インバルのマーラー交響曲第8番
グスタフ・マーラー
交響曲第8番 『千人の交響曲』
エリアフ・インバル指揮
フランクフルト放送交響楽団
独唱者:フェイ・ロビンソン(s),テレサ・ケイヒル(s),ヒルデガルト・ハイヒェレ(s),リヴィア・ブダイ(a),ジェーン・ヘンシェル(a),ケネス・リージェル(t),ヘルマン・プライ(br),ハラルト・シュタム(b)
合唱団:バイエルン放送合唱団、北ドイツ放送合唱団、シュトゥトガルト・ズュートフンク、西ドイツ放送合唱団、RIAS室内合唱団、リムブルク大聖堂児童合唱隊、ヘッセン放送児童合唱団 フリッツ・ヴァルター=リントクヴィスト(org)
〔1986年10月14日-18日、フルンクフルト・アルテオーパー〕 第1部 23:19, 第2部 54:38
昨日の記事の川口義晴氏が、デンオン/日本コロンビア側の制作担当に名をクレジットされているインバルのマーラー交響曲全集-8 PCMヨーロッパ録音シリーズ。確かに、ヘッセン放送との共同制作と記されている。CDの裏ジャケットには、まるP1987 NIPPON COLUMBIA CO.,LTD. となっており、当時の購入だけあり、定価は2枚組で\6,000となっている!また、解説パンフレットは、日英独仏の4ヶ国語で書かれている。
昨日の記事で書いた連載インタビューで、デンオン(デノン)のスタッフが企画・制作して、世界的に高い評価を受けベストセラーになった全集だということを改めて知るとそれなりに感慨深いものがある。
マーラーのこの大規模な「交響曲」は、"Veni, creator spirtus"を歌詞とする第1部だけでも20分以上になり、上記のフルオーケストラ、8人もの独唱者、そして膨大な合唱団(児童合唱も含む)による、まさに演奏者千人を数える膨大さの極致でもあり、大概第1部を聞いただけで耳が飽和状態になり、もういいやという感じになるのが常だ。それも、このCDと最初期のヤマハ製のCDプレーヤーとの相性が悪く、冒頭が音飛び状態になってしまうことが多く、高い金を出したわりにはあまり聴かないCDのうちの1つだった。LPでは、ヴィーンで特別に録音されたというショルティ指揮シカゴ響の当時定評のあったものを購入したが、それほど愛好する曲にはなっていない。
柴田南雄の『グスタフ・マーラー 現代音楽への道』(岩波新書)では、Ⅳ背後の世界の作品としてこの曲、『大地の歌』、第9番が並べられて論じられている。このうち、『大地の歌』は同じ歌入りでも素材に統一感があり、また第9番は別格の凄さを以前から感じてはいたが、この第8番は題材的には、カトリックの聖歌と、ゲーテの『ファウスト』第2部の最終場面(私には第1部は比較的読みやすかったが、第2部は途中で投げ出した)というなかなかややこしい題材を無理やり?1つの曲にまとめたようで、どうも1つの曲というイメージが湧かないのもこの作品が名前がよく知られている割には自分にとっての難曲の1つになっているように思う。
よく理解もできず、親しめてもいないので、うかつなことはいえないが、以前から非常に分裂的な印象がある解釈という印象があり、その後、テンシュテットとロンドンフィルのスタジオ録音の全集を入手してこの8番を聴いたときに初めてこの曲の第1部に少し親しみを感じられたというほどで、第8番の第1部は鑑賞歴の1つの躓きの石でもあった。
また、第1部は、以前のプレーヤーでは音飛びがしたようにどうも初期不良なのかエラーが多いようで、全体的に音色にざらつきが感じられるが、それでも、第2部は透明感と広がりのある音響を聴くことができる。そんなわけで、第1部を抜かして第2部を聴くこともある。マッスの音響の多い第1部に比べ、ファウストの戯曲としての台詞に音楽をつけているので、マーラー独特の線を細かく編み上げたような室内楽的な美しい音楽を味わうことができるのは、この細部まで透明な音響と手際のよいインバルの指揮のおかげなのかも知れない。
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この曲は最後の歴史的な事件であった交響楽曲と思います。
この曲も可能な限り生の上演に接したいものです。やはり、録音では上のような技術的な制約がありますね。生録音では小澤のサンドニ聖堂でのものを愛聴していますが、スタジオではテンシュテットのものが素晴らしいと思います。
交響曲としての纏まりの弱さと共に、上のような音響の対比は興味深く、生ではそれが余計に効果的と感じます。
上の録音は聴いたことがありませんが、ホームグランドではなくアルテオパーを使っているようで、基本的には放送録音風であっても、ホールの長い残響が聞けるのでしょう。
面白いのは、百年前の聴衆とうってかわって、あのあり余る歌謡性が逆に統一感の不足として捉えられて、難曲?として受け止められている現在の状況です。それは、「グレの歌」辺りで入れ替わるのかもしれませんが、西欧音楽のある頂点がこうして二十世紀のものとして、例えば演奏面でもトスカニーニやここで話題になるセルなどの器楽性に移行して行く美学上の変化の影響を無視出来ませんね。調性とかの定義と、また異なり平行して考察できる定義つけがありそうですね。
投稿: pfaelzerwein | 2008年2月28日 (木) 16:13
pfaelzerweinさん、コメントありがとうございます。
>生録音では小澤のサンドニ聖堂でのものを愛聴していますが、スタジオではテンシュテットのものが素晴らしいと思います。
小澤征爾は、このような歌入り大曲が得意ですね。グレの歌の録音もあったのではなかったでしょうか?ボストン響とのマーラーチクルスもこの曲の録音が一番早かったと記憶しております。
テンシュテットのマーラーは一般的にライヴ録音の方が評判た高いようですが、私の持ち盤もスタジオ録音のもので、このインバルの「分裂的」な録音よりも、細部への拘りは強いものの全体的な一貫性で聴きやすく感じております。
ナマではなかなか聞ける機会がないですが、ホールの聴衆と同じ程度の演奏者が舞台に載るわけですから、それだけのソリスト、合唱団の確保や採算面も難しいでしょうね。ただ、ナマで聞ければ第一楽章の飽和的な音響もそれこそ体を包むようで、すごいものでしょうね。そもそもヘッドフォンで孤独に楽しむようなコンセプトの曲ではないですね。
先に読んだ「西洋音楽史」の岡田暁生氏や、許光俊氏は、それぞれマーラーの曲や、ブルックナーの曲の演奏を「神なき時代の宗教音楽」、「宗教としてのクラシック音楽」というように捉えているようです。ミサや礼拝のようにコンサートで、一種の祈りを捧げるというような。私は、どうもそこまでは考えが及びませんが、社会現象的にはそのような把握もできるかも知れないとは思います。
(このインバルのマーラー全集は、現在ではブリリアントレーベルの紙ジャケットのボックスで、1万円もしない値段で買えるようです。「大地の歌」第10番第1楽章に、クック版の第10番全曲も収録されています。)
投稿: 望 岳人 | 2008年2月28日 (木) 22:59