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2008年7月18日 (金)

ルドルフ・ゼルキン、小澤/BSOによる『皇帝』

Rserkin_ozawa_emperor_s5ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 作品73『皇帝』

ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)
小澤征爾指揮ボストン交響楽団

〔1981年1月24、26日、ボストン、シンフォニー・ホール〕

〔Ⅰ:21:21, Ⅱ:8:49, Ⅲ:10:49〕

 併録:ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調 作品67

1978年にオハイオ州クリーヴランドで創立されたディジタル録音専門のレーベル「テラーク」の10周年記念として発売された豪華カップリング。ゼルキンは、小澤/BSOと、『合唱幻想曲』を含むピアノ協奏曲全集を録音していたが、その内の第5番と、小澤がBSOと公式には唯一録音した(と思われる)ベートーヴェンの交響曲録音がカップリングされたもので、当時住んでいた町の小さなCD屋で手に取って眺めていたら、そこの店員が「お得なCDですよ」と声をかけてきたのを覚えている。

ルドルフ・ゼルキンと小澤によるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、あの巨匠ゼルキンが自ら小澤を指名したという噂も聞こえてきたこともあり、録音が発売されると、レコード芸術誌でも、いつもは小澤に厳しい評をくだす宇野功芳氏も、「小澤の伴奏指揮も素晴らしく、音楽性の高さが評価される」というような抽象的な表現ながら結構誉めていたのを思い出す。

テラークの録音は、ワンポイントマイクを基本としているということを聴いたことがあり、私の当時から現在まで、だましだまし使っているステレオシステムでは、音像がくっきりしなかったり、定位があいまいだったり、楽器の分離があまりよくなかったりで、どちらかと言えば克明な録音が好きな方なので、あまりお気に入りのCDの中には入らなかった。

そんなわけでずっと聴いていなかったのだが、先日のアバドとのモーツァルトの協奏曲、ベートーヴェンの『月光』とルドルフ・ゼルキンを聴いてきて、久しぶりにこの協奏曲も聴いてみようと思った。

カップリングの第5交響曲には、ホームページで相当手厳しいことを書いているが、協奏曲の方は、ソリストの音楽性に影響されてか、楽譜をただ音にしたというような伝達内容のないような音楽にはなっていないのには安心する。ボリュームを上げても音響の粗がなく、音響的にはオーケストラの演奏も「美しい」とは言えるのだが、ベートーヴェンの音楽としては、柔和過ぎる音色で、立体感の少なさも物足りなさを生み出しているように思う。

1903年生まれのゼルキンは、録音当時77歳か78歳だったわけだが、たった二日の録音セッションにもかかわらず、闊達で安定感のあるピアノを聴かせてくれているのは素晴らしい。恐らくそのキャリアの中で何十回、いや百回以上も多くの指揮者、オーケストラたちと演奏し、すっかり自家薬籠中の物になっている曲だろうに、今この曲が生まれたかのように瑞々しい感性で演奏できているというのは驚異的だ。第2楽章のトリル、単純な音型の繰り返しでも音楽の喜びや意味が伝わってくるかのようだ。第1楽章も勿論立派な音楽だが、第2楽章の静寂から一転喜びの爆発のような躍動的なロンド主題の提示では、ゼルキンの強い打鍵によるピアノの和音が素晴らしい。続く経過部では指捌き的に少し苦労しているように聴こえるフレーズもあることはあるが、生命力と輝きに満ちたピアニズムで、このピアノの透明な音色を捉えたテラーク録音にも感心する。

小澤の指揮が、もっとソリストに遠慮がちに寄り添うのではなく、自己主張の強いものなら、この録音ももう少し聴き応えのあるものになったかも知れないと思うと少し惜しい気もする。第3楽章などはオーケストもよく鳴ってはいるのだが、もう一つ力強さが感じられないのは、録音の所為なのかも知れないし、この頃の小澤の古典への自信のなさの現われかも知れないなどと少しきついことを書いたりもしてしまう。

それでも、久しぶりに聴くゼルキンの『皇帝』は、充実した音楽だった。

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番の記事
*2007年7月12日 (木) セルとギレリスの『皇帝』(米EMI盤)


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ディスク音楽02 協奏曲」カテゴリの記事

コメント

早速、評判の悪いエッシェンバッハとの皇帝を聴いてみました。問題点は多いのですが、小澤の伴奏は付けるだけでなく音楽をよく支えています。

独奏がゼルキンとなると話は全く異なりますが、小澤のベートーヴェンとゼルキンの目指したものの音楽的な共通点は想像出来るのです。上で指摘のトリルの音楽の運動性や生命力はそもそも小澤の音楽実践の軸にあるように思います。それが十分過ぎるほど丁寧に表現されているので、控えめな感じがするのかもしれません。ただ、父ゼルキンのスケールは大きすぎるのか?

ボストン時代は小澤の全盛期であったのでしょう。

先の記事でのような草原の野外コンサートはオーストリーのスキー場では夏の目玉になっていることが多いです。

pfaelzerwein さん、おはようございます。ドイツは今朝の5時ですね。夏の短夜ですから、既に相当明るいことでしょうか。

また、コメントをいただきありがとうございます。エッシェンバッハとの「皇帝」は、以前も話題に挙がったように思いますが、「皇帝」ではなく「皇太子」のようだと呼ばれていたように記憶しているものですね。FM放送では以前聴いたことがあると思いますが、私には当時は演奏の違いなど分からず、ただ曲の把握に務めていた頃だと思います。http://www.interq.or.jp/www-user/shyamada/ozawa/1970.html
によると、1973.10.10の録音で、小澤/BSOの録音としても相当初期のようですね。

最近1960年代録音の小澤のEMI録音のboxセットを入手して聴いているのですが、ボストン時代も1980年代になるとますます活躍は華々しく、主要録音もDGからフィリップスに切り替わった頃ですが、例の「コンサートは始まる」
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AF%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8B%E2%80%95%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE%E3%81%A8%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3-%E6%9C%A8%E6%9D%91-%E5%8D%9A%E6%B1%9F/dp/4276217830
のようなオケや聴衆との軋轢も表面化してきて、特に彼のドイツ物への評価が厳しくなっていった時代で、録音についても彼特有のコンサートの熱気が巧く捉えられていないという不満が表面化してきた時期だったように記憶しています。それに比べて、60年代の小澤は初々しくイノセントな魅力があるように感じられます(なぜかドイツ物はないですが)。

斎藤記念オケとの録音が1989年ごろから活発化してきて、大雑把に言えば現在に至るように把握しています。

ゼルキン盤における小澤のオケは、初々しくナイーブ過ぎ、強烈な自己主張が抑えられてい過ぎ、ソリスト、ゼルキンを十分盛り立てているのは美点でもありまた欠点であるというのが私の総括でしょうか。

山の上のコンサートというのも一度聴いてみたいですね。

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