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2005年1月18日 (火)

義理の叔父が逝去

1月17日の夕方、母方の叔母の夫君である義理の叔父が逝去した。1月19日に告別式と初七日法要が営まれた。

昨年秋から体調を崩され、入院し、手術を受けたが、還暦を少し過ぎたまだまだ若い年齢で亡くなられた。

1月17日の夜は、フォーレとモーツァルトのレクイエムを聞き、亡き叔父を偲んだ。

数年前、私が転勤で同じ関東圏に引っ越してきたということで、何度も遊びに来るように誘われていたのだが、とうとう行かず仕舞いになってしまった。不義理というべきだ。その意味で、残された叔母や従姉妹たちに申し訳ない気持ちを感じた。

そういう引け目をすぐに覚える性質なので、告別式にも顔を出すのに非常に気が重かったのだが、葬儀、初七日繰り上げ法要、荼毘、骨拾いの儀式に参列したことで、遺族の悲しみをともにしたということはあるのだが、不義理を少しは解消できたということで、心理的な負担は少しは軽くなった。

宗教心が失われた現代においては、葬儀は、故人のために行なうのではなく、残された遺族や関係者の気持ちの整理のために大きな意味があると言われるようだ。一つのけじめであり、故人の遺徳を偲び、思い出話をして、故人の死をお互いに確認し、けじめをつけるということだ。

数年前、かつて職場を同じくしていた比較的親しい人が自殺したが、転勤したばかりだったり、元の職場からの案内もなかったりで、告別式に出ることができず、その罪悪感が気分的に澱のように溜まっているということもあった。

交際上は少し疎遠になってはいたが、姻戚関係や子どもの頃に世話になった思い出という気持ちの上では親しい人の告別式に出るのは、実のところ非常に恐れがあったことも確かだ。遺族に通り一遍の慰めやお悔やみを言うのは逆に不誠実なような気がするし、遺族の悲しみに向き合うのも非常につらいものがある。

それにしても、葬儀、告別式というものは、一番悲しみが深い、喪主が様々なことを取り仕切らなければならないということで、非常に酷なものだが、それが看病から逝去、通夜、告別式まで故人のため、精一杯準備対応することで、喪失のショックを和らげるという効果もあるのだそうだ。

骨拾い後、自宅に戻り、祭壇の前でお別れのご焼香をしたのだが、叔母は悲しみを新たにしたようで、非常に哀切だった。

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