音と言葉、クライバー父子、レコ芸
8/29(日)「音と言葉」を読みながら、フルトヴェングラーのバイロイトの第九を聞いた。そのすばらしい解釈は別にしてオーケストラの出来についてはホームページで不満を漏らしていた私だが、ホルンのソロのミスもあまり気にならず、モノの音声も気にならず、表情、音色の移り変わり、テンポの伸び縮みに感心、感動することしきりだった。
[音楽の茶の間]からの引用
【フルトヴェングラー/バイロイト祝祭管弦楽団
このライブ録音に前後してこの組み合わせでは数年間第9を演奏したらしい。そのうちの最後の一回を吉田秀和氏が幸運にも聞くことができたと自慢話を書かれていた。自慢するのは無理ないだろう。それこそ一期一会である。丸山眞男氏の「音楽ノート」という本には、フルトヴェングラーの生演奏を聞けなかったのが生涯の悔いだと書かれていた。この録音は多くの評者が決定盤扱いして、細かい傷などには触れないのがマナーのようだが、第三楽章のホルンのソロがめろめろなのはどうしても気になってしまう。このようなネガティブな点にも評論家は触れておくべきではないか? ただこの演奏を聞くたびこの交響曲が非常に巨大な伽藍または高峰であり、多くのヒューマニズムの思念がその中で展開されているのが実感される。その他の整った演奏では、このような超絶感は味わえないことは確かだ。超絶的な指揮者が一期一会の機会に成し遂げた稀有の演奏なのであろう。】
レコ芸に、カルロス・クライバーが、名指揮者の父エーリヒからの厳しい批評ゆえに、自信喪失的な性格だったという指摘があった。エーリヒはなぜそのような態度を示したのか?中野雄氏の文春新書の指摘では、エーリヒはリハーサルこそがすばらしく本番は集中力が削がれてしまいそれほどの出来ではなかったということが書かれていたが、エーリヒの性格には少々弱さがあったのだろうか?それが息子への態度に表われたのか?父子ともども一流指揮者(音楽家)という例は少ないので興味があるケースだ。カルロスはそれでも父の使っていたスコアを愛用していたらしいし、父の解釈(ピツィカートなど)も踏襲しているという。父を憎み父を頼りというのは息子の典型的な ambivalence だからだ。
ところで、レコ芸の黒田恭一氏はなぜああも変わっているのだろうか?バイエルンのシュターツ・オーパーのことを、わざわざナショナルオペラなどと書いているのが非常に気になった。大物音楽評論家が次々に逝去、引退していき、あまり知性面が優れていない宇野氏とか黒田氏が重鎮面してテレビや雑誌などのマスメディアに登場している現状は、音楽評論界のボトムを象徴するかのようだ。
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