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2005年2月10日 (木)

ライヴとスタジオ

自分自身はあまり耳にしていないので偉そうなことは言えないが、近年のライヴ録音発掘で従来とは印象がガラッと変わった筆頭の音楽家は、故ラファエル・クーベリックだろう。音楽雑誌の記事や、ネットでの感想などを読むと、DGやCBSへのスタジオ録音では非常に生真面目に美しく整然とした音楽を作る指揮者だと評価されていたが、ライヴ録音は非常に燃え立つような熱気のある演奏が多く、まさに(一時期そのように言われていたことも合ったらしいが)フルトヴェングラーの再来かのようだ。

これも何かの記事の受け売りになるが、そのフルトヴェングラーの演奏がすごいすごいと言われるのは、(元々実演がすごかったから多く発掘されたのだろうが)彼の場合ライヴ録音を中心に、その演奏が評価されて来たという事情があり、正規の取り澄ましたスタジオ録音が多く残っている指揮者の場合、その燃焼度の低さがその指揮者の特徴と評価されることもあったようだ。フルトヴェングラーでも VPOとのスタジオ録音中心に評価されていれば、(すごいことはすごいが)例えば「運命」など、あまりにもアインザッツがそろい、バランスが取れており、即興性もなく、あのBPOとの復帰ライヴを振った指揮者とは全く別人の演奏だと思われていただろう。

先日読んだ「美味しんぼ」というコミックの単行本で、生の音楽と録音・再生音楽のことが、缶詰や干物との比喩で語られていた。その議論は結構粗雑ではあるが、かいつまんで書くと生には生の、CDなどオーディオにより再生されるものはそれなりの魅力があるという平凡な結論だった。

同じ録音物でも、スタジオ録音とライヴ録音、さらにバーンスタインがよくやったライヴ録音風スタジオ録音(VPOとのベートーヴェンやブラームス)などの区別がある。スタジオ録音でも、セル/クリーヴランドのように、ほとんど1回のテイクで完成するようなものから、グールドの独特の方法論によりいくつかのテイクを複雑に組み合わせるものや、独唱入りの大曲では大物歌手などの都合に合わせてその登場部分のみ全く別の日に録音しつなぎ合わせるものもあるようだ。録音といっても千差万別だ。また、その編集過程で、マルチ録音、デジタル録音などの場合、聞こえにくいパートを強めたり、飛び出した音量を絞ったり、エコーを掛けたり、音程を修正したりと多くの化粧が施されることもある。

現在、多くの音源が、特に放送局やオケの自主録音を中心として発掘され(イギリスのBBCやドイツの放送局、アメリカのオーケストラなど)、次から次へと発売されるので、ほとんどそこからはドロップアウトしている状況だ。これにはいわゆる海賊盤も多い。

段段書いていることが拡散してきてまとめずらくなってきたが、ライヴ録音をできるだけ発掘して聞かなければ、その演奏家の真価の全貌はつかめないだろうということだ。もちろんライヴ録音というより、一期一会の生演奏がそのトップにくるはずだ。

(書き直し予定)

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音楽」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。
 関心を持って読ませて頂きました。オイラの場合、クーベリックはマーラーのライブ録音から聞いたためか、最初にベートーヴェンの交響曲全集を聞いた際、少し物足りない感じが残った事を良く覚えております。テンシュテットなどは、逆で最近頻繁に発売されるCDに興味津々です。
 実際個人の限られた財布から、この1枚と選んだ演奏には、なかなか善し悪しの判断は出来ません。ただなかなか新譜の売れないクラシックのCDの中で、巨匠の遺産と称して発売される最近のライブ盤には、ある程度のリスクはあると思います。そしてその演奏から新しい発見や魅力を感じることが出来れば購入した意味はあるし、喜びですね。そのことでこれまでの評価が下がることもないし、逆に再評価されるべき演奏家が多くいても良いと思います。
 今、地方に居ながらネットで情報を頂いて、比較的簡単に購入できる。良い時代ですね。感謝してます。
 支離滅裂ですみません。失礼がありましたら、どうか忘れて下さい。
 

ベートーヴェンさん コメントありがとうございます。失礼など何にも。

今回の記事、スタジオ録音では「大人しい」が、ライヴ録音、生演奏では打って変わって熱演を繰り広げるような演奏家のギャップについて書いてみたいと思って筆を執った(キーを叩いた)のですが、うまくまとまりません。再度チャレンジしたいと思います。しかし、ライヴ録音の洪水にはついて行けません。

「運命」の続編、楽しみにしています。私も「第九」のコメントに再チャレンジしようと考えています。

また古い記事で恐縮ですが、記憶に残っている記事でしたのでTBを張ります。私の該当記事の方は、オリジナルの芸術論とは視点をずらしてあるのですが、

「一期一会の生演奏がそのトップにくる」

は、そこでの芸術論の重要な命題になります。そして、今次の問題を提議してみます。

19世紀的といわれるその芸術的オーラは、20世紀にも存在したのか?

それが存在するとしてアーカイヴ(放送録音)の安易な商品化は、オーラの媒体となり得るのか?

制作されたドキュメント(ライヴ録音)は、その媒質となり得るのか?

ここでは、当時議論された映画の芸術的オーラ同様にスタジオ制作品のオーラは敢えて除外しました。

pfaelzerweinさん、コメントありがとうございます。論点がずれるかも知れませんが、19世紀的なサロンコンサート、現代の大ホールより狭いコンサートホールでの演奏などでは、演奏者と聴衆のコミュニケーションがより密にあったものと思われます。最新記事でも書きましたが、小ホールで一流演奏家の演奏を息遣いがすぐそこに聞こえるような目と鼻の先で聞いた経験は、奏者と聴衆の相互コミュニケーションが成立していたことを思い出させてくれました。時と場の共有、意識の集中によってのみ、そのようなオーラを感じることが出来るのではないでしょうか?

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