J.S.バッハ 独奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ シゲティとグリュミオー
J.S. バッハ 独奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(全曲)BWV.1001~6
(無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ)
ソナタ第1番ト短調 BWV.1001 5:10/5:48/3:50/3:37
パルティータ第1番ロ短調 BWV.1002 6:45/6:28/6:40/7:51
ソナタ第2番イ短調 BWV.1003 5:19/8:28/6:17/5:37
パルティータ第2番ニ短調 BWV.1004 3:12/2:34/3:30/3:14/15:56
ソナタ第3番ハ長調 BWV1005 5:56/11:34/3:56/3:35
パルティータ第3番ホ長調 BWV1006 3:55/4:18/3:22/5:37/1:40/1:57
ヨーゼフ・シゲティ
〔CD記載1959年6月~1960年4月だが、現在は1955年7月から1956年3月録音 ニューヨーク モノーラルと訂正されている〕
ソナタ第1番ト短調 BWV.1001 3:40/5:12/2:20/2:33
パルティータ第1番ロ短調 BWV.1002 4:24+1:55/2:28+2:31/2:01+1:26/2:28+2:24
ソナタ第2番イ短調 BWV.1003 3:41/7:41/3:27/3:55
パルティータ第2番ニ短調 BWV.1004 3:06/1:58/3:05/3:06/13:17
ソナタ第3番ハ長調 BWV1005 4:04/10:41/2:58/2:38
パルティータ第3番ホ長調 BWV1006 3:45/2:45/2:55/2:32/1:13/1:27
アルテュール・グリュミオー
〔1960年11月~1961年7月録音 アムステルダム ステレオ〕
昨日は、風も雨も強い日、嵐の一日だった。仕事で山下埠頭方面に出かけ、取引先の事務所の窓から見える横浜港に白波が騒ぐのが見えた。吹き降りが激しく、傘では脚部は覆えず、ズボンがびしょぬれになってしまった。ビル風が吹く界隈では、ビニール傘の残骸が数十本も散らばっていた。収穫の季節、すでに稲刈りが済んでいればいいが、まだ刈り取られていない実った稲は相当倒れてしまったことだろう。台風が二つ消滅したようだが、その余波の風雨はひどいものだった。
記念年ということで、モーツァルト、シューマン、ショスタコーヴィチを結構意識して聴き始めたが、先日久しぶりにJ.S.バッハの「ミサ曲 ロ短調」を聴き、その知情意のバランスが取れた音楽に、耳が洗われたような感覚を味わった。その余勢を駆って、『独奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』の手持ちの2セット全曲をじっくりと聴いた。
ヨーゼフ・シゲティの録音は、モノーラル。シゲティのこのヴァンガード録音は、毀誉褒貶の振幅が激しいものの一つのようで、ヴァイオリン演奏のテクニックにこだわる向きにはこのアマゾンのレビューのように概して評判が悪いようだが、このように評価する意見もある。また、HMVのレビューでは比較的好評だ。このシゲティの演奏では学生時代にパルティータ第2番をエアチェックしてそれこそ何度も聴いたため、すっかりその音楽作りに親しんでしまい、後日技術面の悪評を知ったときに、これだけ立派で感動的な音楽を単に技術的に退けてしまうのはいかがなものかと思ったことがあった。ただ、私にしても、グリュミオーのような安定したテクニックのスムーズな美音での演奏により最初に刷り込まれていれば、同じように感じたかも知れないとは思う。というのも、パルティータ第2番以外は実のところなかなか聴こうという気が起こらないのだ。
シゲティは、バルトークやプロコフィエフとの交友でも知られるハンガリー出身の大ヴァイオリニストで、あのブラームスの盟友ヨーゼフ・ヨアヒムのピアノ(!)でデビューを飾ったのだという。新即物主義の思潮に属する演奏家として、従来のアクロバティックな技巧、ヴィブラートを掛けた美音の追求と言った伝統的な演奏習慣を忌避したことも、彼が「下手な」ヴァイオリニストとされた背景のようだ(WIKIPEDIA)。『クラシックCDの名盤 演奏家編』(文春新書)には、評論家中野氏により、シゲティの腕が長過ぎたことが彼のヴァイオリン演奏技術に影響を与えたという挿話も紹介されていた(p.285)し、シゲティの来日公演での彼の奏でる音色が「純銀の糸を張り詰めたように美しかった」ということも書かれている(p.258)。シゲティが技術的に衰えたという面もあるかも知れないが、現代の鬼才クレーメルも優れた技巧と美音の持ち主だが、自らの音楽解釈や音楽表現のためにそれを敢えて抑制しているという評を読んだことがあるが、シゲティにもそのような傾向があったとも考えられるのではないだろうか。このCDのシゲティの音は美しくないかも知れない。が、表現主義に反発する新即物主義的アプローチの代表者であるにしても、そのユニークとも言える音は非常に「表現主義」的で、肺腑を抉るかのような痛切な音楽を作り出す要素になっているようだ。
余談だが、ニューヨークのあるパーティーで、ハイフェッツのヴァイオリンに何とクライスラーがピアノ伴奏を務めたというエピソードを読んだことがある(前掲p.244)が、過去の大ヴァイオリニスト(クライスラーは作曲家でもあったわけだが)の音楽的な能力の凄さを物語るものとして印象に残っている。
シゲティの録音が、残響が少なく、音がかすれ、揺れ、美しくない、音程が不安定(ボウイングの不安定?)で、たどたどしい、という批判を受けるのに対して、グリュミオーの録音は、毀誉褒貶は激しくない代わりに、美音の演奏ということだけで片付けられる傾向がある。ベルギー生まれでフランコ=ベルギー派の典型と称されるヴァイオリニスト グリュミオーの音楽は、今でも特にモーツァルトのヴァイオリン協奏曲やソナタでの評価が高いことからも分かるようにムラのない美音と過不足のない安定した技術での繊細な表現に特徴があるようで、技巧のひけらかしや美音の洪水という外面的な虚栄は少ないように思う。
彼のバッハの「無伴奏」全曲は、「音楽とはいかなるときも美しくなくてはならない」と語ったモーツァルトの音楽観的な演奏で、清潔で凛とした佇まいでありながら拒絶するような峻厳さの少ない音楽になっている。LPのクレーメルの旧盤(フィリップス)でもパルティータ2番以外はときおりパルティータ3番を聴く程度だったが、私にとってグリュミオーのこのCDでは全曲どれも音楽を聴く喜びを味合わせてくれるものになっている。ただ、やはりシゲティのパルティータ第2番にはまると、グリュミオーの美しい同曲の演奏が滑らか過ぎて聞こえてしまう。
パルティータ第2番、なかんずく「シャコンヌ」の感動の深さではシゲティを取るが、全曲を楽しみながら聴くにはグリュミオー盤の方、というところだろうか。
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