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2008年9月の29件の記事

2008年9月29日 (月)

ルービンシュタインの ショパン ポロネーズ集(全7曲) 

Rubinsteing_chopin_polonaiseショパン
 ポロネーズ第1番から第7番
  アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ)

 〔1964年3月4-6日&12日、カーネギーホール、ニューヨーク〕





今日は、冷たい雨。一挙に冬がやってきたような日で、最高気温が20℃を下回った。暑さ寒さも彼岸までとは言うが、極端な気温の低下だ。今年は、富士山の冠雪も、日光の初霜も、大雪山の初雪も、温暖化と言いながら、記録的な早さだったという。太陽黒点は相変わらず姿がないようで、太陽風が近年の最盛期の80%程度に弱まっているのだという。人類も、その他の動植物も地球環境の変動に適応しつつこれまで進化(変化)をして来たわけだが、第4間氷期はいつまで続くのか。

相変わらずクサクサ気分は晴れないが、ミチョランマのCDを今日も聴いている。

ショパンのポロネーズは、いつもお世話になっている「主要作曲家の作品表」によると、全部で16曲(『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』変ホ長調作品22を入れると全17曲)あるが、第8番から第16番は若い頃の作品で没後出版されたものや、没後発見(いわゆる遺作?)などで、一般的には第1番から第7番が普通演奏されるものらしい。それで、ルービンシュタインのポローネズ集も「全集」という扱いになっているようだ。

有名な第3番『軍隊』イ長調、第6番『英雄』変イ長調は、ルービンシュタインのショパン名曲集にも入っており耳なじみ。第7番『幻想』はそれほど聴く機会がないが、それでもホロヴィッツのショパン名曲集に所収なので、何度かは聴いたことがある。

それらに比べてニックネームの付いていないNo.1,2,4,5はほとんど初めて聴くような作品ばかりだが、ワルツやマズルカほど短くなく、スケルツォやバラード、即興曲よりも形式的に簡素なので、初めて聴いても特徴が捉えやすい。

特に聴き応えがあったのは、暗鬱な第1番嬰ハ短調と第2番変ホ短調だ。第4番ハ短調は、主部は重々しいポロネーズだが、中間部(トリオ?)の部分は長調で、またバルカローレのようで比較的寛いだ雰囲気が味わえる。第5番は嬰ヘ短調で、こうみるとニックネームのないものはすべて短調で書かれている。第5番は、変化の多い曲だ。何度か聴いた記憶があるが、耳の記憶と少し異なる部分もあるようだ。中間部のシンコペーションのフレーズなどは他の曲によく似ているのかも知れない。(上記ホロヴィッツの名曲集には『幻想』と第5番と、『英雄』も含まれているが、特に第5番は鬼気迫るほどの凄演だ。ピアノ音色は透明とは言いがたく、粗い音色だが、表現の深みは恐ろしいほどだ。)

今日の気分では、勇壮な『軍隊』や『英雄』は、むなしく聞こえる。メランコリックでグルーミーでデプレッシヴな曲調の方が、癒される。『幻想』は、ホロヴィッツものも名演だが、このルービンシュタインの演奏にも魅了される。

2008年9月28日 (日)

くさくさした気分だがなぜか面白いマゼールの指揮

Maazel_clo_moussorgskyムソルグスキー
 『禿山の一夜』(リムスキー=コルサコフ編)
 『展覧会の絵』(ラヴェル編)
  ロリン・マゼール指揮 クリーヴランド管弦楽団

   〔1978年10月、クリーヴランド、メイソニック・オーディトリアムでの録音〕




Solt_cso_orchestra_concertoガーシュイン

 『パリのアメリカ人』

   ロリン・マゼール指揮 クリーヴランド管弦楽団

 (併録 バルトーク 『管弦楽のための協奏曲』
  サー・ゲオルク・ショルティ指揮 シカゴ交響楽団)



買っておいてまだ聴いていなかったCDを次から次へ聴いてみている。なぜか音楽がよく耳から心に入ってくる。音楽が心の中で飽和せずに、どれを聞いても面白く感じるのだから、家族関係のくさくさ感と音楽鑑賞は別の次元のようで、不思議だ。

なかでも普段聴いてもあまり面白くないロリン・マゼール指揮の録音が、なぜか面白く聴けるのが不思議だ。

まず聴いたのは、ショルティのバルトークのフィルアップに納められていたガーシュインの『パリのアメリカ人』。これまで聴いてきたオーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団の演奏が大人しく聞こえるほど、多彩なソリスティックな音響が満載でこの曲がこんなに面白い曲だということを初めて気が付いたような気持ちだ。元々コメディー映画になるようなユーモラスな音楽なのだが、マゼールの細かい部分を強調する指揮にクリーヴランド管がたくみに対応しているのが功を奏しているのだろう。

ムソルグスキーの2作品も、このCDを買ったときに聴いたときには、やけにあっさりした音楽だなと感じたのだが、今日聴いてみるとそれほど「ユニークな」演奏ではないのだが、小気味よい演奏で、これも面白い。とにかく天下のクリーヴランド管弦楽団によるディジタル録音であり、細部まで非常に整った演奏だ。たった一日のセッションでの録音のようだが、ライヴ録音的な「乗り」はないが、粘らずにサラサラとよく流れる演奏だ。

(なお、珍しいことに、この『展覧会の絵』は、なぜか、1トラックで収録されており、indexも挿入されていないようだ。グールドの二声と三声ではないが、これも指揮者が続けて聴いて欲しいという意思の表れなのだろうか?)

そういえば、マゼールの指揮の録音というのも、アバドやムーティ、メータの録音同様、LPでもCDでも手持ちは非常に少ない。FM放送をよく聴いていた時代には、よくベルリンフィルなどの定期やザルツブルクなどの音楽祭に彼らはよく登場していて、日常的によく聴いていたこともあり、いつでも聴けるだろうというのも、(小澤征爾の録音を除いて)当時現役最先端で現在巨匠とされる指揮者たちの録音があまり手元にないのかななどとも思った。

これがモーツァルトの再現だろうか?

先日の敬老の日のお昼前テレビをつけていたら、フォルテピアノのリサイタルが放送されており、途中から見始めた。フォルテピアノはさすがに現代ピアノよりも一回り小さいが、モーツァルトはその最高音から最低音近くまで使っていたのが視覚的にも確かめられて面白かった。

プログラムは下記の通り(NHKのサイトより)。

シュタイアーは、ムジカ・アンティクァ・ケルンの鍵盤楽器を担当していた奏者だという。有名なソナタも演奏するのだなと聴いていたところ、その有名な「トルコ行進曲」でとんでもない演奏を披露してくれた。初めは結構トリルなどの装飾音を交えるな、などと思いながら聞いていたら、途中、ジャズの即興のように大幅に楽譜から離れ、いきなりフーガ的に弾いたり、協奏曲のカデンツァ的に即興的なフレーズを挟んだりの演奏で、まったく目を見張ってしまった。

9月15日(月)敬老の日 「BS2」午前10時55分から午前11時54分(放送時間59分間)

  • クラシック倶楽部 -アンドレアス・シュタイアー フォルテピアノ・リサイタル-
  • [Bモード]
  • - アンドレアス・シュタイアー  フォルテピアノ・リサイタル -

    「ピアノ・ソナタ 変ホ長調 K.282」

    「グルックの歌劇“メッカの巡礼”のアリエッタ
    “われら愚かな民の思うは”による10の変奏曲
    ト長調 K.455」

    「ピアノ・ソナタ イ長調 K.331“トルコ行進曲付き”」

    「組曲 K.399から“アルマンド”」

    モーツァルト作曲

    (フォルテピアノ)アンドレアス・シュタイアー

    ~東京・トッパンホールで録画~

2006年5月11日の収録だというので、少し古い演奏会を取り上げたものだ。

このシュタイアーの演奏は、CDでも聴けるらしい。ネットでこの放送のことを調べていたらたまたま見つかったのだが、ピリオド楽器の演奏もここまで来ていたのだろうか?

このCDの評論はここで読める。

ヨーヨー・マ Soul of the Tango --The music of Astor Piazzolla --

Ma_piazzollaアストル・ピアソラ (1921-1992)
  ヨーヨー・マ (チェロ)、他

 1997年 ブエノス・アイレス、ボストン、ロス・アンジェルス録音





金曜日の夕方から急に秋になったようだ。

我が家では、子どもの反抗期と家族全体の情緒不安定が重なり、結構しんどい精神状態だ。

金曜日の夜は大騒ぎをして過ごした後、イアフォンで音楽を聴き、漫画を読み寝入ってしまった。

土曜日は、比較的平穏に過ぎたが、ドヴォルザークの『新世界より』の記事も中途半端に終わってしまった。

日曜日の午前中は、これまであまり聴けなかったCDをまとめて通して聴き、結構新鮮な楽しみを得られたが、夕方にはまた別のいさかいが起こり、結構しんどい。家庭生活というものは疲れるものだ。

そんな中、これまでほとんど聞いたことのなかったCDを取り出して聴いている。20世紀末に突如クロース・アップされた(ように思う)アルゼンチンタンゴのバンドネオン奏者で作曲家のアストル・ピアソラの音楽を、そのクロース・アップに一役買ったヨーヨー・マが中心になって制作したアルバム。

7曲目は、ホルヘ・カランドレッリとアストロ・ピアソラの合作?の タンゴ・リメンブランシズという曲だが、1997年録音のマのチェロと、1987年録音のピアソラのバンドネオンの(録音上の)共演を聴くことができるものになっている。

その他CM でも有名になった リベル・タンゴなど、暗鬱だが情熱的な現代アルゼンチン・タンゴを何曲も聴くことができる。

いわゆるクラシック系の音楽界にこのピアソラが評価されるようになった背景や理由はよく知らないが、暗鬱な気分の時に暗鬱な曲(だけではないが)を聴くというのは、少し精神的に落ち着くものがある。

2008年9月27日 (土)

9月の9番はドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調『新世界から』

9番と言えば、どうしてもベートーヴェンの交響曲第9番が思い浮かび、ようやく入手できたフルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団のOrfeo盤(バイエルン放送音源)のこともあり、ホームページ以来の棚卸も兼ねてまとめ聴きを試みてみようという気もあるのだが、先日の『名曲探偵アマデウス』で取り上げられ、クーベリック/BPOによる(自分にとっての)衝撃的な録音のこともあり、音盤も何種類かあるので、9月の9番はこの曲にしてみた。

この曲も先月の『未完成』交響曲同様、クラシック音楽の代名詞的な音楽であり、人によっては通俗名曲とまでのたまい、一般的にも聴き飽きている向きが結構多いと思う。オーケストラや指揮者にとっても、いわゆる初心者向けのコンサートなどで取り上げることが多いため、無意識のうちに軽んずるような傾向もあるのではないかと危惧するし、リスナーとしてもベテランになるほど、一種軽視気味な敬遠をすることもあるだろう。そういう自分自身、カラヤンやバーンスタインといった人気指揮者によるこの曲の音盤を持っていない。

このよく知られた曲とは言え、実演の経験は、高校時代の夏休み、音楽の先生が希望者に配布してくれた夏休みコンサートのチケットで友人と聴きに行った 山田一雄指揮の 読売日本交響楽団(1977年か1978年 長野県上田市の市民会館)でこの曲を聴くことができた。コンチェルトは、弘中孝氏のショパンのピアノ協奏曲第1番だったと記憶している。むしろ「新世界より」よりは、ショパンの曲の方が新鮮な感激を覚えたくらいで、「新世界より」は、ちょっとしたクラシック通を気取り始めた頃だったので、知ってる知ってるという生意気な聴き方だったように思う。(ちなみにこの帰宅時に上田市の楽器屋で購入したのが、オーマンディの『展覧会の絵』だった。)

さて、その後、ラジオのFM放送だけで聴くのは物足りなくなり、購入したのが、LPのノイマン盤。いわゆる本場の最新録音ということで、カラヤンやバーンスタインよりはいいだろうと思って買ったもの。その後、「世界の指揮者」を読んでのジョージ・セルへの関心から、「精密機械のような精緻なフレージング」を聴きたくてセル盤を求めた。

LP  ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコフィルハーモニー管弦楽団 1970年代の全集
   ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団

CD

指揮者    オーケストラ    録音    Ⅰ    Ⅱ    Ⅲ    Ⅳ    total    備考
ワルター    コロンビア響    1959    09:28    12:07    08:14    12:15    42:04   
セル    クリーヴランド管    1960    08:39    12:08    07:51    10:55    39:33   
ケルテス    ヴィーン・フィル    1961    09:44    11:46    07:39    11:05    40:14   
クーベリック    ベルリン・フィル    1972    09:24    13:00    08:05    11:45    42:14   
小澤    サンフランシスコ響    1975    12:36    12:00    07:45    11:35    43:56    I 提示部
リピート
ノイマン    チェコ・フィル    1981    09:36    11:34    08:17    11:22    40:49   
クーベリック    チェコ・フィル    1991    09:07    12:27    07:53    12:04    41:31    ライヴ
                               

CDでは、上記が現在の手持ちの音盤。

この中で、所有歴が一番長いのが、小澤指揮のサンフランシスコ響盤。新鮮な小澤の解釈が聴けると言われたものだが、以前八田利一とかいう覆面評論家が、この小澤盤の初期録音にティンパニか何かのパートが「落ちている部分」があるという指摘をして変な評判がたったことがあったように記憶しているが、この盤はどうだったろうか?演奏至難なホルンのロングトーンを楽譜通りに吹かせているというような評も覚えているが、先日来聴いているEMI録音のシカゴ響などとの60年代の小澤録音よりも大人しさが目立ち、その例の唸り声が聞こえたりもするようになっている。

ワルター盤は、ブログで簡単に触れたことがあるが、晩年の録音で、コロンビア響とのもの。実際にはたくましさも秘めてはいるのだが、ワルター独特の柔和な表情が聴けるもの。刺激が強くなく、うるさくないので、疲れたときなど確かに慰めになってくれる。

セル盤も、以前書いたことがあるが、万全な録音でないことが惜しまれる。それでも、セルの遺した正規録音の「新世界より」が聞けるのはありがたい。

ノイマンの新しい方のディジタル録音盤もコメントしたことがあるが、刺激の強くない熟した感じの演奏だ。

ケルテス盤については、大変人気が高い録音なのだが、少し外面的な刺激が強い感じで聴き疲れがするように感じている。まだコメントを書いていない。

クーベリック晩年の冷戦後の独立したチェコ共和国への里帰り公演でのライヴ録音は、BPOとの録音ほどの完成度や熱さはないが、歴史的な記録として貴重なものだと思う。

クーベリック/BPO盤は、最近「名曲探偵」がらみで書いたものだが、これまでこのような迫力のある熱い演奏だとは知らなかった。今のところ、この曲の意味を最も痛切に味あわせてくれるものだと思っている。もっと聞き込めば新たな発見がありそうだ。

2008年9月25日 (木)

グレン・グールドのバッハ『二声と三声のインヴェンション』

Gould_invention
J. S. バッハ 
 インヴェンションとシンフォニア(全曲) (ニ声と三声のインヴェンション)

グレン・グールド(ピアノ)

CBS FDCA575

学生時代ミュージックカセットで毎日のように聞いていたグールドのインヴェンション。二声のインヴェンションの第1番ハ長調なら何とか弾き通せる程度にはピアノが弾けるようになったので、楽譜と首っ引きでこのグールドの録音を聴き、第4番ニ短調を流暢に弾く程度にはなりたいと少しがんばったが、右と左のそれぞれの単独弾きではスムーズなのだが、両手になるととたんにたどたどしくなり、まだまだ物にはなっていない。平均律とまで行かずとも、この曲集を爪弾くことで、相当の楽しみが得られることは確かだ。

昨夜たまたま「ワンツースリー」とかの変なアクセントのテレビ番組で、茂木健一郎が脳を刺激する世界のピアニストベストスリーというのを紹介していて、第3位がこのグレン・グールドだった。そこで、同じ番組を見ていた子ども達も、これまで何度もグールドのピアノ録音を聴いているはずなのに、テレビのアピール力で特にあまり興味のなかった次男が急に興味を持ったようで、今晩寝る前に、グールドが1980年に自分で選曲した「リトル・バッハ・ブック」を少し一緒に聴いた。

さて、このグールドのインヴェンションだが、通常の楽譜では、二声と三声の順に並べられているものを、わざわざニ声と三声の同じ調性の曲をセットにして、彼なりの理論で、配列した独特の曲順になっている。そこが面白いといえば面白いし、困ったといえば困ったことになる。オリジナルのCDでもそうなのかは分からないが、このCDでは、ニ声と三声がセットになって1トラックとなっており、単独で三声を聴こうとするのは結構面倒になる。

複旋律の音楽の基礎として、右手と左手を完全に独立させて弾く最初の曲集になるが、多くの豆ピアニストがこの曲集で最初に躓くとも言われている。観賞用として聞いても面白い曲集なのだが、自分で弾いてみようとすると、カノンでは、どうしてもどちらかの手に意識が行ってしまい、指がもつれてしまうので、ここを辛抱してがんばるのとそうでないのとでは、その先の音楽の豊かさが違ってくることは確かだろう。

グールドのピアノは、ミュージックカセットの時にもヘナヘナした音色が聞こえ、プリペアドピアノのようだと思ったが、安定したCDでも同じ音がする。相当ピアノをいじった頃の録音らしい。

参考記事:シフのJ.S.バッハ『インヴェンションとシンフォニア』

エッシェンバッハの『インヴェンションとシンフォニア』(カセットテープ)

追記:2008/09/27

カセットテープを引っ張り出してきたところ、その当時この曲順の配列がどのような関係調に基づくものか調べてメモしてものが出てきたので、間違っている部分もあるとは思うが備忘録として書きとめておこうと思う。

第1番ハ長調 ⇒ 同主調 ⇒ 第2番ハ短調 ⇒ 平行調 ⇒ 第5番変ホ長調 ⇒ 属調 ⇒ 第14番変ロ長調 ⇒ 平行調 ⇒ 第11番ト短調 ⇒ 同主調 ⇒ 第10番ト長調 ⇒ 属調の平行調 ⇒ 第15番ロ短調 ⇒ 下属調 ⇒ 第7番ホ短調 ⇒ 同主調 ⇒ (ここからB面)第6番ホ長調 ⇒ 下属調の同主調 ⇒第13番イ短調 ⇒ 同主調 ⇒ 第12番イ長調 ⇒ 下属調 ⇒ 第3番ニ長調 ⇒ 同主調 ⇒ 第4番ニ短調 ⇒ 平行調 ⇒ 第8番ヘ長調 ⇒ 同主調 ⇒ 第9番ヘ短調

最後に第9番ヘ短調の二声と Con spirito 三声 Andante espressivo BWV795 を持ってきたのは、角倉一郎氏のパンフレットの解説によるとこの曲がバッハの生前から高く評価されたもので「切々と迫る表現の深さと比類のない対位法技術」が特徴とされる。また、全音の楽譜の解説にも異例なほど楽曲に関する賞賛が見られる(3つの主題は・・・人間の裸になった魂の奥底の叫びであることに間違いない。・・・3つの姿が縦横に表現されるというのは、まったくバッハの持つ空間の偉大さにうたれるのである)。 その意味で通常の曲順で聴くよりも深い感慨が得られるこの曲を最後にもってきたグールドの慧眼には、今回聴き直しても改めて恐れいった。

2008年9月24日 (水)

2008/09/24 朝日 夕刊 環境エコロジー ライチョウ保護のために「害獣」駆除?

先日のTBSの番組に続いて、今度は新聞でも「脅かされるライチョウ」 高山にサル・シカ 南アルプスでは20年で(ライチョウが)急減という特集記事が掲載された(署名記事:編集委員 武田 剛)。

見出しでは、「食害が深刻化 お花畑も消失」 「温暖化の影響か 早急な駆除が必要」と、対策としては、シカやサル、キツネを害獣として駆除すべきだという結論が読み取れるようになっている。

現代のこの温暖化により、中部山岳地帯の高山や関東山地などでシカが越冬して繁殖しており、このような現象を引き起こしているのだろうが、それでは、歴史時代より前の温暖化期(このブログで一つ覚えに引用する縄文海進時代など)は、これら生物の勢力図はどのようだったのだろうか?温暖化時代には、1000mを越す高地にも縄文人たちが大きな集落を営み(八ヶ岳山麓など)、その頃にはシカやイノシシ(そしてオオカミ)などの獣が高山にまで進出し、ライチョウなどもその生息域を相当北に追いやられていたのではあるまいかと思う。

単純な駆除という考え方では、今度はニホンジカが絶滅しかかったらどうするのか?一時期、ニホンジカも絶滅が心配された時期もあったように記憶する。

いずれにしても(人為によるか否かわからないが)温暖化により生息数が増えた動物が他の動物を圧迫するとういのは、小笠原の野生ヤギなどとは違って自然現象の一つなので、うかつに駆除などという方法で人為を加えないほうがいいように思う。

ビゼー 交響曲 ハ長調

Seiji_ozawa_emi_7cds_2 ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)
 交響曲 ハ長調
  Ⅰ Allegro - Allegro vivo    10:20
     ⅡAndante - Adagio         10:09
     ⅢScherzo (Allegro vivace) 5:54
   ⅣFinale (Allegro vivace)    8:55

   (1855作曲/1933発見/1935初演)

小澤征爾指揮 
 フランス国立管弦楽団 ( Orchestre National de France)

佳人とか佳句、佳品というような言葉はあるが、佳曲という言葉はあまり一般的ではないようだが、このビゼーの若書きの交響曲を評する言葉として、佳曲という言葉が用いられたのを読んだ記憶がある。

名曲、傑作というほど優れた作品ではないが、捨てがたい魅力がある曲というような評価からそのような言い方をしたものだろうか。

ビゼーがわずか17歳の時1855年に作曲したものの、そのまま埋もれてしまい、主要作曲家の作品表 ビゼーの欄によると、1933年に発見され、1935年に初演(フェリックス・ヴァインガルトナーの指揮)されたもの。

フランス系の交響曲作家としては、ベルリオーズが別格的な存在で、既に1830年に『幻想交響曲』を完成、初演しているが、その他現在でも一般的に聞かれるフランクのニ短調は1889年、サン=サーンスの3番は1886年、デュカのハ長調が1896年、ダンディの「フランスの山人」が1886年というように19世紀末に固まっており、早熟の天才ビゼーの開花がいかに早かったのかを知らしめる作品だ。

17歳の習作ではあり、形式や調性的には一時代前のシューベルトの若い頃の作品に通じるような作品だが、その初々しい魅力と、達者で透明な天才的なオーケストレーションが聞かれる曲で、栴檀は双葉より芳しの典型例だ。

小澤征爾の指揮によるフランス国立管弦楽団のこの演奏は、比較的シンプルなこの曲の透明感を損なうことなく、丁寧に再現している。

第一楽章のワクワクと沸き立つような楽想の連続、第二楽章の物悲しく美しいオーボエのソロ、第三楽章のスケルツォの荒々しくない活発さ、そしてフィナーレの無窮動的な楽想。そこここに、後年、アルルの女やカルメンで聞かれるモチーフやフレーズが見え隠れするようで、気楽な気分で聴いていながらダルにならずに楽しめる交響曲というのもそうはないように思う。

ただ、フランスのオーケストラは、ヤノフスキのフランス放送フィルハーモニー管弦楽団で、フォーレの『ペレアスとメリザンド』の冒頭を聴いてそのフワっとした響きに心底驚かされたが、なかなか音盤ではそのような音色は、録音、再生機器の双方の限界もあるのか味わうことができないのが残念だ。

参考:1820年代から1840年代の著名作曲家の生年をビゼーを中心に逆順に並べてみると下のようになる。

                                                           
Rimsky-Korsakov1844
Sarasate1844
Grieg1843
Dvorak1841
Chabrier1841
Tchaikovsky1840
Musorgsky1839
Bizet1838
Bruch1838
Saint-Saens1835
Wieniawski1835
Brahms1833
Borodin1833
J.Strauss Ⅱ1825
Bruckner1824

2008年9月23日 (火)

JR東日本 横浜線 開業100周年

最寄の鉄道、JR東日本 横浜線が 2008年9月23日の今日がちょうど開業100周年ということで、小机駅という横浜国際競技場(日産スタジアム)の最寄駅としてイベント時以外は乗降客も比較的少ない駅で、100周年開業イベントが開催され、子ども達と見物に行ってきた。

メインイベントは、特別列車の運行と、列車の展示、開放で、相当の数の鉄道ファンが訪れていた。

元々は、南信州(伊那、諏訪地方)や甲州の生糸を八王子経由で横浜に運ぶルート(いわゆる絹の道、シルクロード)が江戸時代末期からあり、その交通の便を改善するために私鉄として開設されたものだったようだ。1908年と言えば、明治時代末でもあり、この鉄道の開設はどの程度の効果を上げたものだろうか?

現在は、横浜市北部、東京都町田市、相模原市、八王子市といったベッドタウンを結び、そこに交差する数多くの会社線(私鉄 京王、小田急、東急、横浜市営地下鉄)などを利用する通勤、通学客が利用する郊外線で、単位客の乗車距離が短いことにより、JR東日本管内では比較的収益率が高い路線ということだが、使用されている電車は往時から相当旧型のものが多く、現在も205系の20年選手が走っている。

小机駅前の秋祭りも協賛?

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横浜線 205系電車(最後尾) @新横浜
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イベント列車 横濱線100周年号 485系「やまなみ」(東神奈川~八王子往復)@新横浜
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イベント列車横濱ものがたり号 485系「いろどり」(松本~東神奈川往復) @小机

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雲の風景 2008年8月31日 15時頃

デジカメ写真を整理していたら、子ども達の夏休み最終日に南の空を眺めていた次男が「素晴らしい雲の様子だよ」と呼びに来たので続けて撮影したときの写真があったので、以下にアップ。この8月9月は、「ゲリラ的集中豪雨」が日常的な天気になるほどの変わった天候が続いた日々だったが、中にはこのような美しい空の様子も見られたのだった。

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雲の風景というと、現在多くの作品が日本に来て展示されているフェルメールの『デルフトの眺望』の印象的な雲と空が思い出されるが、ちょうどそれを彷彿と させるような見事な情景を今年の春頃、横浜のみなとみらい地区の高層ビル群の方向に見えたことがあった。写真に残しておきたかったが、仕事中の移動の時 だったので撮影できなず、もったいなかったことも思い出した。

拝謝 30万アクセス(ページビュー)

久しぶりの秋晴れ。もう9月も下旬で、今日は秋分の日。世界広しと言えども春分の日と秋分の日という天文学的に意味のある日を祝日としているのは、日本以外には見当たらない。世界的には非常に珍しい風習のようだ。一方で、日本は夏至と冬至についてはお祭りがない。これもまた太陽信仰的には不思議な風習だと思う。

さて、2004年6月7日(月)にこのブログを開設してからのアクセス数(Page View数)が本日でちょうど30万件を記録した。エクセルで簡単に計算してみると1,569日目となる。

それこそ雑録の拙い記録にアクセスいただいた方々に深謝の意を表させていただきたい。漫然と書いてはいるが、コメントやトラックバックでなくてもこのようなアクセスがあるということは結構励みになっているものだから。

なお、30万アクセスとは言え、開設当初はこのココログには独自のカウンター機能がなく、ようやくアクセス解析がベーシックにも適用されるようになったのは、2006年5月18日(木)からだった。2006年5月18日から2008年9月23日までのアクセスは、235,827件 で一日平均270件ほどになる。

それ以前のアクセス数は、ホームページ「音楽の茶の間」のカウンターを兼用していたため、あまり正確なアクセス数ではない。兼用アクセスカウンターを使い始めた頃がちょうど7万件程度だったので、それがスタート数字になっている。

気の向くまま、風の向くままという融通無碍の生活には程遠い生活だが、少なくともこの電脳空間の中では、方丈とはいえぬが狭い集合住宅で、徒然なるがままとはいえぬが気の向くまま、自分の精神活動の一端を記していけたらと思っている。

2008年9月21日 (日)

クリュイタンス パリ・コンセルヴァトワール管の『アルルの女』と『カルメン』組曲

Cluytens_bizet

ジョルジュ・ビゼー  
『アルルの女』第1組曲   1. 前奏曲 7:10  2.メヌエット 2:50  3. アダージェット 3:12  4. カリヨン(鐘) 4:33

『アルルの女』第2組曲  1. パストラール 6:00  2. 間奏曲 4:51  3. メヌエット 4:20  4. ファランドール 3:28

『カルメン』組曲  1. 第1幕への前奏曲 2:18  2. 第2幕への間奏曲 1:45  3.第3幕への間奏曲 2:20  4.第4幕への間奏曲 2:13 

 アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団
  〔1964年録音〕 CTA CLASSICS SELECTION 27

いわゆる決定的な名盤と呼ばれるものが、クラシック音楽の音盤の中にはいくつかあるが、このCD(原盤は、EMIのもの)などはさしずめその中の一枚だろう。

ベートーヴェンやヴァーグナーもよくしたフランコ・ベルギー派の指揮の巨匠クリュイタンスが、関係の深かったパリのコンセルヴァトワールのオーケストラ(パリ管の前身)を振って録音したもの。

そのような天下の名盤だが、いつもの天邪鬼が嵩じて、EMIの正規盤ではなく、このようないわゆる著作権切れの廉価名盤集が中古店でさらに廉価で売られているのを求めてきて聴いている。(それで、音色の印象などは正規盤と多少違うという危惧はある。)

これまで、ビゼーのこれらの曲集は、やはり中古店で求めたカラヤン/BPOによる1980年代のディジタル録音のものを聴いてきた。この演奏はこのコンビ一流の磨きぬかれた優れた演奏には違いないが、ビゼーが作曲した南フランスの新鮮な空気を味わうというより、豪華だが重苦しい中欧の雰囲気を味わうような演奏で、それでも結構楽しめるものだった。

また最近入手した小澤征爾指揮のフランス国立管弦楽団の1980年代の録音は、フランス的な感性を持つ日本人指揮者が、敬愛を受けているフランスの楽団を指揮したもの(小澤征爾氏は、つい先ごろフランスの芸術アカデミーの正会員に選出されることが決定した!*)も繊細な手触りでありながら軽やかさを失わない丁寧な音楽になっていて結構好ましいものだった。

それらに比べてこのクリュイタンス盤は、より精彩のある音楽であり、またこの「アルルの女」「カルメン」という著名な作品が、人気のある傑作オーケストラ曲であることを示すばかりではなく、その音楽の実質、つまり内在する悲劇性を解釈と独特の響きが示唆しているかのようで、一種の凄艶な美しさを持っている。

楽器も(「のだめ」でその存在を知ったのだが)恐らくフランス風の楽器を用いているのだろう、第1組曲の第1曲の対旋律などは、いわゆるファゴットではなく、バソンだと思われる少しおどけたような印象的な音色を聞くことができる。さらに、その中間部などは、サクソフォーンの音色がなんとも悩ましく美しい。まるで、この戯曲にまったく登場しないヒロインの「アルルの女」を彷彿とさせるような音楽になっている。こうして聴いていると、音楽がこのように演奏されたがっているとでもいうような風に聞こえてくるから不思議だ。

決定的な名盤ではあるが、最初にこのように音楽的に強いアピール力を持つ稀有な演奏を聴いてしまうと、他の演奏が凡庸に聞こえてしまいがちになるのが、逆説的だが珠に瑕かも知れない。まずこのような有名な作品を聴く場合には、より一般的な普通の演奏から入る方がいいかもしれないなどとも思ってしまう。私の場合、カラヤン盤を結構長く聴いてからこの演奏を聴くようになったが、本当に新鮮な感激を味わえている。

現在、手持ちでは、小澤征爾盤、バーンスタイン/NYP盤(珍しいカルメン組曲第1、第2が収録)もあるので、その内聴き比べの記事をものしてみたい。

(*)小沢征爾さん、仏芸術アカデミー本会員に…日本人で初

 フランス芸術アカデミーは15日、指揮者の小沢征爾さんを24日に本会員として迎えると発表した。

Click here to find out more!

 仏芸術の発展に特別な貢献のあった人だけに与えられる仏芸術界最高峰の地位で、日本人が本会員に迎えられるのは初めて。小沢さんは2001年にアカデミーの外国人準会員に選ばれた。

 日本人では、これまでに小林与三次(故人)・元読売新聞社名誉会長、氏家斉一郎・日本テレビ放送網代表取締役、建築家の丹下健三氏(故人)が外国人準会員に選ばれている。(パリ 林路郎)

(2008年9月16日10時05分  読売新聞)

より詳しいブログ記事はこちら

9/21 TBSテレビ 13:00-14:00 噂の!東京マガジン『長野県の鹿害』

2008年8月18日 (月) ようやくネット再接続して帰省のあれこれ でニホンジカの食害によるのではないかと想像される八ヶ岳東斜面に目立つ土砂崩落に触れて以来、気になっていた。

昨日は台風一過の晴天に恵まれたが、今日は昼過ぎから雨が降り始め、家族ともども室内でダラダラしている。昼過ぎに、たまたま新聞のテレビ欄を見たが、噂の現場というコーナーで 「このままではシカノ県?長野に広がるシカ被害」 という文句が目に付いたので、テレビを点けて見るとちょうどそのコーナーが放送されていた。

シカが増えた理由について県は、天敵のオオカミがいなくなったことや狩猟者が減ったことをあげる。狩猟者はピーク時に19000人ぐらいいたが、今は約4 分の1の5000人ほどしかいないという。さらに、本来、シカは厳しい冬の間に雪が積もり、エサが無くなって死ぬことで生態系のバランスが保たれたが、最近は暖かい冬になって死ななくなったと指摘する。

オオカミがいなくなったのは、1905年のことなので、現在急に増えてしまった要因としてはあまりにも歴史的な経緯を無視しすぎているが、狩猟者の減少のデータは信用性が高いだろう。母の実家の近所の親戚も、冬には狩猟をしていたというが、最近母の世代や私達の世代では狩猟を趣味にする人は激減しているらしい。暖冬傾向による餓死の減少もその通りだろう。ただ、国立公園、国定公園内での狩猟自体が非常に厳しく制限されていることもあるようなのだが、それについては特に触れられていなかった。

以前から、日光の霧降高原や奥多摩、丹沢などでも鹿の食害が多く報告されてきたのだが、このような現象はまだら的に起こるのではなく、同時進行的におきているのではないのだろうか。イノシシの増加は、ブタと交配したイノブタが多産の素質を持ち、それが飼育場から脱走したことにより多産のイノシシが増えたという説もあるようだが、シカについてはどうなのか?

あの天井が抜けたような広大な美ヶ原の牧場内を、牛に交じってシカの大きな群れが餌を食みつつ移動するのは幻想的な光景だったが、そうのんきなことは言っていられない。御柱祭に使われるような樹齢100年を越える樹木も幹の下部の樹皮がシカに食われて枯死寸前とも言うし、高山のお花畑もシカに食い荒らされて絶滅が心配され、山地の崩落もそれに伴って起きる。

番組に登場した美ヶ原の人が言うようにあのつぶらな瞳の美しい動物を単純に射殺して、数を減らすというのは自然保護、動物愛護の観点からも矛盾のある話で、人為による単純な間引きは容易にはできないとは思う。番組自体も明確な結論が出せずに、ショーヘイちゃんという陽気な落語家も気まずい雰囲気で番組を閉めざるを得なかった。

『美味しんぼ第102巻 究極と至高の行方』(小学館BC1890 \524)

『ビッグコミックスピリッツ』が創刊されたのが、私が大学生の頃で、当初隔週発売だったこのコミック雑誌をやはり当時世の中に普及し始めた下宿の近所のコンビニエンスストアで買って読むのも一つの楽しみだった。どんな作品が連載されていたかはおぼろげな記憶になってしまったが、結構斬新な作品が多かったように思う。その後週刊化され、『めぞん一刻』のようなヒット作も生まれたが、中ではこの『美味しんぼ』がこれまで何と102巻を数える大長編として連載されてきたとコミック雑誌ということになるのだろうか?

最近は、まったく漫画雑誌も買わなくなったが、一時期はビッグコミック、そのオリジナル、スピリッツ、モーニングなど、子どもが生まれてからもしばらくは毎週買ってきて読んだものだった。

さて、この単行本だが、8月にブックオフで購入していたのだが、先日昼食を買いに出たコンビニの棚にビニールでくるまれて数冊並べられていたので、また新刊が出たのかと勘違いして買ったもので、中を開いてみたところ、先月廉価で買ったものだったので、少なからず衝撃を受けた。

この長い連載の中で、日本の食文化、グルメ文化について相当啓蒙的な役割を果たした著作であることは言を俟たないだろうが、ストーリー的には海原、山岡父子の相克の解決がずっと通奏低音のようになり続いていたもので、これが何とかこの第102巻で成し遂げられたことになった。究極と至高の最後の対決ということで、どれほど凄い料理、食材が出てくるのかと期待させたが、肩透かしを食らわすようなものだったし、父子の相克も、山岡の言ってみれば強度のマザー・コンプレックスと、海原の獅子は子を千尋の谷に落とす厳格で頑な姿勢との対立が続く、それほど共感の得られる図式ともいえず、どうもカタルシスの得られるような大団円とはならなかったようだ。

今後も、「日本全県味めぐり」という企画で、47都道府県を巡る企画が続くようだが、これまで青森、宮城、山梨、富山、大阪、高知、大分、長崎と取り上げられてきた内容については、同じ地方自治体内でも「おらが料理」もあるし、調理法も多岐にわたるので、結構無理やりのまとめになっていることが感じられる。最後の対決では、えてして総花的になり、その地方の食事の焦点がぼやけているようにも思う。たとえば、南北に長く、盆地ごとの独立性の高い信州などはどのように扱われるのか。相当力を入れて取材をしていることは確かだろうが、相当の取りこぼしもあるだろうし、またあまりにも欲張れば作品としてもまとまらなくなる。以前、鯉料理がこの『美味しんぼ』で取り上げられたことがあったが、その料理法も食材の生かし方も、鯉食が盛んな私の故郷のものとは違い違和感が残ったことを思い出すので、余計危惧が多い。

とはいえ、この料理、食材漫画が面白いことは確かで、このように文句をつけながら、単行本が発売されればつい買ってしまうだろう。

2008年9月20日 (土)

松岡圭祐『ミッキーマウスの憂鬱』(新潮文庫 ま-34-1) \438

一昨年、昨年とディズニーリゾートで結構楽しんできた。その折、アメリカのディズニー本社と日本のオリエンタルランドとの綱引き、埋立地と漁業権利権というビジネス上のシビアな話や、ディズニーランドには蚊がいない、VIP用の秘密クラブの存在、地下トンネルなどなどの都市伝説的な話が耳に入ってきて、この日本最大、世界有数のテーマパークについて、いろいろな意味で興味を持っていた。

先日、通勤電車の新潮文庫の中吊り広告で、この『ミッキーマウスの憂鬱』が文庫本としての新刊発売を目に留め、先日帰宅時に本屋で新刊(初版平成20年9月1日発行)で購入してきた。それまでこの作家の本を読んだことはなかった。全部で268ページなのと、文体が軽妙で会話体が多いので、あっけなく読み終えてしまった。

帯の惹句「バックステージへようこそ」「史上初!ディズニーランド 青春小説!」「読めば、ディズニーランドが100倍楽しくなる!さあ、あなたも登場人物たちと一緒に、夢と魔法の国の裏舞台で働こう。」そのものの内容で、ちょうど今、ディズニーランドのアルバイト(キャストと呼ぶ)の募集広告も列車内に大きく張り出されているので、なんだか大きなキャンペーンの一環かと疑ってしまうほどのタイミングだ。(ただ、初出は平成17年3月に新潮社刊行ということ。その時にも話題にはなったのだろうか?)

華やかな表舞台の裏舞台を見せるという覗き見的な欲望を満たし、適度にサスペンス要素を絡め、爽やかで勧善懲悪的なハッピーエンドなので、もし自分が若いフリーターで、これを読めばディズニーランドの裏方で働きたくなるだろうなと、思ったほど。その意味ではよくできた小説かもしれない。

ただ、少しネタバレ的な難点を言えば、重要なアイテムの防水性が問題だ。豪雨にさらされるような屋外に置かれていれば、たとえ水に漬かることがなくても、内部には相当水がしみこみ、その「物」は使い物にならなくなってしまっているのではなかろうか? ネットでこの点を検索してみたが、疑問を呈しているものは見つかっていない。私の深読みのしすぎなのだろうか?

とはいえ、「夢と魔法の国、笑顔と清潔な国」が人間の力でどのように支えられているのかということを認識することは悪いことではない。

著作権問題にしてもこの世界で最も有名なミッキー・マウスというキャラクターのコピーライトを延長するために、50年、75年と延長するようにグローバルスタンダードと称して騒動を起こしていることや、ブッシュ大統領の弟がディズニーワールドのあるフロリダ州の知事であることなど、また小泉時代の日本がアメリカの家来として振舞っていたことなど、結構辛らつな批評も小説中で書かれており、その辺りの方がストーリーよりも面白かったりもした。

2008年9月19日 (金)

台風13号接近中

気象庁 
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解析雨量・降水短時間予報全国

『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』(伊東信宏著 中公新書1370)

以前から読みたかったこの本をようやく8月末に「書店で」購入でき、先日読了した。

USAに移住する前に訪米した折にシゲティとワシントンの国立図書館でデュオリサイタルを開き、その時の録音が現在CD化されて、ブダペスト音楽院のピアノ科教授バルトーク・Bのピアノの腕前を聴くことが出来るわけだが、コダーイ・Zとともに東欧の民謡研究を行ったということは彼の小伝にも必ず登場する話とはいえ、その詳細はほとんど知ることがなかった。この新書は、知っているようで知らない「民謡研究学者」としての面からバルトークの生涯に焦点を当てた本で、この書籍は吉田秀和賞を受賞しているという。

新書ということで、一般向けの記述であり紙数は限られているが大変中身の濃い本だった。オーストリア・ハンガリー二重帝国下でのバルトーク達の日常生活では、彼らはチェコのスメタナがそうだっように一般的にはドイツ語が使用され、バルトークが受けた音楽教育も、バッハ、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスが主だったのだという。(モーツァルト、シューベルトは少し軽視されていたらしい)。

その中で、民族意識、ナショナリズムに目覚めながら、さてハンガリーの音楽とは何かと求めたのが、民謡を研究するきっかけだったようだ。というのも、いわゆるハンガリー風、東欧風は平行5度の使用や、五音音階の使用によって、「それらしい」風を漂わせたいわゆるお土産品的な音楽が多く、真性な民族音楽というものが見出しがたく、またリストやブラームスのハンガリー風の音楽も都会化したジプシー音楽(ロマの音楽)が主要素であり、それに対してバルトークは極度に批判的だったという。

面白いエピソードとしては、ラヴェルがヴァイオリンとピアノ(後にオーケストラ)によるリスト風の『ツィガーヌ』を作曲したのに対して、バルトークがその後、ラプソディー第1番、第2番という「リスト的」なハンガリー狂詩曲のモデルに従ったかのような曲を作曲したことだ。

なお、バルトークとコダーイによるヒガシヨーロッパ(及び北アフリカ)の民族音楽の研究は、分類上の困難や、分類の恣意性(非科学性)などがつきまとい、膨大な民謡と歌詞の集積にも関らず、必ずしも学問的に体系だった業績にはなっておらず、音楽的にはそれほど高い評価を得られていないというのはこの本を読んでの印象なのだが、体系的にはそうだとしても、蒐集家、マニアとしてのバルトークの克明な記譜を見ると鳥肌が立つほどの驚きが感じられる。学問体系としては完熟しなかったのかも知れないが、バルトークの音楽には民族的、民俗的な素材が再び命を授かったかのように、そのシンメトリーや鏡像的な音楽構成の中で生き生きと活動しているというのが、素人である私なりのこの本を読んでの結論だろうか。

その他、面白いエピソードとしては、p.179 に日本の言語学者である徳永康元氏がブダペストに1940年代に留学しており、その従弟である柴田南雄氏に徳永氏が買い求めたバルトークの楽譜を送り、それを元にして柴田氏がバルトークの作品の詳細な分析を書いたというのがあった。音楽之友社の名曲解説全集のバルートークの弦楽四重奏曲などは柴田氏の解説だが、非常に簡潔なものなので、どこかでその有名な詳細な分析を読んで見たいものだと思わされた。

2008年9月17日 (水)

須永朝彦『白鳥王の夢と真実 ルートヴィヒⅡ世』(新書館)

2008年7月20日 (日) 昨夜の『世界ふしぎ発見!』はルートヴィヒ二世特集 のときに、本の表紙画像をアップしておいたが、ようやく読了できた。

ヴィッテルスバッハ家というミュンヘンの王家と、ホーエンツォレルン家というプロイセン(ベルリンの王家)、そしてハプスブルク家というオーストリアの王家との関係などの大ドイツの基本的な地方と位置関係が、なんとなく分かったように思えた。

ヴァーグナーとの関係はそれこそ詳しく書かれており、また、婚約者ゾフィー・フォン・ヴィッテルスバッハとその姉、神聖ローマ帝国皇帝妃 エリーザベト(日本語風にはエリザベート)(この姉妹はルートヴィヒのとの父の従姉妹にあたる)との交流についても詳しく書かれていた。

日本で初めての詳しいルートヴィヒⅡ世の伝記ということだが、wikipediaの記述の誤りが直ぐに分かるほど詳しく、分かりやすく書かれていた。

鴎外の『うたかたの記』、ヴィスコンティの『ルートヴィヒ』についても触れられていた。 なかなかよい本だった。

事件ファイル #14 殺しのプレリュード ~ショパン 「24の前奏曲」

事件ファイル #14   殺しのプレリュード ~ショパン 「24の前奏曲」 依頼人 ディープ内藤 (高橋ひとみ) 職業 女流ミステリー作家

毎年恒例というわけではないが、先週は夏ばてで伏せっていた。身体だけでなく、精神的にも疲労がたまっている感じで、やる気も起きない。それまでの数日、自宅から最寄り駅まで歩くのがしんどいと感じたり、通勤カバンがやけに重くなっったと思ったりして、自分でも疲労が蓄積してきたなとはわかっていた。臥せりのきっかけは、夜中に下痢をして睡眠が十分取れなかったことで、その疲れがどっと表に出た感じで、意欲も湧かず三日間寝て過ごした。家においてあった少年漫画を連続して読んで時間をつぶそうとしたが、ときどき睡魔に引き込まれ、三日間相当眠ったし、夜もそれなりに眠れたので、やはり心だけでなく、身体も相当まいっていたのだろうと思う。

この三連休でようやく回復して、ビデオ録画しておいたこの番組を見た。全体的に取り上げられたショパンの『前奏曲集』の楽曲への様々なアプローチ解説は結構面白かったが、探偵物語としては少し行き詰った感があったかなという感想だ。

第4番のもの悲しい曲は、この曲集中唯一 ESPRESSIVO の表情記号が付けられた曲であり、またパリでのショパンの葬儀の際に演奏された曲だという。これまでも淡々とした美しい曲だと思っていたが、この曲で肝心なのは半音階づつずれていく左手の和声だということが、仲道郁代の実演とためし引き(メロディーを速く弾くと「エリーゼのために」の冒頭のよう)でよく分かった。

バッハの前奏曲とフーガ(平均律クラヴィーア曲集)に影響を受けたことは確かだが、なぜ「プレリュード」のみの曲集を作曲したのかは、この曲集のもっとも基本的な謎だが、玉川大学の准教授が私論と断りながら、それぞれの曲が次の曲への前奏曲になっているのではと語っていたのが面白かった。

また、非常に変わった第2曲は、いつまでも調が不安定であり、左手の伴奏部も少し発展すれば現代音楽のようだとの仲道さんの指摘も面白かった。

題名の「殺しのプレリュード」というのは、ミステリー作家に扮する高橋ひとみの書こうとする本の題名だが、これまでもこの探偵事務所の事件をネタにして数冊書いたという設定だ。助手や知り合いが探偵物語を書くという趣向だが、どうもこの辺りが少しストーリー的な行き詰まりだと感じたところだった。

さて、やはりこの曲の中心は、第15番の『雨だれ』で、単純なダカーポ形式のように思っていたが、穏やかな長調の部分が陰鬱な短調の部分に比べて短いというのは意外だった。

そして、最後の第24曲のラストの低音の単音の三音の意味は・・・

取り上げられたのは、10曲に満たなかったのは残念だった。前奏曲というだけあり、どの曲にも物語が付随しているように感じるから。

ショパンのこの曲は、LP時代からポリーニの録音で親しんだ曲だった。ちょうどA面とB面が第12曲と第13曲を分けていて、その変わり目が非常に鮮やかだったように感じていたが、CDになってからは続けて聴けてしまうので、そのような場面展開的な妙はあまり味わえなくなってしまったようだ。

全24曲を聴きたかったので、先にアシュケナージ盤についてもこのブログで記事にしたCDを取り出してきた。そのときも結構面白さを感じたが、今回聴きなおしてもショパンの音楽を堪能することができた。

実演では、仙台での学生時代に中村紘子女史のリサイタルでこの曲を聴きいた。バルトークの「戸外にて」とこの曲が主要プロであり、結構意欲的な演奏だったように記憶している。

この夏 太陽黒点が消えた! 地球寒冷化と太陽黒点  

太陽黒点が消えた! 松浦晋也「人と技術と情報の界面を探る」:日経パソコン オンライン

という記事を読んだ。

私のブログでも、地球温暖化の情報にもおびえながら、温室効果ガスによる温暖化と並行して、地球の活動、太陽の活動に伴う温暖化と寒冷化のサイクルについてもありうる話しだと思って、ときどき取り上げている。

以前のミランコヴィッチ仮説の実証だとか、第四間氷期だとか、温室効果ガス論議が原発推進派によるキャンペーンかも知れないとかの話がそれらだが、ここに来て興味深い解説記事を発見した。それが表題の記事だ。

黒点によって太陽の活動がどの程度活発かを知ることができる。太陽が活発に活動している時期は、多数の黒点が出現するし、逆にそうでもない時期には、黒点が減少する。

というのがこの観測から得られる眼目であり

太陽の活動は約11年周期で変動している。この前の極大期は2001年〜2002年だった。つまり現在は2012年〜2013年の極大期に向けて黒点が増え始める時期のはずなのだが、なぜか増えずに黒点が消えてしまったのである。2006年〜2007年の極小期にもわずかながら黒点は出現していたのに、今はそれよりも太陽活動が不活発になってしまっているのだ。

ここが非常に懸念される部分だ。これまでの研究から分かったのは

「太陽活動が不活発になると、地球は寒冷化する」ということだった。過去、何回も太陽活動の極小期が存在していることが知られている。もっとも有名な例は、マウンダー極小期というものだ。

そして、

もしも、このまま太陽活動が回復せずに、マウンダー極小期のような状態に入るとしたら、今後地球の気候は温暖かではなく寒冷化することになるかも知れない。  昨今、地球温暖化についてマスメディアでも色々な報道がなされている。が、実際問題として地球温暖化と地球寒冷化を比べると、寒冷化のほうがはるかに深 刻で恐ろしい。なぜなら、前にも述べたように、地球寒冷化は世界の食料生産に直接的な打撃を与えるからだ。

ということが現実にありうるということになる。

人類の知見は、その生物的な活動期間の短さにもあるのだろうが、基本的なところでは非常に幼いものだ、と偉そうに書いたことがある。

現在全世界官民一体となって温暖化防止に突っ走っているが、寒冷化対策について、人知をもっとつぎ込むべきではなかろうか? 近年のスペクタクル映画でも地球寒冷化を取り上げたものも少しずつ増えているのはそれに対するアンチテーゼだろうか。

一市井人の平凡な感想ではあるが、興味のある方は寒冷化について意識をしてもらいたいものだと思う。 何しろ、数千年前、それこそ自然による温暖化による縄文海進という関東平野が海の底だった時代にも、我々の先祖は生き残っていたという事実があるのだから。(縄文海進の原因についての一般向け情報 日本第四紀学会 Q&A, 縄文時代の江戸)

P.S. 暫くデプレッション状態で、休んでいたが、また雑感を書き付けたいと思う。 なお、9月11日になって突然黒点が12個も出現したという。

太陽風が人間に与える影響というようなオカルトめいた話しとしては、これにより生命活動(身体、精神)にも影響があるかも知れないという予測をする人もいるほど。

まったく一筋縄ではいかない「大」自然、大宇宙現象だ。 太陽黒点観測は、屈折式望遠鏡の投影法で中学校時代によく観測した。黒点の色の黒い部分、薄い部分など結構鮮明に観察することができ、スケッチをしたことを思い出す。

2008年9月 9日 (火)

事件ファイル #13 ドボルザーク交響曲第9番「新世界から」

事件ファイル #13 オフィスを揺るがす郷愁のメロディー ~ドボルザーク交響曲第9番「新世界から」 依頼人 富士山太郎 (山崎樹範) 職業 サラリーマン

8月に放送されたものだが、ビデオ録画をしていながらなかなか見る機会がなく、ようやく昨晩家族と夕食後に見ることができた。

この有名な交響曲の第2楽章と第4楽章を主に取り上げ、第4楽章で循環形式的に再帰する第1楽章から第3楽章までも上手く言及して、全体像を何とか短い時間の中で提示していたのはよかった。

黒人霊歌"Swing low, sweet chariot" と主題の類似だけでなく、チェコ民俗音楽の長短短長のリズムについても触れていて、なるほどと思った。

演奏は、渡辺一正指揮のNHK交響楽団の放送スタジオ収録だったようだが、楽器バランスの強調の関係で、結構面白い音響になっていて楽しめた。多くの演奏が結構マッスになって団子状に聞こえてしまうが、ファゴットがソロ的に一生懸命動いている部分とか、対旋律的な部分とか、相当工夫が凝らされているスコアのようだ。

事件としてのストーリーは、お茶会社が外資に買収され、日本人社員と外国人社員との溝が深まり、相談者である社員は辞表を覚悟しているというもの。その外国人社員たちが、この「新世界から」を聞き、日本人社員に向かって「イッショニ、ガンバリマショウ」というのが不思議で、その謎の解明を依頼にこの探偵事務所を訪れたということらしい。終楽章が「異郷の地でも故郷を忘れず、また異郷の地でなくては適わない経験や素材により、イッショに新しい飲み物を開発しましょう」という語りかけになっているという仕掛けとの解釈だった。このやり方で、循環形式のフランクやサンサーンの交響曲はどのようにストーリー化されるか、興味が湧く。この次の#14はショパンの「前奏曲集」。近日中に録画を鑑賞スル予定。

p.s. 響カノン役の黒川芽以のMay曲探偵ブログ!!というブログを発見した。

追記:2008/09/17

Kubelik_bpo_dvorak9 クーベリックとベルリンフィルのドヴォルザーク『新世界から』を正規盤ではないが、ようやく入手することができ、聴いてみた。ベルリンフィルにしては、鄙びた演奏をするというような評判を聴いていたのだが、どうしてどうして、これまでいくつか聞いて来た中で一番硬派な演奏だと感じた。

ベルリンフィルからこの曲でこのような表現を引き出すのはクーベリックの手腕なのだろうが、とにかく細部まで巧くてあいまいさがないベルリンフィルを十分に鳴らしきっており、特にティンパニの強打とブラスの強烈な響きが、心を抉るような悲痛さを持っているように思った。

この曲も『未完成』同様、人口に膾炙した泰西名曲として、のほほんと聴けるような曲ではないことを思い知らされるような、何か痛切な訴えかけを感じさせる演奏のように感じた。

ノイマン/チェコフィルの新旧の演奏、クーベリックのチェコへの里帰りでのチェコフィルとのライヴ、セル/クリーヴランド管、ワルター/コロンビア響、小澤/SFOなど少し偏ったコレクションで聴いてきて、比較的最近世評の高いケルテス/VPOのCDを聴き、その迫力には打たれたがそれほど音楽的に満足はできなかった。

それが、長らくドイツ民族の支配下にあり(スメタナなどはドイツ語しか話せなかったという)、共産主義政権を嫌いチェコフィル指揮者の地位を捨てて亡命したクーベリックが、東西対立の真っ只中のベルリンで、西側を代表するカラヤンの楽器ベルリンフィルを指揮してこれほど痛切な「新世界」を録音できたのは奇跡的なことだったかも知れないなどと少し大げさなことまで考えてしまうほど、この録音は今更ながらだが、訴えかける力を持ったものだった。上でも書いたが、強力なブラスの咆哮に負けない強靭な弦楽器とその間を縫うように響く木管がなんとも言えずすごく、音響の純度も高い。これほど鳴りのよい「新世界」もそうはない。ブラスなど威圧的なほどだ。

なお、耳のせいかどうか分からないが、クーベリックは、ベルリンフィルでも対抗(両翼)配置にして演奏させているようだが、どうだろうか?右チャンネルから第2ヴァイオリンが聞こえ、全体的に音のバランスが独特になっている。左からはホルンが、右からはトランペットが聞こえ、ティンパニも聞こえる。

2008年9月 8日 (月)

Google Chrome の速さと使い勝手

あまり使わないだろうと思っていた Chrome だが、いくつかの Google のネットサービスを試すうちに、この速さならば十分これらのサービスが使い物になると思うようになってきたので、これこそ Google が今回 Chrome を投入した理由ではないかと思い至った。(IT Media などの記事に同じようなことがもっと専門的に書かれているが。)

これだけ速ければ、Picasa(Web 写真サービス)、リーダー(RSSリーダー)、ドキュメント(ウェブ上のスプレッドシートやワープロ、プレゼンなど)、Gmail、 カレンダー、iGoogle、Map、Earthなどのサービスが、ストレスなく、オフラインのアプリケーションのように使うことができるからだ。

早速、いろいろなサービスを試してみたが、これまで IE6やFirefoxでは使う気にならなかったこれらのサービスがそれほど抵抗なく使える。

Chrome 自体まだ完成形ではなく、まだこのブログ記事も満足に書けないし、セキュリティのよしあしが定かではないのでネット上の様々な手続きなどには安心して使えないなど、問題はあるようだが、重要ではないサービスはいろいろと試してみるのが面白い。

2008年9月 7日 (日)

日本気象協会のページ 9/1からリニューアル

9月7日 17時過ぎから強い北風を伴う雷雨。マンションの北側通路やドアまでびしょぬれになった。

気象協会のブログで紹介機能を利用しての画像の貼り付けを試してみた。

2008年9月 6日 (土)

カラヤン/VPO ベートーヴェン 交響曲第7番<57>、『ロメオとジュリエット』<60>

Karajan_beethoven7_romeoandjulietベートーヴェン 
  交響曲第7番 イ長調 作品92
   11:37/8:35/7:38/6:41  〔1957*年3月、ゾフィエンザール〕

チャイコフスキー
  幻想序曲『ロメオとジュリエット』 作品13 20:34
   〔1960年1月、ゾフィエンザール〕

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (1999/8/27発売 KICC 9293 キングレコード)

これも最近聴いたグルダのシューマン ピアノ協奏曲と同じようにステレオ初期のデッカ録音。先日聴いたドホナーニの第7番の冷静な演奏との比較も興味があったので、取り上げてみた。

1960年より以前のステレオ録音となると少し古いなと思うが、あの見事な録音のショルティの『ニーベルングの指環』が1958年から収録が開始されたので、1950年代末にはステレオ録音のノウハウは確立されていたのだろう。

*カラヤンのディスコグラフィーを拝見すると、この録音は1959年3月の録音で、カラヤンのデッカへの初録音となっているので、1957年というのは、このCDの印刷時に7と9を見間違ったものかも知れない。

この録音は1959年という公算が強いが、その前年1958年にはショルティが、同じヴィーンフィルと交響曲第5番、第7番を録音している。これは『ニーベルング』プロジェクトをクナッパーツブッシュの代わりに引き受けてくれた御祝儀といわれているもので、以前5番を友人のCDで聴いたことがあるが、結構生々しい迫力の演奏だった。

さて、カラヤン/VPOの7番だが、1908年生まれのカラヤンは、50歳前後。ようやくベルリン・フィルの常任指揮者のポストに就き、ドイツ・オーストリアでの録音活動も本格的に再開しようとしていた頃だったのだと思う。(上記のディスコグラフィーを見ると、終戦直後には結構VPOを振っての録音が多く見られるが。)

私の耳の調子か、全体的に微妙なピッチが少し気になるし、やはりいくらデッカ録音といってもこの頃のものになるとさすがに弦楽器の高音が硬い感じだ。演奏上の特徴としては、第2楽章が多くの録音に比べてテヌート気味というかレガートを多用していることだろうか。カラヤン節はこの頃から現われていたようだ。

チャイコフスキーの『ロメオとジュリエット』は名曲の割りには、これまでPILZ系の録音しか手元になく、ようやく正規盤の録音が入手できたというもの。この曲が20分も要する大曲だということはあまり意識していなかったが、そのためもあり録音があまり多くないのだろうか?カラヤンとVPOのチャイコフスキーは、三大バレエの録音を以前から愛聴していたが、その一貫の録音だろうか? 許光俊は、この『ロメオとジュリエット』を題材にソナタ形式を説明していたが、確かに主題がくっきりと分かりやすく、なかなか巧みな解説だった。カラヤンの特徴はここでも出ているが、当時のヴィーンフィルは、後年のDG系の滑らかな磨かれたような録音とは違い、結構ナマっぽい音が出ている。そういう意味では、ショルティのベートーヴェン、ヴァーグナーもこれら一連のカラヤン録音も、面白い録音だと思う。

タイミング比較:

11:33/7:38/8:18/6:34  クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団〔1987年〕

このジャケット写真は、妙にクリアなものだが、襖のような背景などを見ると来日時のものだろうか?

2008年9月 4日 (木)

のだめカンタービレ#21

フジテレビの深夜アニメ枠のノイタミナ(ANIMATIONを逆から読んだもの。MOZART が自分のことを TRAZOM と逆読みで遊んだアナグラムと同じ発想)で、10月にアニメ「のだめカンタービレ」の続編(パリ編)をやるらしい。

ところで、CANTABILE という言葉だが、つい カンタビーレと言ってしまいがちになる。イタリア語では、後ろから第2音節に長音がくるのではなかったろうか?などと少しごねてみても、カンタービレが正しいようだ。さて、以下は少しネタバレ気味。

#21巻は、ラヴェルのピアノ協奏曲がストーリー上重要な扱いを受けている。ルイと千秋の共演により、「のだめ」のようだと皆から言われるこのピアノ協奏曲が演奏され、大絶賛を受け、のだめは相当深刻なショックを受けたようだ。

既に晩年の様相を呈しているシュトレーゼマンだが、のだめに頼られてまた復活の兆しが見える。メフィストフェーレスにたとえられるシュトレーゼマン。ファウストのだめはいったいどこへ行こうとするのか? 巨匠との共演はどのような反響を呼ぶのだろうか? 千秋との仲は?  オクレール先生がいよいよゴーサインを出そうとしていたコンクールへの参加は?

という感じで、結構シリアスな場面も出てきたが、音楽的には、主題提示のような、経過句のようなストーリーで、展開が待ち望まれるという感じだ。

音楽は、そのラヴェルの「ピアノ協奏曲」モーツァルト「パリ」交響曲、前巻でも重要な曲だったベートーヴェンの第31番のピアノソナタ、ガーシュインの「アイ・ガット・リズム」、ドビュッシーの「きらきらした曲」(楽譜の絵が書かれているが字が読めない)、黛敏郎の「舞楽」ムソルグスキーラヴェル編曲)の『展覧会の絵』。メフィストフェレスとファウストが登場するオペラはグノー作曲のものだろうか?ベルリオーズの『ファウストの劫罰』ではないとは思うが、ボーイトの『メフィストフェーレ』の可能性はある。そして、のだめがシュトレーゼマンと共演する曲は?

2008年9月 3日 (水)

カーゾンのグリーグ、グルダのシューマン ピアノ協奏曲

Curson_grieg_gulda_schumann_pianoco

グリーグ ピアノ協奏曲 イ短調 作品16
   12:40/6:06/10:20
 サー・クリフォード・カーゾン(ピアノ)
 エイヴィン・フェイエルスタード指揮ロンドン交響楽団〔1959年6月録音、ステレオ録音〕

シューマン ピアノ協奏曲 イ短調 作品54 
  15:24/5:24/10:38
 フリートリヒ・グルダ(ピアノ)
 フォルクマール・アンドレア指揮ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団〔1956年9月、ステレオ録音〕

またしてもグリーグとシューマンのピアノ協奏曲のカップリング。ただし、以前のR.ゼルキン、アントルモンの時と同じように、別々のピアニストによる演奏のカップリング。

カーゾンのグリーグは、フェイエルスタートの指揮と併せて古くから名盤として知られたもので、デッカ(ロンドン)からフェイエルスタートによる『ペールギュント』の音楽とのカップリングを見たことがあったが、グルダによるシューマンのピアノ協奏曲というのは結構珍しいものだと思う。それも、1956年という古い録音ながらステレオでの録音であり、またアンドレアという珍しい指揮者によるヴィーンフィルの演奏というのも面白い。(指揮者のフォルクマール・アンドレア Volkmar Andreae については、「スイスの音楽一家、アンドレーエ家」という記事や「スイスの指揮者たち」という、時折拝見しているBlog 「鎌倉・スイス日記」さんが作成されているホームページ「スイス音楽紀行」に所収の情報が詳しい。)

さて、カーゾンのグリーグだが、紀元前原住民であったケルト系の住むグレートブリテン島南部をローマ人を占領し前線基地を築き、そこにノルマン・コンクェスト(ヴァイキング)といったゲルマン系の民族の南進活動により、北方系のゲルマン人が混合したのが現代イギリス人の元になったものだと思うので、ブリテン人サー・クリフォードとノルウェー人グリーグは、そのような歴史的血縁的にもいろいろありそうな同士のものだけあり(?)、カーゾンのモーツァルトも素晴らしいが、このグリーグも相当聞かせてくれる。さらにフェイエルスタート(この人の経歴はまったく知らないが名前からいってノルウェー系だろう)の指揮がこの曲をよく知り尽くしたもので、普通のオーケストラからは聞こえてこないような音楽が聞こえてくるのも面白い。

F.グルダのシューマンは、その少し後のスワロフスキーとのモーツァルトでの自由奔放な演奏とは違い、至極まともな演奏だ。先日のツィメルマンのような細部への拘りやルプーのような非常に丁寧な仕上げとは違うが、若いグルダの達者なテクニックによって感興に満ちた協奏が繰り広げられる。音楽が滞らずにどんどん前進する趣きだ。

意外にR.ゼルキンもグルダもあまりシューマンの独奏曲では名を聴かないのは、ゼルキンの時にも感じたが、不思議だ。これほど協奏曲で見事な演奏を繰り広げているのだから、ソロももっと演奏してくれてもよかったと思うのだが。特に、グルダなどは達者な技術で、シューマンの錯綜した楽譜も問題なかったと思うので。

第一楽章は、ほどよくテンポを揺らしながら颯爽と駆け抜ける。しかし、引き締まった演奏なので、アルゲリッチのような恣意性は感じない。また第ニ楽章では、夢想的な音楽をオーケストラともども思いを込めてて奏でている。第三楽章は、雄弁なグルダのピアノが縦横無尽に駆け巡る。オーケストラのテンポ設定なのか少しユックリ目に感じるテンポ感だが、若い頃の方がピアノが巧かったとグルダが冗談半分で言ったのもあながち冗談ではなかったような腕の冴えだ。アンドレアの指揮は、それほど万全なものではないようで、第三楽章の合わせが難しい部分などやっとこ切り抜けたという感じだし、楽器のバランスや印象的なフレーズの強調など(解釈といえばそれまでだが)、グルダのピアノに対抗し支えるものとしては、少しオーケストラとしての協奏が物足りないように感じた。

よくステレオで録音されたと思えるほど1956年という初期のステレオ録音で、一応真ん中にピアノや木管が定位し、左側からヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと聞こえるようになってはいる。ピアノの音色は美しく録られているけれど、弦はハイ上がり気味でざらつきがあるし、トゥッティでは音の濁りが出るところもあるので、ヴィーン・フィルらしからぬ粗野な音色がする部分もある。それでも1956年の録音としては驚くほどの音質に仕上がっている。

Google Chrome Beta版のファーストインプレッション

Google が Fierefoxなどのオープンソースブラウザを利用して作成、リリースした Chrome Beta版がダウンロードできるようになったので、早速使ってみた。

http://www.google.co.jp/intl/ja/options/

ただ、さすがにまだBeta版だけあり、cocolog の投稿画面では、以下のようなメッセージになっていて、まだ完全に使いこなせないようだ。

ご注意:お使いのブラウザーはリッチテキストモードをサポートしていません。モードの選択に関わらず、プレーンテキストモードとなります。

それでも、このChromeの特徴は、とにかく動きが速いことだ。

Firefox3は、購読を大量に登録すると、最初の立ち上げに非常に時間が掛かるようで(ネットの回線スピードが速ければあまり気にならないのかも知れないが)、最近ちょっと気になっているので、そのような購読機能がない分だけ、このChromeは速いとも言えるので、そのような機能が追加されてからでなくては、どちらがいいかはまだ分からない。(現在ではRSSリーダーとしては使えないようで、FFからのブックマークもその分は継承されない。)

ブラウジングするだけなら、タブブラウザでもあり、非常に使い勝手がいいことは確かだが、ブックマークや履歴が、IEやFFと違っていることと、メニューバーがないのも少し勝手が違う。

あるレポートでは、IEとFFのどちらのユーザーを取り込む可能性があるかという予想が立てられていた。ブラウザを意識していないIEユーザーはあまり関心をはらわず、ブラウザに関心のあるFFユーザーが乗り換える割合が多いのではないかという予測だったが、乗り換えるかどうかは別にして、試してみる価値はあるだろう。

ただ、まだセキュリティ面などがどうか分からないし、FFのNo scriptのようなセキュリティ機能向上のアドオンもないので、まずは試してみるだけで終わりそうだ。

2008年9月 2日 (火)

フォン・ドホナーニ/クリーヴランド管のベートーヴェン第5、第7交響曲(テラーク)

Dohnanyi_clo_beethoven5_7

ベートーヴェン
 交響曲第5番 ハ短調 作品67

  6:58/9:12/4:45/8:13

 交響曲第7番 イ長調 作品92

    11:33/7:38/8:18/6:34

 クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮

 クリーヴランド管弦楽団

〔1987年9月20日 クリーヴランド、メイソニック・オーディトリアム〕

先日、FMラジオでドホナーニの健在ぶりを聴いたので、以前入手したテラーク録音のドホナーニの指揮によるベートーヴェンの交響曲第5番、第7番をもう一度聴きたくなり取り出してみた。

現在のこのオーケストラの音楽監督は、オーストリア人フランツ・ヴェルザー・メストのはずで、その前の音楽監督がドホナーニ、そしてその前がロリン・マゼール、ピエール・ブーレズ、ジョージ・セルとなるわけで、ピンチヒッターだったブーレズを除けば、それぞれの音楽監督がじっくり腰を据えている楽団だ。

ドホナーニの音楽監督は、1984年から2002年までで、その後桂冠(Laureate)音楽監督としての関係は続いているようだ。

Wikipedia によれば、在任中にヴァイオリンの対抗配置をレギュラー化したとのことだが、この録音の1987年当時は未だ通常配置だったようだ。

マゼールによるCBSへのベートーヴェン交響曲全集の録音が1970年代末だったので、この録音はそれから約10年後のものになるが、セル、マーゼルに次ぐ全集になった

ドホナーニの指揮する音盤は、以前記事にしたVPOとの『ペトルーシカ』と『不思議なマンダリン』があるが、徹底的に細部までスコアを具現化しながら冷え冷えしたユーモアが感じられる不思議な音楽だった。その点、同じハンガリー系であるリアリストのセルの衣鉢を継ぐようだが、セルの音楽の前向きの明朗さよりも、何か冷え冷えとしたものを感じさせる。

第5も第7も本来的に音楽の持つ性格は熱いものだが、1981年に録音された同じUSAのオーケトラ ボストン・シンフォニーを指揮した小澤征爾の同じテラーク録音と同様、技術的には完全に演奏されており、躍動感もある演奏なのだが、なぜか空虚感の残る演奏だと思う。

1980年代といえば、YMOなどのテクノポップが世界を席巻していた頃でもあり、無機的なリズムマシンなどが耳新しく感じられていた頃で、クラシカル音楽の世界でも、極端にザッハリヒな演奏が好まれたのだったろうか?

なお、第5の第1楽章のコーダ直前の、ホルンの拡大音価による『運命』のモットーは、セルの時代と同じく明瞭に奏でられていた。(マゼールは?)

録音は、小澤/BSOのテラーク録音よりも各楽器の音が明瞭に録られており、低音のもやつきもないもので、非常にクリアなものだ。

第5のタイミング的には、カラヤン/BPOの1977年の演奏に全体的なプロポーションも含めて近い。


第5番のタイミング比較

フォン・ドホナーニ/CLO<1987>            6:58/9:12/4:45/8:13

クリュイタンス/BPO<1958>                  8:24/9:51/5:29/9:08
クレンペラー/PO<1960>                    8:52/11:08/6:13/13:18
カラヤン/BPO<1977>                        7:07/9:27/4:37/8:38
ブロムシュテット/SKD <1977>              8:05/11:21/8:53/8:52
K.ザンデルリング/PO<1980?>             8:04/10:38/6:05/10:23
飯守泰次郎/東京シティ・フィル             6:50/ 9:11/ 7:33/ 10:13
---
ライナー/CSO<1959/5/4>          7:30/10:05/5:26/8:01
セル/CLO<1963/10/11&25>         7:31/10:01/5:30/8:32
セル/VPO<1969/8/24>            7:45/10:13/5:35/8:34(拍手を入れて9:12)

フルトヴェングラー/BPO<1947/5/27Live>  8:44/10:55/5:37/8:11
バーンスタイン/NYP<1961/9/25>      8:38/10:11/4:59/11:27
バーンスタイン/VPO<1977/9>        8:38/10:19/5:23/11:17
C.クライバー/VPO<1974/3&4>        7:17/9:56/5:07/10:48
小澤/BSO<1981/1/24&26>         7:15/10:18/5:26/8:24
ジンマン/チューリヒ・トーンハレ
        <1997/3/25&26>        6:49/8:45/7:19/10:25

2008年9月 1日 (月)

『ポニョ』と『トトロ』のテーマ音楽の出だしが同じ!? などなど

昨夕、NHKTVの総合放送で、久石譲の武道館コンサートの抜粋が放送され、途中から家族で見た。マーラーの千人の交響曲を越える規模のオーケストラと合唱団やバンダのことが新聞記事に出ていたが、あれだけの大空間にしては、録音が巧かったのか、結構遅延などもなく、まあまあのアンサンブルで演奏されていて驚いた。

ところで、これを聴きながら、次男が現在ヒット中の『崖の上のポニョ』の主題歌の冒頭「ポーニョ、ポニョ、ポニョ」の最初の三音が、『隣のトトロ』の冒頭『(となりの)トットロ』のトットロの三音と同じ?ことを発見した(?)。言われてみれば、三音だけの類似性だけれど、結構面白い発見だと思った。「真っ赤かの」というポニョの歌に続いて「トットロ、トットロ」とつなげると、シュールな味わいになる!? こどもが呆れていた。

音楽探偵アマデウスは、昨夜はショパンの前奏曲集がテーマでビデオ録画したが、その前の週の『新世界から』も未だ見ていない。

8月初めには『のだめカンタービレ』#21が発売され、妻が買ってきたのを読んだが、展開が波乱味を帯びてきた。のだめの選択は、少し唐突過ぎるかも知れない。

今日から9月で、学校も始まり、通勤・通学電車の激込みがまた始まった。夏の疲れも出てきているので、結構しんどい。

帰路、今年できた駅ビルの8階にある本屋を覗いたところ、以前から欲しかった中公新書の『バルトーク』がようやく書棚に並んでいて、777円を出して購入してきた。冒頭を読んでみたが、野心作でもあるようで、面白そうだ。

土曜日は、ようやく引越し荷物で不急のものの荷開きを始め、CDを引っ張り出して棚に並べたが、作曲家別に分類するのもとりあえず面倒なので、ランダムに並べて行ったところ、あれ、こんなCDあったけ?というようなものが何枚も出てきて結構面白かった。普段整理整頓をしておくと、検索には便利だが、印象が固まってしまうようで、たまにはランダムアクセスできるようにするのも結構面白いかも知れない。

土曜日には、妻が借りてきたディズニー映画『魔法にかけられて』を見た。ディズニーが自らをパロディー化していて、結構シニカルな楽しみ方もできる映画だった。

『ルートヴィヒ2世』の単行本は未だ読み終えていない。ジブリ絡みでは、『ハウルの動く城』の原作(2巻)を長男が図書館から借りてきて熱心に読んでいたので、本屋から買ってきてやったのだが、最近読み始めたらこれまた面白い。イギリスの現代作家のディアナ・ウィン・ジョーンズという人の作品。映画も相当原作を下敷きにしているのがよく分かる。

CDも新品、中古とも結構買ってきた。パガニーニの「カンパネッラ」が聴きたかったので、アッカルドとデュトアの第1番と第2番のカップリングのもの。ミケランジェリのドビュッシー『前奏曲集』第1巻。R.ゼルキンのモーツァルトの協奏曲20、21、23、27。コンツェルトハウス四重奏団のハイドンの『雲雀』、PJBEの『星条旗よ永遠なれ』、ショルティ/CSO『大地の歌』など。

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