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2005年9月20日 (火)

司馬遼太郎「関ヶ原」

この連休に読み終えた。

大政治家家康と稀代の能吏三成の力比べ。

秀吉晩年の朝鮮出兵や普請道楽(大坂城、伏見城など)による巨大な出費により、庶民までが豊臣政権から新政権への代替わりを望んでいたという「時流」に家康が乗ったこと。

非常に大きい行政能力を有していたヘイコウモノ(横柄者)三成には、他の武将たちの感情的な機微を察することに疎かったということから、少々AUTISM的な傾向があったのかも知れないと読みながら思った。ただ、彼が秀吉に取り立てられたお茶の温度の工夫からすれば、人の心に添うことはこども時代からできたわけなので、AUTISM説は少々うがちすぎだろう。また、彼の優れた民政、彼の家臣団(特に島左近という後世まで武士の鑑と称えられたモノノフ)の心を捉えていて、その兵団の忠誠心のある精強さは他には見られなかったというエピソードもそれを裏付けているだろう。家康という現実主義者と、豊臣家の恩、政権の正当性という義を尊重した観念主義者三成の戦いだったとも言える。

ただ、三成が北の政所子飼いの福島正則、加藤清正とあそこまで憎みあわなかったなら。

(近江からは後に多くの全国的な商人を輩出するというが、その風土が面白い。)

劣勢の東軍の態勢を立て直した家康本陣の動き、小早川秀秋への鉄砲による裏切りの催促、島津家の不戦、退却、毛利家の内部分裂と優柔不断。特にこれにより、毛利家は中国の大領主から長門、周防の二国に押し込められ、その恨みが250年年後の倒幕に繋がったという。関ヶ原での勝敗が、その後の徳川体制の基礎となり、その後の日本を決定付けた。

歴史にイフは禁物だが、小早川秀秋がもし家康側を攻めたとしたら、その後の天下はどうなっただろうかと想像するだに興味ある。黒田如水が九州を平定し、余勢を駆って本州に攻め寄せ、真田昌幸は信州上田から中央を目指し、長曾我部氏が四国から、上杉景勝と直江兼続のコンビが会津から、さらに伊達正宗が仙台から中央を目指す。そしてそれを毛利、石田三成らが豊臣秀頼を擁して迎え撃つ。壮大な戦国絵巻の再来だっただろう!そしてその後の日本は、どのような近世を迎えたことだろう。鎖国政策にしても徳川時代のようには厳重なものではなかったのではないか。それだけでも、日本は今とは大きく様相を異にしていたに違いない。悪くすれば植民地的な地方も出現したかも知れないが。

なお、その存在がなければ関ヶ原の東軍勝利がなかったとされる福島正則はその嫡子と一緒に改易に会い、長野県北部に領地を移され、須坂市の北隣の高山村(旧高井村)の堀の内で死を迎えた。(館跡

隣町の小布施にある岩松院は、その菩提を弔う(葛飾北斎による鳳凰の天井絵が有名な寺院)。

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GOOGLEで検索してみたら、司馬遼太郎著作に関する記事が多いのに驚いた。

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司馬 遼太郎 関ヶ原〈上〉 『国盗り物語 』では、斎藤道三、織田信長を、そして、『新史太閤記 』では、豊臣秀吉の半生を描いた司馬遼太郎は、本作品で、秀吉死後の権力闘争と、その帰趨を決した関ヶ原の合戦を克明に描いている。 豊臣政権の簒奪を狙う徳川... [続きを読む]

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