パブリック・ドメインについての違和感
著作権については、いつも分からないことが多い。今度は最近よく目にするようになったパブリック・ドメインについて。
別の記事でもこのパブリックドメインの映画について取り上げたが、考え方がどうもすっきりしない。誤解もあるだろうが、違和感をそのまま書いてみる。
ネットでは有名な「青空文庫」や、野口悠紀夫Onlineのインターネット情報源からたどれる電子図書館など、著作権切れの文学作品をときおり享受している。まずは、これらのテキストが、例えば新潮社の全集だとか、岩波書店の全集だとかの「信頼性」のある底本を利用しているというのに少々違和感がある。というのも、作家自身が書いた原稿が出版されるにあたっては、まずは編集者や校正者の手を経ており、全集などに収録される場合には文学研究者などの専門家が様々な原稿、テキストを比較参照してルビ振りなども行い、定本を作っていて、それを出版しているはずなので、その成果をそのまま利用してテキスト化するのは、何らかの権利を侵害しているのではないのかと違和感を覚える。本来なら(入手利用困難だろうが)作家の原稿をテキストから、読めるように清書する作業から始めることが必要なのではなかろうか?そうでなければ、現在の形にした編集者や研究者の努力自体が無視されてしまうことになりかねない。(この件について、岩波文庫の「風姿花伝」について青空文庫の運営者の考え方を知ることができ参考になった。やはり、校訂者の校訂という余人にはなしがたい専門的な知的行為については保護が与えられるべきだ。)
音楽の録音についても同様で、1950年以前の録音を集めた「シューベルティアーデ」などの超廉価なCDの恩恵を被っているのでえらそうなことはいえないのだが、録音時期がたとえ50年前、70年前だとしても、現在のCDフォーマットに変換したり、リマスタリングしたりしたものを、オリジナルの録音時期だけを基準にすべてパブリックドメインとするのにも違和感がある。現在なら、ディジタル化されたそれらのデータを容易にコピーして「パブリックドメイン」としてウェブ上で公開することも素人でも可能なのだが、その場合にしても録音直後の音盤から公開者が板起しでディジタルデータ化したものならまだしも、雑音除去など他者が絡んでいるものは「パブリックドメイン」とは呼べないのではないかと考える。このところ、いわゆる校訂、編集、リマスタリングを職業としている人もいるのだから、上記の「風姿花伝」のような問題が生じるのではなかろうか?
著作権には創造性が必要だというが、原稿の清書、校訂作業にしても、SP盤の雑音除去にしても相当の専門知識が必要とされ、他者では替えがたい結果が出る場合もあるのだから、その部分は保護されるべきではないのだろうか?
ちなみに、ディズニーの名作「ファンタジア」も現在はパブリックドメインとして入手可能だというが、その映像はVHSテープからのダビングものだそうで、このようなパブリックドメイン化がむしろ過去の遺産への杜撰な扱いを助長する例のような気もする。
一番の懸念は、このように、貴重な原盤やオリジナルの保存企業や保存者が、パブリックドメインになって儲けにならないということで、粗悪なコピーのみが幅を利かせてしまい、そのことで良質なものが一般に出回らなくなったりすることだ。
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