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2006年11月 2日 (木)

モーツァルト 『魔笛』 スイトナー盤

Mozart_zauberfloete_suitner_skd

モーツァルト 歌劇『魔笛』(ジングシュピール(歌芝居)『魔法の横笛』K.620)

オトマール・スイトナー指揮ドレスデン・シュターツカペレ
 ザラストロ:テオ・アダム(B)  タミーノ:ペーター・シュライアー(T)
 弁者:ジークフリート・フォーゲル(B)  夜の女王:シルヴィア・ゲスティ(S)
 パミーナ:ヘレン・ドナート(S)  侍女:クーゼ(S)、シュレーター(S)、ブルマイスター(A)  パパゲーノ:ライプ(Br)  パパゲーナ:ホフ(S)  モノスタトス:ノイキルヒ(T) 三人の童子:ドレスデン・クロイツ合唱団員(少年時代のオラフ・ベーアが童子1を担当) 僧侶、武士、従者:ライプツィヒ放送合唱団
 〔録音年不詳1970年6月27-29日、ドレスデン、ルカ教会録音(HMV情報)〕 Ariola-Eurodisc 原盤

モーツァルト生誕250年の年も残すところ2ヶ月を切った。どうしても前の没後200年の記念年1991年の、自分としての盛り上がりと比較してしまうので、あまり記念年という実感がずっと湧かずにこれまで来てしまった。

モーツァルトの残した多くの歌劇は様々なスタイルをとっているが、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』と並んでいわゆる三大オペラの一つとされる『魔笛』は、ドイツ語の台詞と歌詞により(つまりオーストリアやドイツ、ボヘミアなどのドイツ語圏で庶民が容易に理解できた)、歌う(=ジング)芝居(=シュピール)の伝統を汲みレチタティーヴォとアリア様式ではなく、芝居としての台詞の間に音楽が挟まれる様式で書かれている。映画『アマデウス』では、晩年の身体が衰弱したモーツァルトがシカネーダー(このオペラの台本作者)による『ドン・ジョヴァンニ』などの既作のオペラのパロディー版を家族と一緒に見物して笑い興じるシーンがあった。実際はそこまで庶民的ではなかっただろうが、この歌芝居は、初めて聞いた人にも理解できるほど非常に分かりやすい音楽で書かれているのが特徴だ。

私が初めて『魔笛』に親しんだのは、LPや放送ではなく、スウェーデンの映画監督のイングマール・ベルイマンの映画『魔笛』(1974年制作のテレビ映画)によってだった。(ベルイマンの作品は、映画館では白黒の『処女の泉』を見たことがある程度で、あまりよくは知らない。)1970年代後半の大学1年生の秋だったと思うが、学内の音楽研究会か何かが大教室でこの映画を上映するというのを聞き見に行ったところ、その面白さにすっかりはまってしまった。この映画はイントロダクションとして観客少女の視点が描かれる以外はほとんどこのオペラの舞台での歌唱・演技・演奏の全曲を映像化したもので、特にパミーナを演じた歌手(女優?)の美しさが印象に残っている。そして、後に知ることになるのだが、夜の女王とザラストロの関係についてはこの映画は非常に独特な個性的な解釈をしている。善が悪に、悪が善にという初歩的な破綻というほどのストーリーの不整合をどう考えるかがこのオペラの鑑賞の眼目の一つであり、ストーリーの破綻を棚上げして音楽だけを楽しもうという立場もあれば、それに合理的な説明をしながら全体を調和したものとみる立場もあり、その他にもいろいろな解釈がある(その一つに下記のフリーメーソン的な解釈があるあるようだ。)これについて、自分の中で解決がついたわけではないが、よくある神話的な不整合とみてもいいのではと思っている。

時を同じくしてちょうど同じ頃、このオペラがモーツァルトが加盟していたフリーメーソン(フライマウレル)の秘儀をオペラ化したものだというシャイエの『魔笛 秘教オペラ』という論文が日本でも翻訳出版され話題になっていた。原書には触れたことがなかったが、海老沢敏教授もその数年後の特別講義でその解釈に触れ、それによると序曲の和音の回数がフリーメーソン的な象徴を意味するというような解説をされていたのを思い出す。

ただ、この後、モーツァルトのオペラの中では、NHKが正月の夜に放映したベーム=ポネルの『フィガロの結婚』のとりこになってしまい、LPで初めて買ったのは(ベームならぬ)エーリヒ・クライバー/VPOの『フィガロ』だった。

『魔笛』の音盤は、このスイトナー盤が初めてで、フィリップス=小学館モーツァルト全集のコリン・デイヴィス盤は別にして、その後レヴァイン/MET盤のDVDを入手するまで、これが唯一の音盤であり、ずっとこの録音に親しんできた。録音年代は、このCD自体には明記されていないが、テオ・アダム、シュライーアー、フォーゲル、ゲスティといった東ドイツのスター歌手たちを揃え、ドレスデンのカペレがオケを務めるという当時の東ドイツの威信をかけての録音のようにも思える。

現在ヘッドフォンで聴くとさすがに音質的には鮮度が落ちていたり、マスターテープ起因の乱れのようなものがあるのが少し気になるが、オーセンティックなドイツ語をベースとして、三人の侍女のアンサンブルを中心として安定した歌手陣のアンサンブルが、誇張のないメルヒェン的な世界を描き出す。タミーノのシュライアーの若々しい声はとりわけ素晴らしい。パパゲーノ役のライプの声と演技は崩しすぎず好感が持てる。アメリカ生まれのドナート(ドネイス?)の清純な声も素晴らしい。そして夜の女王ゲスティの少々金属的ながら見事なコロラトゥーラの妙技をも味わうことができるし、アダムのザラストロの深々としたアリアも素晴らしいし、三人の童子のアンサンブルも表現もよく整っている。もちろんこれを纏め上げたスイトナー Suitner(ドイツ語の発音の原則により忠実に表記すれば、ズイトナー または スヴィトナーとなるはずだが。Suite 組曲は ズイーテまたはスヴィーテと発音される)とドレスデン・シュターツ・カペレ(SKD)の演奏があってのことだが。

この演奏は、秘教オペラというようなコンセプトがない時代の、ストレートな解釈によるものだろうが、あまり凝り過ぎた解釈は、むしろ音楽を損なうものではないかと思う素朴な考えを持っているので、このストレートな音楽が好ましく思う。「美しくなければ音楽ではない」という信念をもっていた作曲家の音楽の再現として。

ちなみに舞台と演技を見るには、レヴァイン/METのDVDもまあまあ水準に達していると思うが、このスイトナー盤に比べるとドイツ語の発音や歌手たちのアンサンブルにはムラがあるように思える。特に三人の侍女、三人の童子、パパゲーノとパパゲーナにそれが言えるし、キャスリーン・バトルのパミーナは少々弱々しく感じる。

なお、ベートーヴェンは、この魔笛の主題によるチェロとピアノの変奏曲を二曲も作曲している。一曲は、パミーナとパパゲーノによる第一幕第14場の第7番の二重唱「愛を感じる男の人には」の主題による12の変奏曲。もう一曲は作品66の第2幕第23場のパパゲーノのアリア第20番「娘っこかかわいい女房が」の主題による12の変奏曲。ベートーヴェンもこのジングシュピールを愛好していたのを想像するのは愉快だ。

また、台本には、タミーノは「きらびやかな日本の狩衣をまとっている」ことになっている。モーツァルトはこのト書きを読んだことだろう。彼の脳裏にも極東の黄金の国ヤーパンが一時的とは言え刻まれたのだろう!と思うと感慨深いものがある。

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コメント

この演奏は、「魔笛」の素朴な部分がよく出ていて好きです。芝居小屋での「魔笛」というか、あまり飾り立てない、普段着のモーツァルトの雰囲気が出ている演奏なので、好んで聴きます。
録音が少し古くなりましたが、指揮もオケも、そして東独の歌手たちも好演。いい演奏だと思います。

mozart1889さん、こちらにもコメントいただきありがとうございます。『魔笛』はあまり聞き比べたことがないのですが、このスイトナーの『魔笛』はアンサンブルの質がいいのが素晴らしいと思っています。

そちらの記事でご紹介があったDokumenteのモーツァルトのオペラ集本当に魅力的ですね。クリップスの『ドン・ジョヴァンニ』もそうですが、フリッチャイの『魔笛』はどんな感じでしょうか。是非聴いてみたいです。もちろんベームの『コシ・ファン・トゥッテ』も。

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