ハイドン 天地創造
ヴンダーリヒがテナーを歌った カラヤン盤が 中古屋にあり入手した。1960年代のカラヤンというシリーズで、1990年頃の発売時は4000円ほどの定価だったようだ。2枚組。それが1000円だった。
ハイドンのオラトリオ、四季と天地創造は名前だけ知っているが、聞いたことがほとんどない作品だったが、今回天地創造にようやく触れることができた。テキストは、ジョン・ミルトンの「失楽園」で、その英語テキストを独訳したのは、モーツァルトへのバッハ、ヘンデル紹介で有名なヴァン・スヴィーテン男爵だったという。また、その初演は、サリエリが通奏低音のチェンバロ(ピアノフォルテ)を弾くなど、ヴィーンの音楽界あげての盛大なものだったという。当時ベートーヴェンはまだボンにいたのだったか?
1960年代のカラヤンは覇気があり、ベルリンフィルも実力全開、録音も広がりがあり鮮明で、すばらしい。また、歌手もヤノヴィッツ、ベリー、フィッシャー=ディースカウ、そして、この録音中に惜しくもなくなったヴンダーリヒなどの美声を聞くことができる。
以前、丸山真男氏の音楽生活を紹介した新書で、「属和音から主和音への解決をどのように遅らせ緊張感を維持するかが西洋音楽の課題だった」というコメントがあったように思う。特に、ヴァーグナーのトリスタンなどは、その究極であるという。
今回このハイドンを聞きながら、非常に簡単に主和音へ解決するのがよく聞き取れた。これこそが、ハイドンの単純さ、分かり易さをもたらしているのではないか。フレーズの最後が簡単に主音に復帰してしまう。ヘンデルやバッハは、和声的な音楽を書いても、必ず対位法的な解決の遅延があるため、聞き応えがあるし、モーツァルト、ベートーヴェンにしても解決を遅らせる工夫をしているように思う。楽想の豊富さ、展開技法の冴え、巧みな楽器法などでいわゆる凡百の古典派とハイドンは区別されるが、他の古典派作曲家同様の安易な解決が緊張感を削いでいるのもハイドンの限界だったかと思った。
現代では、ハイドンは有名ではあるが、あまり人気が出ない。CDのメガストアでも、作品数の多さに比較して、棚の面積が狭いのはその表われだろう。それには、この短い緊張の維持というのもあるのかと思って次第。
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この記事、余りに刺激的で躊躇しましたが可也気になりますのでコメントします。丸山真男氏のこの説は、聞いた覚えがあります。氏の他の論文のように前文として「西洋古典(ヴィーナークラシックから後期ロマン派)音楽の発展」かなんかがあると予想します。その出発点のハイドンについては、誰もこれを考えなかったのではないでしょうか。更にそれをハイドンの現在の市場での不人気の理由とする。作曲家自身もお抱えを外れてからそれまでの通の常連さんから広い市民聴衆を意識しだしたようですが、ヘンデルのようにロンドンやパリで居座るには歳が行き過ぎていたことを自覚していたようです。勿論この作曲家のソナタ形式の確立と技の方向を認めての話です。するとこれは様式と和声への古典趣味と云う事になるでしょうか。仰るように寧ろモーツァルトは、バッハとヘンデルを「直接」学んでいますね。
偶々シューベルトの「水車小屋の娘」を聞いて、評判の良くないミュラーの詩との相性が良いのを今更ながら知りました。この作曲家の真骨頂も上の美学から云うと反対にこれもまた厳しいかと思います。
本年も面白い記事を期待しています。
投稿: pfaelzerwein | 2005年1月 6日 (木) 18:30