鎧兜 (八戸 櫛引八幡宮)
大河ドラマ「義経」は、快調な滑り出しで、次回は、遮那王(牛若丸、義経)が、金売り吉次に伴われて、奥州平泉に下る場面だろう。
奥州平泉は、奥州藤原氏三代の残した華麗な仏教文化の粋、金色堂などで著名だが、さらにそのみちの奥の八戸市に (義経時代より少し時代は下るが)南北朝から室町にかけての鎧兜の名品を多く所蔵する神社があることは、あまり知られていないようだ。櫛引八幡宮(くしびき はちまんぐう)。出張の折に訪れたことがあるが、すばらしいものだった。赤糸おどしの非常に工芸的に繊細で優美な鎧兜は、天皇用のものだという説もあるだけに非常に装飾的であまり実戦向きではないだろうが、このような鎧は、義経の勇姿を思い浮かべるよすがになる。
神社については、このサイトが要領よくまとめている。また、関連して面白い旅行記を見つけた。
そういえば、先日、「日本菜紀行」というTV番組で、あのマイウーの石ちゃん(ホンジャマカの石塚)が、八戸とその周辺を訪ね、尾形の馬刺し、馬鍋や菊駒という銘酒、ミズダコの刺身など、自分も味わったことのある美味を紹介してくれて、うれしかった。
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この地は、私の故郷です。
このあたりでは最も立派な神社で、よく初詣にいきました。
宝物として保存されている甲冑も鎌倉時代~南北朝時代の古風で重厚なものです。
投稿: sakaiy22 | 2005年2月16日 (水) 12:48
sakaiy22さん。いつもどうも。あちらが故郷ですか。奇遇ですね。私の勤務先の関係会社があちらにあるので、今から5年以上前までは毎月のように泊りがけで出張していました。櫛引八幡宮のことを知り仕事帰りに立ち寄り拝観しましたが、実に立派な鎧でした。国宝が2点、重文も数点。鶴子饅頭が名物ですね。南部せんべいとかわりばんこのようによく会社への土産に買いました。南部氏が甲斐の武田氏の末裔だと、たまたま乗り合わせた歴史好きのタクシードライバーに聞き、中部出身者としてなんだか身近に感じました。
投稿: 望 岳人 | 2005年2月16日 (水) 16:48
実は昼休みに長めのコメント書いていたのですが、回線の不調で消えてしまいましたので、少し続きを…
歴史好きにドライバーさんに遭遇されたのでしたら、次のことのうちのいくつかを聞かれたことと推察します。
①南部は、頼朝の命でこの地に上陸した侍の出身地である甲斐の地名の南部に由来。
②青森県では、南部と津軽の反目が強い。理由は津軽が南部の家老の謀反・独立で生まれたからで、ずっと争っている。
③津軽と南部は南北朝以来、逆のことをやっている。(南部は南朝、幕末には佐幕、津軽は北朝で倒幕)
④八戸は津軽・弘前より、南部盛岡に地理的にも文化的にも近い。
⑤八戸は南部の大本である根城南部の発祥の地(正しくは、上陸の地)。これが三戸南部、盛岡南部と枝分かれしながら主導権が移っていった。
⑥江戸時代の八戸藩は、盛岡藩の相続問題に絡んで分藩されたもので、根城南部とは別のもの。
⑦江戸時代に、盛岡藩士で相馬大作というものが、参勤交代の帰路の津軽候の暗殺を企てた相馬大作事件が起こった。(未遂で相馬は死罪)
ただし、この裁きの申し渡し書に、津軽は南部の家来筋であったと認める文言がある。
青森の南部の人は、未だに、このようなことを意識しています。長くなりました。
投稿: sakaiy22 | 2005年2月16日 (水) 22:48
sakaiy22さん、まさに書かれたような話を聞きました。①②④⑤ははっきり記憶にあります。八戸の方は結構歴史への意識が高いのですか?遠来の客としては、運転手さんから結構深い歴史のレクチャーを受けたようで、カルチャーショックでした。
そういえば、八戸といえば、安藤昌益の出身地だと思いますが、地元では生家なども顕彰されているのでしょうか?
投稿: 望 岳人 | 2005年2月17日 (木) 17:57
安藤昌益は秋田出身ですが、八戸で医者、思想家として活躍しました。江戸時代の藩政という枠で考えれば革新的な人だったと聞いています。
cf:<http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/shoeki.htm>
でも、生家、顕彰碑は記憶にないです。顕彰碑くらいはあると思いますが、高校までしか地元にいなかったので、確認できていないです。
八戸の人間が地元史を意識するのは、津軽への対応意識の故です。歴史抜きには津軽のことは語れないからです。
私が地元にいるときは、このようにいわれていました。
県の職員は、南部地方、津軽地方の異動が少ない。異動がある場合、懲罰人事の意味合いがある。
南部の中心は八戸、津軽は弘前。県庁所在地はそのどちらでもなく、寒村だった青森になった。
シドニー、メルボルンでなく、キャンベラが首都になったのに似ています。
県内の国立大は弘前。おまけに医学部まである。これは津軽が官軍に加担したから。
八戸からは弘前でなく、同じ南部の岩手盛岡の岩手大に進学するほうが多い。私もその一人。
ここまで来ると、DNAレベルのような気がしますね。他県の方から見ると、結構強烈だと思います。
投稿: sakaiy22 | 2005年2月17日 (木) 23:20
安藤昌益については勘違いで、生地は秋田ですね。八戸は医師として活躍した場所とのこと。調べたら市内に石碑があるそうです。
わが故郷の長野県でも、青森県と同様の地域対立があります。古代以来信濃の国という枠ではくくられていたのですが、山国でもあり南北に長く広い県域のため、北と南の交流がかつてはほとんどありませんでした。県都が県の北部の長野市(全善光寺の門前町)になったので、城下町松本を中心とする南の人々はそれに対する反発が強く、あの長野オリンピックの時にも対立が表面化しました。大学も国立信州大学と称し本部は松本、教育学部・工学部は長野、その他上田に繊維学部、伊那に農学部など、究極の蛸足大学です。最大の地方紙である新聞も信濃毎日新聞と名乗ります。
投稿: 望 岳人 | 2005年2月18日 (金) 17:37