ランパルとV=ラクロワによるプーランクのフルート・ソナタ
フルート・ソナタ
第1楽章 Allegro malincolico 4:32
第2楽章 Cantilena 4:00
第3楽章 Presto giocoso 3:15
ジャン=ピエール・ランパル(fl)
ロベール・ヴェイロン=ラクロワ(p)
ランパルとの共演やERATOへのクラヴサン(ハープシコード、チェンバロ)の録音で著名なロベール・ヴェイロン=ラクロワが、珍しく現代ピアノを弾いているもの。
ランパルの"Famous Flute Music" というオムニバス盤(ERATO 0630-10204-5, ワーナーWPCS-21067) に収録されている。
プーランクという作曲家は、1899-1963 というのだから、明治生まれの昭和30年代没ということで、ちょうど私の祖父の世代に当たる人だ。
とても洒落た音楽を書いた人だという印象があるがあまり作品に触れたことはない。我が家にはプーランクの作品はこの一枚だけかも知れない。
このCDは、ランパルによる様々な作曲家の演奏を集めたもので、バッハのロ短調BWV1040,ヘンデルのト短調作品1の2、モーツァルトのヘ長調K.13、クルムフォルツ(1742-1790、モーツァルトと同時代の古典派のハープ奏者、作曲家らしい)のフルートとハープのためのソナタ ヘ長調、ドビュッシーのシランクス、そしてこのプーランク、最後にフォーレの子守歌作品16をラスキーヌのハープによる伴奏で吹いている。
バッハの作品は、ランパルとラクロワによるERATOのCDに含まれているものと同じだが、ヘンデルのものは有名なヴァイオリンソナタ作品1の中に含まれるもの(ヘンデルの真作とされているもので、元はブロックフレーテ、つまりリコーダー用だという。ラクロワは、グリュミオーによるヘンデルのヴァイオリンソナタ集でもクラヴサンを弾いている)。モーツァルトは相当幼年時代の作品。クルムフォルツの作品もーツァルトと同じで、フルートが従、ハープが主のソナタだが、この演奏ではフルートが主のようにも聴こえてしまう。名手リリー・ラスキーヌとは言え、ランパルの存在感だろうか。
プーランクのソナタは、近代、現代の作品で、エスプリの効いた面白い作品になっている。ラクロワがピアニストで起用されたのは、やはりそれだけランパルの信頼が強かったからだろうか。慣れないピアノだと思うが、無難にこなしているようだ。ランパルもバロックや古典もいいが、ドビュッシーやこのプーランクなどは独壇場だ。
梅雨明け直後は鳴き声が聴こえなかったが、前の森からは、今年も油蝉の合唱が盛大に聞こえ始めた。そんな中、フルートとチェンバロ、ハープの涼しげな音色は清涼剤になってくれる。
« 故郷ではお墓参りの日 | トップページ | 『崖の上のポニョ』は父親に複雑な印象を与える »
「ディスク音楽03 アンサンブル」カテゴリの記事
- Harmoniemusik (管楽アンサンブル)というもの(2015.03.22)
- モーツァルト ピアノ四重奏曲第1番 ト短調 K. 478(2014.09.14)
- 小学館 モーツァルト全集のCDを夏の帰省時に持ち帰った(2014.09.02)
- ゲヴァントハウス四重奏団のベートーヴェン弦楽四重奏曲全集(2013.12.28)
- 「夏の風の神パンの加護を祈るために」(ドビュッシー、アンセルメ編曲)(2013.10.17)
ヴェロン=ラクロワ、懐かしいです。実演に接するチャンスには恵まれませんでしたが、70年代まではバロックでも評価高かったですよね。モダン・チェンバロ蔑視の風潮も一段落した今、もう一度彼のバッハとか聴き直してみたい誘惑に駆られます。
ラクロワは、ファリャ、ミヨー、ジョリヴェとか20世紀音楽も結構重要なレパートリーにしていたから、本人はピアノでプーランクも自然だったんでしょうね。
プーランクはオペラに接してから意識するようになりました。「ティレジアスの乳房」は得手でありませんけど、「カルメル会修道女の対話」と「声」は大好きです。共に感動的、大音楽家と思います。
フルート・ソナタは昔、デボスト(発音は「ドゥボス」かもしれません)とフェヴリエだったかの録音で聴いた憶えがありますが、中間のカンティレーナが同時期の「カルメル会修道女」と雰囲気が良く似てる佳品でしたね。
「シランクス」で思い出しましたが、先日「海」のエントリでジャケットの地中海写真拝見した瞬間、「何か合ってるな」とか思ったのは、ドビュッシーにも「牧神」とか「ビリティス」とか象徴派を介した夢幻的な古代世界憧憬はあるせいだったかもと思い当たりました。
「海」の音楽はダイナミックですし、私にはやはり地中海というより、北斎やターナーの北海の荒海のイメージなんですが、ドビュッシー自身は、「海」の第1楽章に最初の構想時「サンギネール諸島(コルシカのアジャクシオ沖の小島群)の美しい海」という標題を与え(!)、後から「明け方から正午までの海」に変えたんだそうです。
やはり彼の「海」は文学的・神話的「地中海世界」、「絵画」、「ノルマンディー等の心象風景」が渾然一体となった心的イメージみたいなものということかも知れませんね。
ヘタに海の風景思い浮かべながら聴くより、純粋にシンフィニックな構成体として聴いた方がピンと来るというのはブーレーズの演奏聴きながら感じたことです。
投稿: 助六 | 2008年8月 4日 (月) 08:59
助六さん、今晩は。今、フランスは夕方でしょうか。
ヴェイロン=ラクロワは、20世紀のフランス音楽も重要なレパートリーにしていたんですね。まったく知りませんでした。今回のプーランクも「慣れないピアノ」などと書きましたが、無知ゆえでした。
プーランクは、小澤征爾氏は愛好しているようですね。「ティレジアス」も「カルメル会修道女」も夏の斎藤記念音楽祭の演目でした。(これまで舞台にも録音にも接したことはないのですが。)
モダン・チェンバロ蔑視は、ピリオド・アプローチ全盛時には確かにあったようですね。ドイツ音楽でも、ヘルムート・ヴァルヒャやカール・リヒターなど、まったく見向きもされない時期もあったように記憶しますが、最近ピリオド・アプローチが当たり前になりすぎて、逆に音楽の質そのものでの吟味が復活してきたようにも思います。
ドビュッシーの「海」についても、再びのコメントありがとうございます。「標題」が説明的なので、つい描写音楽、標題音楽として聴こうとしてしまうのですが、「前奏曲集」にしても標題に囚われることなく聴く方が面白いのと同様、「海」も「絶対音楽」的な聴き方のアプローチの方がいいのかも知れないですね。
投稿: 望 岳人 | 2008年8月 5日 (火) 00:40