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2008年6月26日 (木)

今日6月26日が誕生日なのは

今日は長男の誕生日で、先ほど誕生祝いの夕食を食べたところだ。私達両親や祖父母、叔父たちから誕生日、クリスマスといろいろなプレゼントをもらってきた彼だが、その多くが玩具類だった。狭い家の上、男の子二人の玩具が溢れかえってしまい、まさに身の置き所がない状態。最近のプレゼントは、本にしているが、その本も新刊書だけでなく、ブックオフが身近にあるため、つい簡単に買い与えてしまいこれも本棚から溢れかえっている。わが身を振り返っても、CDと本の山がいくつも出来てしまい、辰巳渚さんのような『捨てる技術』が身に付かず、捨てたりブックオフで売ったりすることに逆に罪悪感があり、溜まる一方になっている。

今年の誕生日は、鉄道研究会に所属したのを記念して、鉄道関係の書籍を数冊プレゼントした。今はひそかな?鉄道ブームらしく、マニアでない一般人が読んでも楽しそうな本も出ており、わたし自身も楽しめそうだ。

さて、これまで知らなかったが、指揮者のクラウディオ・アバドが1933年6月26日生まれで、今日が誕生日なのだという。既に75歳になったわけだ。私が20代の頃は、マゼール、メータ、ムーティ、オザワなどと並んで、次世代のホープだったアバドだったが、ミラノ、ヴィーン、ベルリンと主要ポストを歴任しながらも、やはり先にあげた同世代の指揮者たちと同じく、かつての巨匠たちのような成熟感が感じられないままの印象を持ち続けている。ベルリン後は、大病を克服し、ルツェルンなどでも活躍するなど決して深化していないわけではないのに、こちらの音楽の受容スタイルというか固定観念がそういう枠組みを作り出しているのかも知れないが、いつまでも颯爽としたアバドのイメージがぬぐえないでいる。

アバドの音盤はあまり縁がなく、帰宅するときにそのことを考えながら頭の抽斗を探ってみたのだが、一番初めに思い出したのはあまり印象がよくなかったモーツァルトの交響曲第40番と41番(ロンドン響)だった。そのほか、何があっただろうかと、CDの山を探ってみると意外にいくつか見つかった。古い順では、ロンドン響とのペルゴレージ『スターバト・マーテル』。ハイドンの交響曲第95、101番(ヨーロッパ室内管)。トランペット協奏曲(ハーセス、CSO)。モーツァルトのピアノ協奏曲第20、21、25、27(グルダ、VPO)。 9、17番(R.ゼルキン、ロンドン響)。先に挙げたロンドン響との交響曲40、41番。Live Classic の35番(ヨーロッパ室内管)、38番(トリノRAI管)ブラームスのピアノ協奏曲第1番(ヴェーバー コンツェルトシュトックも ブレンデル, BPO, ロンドン響)チャイコフスキーとショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲(五嶋みどり、BPO)マーラーの交響曲第4番(VPO)ヤナーチェク『シンフォニエッタ』(ロンドン響)。『アダージョ・ヴェルディ』から『行け、わが思いよ、金色の翼に』など。プロコフィエフの古典交響曲(ヨーロッパ室内管)とピアノ協奏曲第3番(アルゲリッチ、BPOとの名盤)。ヴァイオリン協奏曲第1番(ミンツ、CSO)。バルトークのピアノ協奏曲第1、2番(ポリーニ、CSOとの名盤)。先日購入したストラヴィンスキーの『プルチネルラ』と『火の鳥』(ロンドン響)、と結構な枚数があり自分でも驚いた。(7/5追記 アバド/VPOによるブラームスのハンガリー舞曲全曲のCDもあった。7/18追記 アバド/ヨーロッパ室内管によるシューベルトの交響曲第5番&第6番のCDもあったし、ポリーニとのブラームスピアノ協奏曲第2番もあった。)

LP時代は、上記のグルダとのピアノ協奏曲と、マーラーの5番の交響曲(CSO)とリュッケルトの詩による歌曲のカップリングがあった程度だ。この"5 Lieder nach Ruckert" は、交響曲の少々生硬な感じよりもゆとりがあって本当に美しい演奏で音楽だと感心した記憶が今でも強く残っている。

その活躍の多彩さに比べて、どちらかと言えば関心の薄い方の音楽家ではあるが、どうも理由は分からない。メータもムーティもマゼールも同じ程度なので、どうしてもその前までの世代の音楽家の方に関心があるからというのが最も素直な理由だろうとは思う。

今晩は、久しぶりにモーツァルトの『ジュノム』協奏曲を取り出して聴いている。

晩年のルドルフ・ゼルキンは、モーツァルトをアバド/LSOと、ベートーヴェンを小澤/BSOと録音してくれて、どれも味わい深い演奏を聴くことができる。アバドがオーケストラと作る音楽が、ゼルキンの音楽の万全なサポートであるかは分からないが、この若書きとはとても思えない『ジュノム』(昔は「わこうど」と訳されたこともあるのだそうだ)の深い音楽世界を味あわせてくれるものであることは確かだ。こうしてみると、結構協奏曲の指揮が多いのは、彼に対する自分の関心を象徴しているのかもしれない。

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コメント

「メータもムーティもマゼールも同じ程度なので、どうしてもその前までの世代の音楽家の方に関心があるから」、「同世代の指揮者たちと同じく、かつての巨匠たちのような成熟感が感じられないままの印象」、「いつまでも颯爽としたアバドのイメージ」と云うのを考えてみました。

そこには管弦楽団の問題やら市場の問題やら音楽家の問題やらが挙がるのですが、その根本にあるのはレパートリーの問題かと思います。これらの指揮者がそれ以前の世代が得意としていなかった楽曲で主要レパートリーを築いているので、興行界もメディアもそして聴衆も困ってしまったのですね。

アバドでも主要なそれをベートーヴェンと云う人はいないでしょう。少なくともマーラー・ストラヴィンスキー以降の作曲かオペラの「落穂拾い」がそれでしょう。

グルダのモーツァルトも愛聴盤ですが、主はピアニストであって、それも決してブレンデルのモーツァルトではないのです。マーラーの録音ももっていますが、重要な脇役はシカゴのオーケストラかもしれません。ストラヴィンスキーのそれにしても馴染みのある人は戦後のイタリア人の音をそれに聞く筈です。

私自身もアバド指揮で生を聞いているのはオペラか「グレの歌」ぐらいで、その他は明確に思い出せないと云うのが正直なところです。歴史的(録音など)にもそうしたレパートリーで名を残すのでしょう。「グレの歌」などは小澤の録音も改めて聞いて優れたものだと感じるのです。それまではストコフスキーかブーレーズのもの位しかなかった訳ですから。

pfaelzerwein さん、コメントありがとうございます。

たまたまクラウディオ・アバドの誕生日が我が家の息子と同じ誕生日だということに気がついて、いろいろと書き連ねてしまいました。「アバド、ムーティ、マゼール、メータ、小澤」などの世代は、私にとっては3回り近く上の世代で、中高生の頃クラシック音楽に興味を持ち始めた頃には若手・中堅スター指揮者たちでした。その同時代をこれまで過ごしてきたわけですが、それら有能な指揮者たちが、その前の世代の巨匠たちのようには、成熟していかないだけではなく、自分達自身がいわゆる成熟(老成、老熟、老練)を拒否しているのではないかということにも思いが及びます。

アンチエージング、いわゆる老化防止が、健康医療現場ではここ数年の流行ですが、老いながら成熟することを拒むような風潮が全世界を覆っているのではないかなどと、大げさなことを考えたりもします。

昨日からアバドの指揮する音楽を何枚か聴きましたが、ロンドン響時代が最もアバドらしかったかも知れない(モーツァルトにはどうも感心しませんが)と感じております。

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