作家が子猫殺しを告白したエッセイについて
ある女性小説家が、全国紙に、「自分の飼い猫が子猫を産むと、彼女がそれをすぐに崖下に投げ落として命を絶っている」ということを告白したエッセイを発表して、大きな波紋を生んでいる。
この作家の著作は読んだことはないので、どのような人物かわからないし、エッセイもネットで読んだだけなので、自分に語る資格はあまりないとは思うが、まずは一読して非常に不愉快だった。なんと身勝手な人間だ。
筆者がエッセイの冒頭で自ら書いているように、当然のように袋叩き状態になっている。この小説家の行為が、もしフィクションでなければ、彼女が現在住んでいるというタヒチはフランス領なので、フランスの法律が適用され、それによって処罰されることにもなりうるという。
一般的に愛玩動物(ペット)の生殖を管理することを拒否し、自由に交尾させ子が産まれたら「社会的責任」のためにその子を即座に殺すという行為は、議論するまでももなく異常な行為だ。彼女がこれを告白していること自体、彼女の精神が病んでいるという証明になる可能性はある。
しかしこの小説家の精神が病んでいないと仮定した場合、彼女がこのようなセンセーショナルな文章を公にすることで、何かを訴えようとしていたのかも知れないという深読みもできそうだ。後だしで語っているようだが、「死のないところには、生の実感がない。ところが、現代の先進国では死が隠蔽され、そのことによって、生の実感が希薄になっている」程度の死生観なのだろう。そのような彼女の死生観面での不満に対するショック療法としては、非常に稚拙な戦略ではあるが、これだけ議論が巻き起こっていることは、多くの人々が彼女の戦略に乗ってしまったとも言えるだろう。
生殖のコントロール(避妊、堕胎)と、出生以降の殺害。これは、現代社会の倫理では明確に区別されている。それを敢て混同することによって、どのような議論を巻き起こそうとしているのか。
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こんにちは
本当にショックでした。私はただ腹を立ててましたが
望さんのブログでちょっと考えさせられました
また、期待して黙って読んでます
失礼します
投稿: popo | 2006年8月25日 (金) 22:31
popoさん 初めまして。投稿後早速コメントいただきありがとうございます。
私も猫を子どもの頃飼っており、産まれた子猫のことでは非常につらい思いをしたことがありますので、今回のエッセイの件では、一般的な思いとして非常に不愉快に思い、一方、かつて猫を飼っていた者として内心忸怩たる思いもあります。
自分の気持ちを整理するために、敢て客観的に、渦中に飛び込まず、この作家の戦略などということを考えてみました。まったく見当違いかも知れませんが。彼女がそのつもりがあったかどうかは知りませんがある意味社会的生命を賭けての、エッセイの発表だったように思います。単なるバッシングだけに終わらず、愛玩動物との付き合いということに議論が進めば単なるオマツリに終わらないようにおもっています。
投稿: 望 岳人 | 2006年8月25日 (金) 22:57
何人かの方がこの件に付いてBLOGで批判しているのを見て知りました。議論の程は分かりませんが一言。
先ず、「先進国では死が隠蔽」に疑問を持ちました。核家族化によることを言うのか、病院での死を言うのか、それとも社会における暴力を言うのか?
私の印象としては、日本の劇画やファミコンの世界に頻繁に登場する暴力肯定のような気がします。米国のニューシネマ?などは、また違う意味合いが伝統的にある。
ビュヒナー作「ヴァイツェック」の医師が「万有引力の実験に屋根の上から猫を投げつける情景」(アルバン・ベルクは作曲をしていない)は生死感とは関係無い。ヘンツェのオペラともなった三島の「裏切られた海」では、同様なシーンでボイスのウサギの如く実存と懐疑を描いている。
しかし上の行為は、これらとは違う。どうも暴力賞賛でヤクザ映画の意識に裏打ちされているような感じです。タケシの暴力映画も根元は同じでしょうか。精一杯買い被れば、葉隠れの死生感。でもその自らの心がけとは大分違いますね。
そう言えばご存知のように「生殖のコントロールと、出生以降の殺害」の差は西洋現代社会の倫理でも明確に区別出来ない。バイオの胚問題などは、同じことですね。
違和感が生じるのは、特定の生死感を恰も普遍的な世界観であるかのようにしているからではないでしょうか?
投稿: pfaelzerwein | 2006年8月26日 (土) 13:28
pfaelzerweinさん、コメントをありがとうございます。
せっかくいろいろな論点から指摘をいただいたのですが、このエッセイについては、単純に「精神異常者」の告白のようにも思えず、しかしいわゆる(先端的なものではなく)普通の倫理観に照らしては当然是認できる告白でもなく、少々混乱している状況です。
食肉用の屠殺、オオカミの子孫である犬たちや、鮒の子孫である金魚たちのあまりの形態変化、実験用のモルモット、競走馬の血統管理などなど、人間は生き物の命に対してこれまで非常に多くの干渉を行って来ていますので、人類対その他の生き物というところまで土俵が広がってしまうような気がして、手に負えないように思えてきました。
そんなことで、直接の答えにはなりませんが、この話題はこの辺で棚上げとさせていただきたく、ご了解ください。
投稿: 望 岳人 | 2006年8月27日 (日) 21:27