カテゴリー「ミュージアム」の91件の記事

2013年9月22日 (日)

数年ぶりのよこはま動物園ズーラシア

2009年4月にアフリカの熱帯雨林ゾーンに「チンパンジーの森」ができて、その年の11月28日にそれを見に行って以来、とんとご無沙汰をしていたズーラシアだった。それまで毎年最低一回は行っていたのだが、さすがに子ども達も小学生高学年、中学生の年代になると、動物園には行きたがらなくなる。

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9月22日の日曜日は連休の中日でもあり、それほど暑くなさそうな晴天なので、ぶらっとでかけてみた。しかし、予想に反して屋外は暑い日だった。

動物園の入園者は、とても特異な年齢分布を見せるところで、幼児や小学生低学年とその親の年代(20代と30代)が圧倒的に多く、それに加えて幼児の祖父母の年代の人たちが目立つ。中学生、高校生の年代はほとんど見られない。20代の男女や、女性の友人同士のようなグループはたまに見かけるが、40代、50代の中年層もほとんど見られないことに気が付いた。

今回目新しかったのは、2008年2月12日 (火) ツシマヤマネコをナマで見るではいい写真が取れなかったツシマヤマネコが、すっかりケージでの生活に慣れたらしく、ケージ外から見つめるヒトの目を何のその、ケージ内を盛んに動き回っていた様子だった。

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森見 登美彦の「有頂天家族」で注目のタヌキも珍しく全身を見せてくれていた。

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ちなみに同じムジナの仲間である?(たぬき・むじな事件)アナグマはこちら。暑さでぐったりしていた。

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ズーラシアのシンボル オカピは 優美な姿態を披露してくれていた。

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モウコノロバ(蒙古・野驢馬)がかわいかった。

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ズーラシアは、10数年かけて現在も整備中で、ようやく待望のアフリカ・サバンナの動物たちのエリアができあがるようだ。工事もだいぶ進んでいた。


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2013年9月14日 (土)

春の鎌倉ハイキング

この春に、久しぶりに鎌倉を訪れた。花見の時期だったので、段葛の桜を愛でようかということになった。

江ノ島電鉄に乗りたいという子ども達のリクエストで、藤沢まで東海道線で出てから、江ノ島駅まで乗車した。いつもながら休日の混雑は凄かった。

これまで何度も行った江の島側ではなく、初めて竜口寺を参拝した。ここは、日蓮が元寇の時の幕府批判によって、鎌倉幕府から斬首の刑に処せられそうになったが、落雷?によって刑を免れたことで知られるお寺で、五重塔や仏舎利塔が遠くから眺められたのだが、初めてお参りしてみた。

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どうせなら、腰越のこの辺りを散策してみようということになり、江ノ電モナカを買ったり、腰越名物のシラス丼をお昼に食べたり、腰越状で知られる義経、弁慶ゆかりのお寺万福寺を訪ね、腰越神社に参詣したりした。

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ここから、腰越駅まで戻るのも電車の混雑もおっくうなので、そのまま江ノ電と海に挟まれた国道を延々と歩いてみることにした。渋滞の名所だが、意外に道路は空いていた。よくドラマのロケなどに使われる鎌倉高校前までは比較的簡単に歩けたが、そこからが結構遠かった。それでも、腰越・鎌倉高校前・七里ヶ浜・稲村ケ崎駅まで江ノ島駅からだと四駅分を歩いたことになる。稲村ケ崎駅から江ノ電に乗り、極楽寺駅、長谷駅を経由して、鎌倉文学館を訪ねるため、由比ヶ浜駅で下車した。

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文学館を訪れるのも初めてだった。鎌倉を舞台にした三上延の「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズが大ヒットし、さらにテレビドラマに取り上げられて話題になったことがきっかけらしく、鎌倉・神奈川ゆかりのミステリー小説の特別展(鎌倉文人録シリーズ7「ミステリー作家翻訳家」)が開かれていたのだが、その中に、澁澤龍彦は没後25周年特集展示で紹介されていた。サドの翻訳などで知られ耽美・倒錯的な作家というイメージではあったが、そういえば晩年の作「 高丘親王航海記」を読みたいと思いつつ、読んでいなかったのを思い出した。また、何でもこの洋館は、このころ放送された「カラマーゾフの兄弟」の舞台にも使われたと妻が言っていたが、由緒ある歴史を持つ洋館のようだった。

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鎌倉文学館を見学してから、バスで鎌倉駅前まで行き、そこから段葛の花見をしながら、久しぶりに鶴岡八幡宮に詣でた。

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数年前に倒れた大銀杏の切り株からは、ひこばえが生え始めていたが、舞殿からみる石段と神社の遠景は相当印象が変わっていた。

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2008年3月の大銀杏のありし日の姿

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参詣した後、以前鎌倉を訪ねた父母が歩いて廻ったという北鎌倉方面へ、やはり歩いて行ってみることにした。八幡宮の裏山に当たるのだが、歩道はあまり広くない。それでも北鎌倉方面から歩いて来る行楽客は結構多く、すれ違いに難儀することもあった。

初めてみる建長寺の山門は巨大だったが、時間もあまりなく門前で記念撮影をしてから、円覚寺方面に向けて歩き、しばらく小道を行くと北鎌倉駅にたどり着いた。

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ビブリア書店が設定上あるはずの北鎌倉駅前の小道は、現実の風景の中では円覚寺側にしか道路が無いため、小説の舞台設定と現実には少し齟齬があるように思えたが、どうなのだろうか?

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2013年9月12日 (木)

堀辰雄が聴いたフォーレの「レクィエム」(1938年リヨン録音)

軽井沢町追分の堀辰雄記念館のSPレコードの目録は、音楽愛好家の方が作成に協力したのだろう。きちんとまとまった興味深いものだが、残念ながら演奏者の記載が少々不完全のように思えた。

プルーストが「失われた時を求めて」で、屋敷に招いてその生演奏を聴いたカペー四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲の古く有名な録音のSP(リンクはYoutube 第14番Op.131嬰ハ短調の第1、2楽章。最も内省的なフーガの第1楽章の幽遠な演奏!)があるのは、実際に記念館で見かけて感激したので覚えていたが、今回、フォーレのレクイエムのSPレコードがあるのに気付いた。ただ、演奏者欄に、指揮者の名前が見当たらない。

このような古いSPレコードの情報は、たいがいネットにアップされているので検索してみたところ、

http://www.cadenza-cd.com/label/goodies_cdr.html

で、多分これだろうというものが見つかった。

フォーレ:レクイエムOp.48

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 シュザンヌ・デュポン(S) モーリス・ディディエール(Br)
 エルネスト・ブールモーク指揮リヨン器楽合奏団&cho.、エドアール・コメット(Org)

(CD番号)米 COLUMBIA 70295/9-D (英 COLUMBIA LX773/7と同一録音)。
録音:1938年5月30日-31日、6月1日、リヨン、サン=ジャン大聖堂。

 リヨンのサン=ジャン大聖堂で録音されたこの名曲の記念碑的録音。英コロンビアのプロデューサー、ウォルター・レッグによる録音。SP時代の同曲はフランスHMVが1929年に録音したギュスタヴ・ブレ指揮バッハ協会合唱団とo.(仏 LA VOIX DE SON MAITRE W1154-58)があったが1936年に廃盤になっていて、この新録音が大歓迎されたとの記述がある。

独唱者やオルガニストが同じなので、恐らくこれに間違いないだろう。

当時は知られた録音のようなのだが、独唱者も指揮者も、演奏団体も初めて目にする名前なので、原語ではどのように表記されているのだろうかと興味を持ち、調べてみた。

すると、以下の情報が見つかった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Requiem_(Faur%C3%A9)

このWikipedia 英語版に、以下の記述があった。

The exception was a Columbia set released in 1937, with Suzanne Dupont, soprano; Maurice Didier, baritone; Les Chanteurs de Lyon and Le Trigentuor instrumental lyonnais, conducted by Ernest Bourmauck.

さらに、このSPと同じだろうと思われる音源(演奏者は同じだが、1938年録音とされている)の音を Youtube で聴けることも分かった。

Gabriel Fauré
Requiem

Suzanne Dupont, soprano
Maurice Didier, baryton
Les chanteurs de Lyon
Le Trigentuor instrumental lyonnais
Edourd Commette, orgue
Direction Ernest Bourmauck

Enregistré le 31 mai 1938 en la Cathédrale Saint-Jean de Lyon
VINYL, repiquage de 78 tours

現代がフォーレに求める清楚で静的なイメージとは異なり、比較的濃厚でアマチュア的な演奏スタイルの演奏を聴くことができる。一面ではとてもベルエポック的な雰囲気のある演奏ではあり、スクラッチノイズも消されていて、比較的聴きやすい。

さらに、この音源はLPでも再発売されていたらしい

http://mobius.missouri.edu:2082/search~S0?/aBourmauck%2C+Ernest./abourmauck+ernest/-3%2C-1%2C0%2CB/frameset&FF=abourmauck+ernest&1%2C1%2C

指揮者も、演奏団体も、この音盤以外ではヒットしないようで、詳しい情報が分からないのだが、Le Trigentuor instrumental Lyonnais (上記 cadenzaのサイト情報で、リヨン器楽合奏団 と訳されている)とはどんな団体で、大文字の Trigentuor とは何だろうという疑問がわいてきた。

いろいろ調べると、Le Trigentuor instrumental Lyonnais とは実在のオーケストラだったらしい。

古いものだが、コンサートのプログラムが見つかった。

http://numelyo.bm-lyon.fr/BML:BML_02AFF01000AffM0496?params=a:6:%7Bs:3:%22pid%22;s:25:%22BML:BML_02AFF01000ffP0198%22;s:8:%22pg_titre%22;s:0:%22%22;s:14:%22collection_pid%22;s:23:%22BML:BML_02AFF01000COL01%22;i:0;s:38:%22collection_pid=BML:BML_02AFF01000COL01%22;s:4:%22rows%22;s:1:%229%22;s:9:%22pager_row%22;i:116;%7D

Trigentuor は定かではない。フランス語の、人名なのか、地名なのだろうか?

現存するオケならば、googleでヒットしないことは無いだろうと思ったが、ヒットしないので、恐らく他のフランスのオケのように吸収合併再編成の歴史をたどったのだろうと見当を付けて、日本でも知られる リヨン国立オケを調べてみた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Orchestre_national_de_Lyon

以下を読むとリヨン国立オケの前身の一つらしい。

En decembre 1938, la Societe des Grands Concerts fusionne avec une autre societe musicale le Trigintuor et prend le nom de Association philharmonique.

1938年に「大コンサート協会」が、その他の音楽協会である「Trigintuor」 と合併して、フィルハーモニック協会に改称、ということらしい。ただし、ここでは、Trigintuor となっている。

リヨンフィルハーモニーのサイトでは

http://www.philharmoniquedelyon.org/historique/

1938  La societe des Grands concerts fusionne avec l’orchestre du Trigintuor et devient
とある。

(リヨン国立オケの HPは、これ http://www.auditorium-lyon.com/L-Orchestre/Orchestre-national-de-Lyon )

以下のページにも出ている。

http://home.arcor.de/christoph_gaiser/diss.htm

Trigintuor (auch Trigentuor geschrieben), Lyon, gegrundet 1925, Leitung: Charles Strony und Ernest Bourmauck

それでも、いったい、Trigintuor (Trigentuor)とは、いったい何だろう?

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2012年7月30日 (月)

奈良美智展 横浜美術館

奈良美智と書いて、男性か女性かを即答できる人は周囲にはあまりいなかった。なら・よしとも と読み、男性の美術家(アーティスト)である。イラスト風の少女像をどこかで見たことがある人も多いと思う。見れば、ああ、あれかと思うような結構印象的なイラストだ。そんな「どこかで見たような東洋系の少女の顔」をモチーフにしている。

次男に夏休み中に美術館を訪問してその感想を書くという宿題が出たので、長男と三人で猛暑の中を出かけてきた。夏休み中に訪問するという指定がなければ、4、5月に連続で出かけた美術展があったし、マウリッツハイス展にもこれから行く予定があるのだが、まずは7月中に学校の宿題を済ませたいということで、一番行きやすい最寄の美術館を訪れた。

同じような宿題が市内の市立中学校全員に出されたのか、中学生頃の年代の少年少女の観覧者が多かったため、少々ざわざわした美術館の雰囲気だった。

正面から入って右側の特別展示室に個展として開催されていて、床は打ちっぱなしのコンクリート剥き出しでペンキ跡も目立つもの(普段はカーペットが敷かれている)になっており、展示スペースは、暗かったり(彫刻やオブジェ)、低い入口からくぐって入ったり、カーテンを開けて入ったりのキッチュな「工夫」がなされていた。

現在も活躍している最先端の美術家(アーティスト)の作品なのだろうが、このようなポップアート系というのか、「かわいい」という歓声が上がっていたりしていたが、鑑賞というのはなかなか難しい。

常設展というか、コレクションをテーマに従って展示したコーナーの方が、面白かった。この中には、奈良の作品も展示されていたが、正当的な肖像画や、シュル・レアリスムの中においてみるとその特色が浮かび上がってくるのかも知れない。

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2012年5月 6日 (日)

スクロールと絵巻物 ボストン美術館 里帰り展(東京国立博物館)

5月5日の子供の日は、梅雨時末期のような大雨一過の「皐月晴れ」(衒学的には違うけど)となった。

せっかくの好天ながら、孤独のグルメ+美術館めぐりという最近の恒例のようになった家族小旅行で、5月4日に蒲田餃子+東京国立博物館に行き、その疲れで、体を労わる日となった(要するにグダグダしていただけ)。

R0011581 5月5日の夜の月は、スーパームーンと言われるらしく、月が地球を公転している軌道の中で近地球点(というのだろうか?最も地球に近づいた時)にあたり、普通の満月よりも相当明るいのだというが、確かに明るい月だった。その分引力(潮汐力)も相当強くなるようで、昨年の大震災の前にもこのスーパームーン現象があり、その関連性が取りざたされたことがあった。


さて、パソコン等では、スクロールする (scroll)という言葉が日常用語になっている。

Bostonmuseumfineart_ticket_2 この scroll という英単語だが、5月4日(金)のみどりの日に、東京国立博物館(東博)で開催中のボストン美術館展を見に行ったついでに、東博本館で展示中ということを聞いていた国宝平治物語絵巻「六波羅行幸」の方を先に見たのだが、その際の英語の説明に Scroll と書かれていて、ユーレーカ!となったのだった。何かが分かった-知っていること同士が結合した-ときの知的興奮というものは、まことにいいものだ。

辞書によると Scroll は、 Roll と同じ語源で、巻いたものという意味があるようだ。それでコンピュータのスクロールも、ちょうど巻物を見るように上下、左右に「巻きながら」見るという動作から来ているらしい。

今月は、これまで見たことのないようなScroll の傑作、名品を連続してみる機会に恵まれた。

一つは、つい先日の4月29日に鑑賞したサントリー美術館の毛利家の至宝に含まれていた雪舟の「四季山水図」

次に、今回見ることができた東京国立博物館の本館で展示されていた「平治物語絵巻 六波羅行幸巻」。

そして、今回ボストン美術館から里帰りした「吉備大臣入唐絵巻全巻」と「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」。

久々に訪れた東博でもあり(前回は国宝阿修羅展)、平成館の特別展は相当混雑しているとのことだったので、まずは本館をじっくりみることにした。(東洋館は残念ながら工事中とかで閉鎖中。耐震工事などだろうか?)。なお、現在、世田谷の静嘉堂文庫美術館(三菱の岩崎家の宝物館)でも所蔵の平治物語絵巻が公開されているとのこと。

信西(高階通憲)・平清盛と藤原信頼・源義朝が争った平治の乱を描いた合戦絵巻の傑作、「平治物語絵巻」の現存する3巻が、この春、東京で揃って展示されます。またとない貴重な機会ですので、ぜひ3巻あわせてご覧ください。
・当館所蔵の「信西巻」(上図はその部分)は、本展前期にて展示(4/14~5/20。但し巻き替え  を行ないます)
・ボストン美術館所蔵の「三条殿夜討巻」は、東京国立博物館での特別展「ボストン美術館  日本美術の至宝」にて展示(3/20~6/10)
・東京国立博物館所蔵の「六波羅行幸巻」は、同館の本館2室・国宝室にて展示(4/17~5/27)

R0011597_3 本館2階は、日本美術史の流れをテーマに、長岡市出土の火焔型の縄文土器が出迎えてくれ、その後に、この5月27日まで展示されている平治物語絵巻 六波羅行幸を見ることができる。

先日見る機会を得た雪舟の大作の巻物に比べて、こちらは絵巻物であり、また著名な歴史的事件を題材にしていることもあって、分かりやすい。現代、爛熟を極めている日本の漫画、アニメーションのはるかな源流として、鳥獣戯画がよく挙げられるが、劇画としての源流には、これら戦記物の絵巻が源流になるのではなかろうかと思われるほど、緻密、精細であり、牛馬の躍動感、人物たちの多彩な容貌と表情、ポーズ、武者たちの鎧兜の縅の色の鮮やかさ、細やかさなど、まったくもって素晴らしいものだった。芸術的な感激とは異なるだろうが、絵巻物(Scroll)がこれほどのものとは、やはり実物を見ることで体感できる類のものだろうと思う。

H24_national_treasures その他さまざまな展示のある二階をぐるっと見て回った後には、平成24年に国宝・重文に指定された日本各地の重要な美術品が集められて展示されている特別室があり、その中にはなんと先日「電脳郊外散歩道」ブログの記事にコメントさせてもらった山形県の縄文時代の土偶の女神像の実物も展示されていた。写真でもその造形と欠損がほとんどない保存の素晴らしさは感じられていたのだが、実物の迫力は圧倒的だった。

ただ、この舟形町西ノ前遺跡出土の土偶も「縄文のビーナス」と称されることが多いようだが、長野県の茅野市棚畑遺跡出土で先に国宝に指定されていて「縄文のビーナス」と呼ばれていた土偶(これも現地の尖石遺跡での展示を見に行ったことがある)との混同が生じそうなので、呼び分けが必要ではあるまいか? 

この部屋は全面的に撮影禁止(基本的に東博所有のものは撮影禁止ではないが、個人所有、他館からの貸し出しなどで、所有者の了解の取れていないものは原則禁止のようだ)となっていた。新しく指定されたとは言え、他にも一階の特別室にも素晴らしい仏教彫刻等が多く、どうしてこれがこれまで指定されていなかったのだろうと思うようなものもあった。特に地元神奈川県のものが今回数点新たに重文指定されていたのは新聞記事で読んではいたが、実物が見られるとは思っていなかったので、不意打ち的で興味深かった。中でも、鎌倉の建長寺の開祖である蘭渓道隆の肖像彫刻は非常に見事なものだった。

本館でじっくり見学していたらあっという間に16時半になっており、17時で特別展の終了時間ということでうっかり見逃すことになりかねないと慌てて平成館の方に移動したところ、この日は金曜日で、なんと夜の20時まで観覧できるというアナウンスが流れていてほっとした(どうもスマートな鑑賞にはならない)。
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通常の順路は第一展示室の方からで、こちらに絵巻物が展示されているのだが、まだ相当混雑しているようで、係の女性も大変込んでおりますとアナウンスしていたので、先に第二展示室から見ることにした。
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このパンフレットにあるように、垂涎の名品が里帰りしており、目玉の絵巻物以外にも見ものは多く、この展覧会前には知らなかった曽我蕭白の作品が数多く展示されており、とても奇異な日本画だと最初は違和感を覚えたが、再度見直してみると非常に面白く感じた。

18時ごろに第一展示室に戻ると、混雑も相当緩和されていて、結構悠々と鑑賞できたが、さすがに絵巻物の展示では数珠つなぎ状態での見物を余儀なくされた。しかしむしろ牛歩のようなそのスピードが鑑賞には適しており、伴大納言絵巻と並び称される吉備真備の遣唐使行を題材とした奇想天外な超人伝奇譚的な絵巻には、劇画というよりもユーモラスな余裕が感じられ、大変面白かった。周囲の鑑賞者の人たちも楽しんでいるのが分かる感じだった。

平治物語絵巻は、藤原信頼と源義朝による後白河院の御殿の襲撃と拉致の様子を描いた部分であり、ちょうど放送中の大河ドラマ「平清盛」では、清盛が絶対的な権力を掌握する要となる事件でもありこれからの放送が待たれる場面なのだが、よく教科書にも載せられる地獄の業火のような火焔のすさまじさの場面や、戦の凄絶、残酷な場面なども、人物に動きは感じられないものの、やはり精緻、詳細に描かれており、その技術や構成力のすごさを思い知らされるものだった。保存状態も驚くほどよかった。

なお、地味ながら非常に貴重な仏教画としては、東大寺の法華堂(あの有名な日光月光菩薩像の安置されている三月堂)の曼荼羅図という8世紀制作のものも展示されていたのには驚いた。東大寺のような大寺院にも廃仏毀釈が及んでいたのだろうか。

先に読み終えた『夜明け前』第二部は、廃仏毀釈を行った側について多く触れられていたのだが、その裏面では、フェノロサ、ビゲロー、岡倉天心らの努力により、このような貴重な傑作が残されたということも忘れてはならないだろうと思った。これは大英博物館的な文化財略奪とは異なるものではあるだろう。

考古館の展示も久々に見て、本館に戻り外に出ると雨は上がっており、5月5日のスーパームーン前夜の月が皓皓と白く光っていた。

(20時閉館前の東博正面)

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追記:5月6日  NHKのEテレの日曜美術館が、今回のボストン美術館展を特集したのを見た。実際に見たり、見逃してしまったものを放送で見るというのも面白いものだった。なお、岡倉天心について触れないのは不思議だった。

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2012年5月 1日 (火)

毛利家の至宝 国宝 雪舟の「四季山水図」 サントリー美術館

黄金週間。今年は、カレンダー通りだと5月1日(月)、5月2日(火)の平日で区切られた前半3連休、後半4連休となるが、この平日2日を年次休暇とする人の場合、なんと9連休という長期休みとなるのでうらやましい。

今年になって子ども達が幼かった頃の博物館(ミュージアム)詣りの習慣が久々に復活したかのように、昨日昭和の日4月29日(日)には、また美術館に出かけてきた。「春過ぎて夏来たるらし」のごとく、一挙に初夏の陽気となり、上着を脱ぎ、腕まくりをしながら井之頭五郎の沖縄料理の店が実在するのだろうかと東口側の路地を歩き、結局は見つからず、昼食は熱いものより冷たいものをということで入った中目黒のつけ麺の店(三ツ矢堂製麺)は、満員の盛況だった。

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この4月の初めの国立新美術館でのセザンヌ展に続いての六本木行きで、今度の行き先はこの前美術館に行くときに通って、帰り立ち寄った富士フィルムのミュージアムのあるミッドタウン内のサントリー美術館。そこで開催中の「毛利家の至宝」展を見てきた。(今回も大人は無料招待券だったが、高校生はクーポン割引で900円。中学生はここも無料)

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この防衛庁跡地の再開発地区の「ミッドタウン」は、江戸時代には長州藩の毛利家の下屋敷(といっても上屋敷が手狭になったため、実質的にはこちらが藩主とその家族の江戸での住居であり、実質的には普通いわれる「上屋敷」として使われたらしい)があった場所ということで、そういえば明治の海軍は薩摩であり、陸軍は長州と呼ばれたように、旧長州藩閥主導の陸軍創設(村田蔵六=大村益次郎、山県有朋、桂太郎の流れ。児玉源太郎、乃木希典などを輩出)だったがために、廃藩置県にあたり旧長州藩の屋敷を接収して、陸軍の歩兵第一連隊の駐屯地としたものではなかろうか?

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今回の展示は、そのミッドタウン竣工の5周年を記念して、旧毛利屋敷の縁により山口県防府市の毛利博物館が所蔵する主要な宝物を借り受けて展示したものだという。国宝、重要文化財が数多く、歴史や古美術に興味のある向きにはとても魅力的な展示だと思った。

白眉は、雪舟等揚作の大作国宝「四季山水図」(山水長巻)で、16メートルもある長大な巻物の隅から隅までが展示され、じっくりと鑑賞できたのは、まことに貴重な体験だった。

水墨画の良しあしはよく分からないが、一緒に見ていた次男が、建物などは平面的な描き方ではない一種の遠近法が使われていることに関心していたように、立体感があり、また遠景と近景は(これこそが水墨画の真骨頂なのかも知れないが)、遠景を「空気遠近法」的に描き、近景はくっきりと克明に描いているのが感じられもした。また、人工的な建築物などの描線はフリーハンドではなく、定規のようなものを使用しているのではないかとも見てとれたりもした。雪舟のどこがどのように優れているのかは、日本画の鑑賞眼が無いためよく分からないのだが、優れた眼を技術を持った画家ということは何となくわかった。中国の山水や人々の四季を描い、長い絵巻物ではあるが、その画面の移り変わりは実に自然で、その風景の中に溶け込むような幻想をも見る心地がした。

    山水長巻を紹介しているホームページ

その他、毛利家の家宝毛利元就の三矢の教えのもととなったような教訓状徳川家康の防長安堵状(起請文)などの貴重な古文書や、毛利家の祖とされる鎌倉時代の頼朝政府の官房長官的な役職(政所の別当)を務めた大江広元の大江家に関係のあるというような注釈がつけられた平安時代の史記の写本など、さまざまな書画骨董や武具、衣装、茶道具、什器などが展示されていたが、興味深い展示としては、足利義満が明の皇帝から日本国王に封じられたという、「義満さん、いくらビジネスのためのお墨付きがほしいとはいえそれはへりくだり過ぎでしょう」とか、「天皇になろうとした将軍」とか言われる元になった、「日本国王」の木の印鑑が、大内氏を経て毛利氏が受け継いで、家宝としていたとのことで、それが展示されていたのが面白かった。

昨年の出光美術館の雰囲気のことを先日辛口に書いたが、同じ古美術系でもサントリー美術館は、本業が扱っている商品がコンシューマー向けで企業イメージを重視し、また大阪商人系ということもあるのだろうか、係員の応対も品よくスマートで、気持ちよく鑑賞することができた。

混雑度は山水長巻のところが渋滞気味だったが、混雑というほどではなかった。3階からエレベーターで4階に昇り、そこから順路となっているのだが、一緒にエレベーターで昇ったグループとタイミングをずらせば、ゆったりと鑑賞できるように思う。

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地下鉄日比谷線の六本木駅への帰路に立ち寄った六本木ヒルズも、数年前に話題になった再開発地区だが、漫画の「ワンピース展」も行われていることもあるのか、まだ人々を引き付ける引力があるのか、ミッドタウンの落着きに比べて、少々雑然とした雰囲気だった。円形の巨大ビルで、丘(Hill)の地形を使っているせいもあるのだろう、初めての者には位置関係が把握しにくく、周囲をぶらぶらと歩き、テレビ朝日社屋のエントランスを見物して早々に退散した。

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2012年4月29日 (日)

「銃・病原菌・鉄」の補遺の日本についての翻訳(非公式)を読んで

この補遺的な日本人論において、縄文時代の日本が、非常に食料に恵まれた地域であり、狩猟採集によって食料を得ていたにも関わらず、住居は定住型だったという指摘は、啓蒙的だった。定住生活は、縄文時代を特色づける遺物である大型の土器類がそれを示すということで、なるほどと合点がいった。

http://cruel.org/diamond/whoarethejapanese.pdf 

確かに持ち運びが困難なほどの大型の土器を抱えての移動は非常な困難を伴っただろうことから、狩猟採集生活を送っていたにも関わらず、彼らが定住していたという推論は至極納得できることだ。

かつての学校教育では、縄文時代は狩猟採集生活であるとされていただけだったが、果たして定住していたとかいなかったとかを教科書で教わっただろうか?記憶があいまいだが、定住ということは強調されていなかったように思う。

これが啓蒙的だったというのは、定住型の住居跡の遺跡が日本各地で出土しているにも関わらず、私の脳内ではどうも縄文時代=定住という常識にはなっていなかったからだ。無知・無関心が恥ずかしい。

(縄文時代の定住に触れたウェブページ)

http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscover_joumon.htm

http://www.wound-treatment.jp/next/dokusyo/281.htm

http://www.pat.hi-ho.ne.jp/hirosilk/osha001.htm

http://bunarinn.fc2web.com/kodaitatemono2/jiyomonnmura/jiyomonmura.html

http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/880.html

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=244240

http://joumon-juku.com/zatkan/10.html

http://hensuiryuu-taijyutu.seesaa.net/article/216592823.html

http://soundsteps.jugem.jp/?eid=686

http://archaeology.jp/journal/con20abs.htm (考古学会論文要旨)

http://sakudaira.info/history/2011/04/28/  (長野県の佐久地方)

さて、これは特にこの翻訳に出ていたのではないが、同じ遺跡に数千年に渡って縄文人たちが住み続けたことを示すような複合遺跡があることでも、狩猟採集生活にもかかわらず定住していたという推論が成り立つのだろう。

その定住を可能にしたのが、氷河期が過ぎて、温暖化していくにつれ日本列島の大部分が落葉広葉樹林化して多くの木の実(ナッツ)類が取れるようになり、また淡水・海水ともに豊富な漁獲や貝類なども収獲できたことだと指摘されている。

縄文土器があまりにも日本式の新石器時代とペアになっているので、狩猟採集イコール住居移動型、放浪型という至極当然なモデルが逆に思いつかず、縄文式の定住型の特異さに思い至らなかった。

発掘・出土の程度にもよるのだろうが、炭素測定法によると今のところ縄文式土器が「全世界で」最も古い土器になるのだという。これも環境変化に伴い日本列島が人々の定住を許すようになったことの賜物であり、他の世界各地で土器が使用されるのは、現在の出土物からの推定では、相当時代が下り、農業により定住が可能になってからだとされる

日本列島の特異さのもたらしたものであり、縄文人の直系の子孫にあたるかどうかは判然としないが、日本人のナショナリズムをくすぐる指摘でもある。。ただ、その一方で作物の栽培、家畜の飼育に頼らずとも、多くの人口を養えるほど国土が豊かだったがために、縄文時代は約1万年の長きにわたり、当初は先進的だった日本の縄文生活も延々と約1万年も継続したという。

ナショナリズムと書いたが、この日本についての補遺が日本で出版されないのは、朝鮮半島と日本列島の人々の対抗意識を赤裸々に描いていることも理由の一つであるかもしれないし、少々日本人にとっては突っ込みどころがある点にも理由があるのかもしれない。

興味のある方は、ぜひ昨日の記事からリンクをたどってpdfファイルを閲覧してみることをお勧めする。

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2012年4月27日 (金)

出光美術館と桜田門、法務省旧館(米沢藩上杉家藩邸跡)

4月26日に東京地方裁判所で当否は別として政治的に注目すべき判決が出され、よかれあしかれ今後の政局に大きい影響を与えそうだ。

その東京地裁の建物の映像を見ていたら、昨年の10月に出光美術館に行ったおりに、皇居の桜田門を通過して、霞が関の官庁街から日比谷公園経由で新橋駅まで歩いたことを思い出した。そういえば記事にしていなかったと思い、何枚か写真をアップ。

出光美術館は、この前の国立新美術館と同じくやはり新聞店から抽選でもらったチケットがあったので、初めて行ってみたのだった。帝劇と同じビル内にあり、その最上階に狭いエレベーターで昇るのだが、ビルが非常に古く、また天井も低いため狭苦しさを感じる美術館だった。公立の美術館に比べて、係員もあまり感じがよくなかったのは、気のせいだろうか?

展覧会は、「大雅・蕪村・玉堂と仙厓」というもので、日本人ながら西洋美術に比べて馴染みが無いこともあり、池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂、仙厓義梵というビッグネームの書画だったが、あまり面白味を感じられなかった。蕪村の俳画の実物を見ることができたのはそれなりに感慨深いものがあったけれど。ルオーやムンクの作品が常設展示されていた。

美術館から出て、二重橋方面に向かった。

(お堀から日比谷方面を望む:左端の低いビルが帝劇と出光美術館だったと思う)

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(皇居桜田門から見た警視庁庁舎=通称桜田門)

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(同じあたりから遠望した国会議事堂)

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(法務省旧本館の案内看板)

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(米沢藩上杉家江戸藩邸跡の案内札)

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(法務省旧本館、その右に見えるビルが東京地裁・高裁)

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2012年4月 9日 (月)

鎌倉時代の執権連署は観桜したのだろうか? 金沢文庫と称名寺

昨日4月8日(日)は、肌寒くはあったが、雲がほとんどない晴天で、絶交の花見日和となった。

こちらに越してきてから、比較的近所の桜の名所で花見を楽しんではきたが、三溪園や称名寺といった名所旧跡には訪れたことがなかった。昨年3月11日の大震災と大津波の前に、運慶展が称名寺に隣接する金沢文庫で開催されていて、それを見に行くつもりでいたのだが、大震災の影響もあり、ガーラ湯沢への春スキーの予約と同じくその予定も立ち消えになっていた。

そこで、今年の花見は、称名寺に行くことにした。司馬遼太郎の街道をゆくシリーズの『三浦半島記』は、週刊朝日連載中から読んだ記憶があり、こちらに越して来てすぐの職場の江の島鎌倉での忘年会の折に、本屋で文庫本をもとめて読んだものだが、この本の中に、金沢文庫のことが最大限の賛辞をもって紹介されていた。それ以来ずっと行こう行こうと思いつつ、なかなか訪れることをしないでいたが(近所の金沢動物園には行ったことがあった)、子どもたちに、金沢実時のことを話してもわかるようになったこともあり、ようやく機会が巡ってきたというところだろうか。

(通勤路の桜は満開)

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横浜駅で京浜急行に乗り換え、三崎口、逗子方面の列車に乗り込むと、金沢文庫駅まではほんの20分ほど。

金沢文庫駅からは、横浜市内によくある住宅が密集した狭い道路を金沢文庫・称名寺の看板を見ながら歩くと、称名寺への花見客らしい人たちが結構歩いていた。10分ほど歩くと、金沢文庫への近道の看板が出ており、そちらに進むと、県立金沢文庫の裏門側に出た。そこで、花見の前に展示を見ることにして、中に入ってみた。大人250円、高校生100円、中学生以下無料。鎌倉を紹介した古文書や江戸、明治時代の物見遊山用の絵地図などが展示されていたが、鎌倉が武家の古都として有名になったのは、徳川家康の江戸開府以降で、徳川家が源氏の末裔を名乗って将軍宣下を受けてからということだ。

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前述の司馬遼太郎の旅行記にあったように、この金沢文庫は小山を隔てて称名寺と接していて、その間を短いトンネルが繋いでいる。中世にも隧道があり、遺跡として保存されていた。これは称名寺のような大寺院は火災に遭う可能性があるということで、貴重な書籍を火災から守るための配慮だったという。さて、そのトンネルの向こうには桜と池の姿が望まれていた。

(称名寺の浄土庭園)

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平泉の毛越寺にも浄土庭園の遺構とされる池が残されているが、称名寺の庭園は調査復元されたものとのことで、池の中央のアーチ橋を渡り、金堂に参詣できるようになっており、周囲を巡ることもできる。桜の木は多くはなかったが、風情のある風景だった。鎌倉初期の西行法師の桜の和歌は有名だが、往時の鎌倉武士達も観桜の宴を開いたものだろうか?

うらうらと照れる春日に照らされた池の周りをそぞろ歩き、少し山際に入ると鶯が鳴き始めていた。軽食を摂ってから、久々に八景島の水族館に行き、お目見えしたジンベイザメでも見ようかということになり、新交通システムのシーサイドライン「海の公園柴口駅」に向かうことにしたのだが、案内看板に頼って東に進んでいったところ、途中の交差点で南に折れるのに気が付かず、金澤園という料亭の前を通り、トンネルを通ってどんどん狭い道の方に進んでしまい、付近にあったコンビニで地図を確認したところ柴漁港の方に迷い出てしまったらしい。ここからは目的の駅まで500mほどと見当をつけ、歩いているとプーンと天ぷらの香りがする。天ぷら料理の店?と思って少しあいたゲートを入ると小さい漁港のようでこれが柴漁港らしい。見ると一般客も特売所に大勢ならんでいる。見回すと穴子の天丼を提供している食堂があり、やはり列ができている。軽食を食べた後だが、当初500mの予定が1km以上歩いたこともあり、お昼をここで食べることにした。

(穴子の三色丼 900円なり)

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近海の獲れたての穴子を天ぷらにしてくれたもので、ほくほくと柔らかく美味しい天ぷらだった。目的の駅はここから数百メートルのところにあったのだが、たまには詳細な地図のない迷い道も面白いものだった。天丼を注文するお客が多く、約10分ほど番号札で待った。我々が注文してから10人ほどで、穴子が終わったとのことでオーダーストップとなった。ここでのんびりと休み時間を結構費やしたこともあり、八景島は別の機会ということにしたのだった。帰路、シーサイドラインに乗ると、車内の広告に、ちょうど食べたばかりの「小柴のどんぶりや」が載っていた。土日休日のお昼時だけ漁協が営業している食堂とのこと。

三浦半島関係記事:

2005年5月16日 (月) 観音崎県立公園を訪れる

2006年10月 9日 (月) 横須賀で戦艦三笠を見学し鮪を食す 

2007年2月 4日 (日) 横浜金沢自然園にて

2007年4月30日 (月) 観音崎県立公園で磯遊び

2007年5月17日 (木) 横浜市 金沢動物園(2月4日を訪問記を5月にまとめてアップしたもの)

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2012年4月 8日 (日)

「真珠の耳飾の少女」が6月に3回目の来日予定

2007年10月 2日 (火) 映画『真珠の耳飾りの少女』(2003年イギリス) は、アメリカ人女優のスカーレット・ヨハンソン(北欧人だと思っていたらアメリカ生まれのアメリカ育ちらしい)が少女に扮した映画を見ての記事だったが、東京都美術館の改装に合わせてこの6月30日にフェルメールの「青いターバンの少女(真珠の耳飾の少女、北のモナリザ)」がやってくるのだという。

4月5日(木)の朝刊の全面広告で、女優の武井咲(えみ)がその有名な名画の少女に扮した姿を撮影した公式ポスターがどーんと掲載されていて、目を引いた。

公式サイトは、http://www.asahi.com/mauritshuis2012/ で、

新聞に掲載された公式ポスターも見ることができる。

もともと光学機器が発達していたフェルメールの時代だったので、フェルメールが当時のカメラ・オブスキュラを使っていたのではないかと想像され、その光学的な描き方の細密さが特筆されることから、現代のカメラを用いて、フェルメールの絵画を再現してみようという試みは、以前NHKの番組で写真家の篠山紀信が試みていて結構長い番組として放送されていたのを思い出した。今回ももしかしたら、篠山紀信が関係しているのだろうか?

その番組だが、実際にこの有名な少女の扮装をさせた女性を、光源の位置や明るさなどを加減しながら、実際に写真に収めてみると、瞳の位置がフェルメールの原作とはどうしても異なったり、また耳の真珠の光沢も現実の光線では再現できない、というような結論だったと思う。

如何にフェルメールの作品が写実的に見えても、絵画は事実を単に写すのではなく、時間の経過や複数の時間も、光線の角度や移動も含めて、複合的に画家の目と筆によって合成され、創造されたものであることがよく分かった番組だった。

最近では、生物学者の福岡伸一が、フェルメールの絵画に興味を持ち、パソコンに取り込んだ作品の色彩補正を行っているような番組もあるなど、フェルメールに関してはこのところずっと世間の注目度は高いままのようだだ。

さて、マウリッツハイスの可憐な少女は、これが三度目の来日ということだが、この少女の前に、ベルリンの真珠の首飾りの「少女」も初来日するという。(こちらは、私には少女には見えない。いわゆる「婦人」というのが適当に思えるのだが。)

きっと、大人気で大混雑になることだろう。

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