カテゴリー「ディスク音楽04 独奏」の124件の記事

2009年6月28日 (日)

浅田真央選手のフリースケーティングの曲が決まる ラフマニノフ 前奏曲作品3の2(『鐘』)

音盤を持っていないので、Rachmaninov Prelude Op.3 No.2 を検索ワードとして、YouTubeで探したら、

Gilels plays Rachmaninoff Op. 3 No. 2 In C Sharp Minor 
http://www.youtube.com/watch?v=EtuMVBLEWJU 

という凄い演奏が見つかった。

作曲者自身の 

http://www.youtube.com/watch?v=5xZty8z9pTw 

http://www.youtube.com/watch?v=8z7Y0J3hIFU&NR=1

も登録されており、いまやYouTubeがクラシック音楽の演奏を手っ取り早く聴く手段になったことを実感した次第。

ただ、著作権上の問題はないかと心配になるような、比較的新しい音源もあるようで、少し気になった。

ニュースで、浅田真央選手の来るシーズンのSPが昨年のFSで使った『仮面舞踏会』で、FSがこのラフマニノフの前奏曲第1番とされる作品3の2の嬰ハ短調の陰鬱な雰囲気の『鐘』をイメージさせる曲だということを知り驚いた。

ラフマニノフには、2007年9月10日 (月) ラフマニノフ 『鐘』 アシュケナージ/ACO で記事にした、合唱とオーケストラのための組曲もあり、指揮者がアシュケナージなものだから、検索ワードでこの記事を見てくださった方も多かったようで、混乱があったようなので、この記事をアップすることにした。(自己トラックバックを送ってみた)

この前奏曲は、ラフマニノフ初期の作品であり、存命時の最大のヒット曲だったというが、あまりの人気の凄さに彼自身がこれに縛られることを嫌ったほどだったというエピソードもあるそうだ。少し暗鬱な響きすぎて、浅田真央の華麗でダイナミックな演技にフィットしないのではないかという危惧があるが、ロシアでタラソワコーチの元、ロシア的な情感をたっぷりと吸収して、来るシーズンに備えてもらいたいものだ。

ここしばらくは、登録ブログの訪問は続けていたが、別のことで少々多忙で、なかなかブログの更新ができなかった。

昨日は、夏至を数日過ぎただけの太陽がたかだかと中天に昇り、猛烈な暑さの一日だったが、今日は一転して曇りから雨脚は細いが、結構稠密な雨の天気になってしまった。

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2009年6月13日 (土)

グルダのモーツァルト ピアノ・ソナタ集K.331, K.335, K.545 & K.485 (amadeo盤) 

Mozart_gulda_sonata11_13_15


モーツァルト 

ピアノソナタ 第11番イ長調K.331(トルコ行進曲付き)
 第13番変ロ長調K.333
 第15番ハ長調K.545
 ロンド ニ長調K.485

フリートリヒ・グルダ(ピアノ)

〔K.331,333: 1977, K.545: 1965, K.485: 1961年〕
  amadeo PHCP-20328(462 926-2)

梅雨の季節になったが、今年はなぜかベートーヴェンのピアノソナタに手が伸びない。これにも、いつでもつまみ聞きが可能になったiTunesの影響が大きいのかも知れない。

ところで、ドイツ・グラモフォン・レーベルでグルダの未発表のプライヴェート録音がアーカイブといして発売されているようだが、こちらは1960年代と1970年代にamadeo(ベートーヴェンのソナタ集を録音したレーベル)に録音した正規録音。

K.485のかわいらしい独奏ロンドは、グルダの『アンコール』というCDにも収録されている1961年録音と同じもののようだ。

さて、この中での注目は、吉田秀和『レコードのモーツァルト』で紹介された非常にユニークな「優しいソナタ」ハ長調への多彩な即興的な装飾音の付加だ。最近、ようやくこのCDが入手でき、どんな演奏だろうかとまずこの「優しいソナタ」に耳を傾けた。

手持ちのCDのこの曲の録音の古い順では、このグルダのK.545が一番古いものにもかかわらず、第1楽章は4:17も掛けて、提示部、展開部+再現部両方のリピートを、ピアノ練習者のように繰り返している。そしてその繰り返しの部分に様々な即興が交じるのが聴き物だ。

グールドの1967年録音は、別として、リリー・クラウス(1968年)、マリア・ジョアオ・ピリス(ピレシュ)(1974年)の生真面目な演奏、及び自分のつっかつっかえの楽譜から離れなれない演奏がリファレンスなので、グルダの演奏はとても面白い。

元々初心者に教授するためのレッスン用に作曲されたという曲で、譜面はそれこそシンプルなものだが、これだけ単純な譜面をそのまま演奏しても晩年のモーツァルトならではの透き通った諦観のような世界が繰り広げられており、形式的にもシンプルなソナタ形式、歌謡三部、ロンド形式という古典派の標準を使っていて、ソナタ形式の再現部の第一主題をヘ長調にしている程度の破調しかなく、これだけの音素材でこれだけ深い表現ができるという典型のような作品だ。

第1楽章の即興に比べると、第2楽章のAndanteは、それこそ縦横無尽に即興を付けている。様々なリファレンスのある現代の耳で聞いてもユニークではあるが、とても面白い。モーツァルトが弟子に弾かせたのは、このようなシンプルな譜面を前にした際のこのような即興的な装飾の仕方だったのかも知れないなども想像が膨らむ。

グルダが1960年代中ごろにこの録音を発表した頃は、相当反響があったものと思う。現在では、正統的な演奏の典型の一つに数えられるベートーヴェン全集は1967年の録音なので、その直前の録音になり、またユニークなルバート演奏で知られるスワロフスキーとのピアノ協奏曲は1963年なので、その直後となる。恐らくギーゼキングなど楽譜忠実主義(ノイエザハリヒカイト)のモーツァルト演奏へのアンチテーゼだったのだろう。

しかし、1970年代録音の有名なソナタK.331については、そのようなユニークさは見られず、一聴、至極普通の演奏に聴こえる。テンポ的にも1961年には2:50で駆け抜けたトルコ行進曲も、3:30秒台で至極普通のテンポだ。

ただ、ソナタアルバム第二巻にも収録されている第13番K.333については、非常に長時間演奏になっている。(iTunesのタイミング表示による)。

このテンポの差は一見少し極端すぎるように思えるが、これもグールドの極端に速いテンポ設定を除けば、提示部、展開部+再現部両方のリピートを忠実に実行しているかどうかの差で、実にじっくりと30分ほどになる「大曲」のソナタに向き合っているのが好ましい。(普通は提示部のリピートを行うだけ。)

録音が比較的新しいこともあり、このグルダ盤がナイーブな魅力で、大変気に入った。ただ、第2楽章でも1960年代のK.545の即興的な装飾はあまり付加していない。時代の差か、それともグルダのこの曲の細部まで丁寧に書き込まれた楽譜を尊重したものか。

グルダ           11:18/ 12:01/ 6:43 〔1977〕
ギーゼキング  4:55/   6:15/ 5:53 〔1953〕
グールド          3:47/   3:41/ 5:57 〔1970〕
シフ                7:16/   5:56/ 6:52 〔1980〕

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2009年5月25日 (月)

J.S.バッハ パルティータ BWV825-BWV830

年になって、これまで買い溜めたCDを整理しようとiTunesに読み込ませるのを始めて既に5ヶ月近く経過するが、ようやく8割ほど完了した。

9132曲、36.8日(883.2時間)と表示されている。

演奏家別では、Adam Fischer1.5日、Szell 1.4 日、Karajan 1.2日、Ozawa 1.1日、Bernstein 22.4時間、Gulda 21.8時間。

作曲家別では、Beethoven 7.3日、Bach 2.5日、Haydn 2.2日、Mozart 3.0日, Brahms1.8日、Mahler 1.5日、Chopin 1.0日、Schubert 1.0日、Schuman 1.0日、Tchaikovsky 1.0日。まだモーツァルトのオペラ、ヴァーグナーの楽劇、バッハの受難曲などが取り込んでいないので、少し変動がありそうだが、演奏家ではカラヤンが3番目なのは我ながら意外だった。

オケ別では、VPOが2.6日、BPOが2.2日、CLOが1.5日、LSOが1.2日、PO が1.0日、ACOとSKDがそれぞれ21.5時間と偶然同じ時間だった。(オーストリア・ハンガリー・ハイドン・オーケストラは1.5日)

その間、その「作業」が面白いこともありほとんど新しいCDも買わなかったが、このようなブログでのCD感想文も書くのを怠ってしまった。音楽のデータ化、リスト化は便利なようだが、その反面、一部ジャケット写真の表示はあるものの、個性のないリストの文字が並ぶだけで、調べ物には重宝するが、鑑賞の意欲というのが湧いてこないきらいがあるようだ。

この記事は、2007年頃に書こうと思って、ジャケット写真だけ取り込んで下書き記事として保管していたもの。久しぶりにiTunesで音楽鑑賞をした感想を少し書いてみようと思う。

パルティータという音楽の楽曲名は、このクラヴィア(チェンバロ)のためのパルティータ(全6曲)、独奏ヴァイオリンのための(一般的には「無伴奏ヴァイオリンのための」)ソナタとパルティータ(同じく全6曲)、そして、独奏フルート(同様に無伴奏ということが多い)のためのパルティータ1曲という著名な作品名と知られることが多い。

同じ舞曲による組曲形式でも、独奏チェロ(同様に無伴奏)のための組曲はパルティータとは称されず、フランス組曲、イギリス組曲と名づけられたクラヴィア組曲集もパルティータとは呼ばれないのは少し不思議だ。

チェンバロ(クラヴィア)のためのパルティータ全6曲は、バッハ存命当時から名人、達人向けの作品として知られており、比較的易しいフランス組曲などに比べて練習用というよりも、演奏会、プロ用のものとして認められていた作品のようだ。

ピアノ演奏では、リパッティによる第1番変ロ長調のナイーヴな歌に溢れる演奏が懐かしい。

Jsbach_gould_recital

グールド(第1番BWV825、第2番BWV826)

グールドの演奏は、ナイーヴというよりも、運動性が際立った演奏で、リズミカルに前進していく舞曲が何とも心地よい。


Bach_partita_ross

スコット・ロス(BWV825-830全曲)

スカルラッティ大全集を遺したロスのバッハもとても聴き応えのあるものだ。グールドを聴いてしまうとどうしても比較的一本調子のチェンバロの反応が最初は気になるが、聴き進むうちに、爽やかな音色とアーティキュレーションによるこの演奏の魅力に捉われてしまう。チェンバロ演奏では音色のせいもあり、低音声部の音が右手にマスクされるように感じることが多いが、ロスの演奏では左手がくっきり声部として浮き出て聞こえるのが聴いていて楽しい。

2009/05/26追記:音楽記事に以前からコメントを下さっていた天ぬきさんがブログを開設されたということで、訪問させていただいた。「明日は晴れかな曇りかな」。アラウのパルティータの記事にされていたが、アラウのバッハを聴いたことがないので、とても興味が湧いた。トラックバックを送らせていただいた。



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2009年2月24日 (火)

カーニヴァル最終日(マルディ・グラ)に『ヴィーンの謝肉祭』を聴く

アリシア・デ・ラローチャのシューマン『謝肉祭 Carnaval』は、ずい分以前に書いたことがあったが、そのCDに併録されている "Faschingsschwank aus Wien" ( Phantasiebilder) Op.26 を今晩聴いてみた。

たまたま、昨日からシューマンのピアノ曲のiTunesへの取り込みをしていて、ルービンシュタインの『カルナヴァル』の後に、ラローチャの『カルナヴァル』のCDを取り込んだのだが、そういえば、この『ヴィーンの謝肉祭』は真剣に聴いたことがなかったなと思いつき、聴き始めた。

その内、そういえば、謝肉祭(カーニバル)は、ちょうど今頃ではなかったかと思いつき、調べてみたところ、明日が「灰の水曜日」で四旬節というちょうどラマダーンのような謹慎・節制の40日間に入るので、今日が謝肉祭の最終日で、フランス語では「太った火曜日」(マルディ・グラMardi Gras)になるようだ。

そこで、ラローチャの弾く『ヴィーンの謝肉祭』だが、全部で5つの部分から成っている。作品26ということで、一つのジャンルを集中的に作曲したシューマンの場合、既に作品1からほぼ連続で、このOp.26の次のOp.28の3つのロマンスまでほとんどがピアノ曲になっている。その後は、それほど著名なピアノ独奏曲がないほど、この時期に集中的に書かれたことが分かる。

その中でこの作品26はそれほど有名ではない方だろう。何種類からあるシューマンの独奏ピアノ曲を収めたCDでも、この曲が収録されているのは、このラローチャ盤のみだ。

第1曲 Allegroが一番長く約9分。途中でフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の変容がちらっと姿を現すのが面白い。 第2曲は、ロマンス。大変ゆっくりした曲想。第3曲はスケルツォだが、Scherzino という珍しい名前が付いている。ノリノリの感じの軽いスケルツォ。第4曲間奏曲は、幻想小曲集を想像させるような抑えられた情熱が感じられる曲想。右手の走句が素早く軽く流れ、そこでメロディーを紡ぎだすような作りで、演奏は非常に難しそうだ。第5曲が終曲(フィナーレ)。最高度に生き生きとして というようなドイツ語の表情記号が添えられている。古典派の「それでは皆様ごきげんよう」というような軽い挨拶のような音楽だが、きっちりとしたソナタ形式で書かれているらしい。

名作 "Carnaval" Op.9ほど魅力的な曲想が頻繁に登場するわけでもなく、また標題音楽的な個性もなく、それほど面白さを感じさせる曲集ではないようだし、『ヴィーン情緒』を感じさせてくれるものではないが、ラローチャの安定して外連みのないピアノ演奏により、なかなか聴き応えのある録音になっている。

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2009年2月17日 (火)

グールドのモーツァルト ピアノ・ソナタ集

グールドのバッハ演奏は、現代では一種の権威と完全に認められているが、彼のベートーヴェンやモーツァルトについては、未だにプロとコンの両方の評価が拮抗しているように感じる。

今日も、iTunesでの音盤整理をしていて、モーツァルトのCDを何枚か読み込ませたが、その内の一枚にグールドのピアノ・ソナタ集(旧全集番号 No.8, 10~13, 15)があり、久しぶりにこの演奏を聴いた。

私のグールド入門は、中学生の時、LP時代に少し収録曲目は違うが、モーツァルトのピアノ・ソナタ数曲と幻想曲ニ短調が含まれたものだった。バッハを聴いたのは結構時間が経ってからだ。

なぜこのLPが我が家にあったかだが、父が当時ピアノを習っていた小学生の私の弟に参考になればと買ってやったように思う。父もグールドのバッハの評判は聴いていただろうが、まさかモーツァルトがこのような演奏だとは想像していなかったに違いない。LPでは、確か「トルコ行進曲」が第3楽章に配置されたK.331の第11番がA面の最初に入っていた。あの有名な優美な民謡風主題が、グールドの演奏ではポツリポツリというノンレガート、ノンスラーのアダージョよりも遅いくらいのテンポで、タドタドしく弾かれ始める。

ある日家に遊びに来た従妹(小学生で当時ピアノを習っていた)は、これを聴いて率直に「何て下手なピアノ!子どもが弾いているの?」と言ったものだったが、私達兄弟は、この演奏が刷り込みだったので、この曲はこのようなものだと思い込んでいた。その意味で、当時はこれが偶像破壊的な演奏だとも知らずに、この非常にユニークな演奏(と解釈)を純粋に楽しんでいたのだった。

自分でもこの曲の第一楽章のテーマ部やトルコ行進曲を弾けるようになってから、改めて聴きなおすと、とても同じ楽譜から生まれた音楽だとは思えないほどの「凄い」演奏だと感じる。グールドは、特にK.331の第一楽章では、このような変な演奏をしているにも関らず、例の歌声はしっかり記録され、相当「乗って」いる演奏には聴こえる。「ラララティララ」とか歌っているのだから、まったく参って?しまう。しかし、このたどたどしくゆっくりと始った変奏曲が、次第に滑らかなテンポに変じ、特に右手と左手の独立性が高いというのか、和声音楽を対位法的に再構成しているといのか、普通の演奏では聴きもらすようなフレーズが歌っているのが聴こえてくるなど、とても「面白い」ことは確かなのだ。そして最後は、第3楽章を先取りするかのような「トルコ風」の速いテンポで駆け抜ける。周到に計算された上での即興的な演奏になっている。メヌエットもノン・レガートを多用したあまり和声音楽的に聴こえない演奏。普通なら単なる伴奏の左手が、メロディアスに動く。あまりにも有名な第3楽章は、アレグレットではなく、モデラートかアンダンテのテンポで、alla Turka ではあるが、alla Marcia として、「トルコ行進曲」と通称されながら、まったく行進曲的でない演奏ばかりであることにアンチテーゼをぶつけたような「おもちゃの行進」のようなマーチのテンポでの演奏になっている。

シュタイアーが来日したときのピアノフォルテ演奏は、スタジオ収録のCDでも同じような「即興的?」な演奏が聴けるそうだが、異形のモーツァルトという感が強かったが、このグールドのは、同じく異形であり、ピアノの先生から即座にだめだしを食らう演奏と解釈であることは今でも変わりないが、それでも面白さはピカイチかも知れないと思う。

なお、第8番は猛烈な速さが特徴。第10番、12番、13番、15番は、特異なアーティキュレーション、左手のフレーズの強調、などはあるが、テンポ面ではこの8番や11番のようなユニークさは少ない。今から思えば、フォルテピアノ的な演奏イメージを目指していたようにも聴こえる。(12番の第三楽章Allegro assaiや13番の第一楽章などは息も継がさない猛烈なテンポで、ゲオン的な tristesse allante をグールドとモーツァルトとが二人で体現しているかのような演奏。初心者のための15番も速い。AndanteはAllegrettoほど。意外にロンドは猛スピードではない。)

バッハの演奏でも、独創的過ぎるほどで、それを人前で弾くのは相当勇気が必要だったことと思うが、このモーツァルトにしても、このような解釈、スタイルで録音に残すのも同じように非常に勇気がいることだったろうと思う。

なお、CDには録音日が詳細に書かれているが、一日で録音したものもあるにはあるが、第11番などは、1965年と1970年の録音日付になっている。細部の修正を施したものか、それとも伝えられるようにいくつものテンポのテイクから、つぎはぎをして再構成したものなのか。1964年にコンサート(ステージ)・ドロップアウトをした後の、孤独なスタジオ録音作業に入ってからの録音なので、コミュニケートというよりも、独り言、モノローグとしての性格が強いが、それでも演奏者は、作曲者とのコミュニケートに没頭しているようにも聴こえるのが不思議だ。

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2009年2月14日 (土)

ジョン・フィールドの「ノクターン」を聴く Benjamin Frith: Piano

ショパンの「ノクターン(夜想曲)」についての解説を読むと大概登場するのが、この「ノクターン」というジャンルは、アイルランド生まれの作曲家ジョン・フィールドが創始したという記述だ。音楽之友社の古い名曲解説全集でも、野村光一氏が確かそのように書いていた。

ところが、当のフィールドの「夜想曲」については、いわゆる名曲解説全集の類には登場せず、演奏を耳にする機会はもとより、音盤についても非常に数少ない。その数少ないディスクの内の一つがNAXOS が2000年に発売した ベンジャミン・フリース(フリト?)による、「ノクターン集」と作品1のピアノソナタ3曲の2枚だ。

どこで入手したのか忘れたが、当時書いていたホームページにもこの盤の感想を書いたことがある。

夜来の風雨の後、一挙に春が到来したように気温が急上昇した日だったが、今日もCDをiTunesへ取り込んだり、読書をしたりして過ごした。まだまだディスクは減らないのだが、ここまでの取り込み時間累計は、16.8日となった。

フィールドの2枚のディスクもここ数年聴いていなかったもので、とにかく今手持ちのディスクは全部HDDに入れてしまおうという計画なので、特に選ばず(それでも楽曲情報などは wikipedia などで確認して訂正しながら)、取り込みをした。取り込み後、ホームページに書き付けた「すっきりと健康的な音楽」という印象が、今聴いてみるとどうだろうと思いつつ聴いてみたところ、このピアノの音の非常に美しい録音とともに、穏やかな気分を醸しだしてくれる音楽で、すっかり堪能しているところだ。Healing music という点では、非常に優れた音楽であり、音盤ではないかと思う。

ところで、英語版のWikipedia の作品の記載では、H 25 のような作品番号が付けられている。モーツァルトのケッヘル、ハイドンのホーボーケン、シューベルトのドイチュ番号のようなものだとは思うが、この H で始るイニシャルの人物のことはよく分からない(iTunesのダウンロードした曲目リストにも一部このHがついていて、あれ?と思ったのだが)。

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2009年2月 4日 (水)

アルベニスとヴィラ・ロボスのギター曲

今日は、二十四節季の一つ立春。先日のCalend Mateをいじってみると、365日を24分割する二十四節季暦というのがあり、今年の1月1日は、冬至12日。1月5日が小寒1日、20日が大寒1日、昨日2月3日は節分で大寒15日。そして今日が立春1日という風になるようだ。そして、本来節分というのは、季節の変わり目である、立春(2009/2/4)、立夏(5/5)、立秋(8/7)、立冬(11/7)のことを指すが、現代では立春の前日が節分と呼ばれるようになってしまっているとのことだ。

仮名日記の先達、紀貫之の名歌「袖漬じて掬びし水の凍れるを春立つ今日の風や溶くらむ」(あえて漢字表記を多くした)は、「春立ちける日に詠める」とあり、立春の日に読まれた歌だとされているが、実のところリンクの解説にあるように一年の時の移り変わりをこのみそひともじに読み込んでいるのだという。「冬枯れの野に出て、流れから水を掬ったところ直ぐに凍ってしまう。しかし、立春の今日は、そのような氷をも溶かすような暖かい風が吹き始める」というような意味だと思っていたのだが、少し勘違いだったようだ。

さて、帰宅時にふとギター音楽を聴きたくなり、たまたま The Great Collection of Classical Music に 「ギター名曲のすべて」というCDがあり、それを手にとったところ、今年が記念年にあたる、アルベニス(没後100年)、ヴィラ・ロボス(没後50年)の曲が収録されたものがあり、購入して聴いてみた。アルベニスは元々ピアノ曲として作曲されたもので、それをギター編曲してあるのだが、まったく違和感がない。ジョン・ウィリアムズのギターで、グラナダ、アストゥーリアス、朱色の塔、有名な「タンゴ」などを聴いた。また、ヴィラ・ロボスは、12曲のギター練習曲を作曲しているようで、その内の第8番嬰ハ短調が同じくジョン・ウィリアムズの演奏で収録されていた。

通常ラテン系と言われる(フランスはあまりラテン系とはされないが)、スペイン・ポルトガルと中南米諸国だが、特にスペインは、ギター音楽の伝統が長いようだ。これには、どのような背景があるのだろうか?

なお、このCDには、ギター編曲されたバッハの「シャコンヌ」(ソロ・ヴァイオリン・パルティータ第2番の終曲)も収録されていた。これはギタリストの重要なレパートリーになっているが、ヴァイオリンと違う面白さが確かに感じられる。

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2009年1月27日 (火)

モーツァルトの254回目の誕生日 

Arrau1 PHILIPS 420 170-2

Mozart Piano Sotanas
  Nr.11 A dur K.331  16:23/7:12/3:35
  Nr. 7  C dur K.309  9:16/7:43/6:49

  Claudio Arrau (1903.2.6-1991.6.9)
   〔1985年3月24-29日 スイス、ラ・ショー・ド・フォン〕

1756年1月27日を1回目の誕生日とすると、今年2009年の今日は、254回目の誕生日となる。満で数えると253歳ということだが。

この録音の時には、ピアニスト アラウは、何と満82歳。

もともと無骨なタッチの人だが、最初聴いたときには、いくら名ピアニストの録音だとは言え、リズム的な重さやタッチのムラなど少したどたどし過ぎるのではないかと思ったほど。

玉を転がすような粒の揃ったタッチ、滑らかな技術、誇張のない解釈とダイナミックスなど、現代ピアノでのモーツァルト演奏は規範のようなものがあるけれど、その意味ではこのアラウの演奏はお世辞にも規範どおりとは言えない。特に、聴きなれたK.331では、アラやムラが最初のうちは確かに気になる。しかし不思議なもので、天衣無縫の境地とでも言うのだろうか、本能的に奏でる幼子の演奏とまでは行かないが、聴いているうちにそのようなムラやアラは気にならなくなり、むしろ不思議な魅力に捉われてしまっている。

K.331のフレージングは、昔風のスラーによるものではなく、新全集などで見られる折り目正しい短めのそれを採用しているようで、その意味ではこのピアニスト歴70年以上という超ベテランにも関らず、昔取った杵柄に寄りかからずにいたということが窺がわれるようだ。

K.309のハ長調のソナタはそれほど馴染みのある曲ではないが、アラウの演奏は比較的堂々と、「ドイツ風」というキャッチフレーズを想起させるようなところもある。

ルドルフ・ゼルキン(1903.3.28-1991.5.8)、ウラジーミル・ホロヴィッツ(1903.10.1-1989.11.5)も、アラウと同じ年の生まれで同様に晩年までピアニストとして活躍し、少し先輩にあたるアルトゥール・ルービンシュタイン(1887.1.28 - 1982.12.20)ともども、老熟の味わいを味あわせてくれたピアニストだった。

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2009年1月18日 (日)

NHK大河ドラマ『天地人』の感想など

2009年のNHK大河ドラマ『天地人』の第3回の放映を見たが、初回、第2回と比べて少々違和感を覚えてしまった。

ココログニュース、ブログネタという欄がこのcocologの編集画面登場して相当の期間が経つが、結構ココログニュースという欄に興味を引く話題が多く、楽しませてもらっている。最近の話題に、『天地人』子役の泣ける演技で視聴者獲得 というのがあり、確かに初回、第2回はこの子役たちの演技で、我が家の子ども達もぐっとドラマに引き込まれたほどだった。

しかし、主役たちを成人の俳優達が本格的に演じ始めた今回は、少し勝手が違った。

直江兼続と景勝、秀吉、三成、家康との攻防をテーマにした『密謀』(藤沢周平)の再読を終え、火坂雅志の原作を上中と読み終え、また童門冬二『北の王国 智将直江兼続』も再読を開始し、それらに書かれた兼続、景勝の容貌、性格などの記述から、自分なりの直江兼続、上杉景勝像が出来たこともあり、ドラマとそれとの食い違いが気になったことが一つ。兼続は、身長180cmを越す美丈夫で、目から鼻に抜けるような才気を持つ沈着冷静な人物だったはずだが、妻夫木聡演じる兼続は小柄でひょうきんもので、おっちょこちょいという人物設定らしく、半分木下藤吉郎のようだ。

また、原作を脚本家が相当大きく脚色している点 ①兼続の川中島偵察のエピソードに対する景勝の母仙洞院のドラマでの叱責は兼続を単なる無軌道なやんちゃ者として印象付けるもので、原作では違っていた。 ②ドラマでは後に兼続の妻となり重要な役割を果たす直江家の息女お船(おせん)との出会いが、余りにも劇画調というかベタな設定(暴れ馬を活発な姫 お船が取り押さえる)だったこと ③景勝が謙信に取っての最重要の家臣直江景綱の娘お船をある宴席で見初め、それを兼続が主君景勝に頼まれもせずに恋の取り持ち役をするエピソードなど 相当作りすぎの脚色が目立ったように感じた。

一番大切なのはこの描き方では、若き日の樋口与六兼続が、あの怜悧な子ども時代の与六とは別人の如き変貌になってしまい、このような若者のどこをあの謙信が弟子として見込み、仙洞院が我が子喜平次の補佐役として見込んだのか理解ができない。ドラマ仕立てでより親しみやすく魅力的に面白おかしくという狙いがあるのだろうが、今回は最初の2回との断絶的な違いがあったため余計違和感があったのかも知れない。興味のある人物なのでこの後も見続けようとは思うが、少し残念だった。ただ、初回からの配役陣、謙信の阿部寛(謙信は小柄だったようなので上背がありすぎ)、仙洞院の高島礼子などはなかなかハマった役どころのようで期待は持てそうだ。

さて、今日はまだ風邪の熱の引けたあとの養生で大人しくしていたため、iTunesへの登録などで時間を費やした。主にベートーヴェンのピアノ独奏曲関係と、バッハのゴルトベルク変奏曲を入れたのだが、グールドの1981年録音を読み込ませた後に聴き始めたら途中でやめられなくなってしまって50分間聴き入った。

そんなわけで、テレビはドラマ以外には見ずにいたので、注目していた全国都道府県対抗の男子駅伝の中継をうっかり見逃してしまったが、期待通り長野県が新記録で優勝したとのことで、喜ばしい。東海大の佐藤は少し調子が悪かったようだが、佐久長聖のメンバーと上野らの活躍もあり、完勝だったようだ。陸上界では北京五輪の4×100mリレーのメンバーで銅メダリストの塚原直貴も長野県の出身だという。かつて、東京五輪時代のハードルの依田郁子選手や、マラソンの中山竹通(たけゆき)選手など一流ランナーを輩出したことはあるが、最近の選手達の活躍は本当に目覚しいものがあり驚きだ。

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2008年12月23日 (火)

村上春樹『意味がなければスイングはない』(文春文庫)

2006年3月11日 (土) 村上春樹「海辺のカフカ」とシューベルトのニ長調ソナタ という記事を書いたことがあったが、そのときのコメントで シューベルトのピアノソナタ第17番ニ長調について触れた筆者による音楽論集が出版されていることを知り、いつかは読みたいものだと思っていたようなことを書いたが、単行本はなかなか見つからなかった。ところが最近、書店にどうやらそれらしい文庫本が平積みになっていて、中をパラパラ捲ってみたところ、「シューベルト『ピアノソナタ第17番ニ長調』D850 ソフトな混沌の今日性」という章があり、これだと思って購入して読み始めた。

まずは、この注目の章。それから村上春樹がこれほどピアニストに詳しいとは意外だった 『ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト』 と 『日曜日の朝のフランシス・プーランク』という クラシック関係のエッセイを読んでみた。

さすがに作家というものは文章が巧いと思いつつ、シューベルトを読み終えた。『ゼルキンとルービンシュタイン』では、二人の伝記を素材にして、東欧生まれのユダヤ系で壮年期以降はアメリカで活躍したこの対照的な二人のピアニストについて、実に面白いエッセイを書いている。ジョージ・セルがゼルキンのヴィーンでの少年時代の兄弟子だったとか(著者の作り話は少し下品)、ゼルキンが最も影響を受けたのがアルノルト・シェーンベルクだったとか、アドルフ・ブッシュ(ブッシュ・クァルテットのヴァイオリニスト)が渡米後にはあまり売れずにゼルキンがその女婿として彼ら一家を相当支援したとかのエピソードが興味深かった。

プーランクについては、なるほどという感じで、あまり聞いたことのない作曲家だが、小澤征爾のプーランクへの傾倒についても的確な印象が述べられており、参考になった。

ところで、このエッセイは、ポップスやジャズのミュージシャンについても多く書かれており、あまり馴染みのない音楽家が多いのだが、それでもと思いはじめから読み始めた。

第2章は、ブライアン・ウィルソンという名前が挙げられており、副題で 「南カリフォルニア神話の喪失と再生」 というものだった。誰だろうと思いつつ読み始めたら一応名前は知っている「ビーチ・ボーイズ」のリーダーだった人だった。この辺の音楽にはまったく疎い。彼らが一躍人気者になり次々にヒットを飛ばすが、その音楽的な深まりとは反比例して聴衆が彼らから離れてしまう様子を、著者はシューベルトと比較をしていたが、私には、モーツァルトの急激な人気の凋落を連想させるエピソードとして非常に印象に残った。

ビーチ・ボーイズ、ブライアン・ウィルソンの音楽についてはほとんど知らないので、自分自身の判断ではないが、このような急激な人気の凋落というのは、洋の東西、時代を問わずに似た現象が起こるものなのかも知れない。 

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