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2006年6月25日 (日)

映画「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(シリーズ第4作)

昨年映画公開され、最近DVD発売されたものが近所のビデオ屋で通常値段でレンタルしていたので借りて見た。

原作は第4巻から急激にボリュームが増えて冗長度が増したが、映画では原作のその点をほどよく端折ってほぼ1時間半程度の長さにまとめていた。先日日本語版が発売された第6作「不思議な王子」を読んだばかりで、その後第5作、第4作と逆の順で読み直していた最中だったので、原作の長さと映画の要領のよさの対比が余計際立った。

原作が、ハリーたちの生活の細部や錯綜する人間関係を描きこもうとするのは分からないではないが、くどさは免れがたい。第5作「不死鳥の騎士団」も第6作「不思議なプリンス」も同じく長すぎるし、その長さを受け止めるにしてはクライマックスの緊張感が不足しているのではなかろうか?ストーリーテリングに特化していて、情景・心理描写が乏しいのもいっそう気になる。

映画の少年・少女の俳優たちは、事前の宣伝では急激に大人びたような様子に見え、14歳の設定にしては年齢的に無理なのではと危惧したが、映画本編では14歳頃のローティーン的な幼さも残っており安心した。赤毛のウィーズリー兄弟の毛色があまり赤くないのは気になるしロンの妹ジニー、ボーバトンのフラーはもっと美少女の方がよいか。ヴィクトール・クラムは原作ではそれほどmachoではないはずなのだが、相当の筋骨隆々の俳優が演じている。マダム・マクシームはどのように撮影したのか、2メートル以上ありそうな巨大さが凄いが、少々年齢が高すぎるのではなかろうか?

それにしても、マッド・アイ・ムーディーに、バーティー・クラウチ・ジュニアがずっと化けていて、それをダンブルドアやマクゴナガル、スネイプ等が気が付かないというのは設定としてはあまりにもおかしい。原作を初めて読んだときには驚いたが、再読してみるとあざとい設定過ぎて、ハリーたちの周囲の大人たちがうかつすぎ無力すぎるのではなかろうかと感じてしまう。このシリーズ全体に言えることだが、遡行して読み進めることにより設定の粗がよく見えるようだ。シリウス・ブラックが、アズカバン送りになったことは、周囲があまりにもおろかだったことを示すものでしかない。あまりにも魔法省がチープすぎる。

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