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2006年8月30日 (水)

ブラームス 交響曲第1番 小澤/サイトウ・キネン・オーケストラ

Brahms_14_ozawa


ブラームス 交響曲第1番 ハ短調 

小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ

いつも大仰な書き方になってしまうのだが。

江戸末期の開国に始まる西洋音楽の導入の成果の一つの頂点が、この小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラだと言い切ってしまうことには異論があるだろうが、少なくとも傑出した成果の一つであることは否定できないとは思う。(このオケにはクラリネットのカール・ライスターやボストン響のティンパニのファースなど小澤征爾の個人的な知己もメンバーに加わっており、純日本・純サイトウ門下とは言えないのが惜しいのだが。)

サイトウ・キネン・オーケストラが、斎藤秀雄門下生を中心に、小澤征爾と秋山和慶の指揮によって旗揚げしたときには、音楽に関心のある人はこぞって注目し、それがその後の長野県の松本市で毎夏大々的に行われる、サイトウキネンフェスティバルへと発展したことは多くの人が知っている。

1980年代末から1990年初めにかけて、このオーケストラはヨーロッパへの楽旅を数度行い、そのときに当時ボストン交響楽団の音楽監督だった小澤が契約していたオランダPHILIPSの手により、現地でスタジオ録音されたのが、このブラームスの交響曲全集だ。

このブラームスの交響曲第1番は、1990年に録音されたもの。この年は、カラヤンの招きで、ザルツブルク音楽祭でも公演を行ったのだという。まさに、日本のクラシック音楽演奏界にとって頂点を極めた瞬間とも言えただろう。一人のソリスト、指揮者ではなく、常設ではないといえオーケストラがザルツブルクに出演したのだ。まだインターネットが普及していない時代だったが、ちょうど同時代のリスナーとしてそれらの報道を耳にし、興奮したのも懐かしい。これらの録音は、発売のたび、「レコード芸術」の月評でほとんど毎回絶賛されていた。

その後、そのときの盛り上がった気分の反動もあるのか、また自分の耳が様々な演奏を鑑賞する経験を積んだこともあるのか、この演奏について次第に違和感を覚え始め、自分のホームページにもそれらを書いた。

このところ、ブラームスの第1番を改めて聞きなおしているのだが、それらとの比較で冷静に聴きなおしてみるとどうだろうか。

小澤自身は、斎藤秀雄から習ったのは主にドイツ音楽だったという。それが、フランスのブザンソンのコンクールで優勝してからは、フランスもの、現代もの、大編成ものの評判がよく、むしろドイツ・オーストリアものは苦手だとみなされるようになっており、シカゴ響、トロント響、サンフランシスコ響、ボストン響でもなかなかドイツもののレコーディングは行われず、あっても単発的に出るだけで、尻すぼみになることが多かった。とうとうボストン響では、ベートーヴェンの交響曲は第5だけ。ブラームスは、ベルリンフィルやドレスデンなどとも音楽祭ではよく振っていたようだが、手兵とはついに録音されなかったと思う。

(追記:2008/11/27 ボストン響とは、音楽監督になってからすぐにブラームスの第1番を録音していた。ドイツ・グラモフォン。)

その反動なのか、サイトウ・キネンでは、ブラームスを集中的に取り上げたようで、特に弦楽器のソリストクラスが集まったオーケストラだけあり、弦の音量は圧倒的で、その分独特のブラームスが演奏されることになったものと思う。

耳が感じる特徴としては、第1ヴァイオリンが、まるでソロのようにヴィヴラートを掛け、絶えずエスプレッシーヴォで演奏していることだ。これはソリスト揃いのメンバーによる自発的な表現なのか、指揮者の小澤征爾の指示なのだろうか。そういう意味で、歌うブラームスになっている。しかし、全体に聞き終えた後の印象が薄い。私がこの曲で充実感を味わう音盤は、第一にザンデルリング指揮のシュターツ・カペレ・ドレスデンによる演奏だ。元々ブラームスのこの曲は、オーケストレーション的に華やかな曲ではないが、それでもザンデルリング盤では、多彩な音色が聞き取れる。オザワ指揮サイトウキネンの方が淡彩である。また、この曲は、ブラームスが長い年月を掛けて推敲に推敲を重ねた曲ゆえに細部まで書き込まれており、非常に立体的な構造になっているように感じ、ザンデルリング盤ではその立体的な建築性のようなものが感じられるのだが、オザワ盤では第1ヴァイオリンによる歌謡性が優先しているようで立体感に乏しいように思う。

全体的にはオザワ盤は、真摯で素晴らしい音楽になっているのだが、上記のような微妙なニュアンスの部分で私のこの曲に対する理想の壷にはまらないのではないかと愚考する。小澤征爾氏は、「日本人が西洋音楽の土俵でどこまでやれるのかがんばってみたい」というような発言をされていたと記憶するが、確かにブラームスの交響曲全集は、その立派な成果だと思う。以前は、このような微妙な齟齬が、日本人の限界というようなことを考えたことがあったが、未だその点についてはよく分からない。鈴木雅明指揮のバッハ・コレギウム・ジャパンのような例もあることだし。

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