)スパムトラックバックが増えている。トラックバックは一応いったん保留にして、私が公開してもいいと判断したものだけを公開しているので、実害はあまりないのだが、それでもトラックバックのサイト規制をして、迷惑トラックバックとしてCOCOLOGに報告兼削除をするのは結構手間がかかる。インターネットの伝道者のような梅田望夫氏が、日本のネットの現状を憂えて、それに対する批判も相当多いようだ。それとは別の次元の問題ではあるが、ネットを流れるメールやこのようなトラックバックの相当な割合がいわゆる「スパム」だという調査もあるという。いわゆる「色と欲」をターゲットにした引っ掛けが「スパム」だと思っているが、結局人間は本能的な部分からは逃れられない宿命にあるのかも知れないし、またそれがなければ、逆にこのような急激な技術の進展もないのかも知れないなどと、考えた。

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2009年6月 3日 (水)

村上春樹『東京奇譚集』(新潮社 2005年9月18日発行)と新作

4月中旬だったが、何で人気作家の比較的最近発行されたハードカバーの初版本がこんなに廉いのか分からないが、とにかく最低価格で売っていたのを求めてきた。

ここ数日は、この作家の新作の上下二冊の小説が記録的な売れ方をしているというニュースが喧しいほどだ。「1Q84」という題名らしい。うっかり「IQ84」の誤植かと思ってしまうような題名で、少し驚く。

2009/06/06 追記:まだ入手もできていない「1Q84」だが、ネット情報では、題名的にはジョージ・オーウェルの「1984」のモジリらしいということが言われている。今は当たり前のように使っているネットのアクセス解析だが、実際に自分のcocologでその内容の詳細さに触れたときに、まさにこれは「1984」の世界ではないかと感じたことを書いたことがあったのを思い出した。「ココログ アクセス解析の導入で考えたこと」2006年8月 3日 (木)

1Q84というのはまた、「仕事の上では、1st Quarter,1984 1984年の第1四半期のことだよな」ともおもったりもした。とにかく入手困難なほどの売れ行きだとのこと。新型インフルエンザ予防のマスクもとうとう某ネット企業による買占めなどの噂がたったほどのブームだったが、意外にも国内感染が拡大しないことから急に売れ行きが鈍っているようで「ブーム」はあっという間に過ぎてしまったようだ。「1Q84」は果たして一時的なブームで終わるのか、それとも読み継がれるものになるのか?少々気になる噂だが、どうも作者と出版社が事前に「情報統制」を行って読者の飢餓感を煽ったらしいというようなことも伝わっているので、そのあたりが少し胡散臭さを感じてしまう。2009/06/06追記ここまで。

RSSリーダーに登録させてもらっている「アマオケホルン吹きの音盤中毒日記」の記事には、「村上春樹とヤナーチェク」という題名があったので、一体何事かと思い読ませてもらったところ、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』がどうやらジョージ・セル指揮のクリーヴランド管弦楽団の演奏という名前入りで登場するらしい。 先日読んだ『意味がなければスイングはない』や、『海辺のカフカ』でもこの作家の音楽への強い思い入れが表現されていたが、新作でのヤナーチェクの音楽への言及はどういうものなのか興味が沸く。

さて、『東京奇譚集』だが、比較的難解な設定の登場人物設定や奇想天外というか常軌を逸した展開についていけずにあまり楽しめていない村上春樹の作品にしては、短編集ということもあり、それほど混乱することなく何作かの短編を楽しむことができた。『偶然の旅人』『ハナレイ・ベイ』『どこであれそれが見つかりそうな場所で』『日々移動する腎臓のかたちをした石』『品川猿』の五編の短編。

奇妙なようだが、本当にあった話という体験談であるという自己規定的な文章が第一作の冒頭に書かれている。普通の前書きというわけではない。その意味では、短編集というよりも、一種のテーマをもった連作集と呼んだ方がいいのかも知れない。

村上春樹は、世界的に多くの読者を持つ現代日本きっての作家であり、先日の「エルサレム賞」でのイスラエル政権への痛烈な講演は、勇気をもった文学者として高く評価された。 ただ、彼の作品をすべて読んだわけでもなく、好みの作家かと聞かれるとそうとはとても言えないが、関心を持っているという程度の小説家なので、えらそうなことは言えないが、彼の音楽に関するエッセイはとても面白いので、先の『意味がなければ・・・』の続編のようなものがあれば読んでみたい。(『意味がなければ・・・』では、ジョージ・セルとルドルフ・ゼルキンのヴィーンでの少年の頃の修業時代のことに触れているくらいなので、ジョージ・セルが好みなのか、『1Q84』を読んでみなければ分からないが。)

p.s.
ところで、今日はやけにこのブログへのアクセスが多いので、アクセス解析で調べてみたところ、『ミニ氷河期」というキーワードで検索して、2006年ごろに書いた記事にアクセスしてくださる方が多いようだ。

2006年2月 7日 (火) ミニ氷河期(小氷河期)が到来するのだろうか?

最近になって太陽活動が停滞期になっているということが言われ始めたが、この2006年当時、このロシアの天文学者は既に予想していたということになるのかも知れない。

科学も当たるも八卦あたらぬも八卦的な部分が多かれ少なかれあるので、この停滞期がいつまた活発期に遷るかどうかは誰にも分からない。ただ、過去の観測から読み取れる太陽活動のリズムの低迷期がちょうど今頃だとしてもそのサイクルに矛盾しなということだけで、これこそ人為の及ぶところではない。

達観しているようだが、実はとても懸念しているので、以前からこのようなことに関心があるというだけなのだが。

音楽評論家の黒田恭一氏が逝去されたという。音楽雑誌を読み始め、FM放送を聴き始めてから存じ上げていたが、70歳を少し越したばかりで亡くなられたという。非常にソフトで、少しひらがなが多すぎるほどの評論を書く方で、ソフトながらぶれない芯も持っていたようで、当時アンチカラヤンが多かった評論界の中では珍しくカラヤンへの賛辞を隠さなかったのが、強く印象に残っている。御冥福を祈りたい。

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2009年6月 2日 (火)

新型インフルエンザの水際防疫と小正月の道祖神・塞の神の祭り

小正月に全国各地で行われる道祖神祭りだが、小学校6年間、その行事に参加したのはいい思い出になっている。

道祖神といえば、信州の松本平の北方の安曇野の男女双体の石造の道祖神がよく知られてはいるが、道祖神を別名、塞の神(さいのかみ、さえのかみ)、つまり遮る神、ふさぐ神とも呼ばれ、災いや疫病が村境から村内に入って来ないように防御して欲しいという願いを受け止める神でもあったようだ。

その道祖神を祭る祭礼が、なぜ厳寒の小正月(太陽暦ならば大寒の直前、太陰暦の1月15日でも立春の直後で厳寒には変わりない)に行われるのか、謎だった(といっても文献に当たったわけではない)が、今回の空港や航空機内での水際防疫に勤しむ厚生労働省主導の活動を見ながら、まさに村境を守る道祖神的な発想がまだ残っているのかも知れないと連想が働いた。

元々小正月の火祭りは左義長という小正月に行われた宮中行事が起源だとされているが、その起源である祭りにも病気払いの意味があったという。

私が子どもの頃にその先輩達から伝承した道祖神の祭りが、いつごろからその村に伝わったものかは知らないが、ご神体を納める小さな祠は、相当古いものだった。(崩壊しそうだったので、村の鉄工所のおじさんが、鉄製の立派な祠を奉納したほどだった。)

季節的に考えると、小正月の厳寒期は、今ほど人の往来が激しくなかった明治や江戸の頃でさえ、感冒が流行ったもので、おそらく当時の人も、感冒は外部の人やものと一緒にやってくるものだと想像したように思われる。そこで、その災いを招かないように、塞の神の祭りを、小正月に行ったものではあるまいか?

全国各地に小正月行事としての火祭りは様々な名前で伝えられているようだが、疫病は外部から来るもの、特に江戸時代末に流行したコレラ(コロリ)は、その思いを浸透させていき、その記憶がいまだに日本人には強く「遺伝」しているのかも知れない。

日本政府と国民の反応が世界的にも奇異に見られているが、、国外で発生した伝染病が国内に入るのを非常に神経質になる一つの要因なのかも知れない。

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2009年5月29日 (金)

珍百景とか県民ショーとか 都道府県ネタの番組が結構面白い

ひみつの県民ショーという番組があるが、意外にも子ども達が面白がってみるのに驚いている。今は、関東住まいだが、家族みんなの生まれ故郷は信州なので、つい長野県が題材になると身を乗り出してみる傾向がある。

その中で、長野県民(の一部しか知らない)地元の食べ物というような題材で、これまでに(現在ではお土産として知られるようになった)「おやき」という焼き饅頭、蒸し饅頭の具に味噌煮のまるナスが入っていたり、切干大根の煮物が入っていたり、野沢菜の煮付けが入っていたり、もちろんあんこもはいっていたりの、郷土食の典型の何でもありの具が入っている、現代ではお八つのような食べ物なのだが、それを食べたゲストの秋竹城と西川きよしが、その懐かしい味わいに若い日の苦労を思い出して思わず涙を流したりするという意外なシーンがあった。

また、それこそ私の実家の地域ではまったく日常的過ぎて不思議にも思わなかった「花豆」という大きい豆の甘煮を豆として混ぜ込んだ赤飯が長野県の軽井沢町近辺で伝統的に食べられているのが紹介されたとき、出場者の多くが驚いたのが印象に残ったりした。(ちょうど数日後、テレビを見たわけではないようだが、実家から花豆入りの赤飯が送られてきたのだが)。もちろん小粒の小豆入りのあまり甘くない赤飯も普通に食べるのだが、家庭で母親が手作りする場合には、甘い花豆入りの赤飯を普通に食べていたので、それが全国的に珍しいものだとは思わなかった。

毎週必ず見ているわけではないので、見逃しも多いのだが、島根県の松江市あたりの家庭の湯のみ茶碗が非常に小ぶりで、ほとんどお猪口ほどの大きさだったのには驚いた。松江では、例の不昧公(松平治郷 はるさと、江戸後期の大名。出雲国松江藩主)に何でも結び付けたがるのか、それとも正しい歴史的な事実なのかは知らないが、煎茶道の教えからそのような小ぶりな茶碗を使うのだという。

それ以外には、山梨県の富士吉田のうどん(これは、美味しんぼでも紹介された)も取り上げられ、ゲストたちに大好評だった。

日本は狭いが、風俗習慣的には現代でも様々な相違が見られて面白いものだと思う。


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2009年5月21日 (木)

新型インフルエンザ感染者が関東でも

あらたにすでも比べることができるが、日経も読売も朝日も(東京本社版ということもあるのかも知れないが)新型インフルエンザ感染者が二名関東地方でも確認されたことが、一面の大ニュースとして報じられていた。報道によれば、二人ともこの時期にニューヨークに「模擬国連」という学生の一種の研修に出かけた高校生で、ニューヨークで感染したものらしく、国内での人から人への感染ではないということだ。

既に神戸、大阪、滋賀と感染者が拡大しているので、新幹線でほんのわずかな時間で往来できる沿線や関東地方でも人から人への感染も時間の問題かと心配していたところ、意外な知らせではあった。

手洗い、うがいは励行しているが、まだマスク(この土日にあっという間に売り切れが続出すたらしいが、この冬の季節性インフルエンザ対策で購入してあった使い捨てマスク)は着用していなかったが、今回比較的身近で感染者が発生したことで、今日の帰宅時には電車内で着用した。今日着用したのは、どうも新幹線でおそらく西日本から帰宅して在来線である私が利用している近郊路線に乗り換える中学生の修学旅行生が大勢いたこともあった。

弱毒性ということが言われているが、できれば感染したくないものだという意識がある。罹患すれば仕方がないこととはわかっていても、どうも我ながら少し神経質になっている。気分的には晴れ晴れしないし、他人の掛けているマスクも気になるし、咳やクシャミもいやな気分になる。神経戦のようなもので、このようなストレスが逆に抵抗力を落とすことにもなるのだろうから気をつけなければいけないと、どうも堂々巡りになっている。

Yahooニュースを見ていたら雑誌記事のカテゴリーの中のプレジデントの記事で、「人類史から見た、感染症とパンデミックの起源」という結構長いパースペクティブの面白い記事を発見した。農耕と家畜の飼育が、人類史の上で、細菌、ウィルスによる感染症を人類に蔓延させることになる転換点だったということが指摘されている。安定した食生活と人類の増加、それと感染症は表裏一体のもので、その流れに今回の新型インフルエンザもあるということらしい。

私が大学生の頃に、HIV(human immunodeficiency virus)いわゆる、AIDS(Acquired Immune Deficiency Syndrome)ウィルスの流行が報道され始め、ウィルスというものの驚異を思い知らされたものだが、最近ではその報道もすっかり下火になり、新型インフルエンザがマスメディアの格好の材料になりつつあった。AIDSウィルスの感染は、特殊な接触による以外はほとんどありえないということが認識されたので、それへの防御は自らの意志次第のところがあるが、今回のように人類の多くが免疫を持たないウィルスの感染は、通常の季節性(という言葉も今回初めて知ったが)インフルエンザと同様、咳やくしゃみなどによる空気中への唾液・鼻水の飛沫の乗ったウィルスの飛散、そのような唾液、鼻水の付いた物に手などで接触し、それで口や鼻、目に触れることで感染するということだ。

現代のように、過密な移動環境で日常的に長距離の移動が行われたり、数多くの閉鎖手的な空間に多くの人々が集まるという生活形態では、このような感染をする感染症を防ぐ手立ては非常に限られているだろう。日本では、非常にこのウィルスに対して神経質になっている人が多いようで、諸外国から奇異の目でも見られているようだが、江戸時代末期にも、コレラや天然痘が長崎に来航した外国船員が感染源になり、ついには江戸から東北地方まで伝染していったということも、時代小説(『半七捕物帳』など)にも書かれている。

比較的安穏と暮らしている現代ではあるが、今回の騒ぎを乗り越えることで、個人、集団に何らかの成長経験が得られるかも知れないという期待もある。

また、今日は、様々な問題が指摘されている「裁判員制度」が実施の運びとなった日でもある。特に映画『十二人の怒れる男たち』で描かれたような米国流の陪審員制と異なり、有罪、無罪だけでなく、過去の判例や法令解釈の知識も本来は必要な量刑までも裁判員が行わなければならないということ、最近多い残虐な犯罪も裁かなければならないこと、誤審に関しても危惧があること、そして誤審とも関係するが、罪のない人物を死刑にする可能性もあること、など、特別な訓練を受けていない一般人を犯罪の修羅場に投げ込むような制度であり、また守秘義務違反への罰則なども裁判員と裁判官との間の扱いも公平を欠くようなものとされている。一部では徴兵制のような扱いも問題になっており、国家権力の傲慢さが浮き彫りになっている制度だとも言える。司法への国民の参加は本来は望ましいことなのだが、拙速に過ぎるというのが今日始った制度だろう。おそらく多くの手直しの論議が巻き起こるのではなかろうか?

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2009年5月 9日 (土)

今日は快晴だが、衒学的に言うと五月晴れではない

ここ数日、主に太平洋岸が雨だった。雨雲レーダーが手軽にインターネットで見られるようになったので、どこで雨が実際に降っているかが分かるのは面白い。

今日は、昨日までの雨とうって変わって素晴らしい晴天だ。新暦5月のこのような好天をつい「五月晴れ(さつきばれ)」と呼びたくなってしまうが、「五月雨を集めてはやし最上川」の有名な芭蕉の句のように、五月雨(さみだれ)は梅雨のことで、新暦では6月から7月にかけての梅雨前線による雨のことで、五月晴れはそのような五月雨の合間に僅かに覗く梅雨の晴れ間のことを言うのだという。

新暦の2009年5月9日は、旧暦では4月(卯月)の15日になり、卯月は季節では夏、田植え、衣替えの季節になるようだ。吹く風は、昨日までのたっぷり降った雨の湿り気をわずかに帯びて冷んやりと爽やかだが、確かに今日の日差しは強く、既に初夏の到来を思わせる。

卯月は、卯の花の咲く季節から名づけられたという。唱歌「夏は来ぬ」にも「卯の花の匂う垣根に」とある卯の花だが、これまで意識して実物を見た記憶がない。検索してみたところ数多くの画像がヒットしたが、植物図鑑・撮れたてドットコムというサイトで、ウツギとしての画像を発見した。

これから梅雨入りまでは爽やかな、初夏、卯月の季節を味わえることになる。衒学的過ぎるが、「さみだれ」という言葉の対語であるので、うっかり「さつき晴れ」と言わないようにしようと思う。

長男がブランデンブルク協奏曲のトランペットが入ったのを聴きたいというので、確か第1番か第2番だよ、と言ってCDを渡したら、第2番の方だった。私は、月並みではあるが、シューマンの『驚異的に美しい5月に』で始る『詩人の恋』を聴いてみようと思う。

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2009年4月30日 (木)

『イヴの七人の娘たち』 (ブライアン・サイクス著)

大野晶子訳、ソニー・マガジンズ刊。2001年11月10日 初版第1刷。

ミトコンドリア・イヴ。

現代ヨーロッパ在住の人々の七人の母系先祖。

現代日本在住の人々には九人の母系先祖がいるという。

同じ著者の『アダムの呪い』をずい分以前に読んだことがあったが、その前に出版されて話題になっていたもので、長いこと読みたいと思っていたものがようやくブックオフで入手できた。

当時話題になり、女優の天海祐希が共通のミトコンドリア遺伝子を持つ女性を中国、シベリアに訪ねるという番組をみて面白かった記憶がある。

ただ、読了後、WIKIPEDIA での「ミトコンドリア・イヴ」の解説を読むと少し理解が混乱するようなところが出てくる。

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2009年4月 6日 (月)

月影を遮る蝙蝠夕桜

帰路、春宵一刻値千金を味わうべく、電車では所要時間9分の距離を歩きて帰宅。

日の本有数のBODの値にて名の高き河岸の遊歩道なれど臭気はなく、人通り少なきたそがれ時、行きかう人の姿も定かならず。月中天に昇り、冷たき川風満開の桜の並木のこずえを揺らす。

かはたれ時は逢う魔が時とも、蝙蝠の一片二片、目の前を飛び交い、月影に照らされし満開の桜を遮らんとすなり。肌寒き宵なれど既に羽虫の類の飛び初めしにやあらん。蝙蝠はそを捕食するなり。歩める時の間は90分。常世とは別の時を過ごせる心地せり。

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2009年3月 3日 (火)

3月3日の本格的な雪

暖冬だった2008/2009の冬もここに来て寒い日が続く。3月2日の朝日夕刊は、「春 早すぎる」という見出しで、東日本、戦後2位の暖冬 正月に梅 氷上釣り・スキー短縮 夏まで高温の傾向という小見出しを付けていた。その記事によると、都心でも雪が降った2月27日に、気象庁は異常天候早期警戒情報を出して、3月4日から13日、全国的に気温が平年よりかなり高い状態が続くと予想したのだという。

しかし、3月3日の桃の節句(旧暦では2月7日で、旧暦の3月3日は新暦の3月29日になる)の今日は、最高気温が5度ほどで、関東地方では昼過ぎからの雨が、夜8時過ぎには雪に変わったほど寒い一日だった。

雪は南関東のような温暖な地での都市生活には邪魔なものだが、窓の外を次々と白いものが落下している風景は、長野新潟県境で積雪3mもの冬をすごした幼児の頃を思い出させるのか、私にとっては、ひどく懐かしいものだ。

明朝はどのような風景になっていることだろうか?長男の中学校は、遠方から通学してくる生徒もいるので、明日の朝まで雪が続くような大雪の場合には、休校になるとの連絡が携帯メールに入っていた。

今晩聴いている音楽は、カーゾンのピアノ、フェイルスタート指揮ロンドン響によるグリーグのピアノ協奏曲。ノルウェー出身のフェイルスタートは、このCDだけで知っている指揮者だが、カーゾンの孤高で気品のあるピアノに対して、峨峨たる様相のフィヨルドの風景を連想させる荒々しさも見せ、またこの曲のスコアをよく研究しているのだろう、他の多くのこの曲の録音のオーケストラパートよりも多彩な音楽を引き出しているように聴こえる。少しスコアに手を入れているかと思うほどだ。フィナーレでは、カーゾンもフェイルスタートの作る迫力ある音楽と一体になり燃え上がるのを聞くことができる。1959年と古いステレオ録音だがプレゼンスは自然であり、ヒスノイズも少ない。外の雪降りを思いながら聴くとより一層興趣が尽きない。

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