小澤征爾のEMI録音選集 BOX SEIJI OZAWA conducts・・・
ようやく、関東、甲信越地方も「梅雨明け」宣言が出た。朝から日差しが強烈で、35℃以上を猛暑日と言うらしいが、山梨県の甲府の近くでは体温を上回る37℃を越す気温を記録したという。確実に夏は暑くなっているようだ。ただ、梅雨明けというのに蝉の声が、前の寺の巨木の森から聞こえてこないのが、少し気にかかる。
これまで小澤征爾の録音は、もっぱらフィリップス、ドイツ・グラモフォン(テラーク、RCAも数枚)で聴いて来て、音盤で持っているEMI録音は、LPのパリ管弦楽団とのストラヴィンスキー『火の鳥』全曲だけだったと思う。このLPは、CDへの切り替え期の直前に購入したこともあり、いい演奏、録音だとは思いながらあまりじっくり聴けないままでいた。
先日、生活圏に数軒あるブックオフの内、時々クラシック音楽関係のいいCDが売られている店を久しぶりに覗いてみたところ、 "SEIJI OZAWA conducts・・・" という 数年前、HMVの店頭かどこかで見かけたDisky 社発売のEMI録音のオムニバス的な選集7枚組みが売られており、以前から聴きたかった初期のシカゴ響との録音などが含まれていたので、購入して聴き始めた。
(残念ながら一枚目の最後の部分の音飛びがどうしても直らずに落ち込んだが、)若き日の小澤征爾の指揮はEMI録音と今回のリマスタリングの所為もあるのだろうが、結構解像度が高く、いわゆる中心メロディー偏重に聞こえ、副次的な声部がおろそかに聴こえるような傾向の最近の指揮とは違い、対旋律や副次的なモチーフなども立体的に演奏され、それに加えてキビキビとした若々しいリズムと、本当に繊細な魅力を持つメロディーの歌わせ方、豊富な色彩感のあるオーケストラの演奏など、大変魅力のある演奏が多く、驚かされた。
シカゴのラヴィニア音楽祭への抜擢は小澤征爾の演奏史の中では、それほど大きく取り上げられないように感じるが、何しろあのフリッツ・ライナーの鍛え上げたシカゴ交響楽団をそれこそ新鮮な感性で指揮したバルトークのオケコンや、ものすごく繊細な魅力に溢れた『シェエラザード』など、立派な演奏・録音として、他の「名盤」とされるものに十分に伍すだけの力があるのではないかと感じた。これなら、時代の寵児として世界中で引っ張りだこになったのも無理はないと思わせるだけの魅力に溢れていた。
小澤征爾専門のHPは意外にもあまり見かけないのだが、昨日R.ゼルキンとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番の記事を書き、それへいただいたコメントに対する返事を書いているときに偶然、このディスコグラフィーを発見することができた。
世界のメジャーレーベルでは、最初RCA録音が多かった、1969年ごろからシカゴ響を指揮した録音がEMIで発売され始めている。1970年代は、DGとPhilips が主だが、1980年代になってフランス国立やベルリンフィルなどとまたEMIにも録音をしており、これらの録音はこれまでほとんど聴いたことがなかったものだった。
特に上記で触れたバルトークの「オケ・コン」とリムスキー=コルサコフ『シェエラザード』は、特筆すべき演奏だと感じた。いずれ、詳しく感想を書いて見たいが、こういうことで、小澤征爾の演奏史の中でも非常に魅力的な時代として1960年代末を忘れることはできないと感じるようになった次第だ。
HMVのサイトによると現在このボックスセットは廃盤だというが、このほかにも1960年代にCSOと入れた『春の祭典』『展覧会の絵』、チャイコフスキーの5番、いわゆる『運命』『未完成』にも興味がある。
追記:2009/6/16 同じボックスセットのシンフォニエッタ、オケコン、ガランタ組曲などを取り上げられgeezenstacの森 小沢征爾のシンフォニエッタ にコメント、トラックバックさせてもらった。せっかく『1Q84』で取り上げられたのに、小澤氏本人が若い頃の録音ということであまり再発を望んでいないのだろうか。
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コメント
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夜十時まで「春祭」を鳴らしてしまいました。シカゴとのそれは珍演でこの交響楽団とは上手く行かなかっただろう事を予想させます。楽団にバランスをとらせて弾かせるのが難しそうです。譜読みが出来ていないようにしか聞こえない。
もしかすると当時は楽団も指揮者もあの程度にしか出来なかったのかもしれません。十年後のアマチュア楽団を振ったラトル青年の方が楽団は話にならないがドライヴ出来ている。その間に世界で多くの演奏や録音ががなされたのでしょう。
年表を見るとパリでは何時も上手く行っている反面、ボストンとは80年代がピークな感じです。ドイツ風のフルトヴェングラーを求めた古風なシカゴと、恐らく良い音楽バランスを持っていたボストンならば後者の方に乗る形で成功したのは当然かもしれません。トロントやサンフランシスコとはやはりレヴェルが違うのでしょう。
「中心メロディー偏重に聞こえ、副次的な声部がおろそかに聴こえるような傾向」が名門楽団のバランスに乗る形で上手く行っていたのは、ボストンやパリやベルリンの楽団の質の高さを示すので、それが私製の新楽団となった時に音楽にならないのは60年代の珍録音を聞くと理解出来るようです。シェーラザードはどうでしたか?
総じて斉藤さんというのは大変見識があったとは聞きますがそのメソッドの限界が見えます。桐朋を支えた柴田氏や吉田氏にしても「その程度」であったのは知るところです。さもなくば卒業生皆が大演奏家になってますからね。
今でも音楽教育を受けていないドイツ人が野外で譜面を片手にポリフォニーとハーモニーのバランスをとりながら合唱できる教会に伝えられた音楽の歴史には到底敵いません。そして西洋芸術音楽が、響く場のない日本で根付いてものになって行くのかはなかなか見えてきません。
投稿: pfaelzerwein | 2008年7月20日 (日) 14:35
pfaelzerweinさん、今晩は。ドイツでは、またしても15時ごろの昼下がりの暑い頃でしょうか。こちらも熱帯夜が続き、外の騒音がうるさいので、密閉性の高い集合住宅で、エアコンをつけて暑さを凌いでいますが、少しぐったりとしております。
長文のコメントありがとうございます。小澤/シカゴ響の「ハルサイ」聴かれてのご感想、大変面白く読ませていただきました。それほどの珍演でしたか。ちょっと驚きです。後に1979年にボストン響とフィリップスに録音したものをCD初期から聴いていますが、小澤の一般的なイメージ通りあざとさのない、少しマイルドな音響の演奏で、リズム的にも軽快な非常に標準的な演奏だと思っておりましたので、その10年ほど前1968年の録音のハルサイが楽団の譜読みの段階から怪しいとなるというと、先日このブログで取り上げたブーレーズ/CLOの画期的な「ハルサイ」より前の録音で、まだこの曲への解釈が手探り状態の頃だったのかも知れないですね。
「オケコン」はBSOとの来日公演で聴いた曲目ですが、CSOとの初期の録音でも自家薬籠中のものになっており、そういえば以前記事にした武満徹との対談でも小澤は「この曲は、オーケストプレーヤーとして、完璧にマスターしているべき曲の一つだ」と強調していましたので、例のライナーの厳しい薫陶があり、「オラが音楽」との自負のあったシカゴ響ですので、却って小澤色がよく出た面白い演奏になったのかも知れないと感じました。
『シェエラザード』も小澤としてはこの録音のほかに、後年BSO そして VPOとも録音しているほどで、得意曲なのかも知れません。BSOのは聴いたことがないのですが、CSOとのこの録音は豪壮な鳴らし方の部分もありますが、ソロヴァイオリンが悩ましいほどの歌い方だったり、繊細微妙な楽器バランスで妖艶な雰囲気を出したりで、決して極彩色ではないのですが、適度に官能的ないい演奏だと思いました。終楽章などは、シカゴの高密度のアンサンブルで盛り上がっていくところなど結構手に汗を握る場面もあり、これまで手持ちのこの曲の音盤があまりなかったこともあり(マゼール/BPOなど数枚)、結構気に入りの録音になりました。
ただ、確かに後のサイトウキネンになると、ポリフォニー的な感覚が後退していき、主旋律主義とでも言う単調さが目立ってきているように感じています。これが桐朋メソドの限界だったのか、個人的な資質の問題なのかは、難しいところかとは思いますが、pfaelzerweinさんが現地で感じ取られているドイツ人のハーモニーとポリフォニー感覚は、日本人の西洋音楽への大きな壁の一つなのかも知れませんね。
投稿: 望 岳人 | 2008年7月20日 (日) 22:19
またしても、気になって更に録音を聞いてしまいました。ついでながら、時刻は表示より7時間前の夕刻です。高原のように青空の下清々しい風が吹いてます。
小澤の「春祭」は氏のおはこなので生ではなくともいくつもの組み合わせをラジオなどで聞いてます。BPOとのものも聞いた覚えがあって最もエキサイティングな演奏解釈との印象が強いです。
さて今回、1983年のミュンヘンでのものとWPOとのものを聞いてみました。基本的な譜読みは変わっていないようですが、CSOでは出来なかったことが全て後年加えられています。同じ事を繰り返しませんが、当時は録音プロディーサーもこれで流したことからその時代背景が知れます。マルケヴィッチとかバーンスタインの録音を聞いてみると更にその辺りの事情はハッキリするでしょう。
それ以上に私が今回失望したのは、後年の「効果的なアレンジや改良」にも拘らず基本的な読みの問題で、これは既に述べたメソッドの限界を小澤と言えども越えられなかった事実です。既に批判点は述べられている通りであり、リズムやバランスの問題もこうした曲になるとベートーヴェンなどよりも寧ろ曲の根幹となっていて、評価は厳しくなるかもしれません。ただ、それがこれほどの才人の手に掛かりながら演奏の歴史とはならないところがとても残念なのです。
1972年の独RCAのジャケットにある小澤の紹介に、「憑かれた熱演と恍惚とした音響への以前の傾倒は、しばしば日本の詩情を伴った醒めた知性と音響的な纏まりと感受性豊かな差異の様式となって澄まされてきている」とあります。
その様式自体が、ここで挙げた批判点の全てでもあるのですね。因みに私のリファレンスであるアバド指揮LSOの録音は後にBPOの監督に選ばれた音楽性の高さを示しています。
投稿: pfaelzerwein | 2008年7月21日 (月) 01:28
pfaelzerweinさん、今回も長文のコメントをいただきありがとうございます。コメントを拝読し、「テツハク」の記事を書き終え、現在小澤/BSOのフィリップス録音を聴き終え、次に少しでも参考になるかと ショルティ/CSOの録音を聴いています。リズム的なアンサンブルは、あのショルティ/シカゴにして、結構縦の線のズレが聞き取れるなどもあり、意外にシカゴ響自体がこの音楽への適正が低いということもあるのかも知れないなどと思ったりもしました。デッカ録音ですから鮮明なのですが、速くリズムが複雑な部分では演奏自体は結構不器用な感じの音楽に聴こえたりします。それでも、ゆるやかな部分(犠牲の冒頭など)は、音色の微妙なブレンドや声部の強調により、小澤/BSO盤より神秘的な音楽を作り出しているようです。
小澤征爾の「ハルサイ」解釈の特徴と、その限界というものがコメントを読むとおぼろげながら理解できるようは思うのですが、コリン・デイヴィス/ACO(LP)とブーレーズ/CLO(エアチェック)に次いで、この小澤/BSOの「ハルサイ」のCDを数多く聴いてきたので、逆に自分自身が特徴がつかめなくなっているようにも感じております。ただ、独RCAの評を読ませてもらうにつけ、やはり小澤/CSOのRCA録音を聴いてみたいですね。入手に努めてみようと思います。
先日、アバドについての自分の好みを書いてみましたが、アバド/LSOの『ハルサイ』も聴いてみなくてはいけませんね。
投稿: 望 岳人 | 2008年7月21日 (月) 21:31