倉田百三『出家とその弟子』(DS文学全集 青空文庫版)
昨夜は、伯母の逝去の知らせを聴いて、ありし日の伯母を偲んでいたこともあり、なかなか寝付けず、フォーレのレクィエムを聴いた後、ベーム/VPOによるモーツァルトの『レクィエム』を『ラクリモーザ』まで聴き、その後DHM50所収のラッスス(ラッソー)の『レクィエム』(プロ・カンティオーネ・アンティクァ ブルーノ・ターナー指揮)を初めて聴いた。ラッススの宗教音楽は、以前Archiv Produkution 盤(1994年の生誕400年記念盤)で、少々硬苦しいイメージがあったのだが、この無伴奏の『レクィエム』の美しさには驚かされた。このような美しいレクィエムがあったとは知らなかった。また、プロ・カンティオーネ・アンティクァは、上記の400年記念盤でも歌っていたり、パレストリーナのミサ曲選集(Brilliant)でも聴いてきたが、このDHM盤ほど美しい演奏にはめぐり合ったことはなかった。
さて、これらの鎮魂曲を聴きながら、先日来任天堂DSというポータブルゲーム機で読んでいる倉田百三の『出家とその弟子』を読み終えた。
学生時代に岩波文庫版で読んだことがあった(現に実家の本棚にある)のだが、感銘を受けたことは覚えているのだが、内容をすっかり忘れてしまっていて、今回初めて読んだような気分で、少し不思議だったけれど、昨夜はちょうど最終場の親鸞の往生の場面で、親鸞の師の法然がその老母に往生(臨終)の際の心構えを易しい言葉で噛んで含めるように書いた手紙を、女性の弟子(唯円の妻で、元遊女のかえで)が親鸞に読んでくれるよう頼まれて涙ながらに読むというくだりだった。
『歎異抄』を著したとされる親鸞の弟子唯円と親鸞が主人公のこの『出家とその弟子』だが、浄土真宗の根本理念「悪人正機説」を、分かりやすく説いている。そして、この信仰が、特にカルヴァンの『予定説』に非常に似ているものであることを、恐らく倉田百三は意識的に書いているようにも思えるが、そうではなくて、浄土真宗の理念と、カルヴァンの『予定説』(これ自体現在は議論があるようだ。高校の時の世界史の授業だったと思うが、この『予定説』についての説明にクラスメートと授業後に「わかんね~」と嘆いた記憶がある)が偶然にも、非常に似通っていたということは、大学時代のゼミで話を聴いたことがあった。
以前読んだときは、その辺りが面白かったのかも知れないが、今回は、上人とまであがめられた親鸞が往生に際して、断末魔の苦しみを恐れ、心を乱す様と、次第に心を落ち着かせていくさまが大変印象に残った。バッハのマタイ受難曲で、イエス・キリストが十字架上で「神よ、なぜ私を捨て給うのですか」と歌う部分は非常に印象的だが、神の子、仏の子とまで呼ばれる人物であっても、死への恐れと瞬間によぎる懐疑心について深く考えさせられるシーンだった。
今日は、夕方、職場でお世話になった方の先日亡くなったご母堂のお通夜に参列してきた。お母様の最期の時まで、孝養を尽くされ、80歳を越える大往生だったこともあり、看取った本人はさすがに大変寂しそうではあったが、後悔は勿論あるだろうけれど人事を尽くしたという感じがあり、穏やかな儀式だった(ちょっと表現としては雑だが)。
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