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2008年10月の17件の記事

2008年10月31日 (金)

10月の10番はマーラーの交響曲第10番

先週の日曜日の体育祭で、父兄飛び入りの綱引きがあり、以前隣近所が参加する運動会で綱引きでがんばった翌日に筋肉痛で参った記憶があったので少し躊躇したが、長男の手前出ないわけにも行かず出場した。綱は比較的細く、がんばって引っ張って1勝1分けの成績だったのだが、やはり月曜日から上半身が痛み、また風邪もぶり返してしまい、この2週間ほど体調不良だった。どうにもこうにも風邪が抜けない。高熱は出ないが微熱で身体がだるく、くしゃみ、鼻水、喉の痛みの後の咳と痰。

そんな中、10月の10番には何を聴こうかなどと場違いのようなことを一方では考えていたが、このブログではあまり取り上げることがない、マーラーの交響曲にしてみようかと思った。ハイドン、モーツァルトの10番は初期作過ぎるし、ベートーヴェン以降では、第9のジンクスで、一般的に著名なところでは、ショスタコーヴィチくらいしか10番を完成していないのではなかろうか?

有名な10番というと、そういうわけであまり思い浮かばないのだが、未完成ながらマーラーの第10交響曲というのは、第1楽章は一般的によく聴かれているし、第3楽章プルガトリオ(煉獄)も時々収録されている。それに加えて、全楽章の補筆完成版がクックなどの努力により完成しており、これも多くの録音が出ているほど。その意味で、ベートーヴェンの第10交響曲とは相当復元の意味が異なっている。

本来、交響曲『大地の歌』が、第9交響曲という番号をつけられるべきであり(第8番『千人の交響曲』が交響曲というジャンル名を冠せられているので、当然『大地の歌』は第9であるべきだったと思う)、現行の第9番が第10番とされてもよかったのだが、マーラーの第9のジンクスへの恐怖により(?)、第9は第10とはならず、第10番は未完のまま残されたという経緯があるし、ブルックナーにも00番と、第0番(これは作曲者自身の命名)があるのだから、未完成の第9番もあえて言えば10番あるいは11番となってもよかったのかも知れない。とはいえ、マーラーもブルックナーも敢えて、第9番をベートーヴェンの「顰に倣って」しまい、第9番をジンクスとしてしまったところに、西洋音楽史におけるベートーヴェンの支配力が垣間見えるのかも知れないなどと大上段の言い方をしてしまうほど、ベートーヴェンは仰ぎ見る高峰だったのだろう。比較的多作だったグラズノフも第9番は未完であり、ドヴォルザークは生前は、現行の第9番『新世界より』は第5番だった。

さて、マーラーの第10のクック復元版の録音は、以前このブログで記事にしたことがあった。クルト・ザンデルリング指揮のベルリン交響楽団のCD。それ以前、ジョージ・セルがクリーヴランド管弦楽団とマーラーの第10番の第1楽章と第3楽章『プルガトリオ』を収録したCDを入手しており、またテンシュテット/ロンドンフィルのスタジオ録音盤の全集でも第1楽章が収録されていた。

FM放送時代では、比較的短い(ザンデルリングもセルも23分程度、テンシュテットは30分近いが)ので、エアチェックしやすかったせいか、テンシュテットの指揮のものだったか、コンサートの放送録音をエアチェックしてよく聴く機会があったので、マーラーの交響曲の中では、割と耳なじみになっていた。

その後、セル没後30年の時に、ストラヴィンスキーの『火の鳥』組曲などと一緒に収録されていた上記のマーラーの第10番の第1楽章と第3楽章『プルガトリオ』を時々聴いた。マーラーをそれほど録音していないセルだが、わざわざこの未完の第10番を収録したというのは、それほどこの第10番に魅力を感じていたのかと思われるフシがある。セルとクリーヴランド管の透明で硬質な響きはこの世のものとは思えないようなこの第10番によく似合う。柴田南雄の岩波新書『マーラー』は、各交響曲ごとに柴田による?標題的なものが書かれていた。引越しの荷物片付けが未だで今すぐ取り出せないのだが、第10番は「死後の世界」だったような記憶がある。マーラーはほんの50歳そこそこで亡くなったとは言え、功成り名を遂げたそれなりに完結した一生だったので、この未完の第10番の第一楽章には余計「死後の世界」のような一種不可思議な情景が目に浮かぶような気がする。ダンテのLa Divina Commedia(神の戯曲、神曲)に由来する煉獄篇Purgatorioの名を冠す第3楽章もその想像の糧となる。(『神曲』と言えば、原文が韻文を用いた戯曲調で書かれていることもあり、岩波文庫のものは古語を多く使っているためか、容易に読みこなせず、第1巻で積読になってしまっているが、最近の光文社文庫での『カラマーゾフの兄弟』のように是非現代文により新訳を望みたいものだ。)

テンシュテット盤は、セル、ザンデルリング盤に比べて非常にゆったりとしたテンポの演奏だ。このテンポは、通常行われている第一楽章のみの収録ということもあるかも知れない。テンシュテットのロンドンフィルとのスタジオ録音は、あまり録音が優れていないという評判(しかし、全集の諸井誠の解説では、初出のLP時代には、レコ芸の月評の録音評デ93点とか95点を獲得したこともあるという)だが、私のいつも聴いている携帯CDプレーヤーに廉価のステレオイアフォンでは、高音が丸められているせいか結構滑らかであり、解像度は高くはないがくっきりとした音像で結構聴き易いものだと思う(その後リマスタリングされて出た『大地の歌』は交響曲全集の音質とは相当違いがあるようで、広がりがなくて少々聴き辛いことが今回連続して聴いてみて分かった。演奏そのものは悪くはないのだが。)。第10番は、この全集の中では比較的初期に収録されたもので、後に喉頭がんで惜しくも逝去したテンシュテットの体調は未だ悪くなかった頃のものだと思う。というより、テンシュテットは、ようやく1970年代後半に名を上げてきたのだった。そのテンシュテットも既にこの世を去って久しい。

こうして第10番までをいろいろな曲で辿ってきたが、近代になるほど番号付きの曲では第10という名曲は少なくなっていくようだ。第11、第12となるとさらにそれらが少なくなってしまう。既に交響曲で知る限りでは、ショスタコーヴィチくらいしかない。また弦楽四重奏曲にしても彼しか知らない。11を1+1=2とするか1に戻るか、また12を3にするか2にするか、という反則技も必要かも知れないと思うほど、同じジャンルで10曲を越えるというのは非常に難しいことだということが今更ながら分かってきた。

2008年10月19日 (日)

長男の中学校の体育祭

長男の通っている中学校の体育祭が行われた。

金曜日からどうも頭痛がして微熱があったのだが、妻も同じらしく、昨日土曜日は今日の体育祭の参観に備えて、準備に出かけた長男を除いて大事をとって安静にしていた。軽い風邪だったようで、今朝は少しだるいながらも妻は早起きして弁当作りをして、長男を送り出し、その後少し経ってから、会場まで出かけた。

午前中は晴れ間が覗いたが、次第に風が強くなってきて、曇り空になったが、まずまずの体育祭日和で、なかなか趣向を凝らした競技などもあり、楽しませてもらった。

2000年から使い続けてきたMiniDVC用のSonyのハンディカムが、6月の次男の運動会の時にどうも故障したらしく、ようやく9月になって修理に出したところ、ヘッドドラムが擦れて故障したとの連絡があり、見積もりだと2万円強とのことだった。現在、DVC用のヴィデオカメラは、まだ需要があるようで、4万円から5万円ほどの低価格機がキャノンやビクター、ソニーなどから発売されているが、機能的には相当絞ったもので、液晶画面も小さく、次善の策としてはこれらの購入も考えたが、修理をすることにして、2週間ほどで無事に修理を終えてもどってきた。今日はそのカメラが活躍してくれた。ヘッドが新しくなったためか、映像も綺麗に写る。

8ミリビデオとこのminiDVCビデオで撮影したテープは相当の本数にのぼり、PCへのディジタル取り込みも試みたが、相当根気が必要でいまだまともに取り込めていないのが現状だ。専用デッキも8ミリとDVCでは規格が違うし、それぞれ購入するのも馬鹿らしい。再生機やテープの劣化も考えると早くディジタル化したいのだが、何かいい方法はないものか?

2008年10月18日 (土)

さそうあきら『神童』(双葉文庫 全3巻)

音楽漫画というといまや『のだめカンタービレ』の独壇場になってしまっているが、昨年実写版の映画(主演 成海璃子)が公開された『神童』(1997年から1998年雑誌連載)は、漫画としては比較的短編で、ピアノに特化してはいるが、音楽の扱い方については一歩先を行っているように思う。

以前、漫画喫茶が今ほど格差社会の象徴ではなかった頃、勤務先の隣のビルにあった漫画喫茶で、『ピアノの森』などと一緒に読んだことはあったのだが、ブックオフで文庫本が全巻揃って並んでいたので、購入して一気読みした。

結末は、非常にショッキングかつ感動的で、これは読んだことがなかったようだ。

巻末には、各話に関係した曲をBGMとして紹介しており、ドビュシシーの『映像』第2集第3曲『金色の魚』、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』(フランソワ)、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466(ゼルキン、アバド/LSO)を聴いた。モシュコフスキーやメシアン、ショスタコーヴィチなど結構マニアックな曲も取り上げられていた。プロコフィエフの第7ソナタ「戦争」(ポリーニ)も久しぶりに聴いたら、意外におもしろかった。

一気に読ませる力がある。耳から入る音以外の「振動」としての音について考えさせられる物語だった。

追記:書こうと思って忘れていたが、第一巻 主人公、主要登場人物のうちの何人かの苗字が、JR横浜線の駅名に一致することに読みながら気が付いた。主人公は「成瀬」うた。副主人公は、「菊名」和音。菊名のライヴァル八王子。憧れの女性 相原。成瀬うたの野球チームのサードの強打者 長津田。(横浜線ではないが、小田急線の駅名 愛甲石田駅の愛甲。第二巻以降では、そのような法則性はないようだが。

2008/10/19追記 : 2008年7月 2日 (水) 『ボクたちクラシックつながり ピアニストが読む音楽マンガ』 青柳いづみこ (文春新書622)を読み直した。『のだめ』のほかに、『ピアノの森』とこの『神童』も題材にしていたエッセイだ。読み直してみて、特に最後の方の、職業としてのピアニスト、音楽家の厳しさに触れた部分などを読むと、気軽に音楽を聴いて、好き勝手に感想をこのようのブログなどに書き付けていることが申し訳なくなるような感じだった。

過去の名演奏のディジタルデータ化された記録が膨大になり過ぎてしまったこともあり、同時代を生き、演奏することによって生活している多くの演奏家のことをつい忘れがちになることに思いを至らせられた。温故知新だけではいけないのではないか?温故だけに偏って、知新を心がけていないのではないか?

2008年10月14日 (火)

事件ファイル #17 喋りすぎる男 ~リスト パガニーニ大練習曲「ラ・カンパネラ」

事件ファイル #17 喋(しゃべ)りすぎる男 ~リスト パガニーニ大練習曲「ラ・カンパネラ」2008年10月12日(日)放送  

依頼人 大下貞夫 (鈴木浩介) 職業 アナウンサー

筧利夫,  黒川芽以,  鈴木浩介, 【演奏】ピアニスト…小山実稚恵, 【VTR出演】音楽家…中川賢一(桐朋学園大学), 【語り】阪脩

過去記事で、リストの『ラ・カンパネラ』が収録されたCDについて書いたのは三件ほどだったと思うが、どの記事の時か、例の無料楽譜ダンウロードサイトのIMSLPで、"La Campanella"をダウンロードしてPCの画面に表示して楽譜を追おうとしたのだが、普通に演奏されている『ラ・カンパネラ』と異なるようで、CDの音楽に合わせて追えないので、不思議に思い調べたところ、現在の最終版の以前の稿だと書かれていた。

2006年6月 6日 (火) フジ子・ヘミング 「奇蹟のカンパネラ」

2006年11月12日 (日) ジョルジ・シフラのリスト ピアノ曲集

2007年9月17日 (月) ガヴリーロフのバラキレフ『イスラメイ』

今回の番組では、何と現在の最終版が第3稿であり、若いときの超絶技巧オンパレードの即興演奏的な第1稿、それに手を入れた(というか全面的に改稿した)第2稿(フラット系)、そして、後年になって第2稿を同名異音によって移調し(シャープ系)、高い嬰ニ音を響かせる現在の形にした第3稿最終版と三つの版があることが、非常にマニアックにも紹介され、あまつさえ、日本有数のヴィルトゥオーゾ(ザ?)である小山実稚恵女史により、全稿の演奏(全曲ではないが)を楽しめるという、非常に贅沢な内容の番組だった。

アナウンサーとしてのしゃべりの超絶技巧を持つスポーツアナウンサー(古舘伊知郎を思わせる)が、上司からしばらく実況放送を休むようにと言われてショックを受け、ベテランスポーツアナウンサーが実況前にリストの『ラ・カンパネラ』を聴いているという話を聞き、探偵事務所に復帰するためのヒントではないかとその謎解きを依頼に現われた。

史上初のピアノ独奏のみのリサイタルを始め、(また、暗譜演奏でも先陣を切ったと言われる)大人気ピアニストのリストが、当初の超絶技巧のオンパレード(アナウンサーとしての技術は凄いが、しゃべりの内容が伝わらず、ただうるさいのとパラレル)を反省し、音楽の内容が聴き手に伝わるように作曲、つまり作曲家として認められるように努力し(第2稿)、さらにさりげなく超絶技巧を聴き手を感動させるため用いた作品を楽譜に残す(第3稿)という過程を、小山女史の実演を交えて探偵が依頼者に解説し、それにより、アナウンサーも自己中なしゃべりの技巧のオンパレードから、超絶技巧を交えながらも、ただ饒舌に留まらない、話の間や内容が伝わるアナウンスができるように意識を変革できたというストーリーだった。

先日、アッカルドとデュトワによる原曲のパガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番を聴いたが、ヴァイオリンによる『鐘』の響きの模倣よりも、グランドピアノの高音の連打による鐘の音の方が確かに聞き応えがある。

小山実稚恵女史は、とにかく凄かった。嬰ニ音を鳴らしながらテーマを弾く、ニオクターブの跳躍、トリルとオクターブの連打などなど、この『ラ・カンパネラ』の技巧的要求は凄いものがあるが、ピアノを十分鳴らしながら、大変嫋やかな女性らしい優美な『ラ・カンパネラ』を奏でていた。

フジ子・ヘミングのゆったりとしたユニークな『ラ・カンパネラ』も面白いし、シフラの曲芸的なものも、ガブリーロフの余裕のある演奏も面白い(残念ながらキーシンのプロムスでの演奏はピアノが鳴りきっていなかった)が、このような模範的で衒いのない演奏で聴く『ラ・カンパネラ』も面白かった。

パガニーニは、このほかにもいくつかの主題を後世の作曲家に提供しているが、ヴァイオリンの超絶技巧だけでなく、メロディーメーカーとしての冴えもあったのだろう。

2008年10月12日 (日)

『ハリー・ポッターと死の秘宝』 日本語版を読んだ

2008年7月24日 (木) 7/23 ハリポタ最終巻日本語訳が発売されたが という記事を書いて原書読みに挑戦していたのだが、妻が図書館から運良くこの最終巻の日本語訳を借りて来られて読み終わったというので、家庭内で又貸ししてもらい昨日の土曜日ほぼ一日かけて読了した。

これまでも、ペーパーバックの"Harry Potter"シリーズを何冊か購入して、第5巻の"Harry Potter and the Order of the Phoenix" は、数年前ネットの読解サイトの力を借りて完読したが、今回のは日本語訳1年前だったけれど、ハードカバーということもあり、通勤バッグに入れて途中で読むわけにも行かず結局挫折し、日本語訳を読むことになってしまった。

途切れ途切れではなく、落ち着いて一気に読めたこともあり、またこれまで伏線が過剰に張られ過ぎていて、欲求不満が溜まっていたのをこの最終巻がそれなりに解きほぐしていたので、(よく使う言葉だが)「カタルシス」が得られたこともあり、(これまでの謎解き・説明編としてこの一巻の独立した作品としての価値を落とすような感は否めないが)、それなりに面白かった。

2007年7月28日 (土) ハリー・ポッターシリーズ これまでの6巻までに残された自分にとっての疑問集という恥ずかしい項目を列挙したので、どの程度解明されたかを一応書いてみようと思う。 

(1) なぜハリーはヴォルデモートに殺されなかったのか?
       リリー(ハリーの母)の愛が守ったとされるが・・・
    ⇒ 第7巻である程度解明されていた。少し理解しにく部分は残ったが。

 (2) リリーの姉妹、ペチュニアは純粋のマグルなのか?なぜペチュニアは嫌いな姉の
  子であるハリーを守るのか?ダンブルドアに脅されたからなのか?
    ⇒ これも詳しい説明があった。この辺りの回想が非常に面白かった。

 (3) シリウスが消えたヴェールの向こうとは何か?
    ⇒ ゴーストとしてこの世に残らない本当の死の世界ということらしい。

 (4) ダンブルドアは、本当に死んだのか?
    ⇒ これは、第7巻の要点。最後の方まで謎は明らかにされない。

 (5) ゴーストとしてのこの世に残る魂とそうでない魂の違いは?
    ⇒ この世への未練のようなものらしい。血まみれ男爵の謎も解明される。

 (6) 魔法省はイギリスのみに存在するのか? 三校対抗などでヨーロッパの
   他の国にも魔法学校があるということは、それぞれの国にも魔法省が
   あるのではないか?それらの人々が今回の魔法界の騒動にどの程度関
   与するのか?それともただ傍観するだけなのか?
    ⇒ 魔法省はどうやらイギリスにのみ存在するようだ。この設定は、初期設定
     (構想)の段階で設定してしまったのだと思うが、その後、読者層も全世界に
     広がったこともあり、最後まで違和感が残った。「外国の」魔法使いたちも関与
     はするが、主体的なものではなかった。

 (7)ディメンターや巨人族は、マグル界に姿を現すのか?ハグリッドの弟はどうなる
 のか?ドラゴンや魔法生物(ユニコーンなど)はどうなるのか?
   ⇒ これも第7巻ではそれなりに解決されていた。

 (8)ヴォルデモートの動機は何か? 単に永遠の生命を持ち、魔法界を支配したいだ
  けなのか? そのことが彼にとってどのような意味があるのか?
   ⇒ 最悪最強の魔法使いという割には、動機がお粗末だった。ただ、
     ヴォルデモートが「完全無欠の」「悪の」魔法使いならば、そもそもこの物語自体
     成り立たないのだから、この設定自体はやむを得ないのかも知れない。

 (9)ピーター・ペテグリューはなぜ裏切ったのか?
   ⇒ 裏切りは、彼だけではなかった。

 (10) なぜ多くの魔法界の人々がペテグリューのペテンにだまされたのか?
   ⇒ 魔法界の人々は結構、騙されやすいようだ。少なからず、「ひとがよい」人物が
     多いようで、「ひとが悪い」人物ほどこのシリーズでは目立った役割を果たすよ
     うだ。

 (11)魔法省の役人にはアンブリッジのような不正義な魔法使いが多いのはなぜか?
   ⇒ 本当になぜだろう。体制へ順応能力が高い=「白も黒といいくるめる」のが役人
      の特質だから?

 (12)ハリーの父親の家系はグリフィンドールなのか?
   ⇒ 第7巻で、さらにすごい物語が語られた。

 (13)スネイプは本当に裏切ったのか?
   ⇒ これが第7巻の目玉だった。言ってみれば、全7巻は、スネイプと
      ハリーの物語とも言える。

 (14)ハリーの友人ネビル・ロングボトムの両親が殺されなかったのはなぜか?
   ⇒ これは疑問として残る。それに比べて、それ以降ではあまりに魔法使い
      やマグルが簡単に殺されている。第7巻は非常にダーク(dark)である。

  (15)ハリーの両親が多くの遺産を残せたのはなぜか?先祖からの遺産か?まだ
   若かったジェームズとリリーにそれほどの収入があったとは考えられないだろう。
   ⇒ これは疑問としての残ったが、(12)と関係があるのかも知れない。

    これについては、「純血」魔法使いの家系だったと思われる、ハリーの父方の
    祖父母や父の兄弟姉妹たちなどの設定が抜けているのではないかという疑問
    が新たに湧いてきた。ハリーの父、ジェームズの家系については、本巻を除いて
    は、あまり触れられていなかったのではないか?

 (16)魔法界の予言は達成されるのか? (ハリーでもネビルでもヴォルデモートを
   倒す可能性があったというが、そのような不確かなものなのか?)
   ⇒ 予言は、やはり不確かなもののようだ。経済の予想もそうだが、それを知った
   人はそれとは別の行動を選択するようになるという側面もあるのかも知れない。

第7巻を読んで、図らずも一番泣けたのは、意外な人物(複数)の活躍とその最期だった。

この物語全体として、現実の世界に並行するように、実在の魔法界とマグル界というものが設定されているので、あまり寓話的、暗喩的な部分はないのだが、仮に魔法生物やしもべ妖精、小鬼(ゴブリン)などが、ヨーロッパ以外の他の人種を示しているとすると、相当厄介なことになるようにも思われた。

舞台が、UKやアイルランド、フランス、アルバニア、東欧か北欧のどこか、エジプトなどに限定されていることもあり、グローバルな広がりのある物語になっていないのだが、それら限定された魔法界とその回りに広がる異世界については、お話が現実のUnited Kingdomに即していることは、アジア人やアメリカ人、アフリカ人などにはいつも少々読み足りない点ではなかったろうか?

追記: 原題の "Deathly Hallows"

deathly 死のような、致命的な、死に関係するという意味。
 
Hallow 名詞としては、普通には「聖職者」という意味。Halloween と同じ語源。Saint のことになる。

しかし、物語には、『死の聖職者』にあたる「人物」は登場せず、「死の秘宝」という「もの」が登場するので、日本語訳としてはこちらの方が適当なのかも知れない。

なお、ハリーの母のリリーと、その姉妹ペチュニア(ハリーの育ての親)の少女時代が描かれるが、どちらが年長かということはあまりはっきりしないが、どうやらこの第7巻ではペチュニアが姉で、妹の魔法の素質に嫉妬するというストーリーになっている。ただ、英語圏ではどうも姉妹の長幼については結構あいまいでも問題ないようで、原作者と日本語訳者との初期のやり取りでの確認(リリーが姉で、ペチュニアが妹という設定の確認)とは矛盾した結果になっているようだ。中国語などでは姉妹の別はあると思うのだが、どうなっているものだろうか?

2008年10月11日 (土)

久しぶりに料理をした

妻が子どもの小学校の用事で学校に出かける予定があり、帰宅はお昼頃だというので、出かける前に何かお昼の準備をしようとしていた。見たところシチューだったので、たまには作るよと言って作り始めた。

独身時代や結婚後は、結構料理好きで、たまには本格的なカレー料理(玉ねぎを1時間以上、あめ色になるまで炒めて作る)などにも挑戦したりしたものだったが、ここ数年すっかり妻任せになっていて、たまに雨の日で外出せずに自宅でぐーたらしているときにちょっと腕を振るう程度となっていた。

人参、ジャガイモの皮むき辺りは久しぶりだったので要領は悪かったが何とか乱切り。子どもたちに外皮を剥かせた玉ねぎを涙を流しながら大量に切り、実家から到来のカボチャやミニトマトも切っておき、かぼちゃは電子レンジで少し熱を加えておく。それらを肉と一緒に大きい中華なべでしっかり炒めてから、寸胴の保温鍋の内鍋に投入し、水を適量加えてあくが出てくるまで煮込み、しっかりあくを取ってから、保温鍋を保温用の外鍋に入れて15分。そうするとしっかり野菜にも火が通り、このまま塩胡椒すれば、シンプルな野菜スープとしても美味しい。この段階で勝負は付くので、これが美味しい野菜スープに変身できないような味ならば、クリームシチューは諦めて、もっと濃厚な味のカレーに変身させるのも一つの手かも知れない。

さて、外鍋からまた内鍋を取り出して火に掛け、シチューのルーを投入し、溶けるまで弱火で煮込み、さらに牛乳を適量入れてひと煮立ちさせてから、また保温外鍋に入れる。10分ほど待つと、弱火でことこと静かに煮たのよりも優しく火の通った滑らかなクリームシチューが出来上がった。

妻もお昼過ぎには帰ってきて、簡単なメニューながらシチューを皆で食べた。

先週の深夜アニメの『のだめカンタービレ』は見逃してしまったが、コミックの方に千秋の作る「正しいカレー」とそうではない無手勝流の「のだめカレー」がある。今日作ったのは、少しアレンジはあるが基本に忠実な「正しい」路線だった。

いわゆる煮込み料理、煮物には大変重宝する保温鍋だ。昨夜はおでんだったが、野菜スープやポトフなどもとても美味しく料理ができる。火加減が料理には重要だが、エネルギーを余計に使わない保温技術で料理ができるのは、大変素晴らしい。

2008年10月10日 (金)

カラヤン/BPOの新ヴィーン楽派 オーケストラ曲集よりヴェーベルン作品集

Karajanneuewienerorchesterwerke

アントン・ヴェーベルン(1883-1945)
1.オーケストラのためのパッサカリア 作品1 12:08 〔1974〕
2.弦楽合奏のための5つの楽章 作品5 〔1973〕 
    2:41/2:05/0:43/1:27/3:20
3.6つの管弦楽曲 作品6 〔1973〕
  1:10/1:32/1:02/4:21/2:51/2:03
4.交響曲 作品21 6:44/3:28 〔1974〕

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 

昨年の7月に購入したものだが、シェーンベルクの『浄夜』を流し聞きで聴いたのみで、まだ全曲をしっかり聴いていなかったもの。オリジナル・ジャケットの幾何学模様でないのが残念だが、録音は1970年代のものにしてはすこぶる鮮明だ。

カラヤンが、なぜか自費を投じてまで録音をしたとされるこの新ヴィーン楽派の三人の作曲家のオーケストラ曲集だが、絶頂期のカラヤンとベルリン・フィルの演奏により、とっつきにくそうなヴェーベルンのオーケストラ曲も、音響の多彩さを味わいながら、結構楽しめて聴けた。

2曲目か3曲目は、小澤征爾とボストン響の来日(1980年?)の時に、東京文化会館で、シューベルトの『未完成』とバルトークの『オケコン』ととも聴いたものだ。どちらだったろうか?点描風の音楽が印象に残っているので3曲めの『6つの管弦楽曲』の方だろう。

これまで、シェーンベルク、ベルクはディスクで聴く機会があったが、ヴェーベルンはポリーニによる「ピアノのための変奏曲作品27」以外は恐らく初めてだと思う。

ただ、相当以前NHKFM放送の「現代の音楽?(20世紀の音楽?)」のテーマ音楽が、ヴェーベルン編曲によるJ.S.バッハの「6声のリチェルカーレ」(音楽の捧げ物より)だったこともあり、この一曲が非常に親しいものだった。多分、原曲の『音楽の捧げ物』を聴く前に、親しんでいたものと記憶する。今から思えば、非常に静謐ながら音色が多彩な編曲であり、夜中に一人でFM放送を聴いていると「王の主題」が静かに流れ始め、どことなく不気味なこの世ならぬ雰囲気になったのを思い出す。

ヴェーベルンの音色の多彩さは、このカラヤン盤でもよく表現されており、少ない音ながらよく言われるように「官能的」な音楽が聞こえるのは不思議だ。

新ヴィーン学派の音楽がこれほど面白く聴けるのは、(いろいろと悪口を言う人もいるけれど)一般的な音楽ファンにとっては福音だ。同時代の音楽に対して比較的冷淡だったというカラヤンだが、この録音を行ったことで、指揮者カラヤンの音楽家としての評価も少なからず変わったように聞いていたが、確かにそのような力をもった録音だと感じた。

2008年10月 9日 (木)

バーンスタイン/LSO の 『春の祭典』

Bernstein_lso_rite_of_spring

ストラヴィンスキー 
 バレエ音楽『春の祭典』 

レナード・バーンスタイン指揮
  ロンドン交響楽団
 第1部 15:38
 第2部 19:43
  〔1972年○Pマーク〕


2008年7月 4日 (金) ブーレーズ/CLO(1969年)の『春の祭典』にセルはどのくらい関与したのだろうかで、『春の祭典』の棚卸をやった後に購入したディスク。LP時代は、ストラヴィンスキーの頭部が「サイケデリック」な風景の中に置かれている?ような変なジャケットで発売されていたもので、あの異様なデザインは今でも覚えている。

The Great Collection Of Classical Music FDCA556のリーフレットは、名画が用いられているが、これはアンリ・ルソーの『眠るジプシー女』という題名のもの。

諏訪湖を望むハーモ美術館という小さな美術館は、このアンリ・ルソーを初めとする素朴派の作品を集めた美術館で、以前2回ほど訪れたことがある。ルオーの人物の顔を画面いっぱいに描いた(刷った)版画も所蔵していた。諏訪には、このほかにもエミール・ガレの名品を所蔵する北沢美術館とかその系列のルネ・ラリック美術館など、アール・ヌーボー、アール・デコのコレクションも多くみることができる。諏訪という狭い土地に、女工哀史の製糸工場の後は、諏訪精工舎を初め、北沢バルブなど比較的資本集積が進んで、その蓄積が美術に姿を変えたものだろうとは思う。

さて、『春の祭典』は、上記のブーレーズ以降、精密な演奏が一般的になっていて、先のブーレーズの記事で挙げた音盤の中で、ショルティ, C.デイヴィス,小澤,ドラティはそれぞれ個性はあるが、大雑把な分類では精密アンサンブル派と言えるだろう。ゲルギエフもさすがに20世紀末の録音だけあり、オケのアンサンブルは精密だ。ただし、解釈・表現は少し無理した個性派というところだろうか。

それらに比べて、ブーレーズ後の録音のこのバーンスタイン盤は、合奏の精度という点では非常に鷹揚なもので、2曲目の『春のきざしと若い娘達の踊り』では、ホルンのメロディーの前に、木管?がフライングで同じメロディーを先に歌ったミス(?)がそのまま収録されている。また、『生け贄の踊り』あたりでは、もっと煽りたいところだろうが、アンサンブルが破綻しそうなためか、少し慎重に指揮をしたのだろう、肝心の迫力がそがれているように聞こえるところもあるなど、精密派の潮流からは逸脱した珍しい録音だと感じた。まだこの頃はバーンスタインも若く、ニューヨーク・フィルの音楽監督を1969年51歳でに辞任した後、渡欧して活躍を始めた頃にあたっている。彼の音楽には、精密志向はなかったが、それでもDGに移籍してからの録音は、名門ヴィーンフィル、コンセルトヘボウなどのオーケストラの自発的なアンサンブルの力によって以前よりも粗さの少ない音楽を聞かせるようになったので、この時期の録音というのは結構貴重なのかも知れない。逆に精密派が大勢になると、むしろこのように粗いアンサンブルの録音が面白く感じたりするのだから自分も身勝手なものだ。

2チャンネルのステレオが、前後左右の4チャンネルに「発展」すると騒がれた頃の録音で、録音に特徴があるものなのか、非常にクロースアップされた音が入っていたりもして、冒頭のファゴットのキーのパタパタする音なども聞こえてきて、そういう面でも面白かった。

2008年10月 8日 (水)

ガーシュイン ラプソディー・イン・ブルー バーンスタイン(p)/LAPO

Bernsetin_lapo_american_music

バーンスタインの自作を含むアメリカ音楽のコンピレーションアルバム。

収録は表題曲と、バーバーの『アダージョ』、自作の『オン・ザ・タウン』からの三つのダンス・エピソード(イスラエルフィル)、『キャンディード』序曲、『ウェスト・サイド・ストーリー』からのシンフォニック・ダンス(最後に収録の『アメリカ』のみ1984年の特別編成オーケストラに全曲収録盤から)というもの。

ラプソディー・イン・ブルーは、バーンスタインの弾き振り。ロス・フィルとの収録は、1982年で、地元ロス・アンゼルスではなく、サン・フランシスコのDavies Symphony Hall というホールでのライヴらしい(まったくオーディエンスノイズは入っていないが)。

1918年生まれのバーンスタインなので、64歳のときの収録だが、ピアノも指揮も達者なものだ。(コロンビア響との古い録音が名盤として有名なようだが、未だ聴いたことはない。)

バーバーの Adagio for Strings は、ネヴィル・マリナー/AoSMITFのものと比べると、深々とした解釈だが、西海岸のロス・フィルの音の特徴なのだろう、少しあっけらかんとするほど、湿度の低い音楽に聞こえるのは不思議だ。映画『プラトーン』で非常に印象的な使われ方をしたこの音楽だが、未だ満足できる演奏・録音に出会ったことはない。

もし晩年のバーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックと演奏していれば、重厚で潤いのある音響が加味されて、粘りのあるバーンスタインの指揮により、さらに深い音楽になったのではないか、などと思ってみたりする。

追記:2008/10/10

ニューヨーク・フィルハーモニックとは、CBS録音でバーバーの『アダージョ』を録音しているらしい。

ノーベル賞

2008年のノーベル物理学賞に素粒子研究の分野で業績を挙げた日本人科学者米シカゴ大名誉教授で大阪市立大名誉教授の南部陽一郎氏(87)と高エネル ギー加速器研究機構(茨城県つくば市)名誉教授の小林誠氏(64)と京都大名誉教授で京都産業大理学部教授の益川敏英氏(68)の三人同時受賞のニュースに続いて、海洋生物学者が何と化学賞を受賞した。米ウッズホール海洋生物学研究所・元上席研究員の下村脩(おさむ)さん(80)という方で、水母(くらげ)の研究の過程で、緑色発光たんぱく質の分離し、その構造の解明に成功したのだという。この緑色発光たんぱく質が、生命科学の分野で分子にくっつけと行動を追跡する「道具」として広く使われているのだという。

比較的若い二人は日本在住だが、高齢の南部氏と下村氏は米国在住。殊に南部氏は40年以上前の業績に対する賞の授与で、この30年ほど毎年候補に挙げられており、日本では既に文化勲章も受章している学界では著名な学者だったようだ。

日本人同時受賞は喜ばしいことだが、そのような顕著な業績を挙げながら特に南部氏の場合、87歳という高齢まで長生きしなければ授与の栄に浴せなかったというのは、選考が少し恣意的なのではないかと思ってしまった。顕著な業績を挙げた人物が同時多発的に数多くいるのなら、それらの学者には一律に賞を授与すべきではなかろうか?そうすれば賞の権威が失われるというのだろうが、現在の年に数人という選考数ではあまりにも数が少ないように思われる。それこそ、ノーベル財団が選考しないような優れた業績の人物を他の財団が積極的に素早く顕彰するようなライヴァル的な賞の存在が必要なようにも思う。

これまでの科学史において、ノーベル賞は世界最高の科学賞ではあったとは思うが、世界的に同時進行的な研究でのタッチの差での論文発表とか(利根川進氏の著書に自ら書かれていた)、今回のような既にその世界では古典的な理論になっているような業績に対して、遅きに失したような授与だとか、なんとなくトンチンカンのような違和感を覚えている。

ノーベル経済学賞にしても、近年の受賞者達が金儲けに走って、世界の実体経済を病気にしたような気もするし、アル・ゴアの平和賞にしても最近のゴシップで相当味噌をつけているように思う。

ダイナマイト発明の罪滅ぼしとしてのノーベル賞だが、相当迷走気味なのではなかろうか?

P.S.小林、益川氏の ノーベル物理学賞にイタリア物理学界が猛反発というニュースがYAHOOニュース(スポーツ報知)に出ていた。他の一般紙には記事がないようだ。ニコラ・カビボ・ローマ大学教授が、小林益川理論の10年前にその基礎となる理論を発表しており、カビボ・小林・益川理論とも呼ばれることもあり、先駆者の偉業が無視されたことにイタリアでは反発が起きているらしい。同じ年には3人しか受賞できない規則があり、これまでも、同様のトラブルは起きていたらしい。

2008年10月 7日 (火)

倉田百三『出家とその弟子』(DS文学全集 青空文庫版)

昨夜は、伯母の逝去の知らせを聴いて、ありし日の伯母を偲んでいたこともあり、なかなか寝付けず、フォーレのレクィエムを聴いた後、ベーム/VPOによるモーツァルトの『レクィエム』を『ラクリモーザ』まで聴き、その後DHM50所収のラッスス(ラッソー)の『レクィエム』(プロ・カンティオーネ・アンティクァ ブルーノ・ターナー指揮)を初めて聴いた。ラッススの宗教音楽は、以前Archiv Produkution 盤(1994年の生誕400年記念盤)で、少々硬苦しいイメージがあったのだが、この無伴奏の『レクィエム』の美しさには驚かされた。このような美しいレクィエムがあったとは知らなかった。また、プロ・カンティオーネ・アンティクァは、上記の400年記念盤でも歌っていたり、パレストリーナのミサ曲選集(Brilliant)でも聴いてきたが、このDHM盤ほど美しい演奏にはめぐり合ったことはなかった。

さて、これらの鎮魂曲を聴きながら、先日来任天堂DSというポータブルゲーム機で読んでいる倉田百三の『出家とその弟子』を読み終えた。

学生時代に岩波文庫版で読んだことがあった(現に実家の本棚にある)のだが、感銘を受けたことは覚えているのだが、内容をすっかり忘れてしまっていて、今回初めて読んだような気分で、少し不思議だったけれど、昨夜はちょうど最終場の親鸞の往生の場面で、親鸞の師の法然がその老母に往生(臨終)の際の心構えを易しい言葉で噛んで含めるように書いた手紙を、女性の弟子(唯円の妻で、元遊女のかえで)が親鸞に読んでくれるよう頼まれて涙ながらに読むというくだりだった。

『歎異抄』を著したとされる親鸞の弟子唯円と親鸞が主人公のこの『出家とその弟子』だが、浄土真宗の根本理念「悪人正機説」を、分かりやすく説いている。そして、この信仰が、特にカルヴァンの『予定説』に非常に似ているものであることを、恐らく倉田百三は意識的に書いているようにも思えるが、そうではなくて、浄土真宗の理念と、カルヴァンの『予定説』(これ自体現在は議論があるようだ。高校の時の世界史の授業だったと思うが、この『予定説』についての説明にクラスメートと授業後に「わかんね~」と嘆いた記憶がある)が偶然にも、非常に似通っていたということは、大学時代のゼミで話を聴いたことがあった。

以前読んだときは、その辺りが面白かったのかも知れないが、今回は、上人とまであがめられた親鸞が往生に際して、断末魔の苦しみを恐れ、心を乱す様と、次第に心を落ち着かせていくさまが大変印象に残った。バッハのマタイ受難曲で、イエス・キリストが十字架上で「神よ、なぜ私を捨て給うのですか」と歌う部分は非常に印象的だが、神の子、仏の子とまで呼ばれる人物であっても、死への恐れと瞬間によぎる懐疑心について深く考えさせられるシーンだった。

今日は、夕方、職場でお世話になった方の先日亡くなったご母堂のお通夜に参列してきた。お母様の最期の時まで、孝養を尽くされ、80歳を越える大往生だったこともあり、看取った本人はさすがに大変寂しそうではあったが、後悔は勿論あるだろうけれど人事を尽くしたという感じがあり、穏やかな儀式だった(ちょっと表現としては雑だが)。

2008年10月 6日 (月)

事件ファイル #16 紬(つむぎ)の里から来た音盤~ムソルグスキー「展覧会の絵」

事件ファイル #15 起死回生のホームラン ~ガーシュウィン「ラプソディー・イン・ブルー」は、いつの間にか、見逃してしまった。2008年 9月28日(日) 午後11:00~午後11:45(45分)にBS2で放送されたらしいが、未だ再放送予定はアップされていない。

今晩は、事件ファイル #16 紬(つむぎ)の里から来た音盤~ムソルグスキー「展覧会の絵」 依頼人 織部 覧 (濱田マリ) 職業 ファッションデザイナー(2008年10月5日放送

(筧利夫,黒川芽以,濱田マリ,【演奏】管弦楽…NHK交響楽団,【VTR出演】玉川大学芸術学部准教授…野本由紀夫,愛知県立芸術大学准教授…安原雅之,日本フィル首席トランペット奏者…星野究,【語り】阪脩) をビデオ収録しておいたのを鑑賞した。

「キエフの大門」のエピソード、実際に黄金の門というキエフの古建築の改築案としてハルトマン(ガルトマン)が応募したのが現在残されているデザイン画だったということは半分は知っていたが、あの音楽の中で、木管楽器群が静かに奏でるメロディーはロシア聖歌を模したものだというのは解説をよく読まなかったせいか、今回なるほどと思った。また、あのデザイン画には、鐘が描かれているが、鐘の音をチューブラー・ベル(チャイム)で鳴らすのは、大門の鐘をそのまま現したものというのに初めて気が付いた。また、途中グロッケンシュピールで、プロムナードのテーマが現われるが、この「キエフの大門」のテーマ自体がプロムナードの変奏だということは、次男も気が付いていたので、それに触れられなかったのは少し残念だった。

ムソルグスキーのオリジナルの楽譜の文字や音符の美しさは驚くほどのものだった。風貌や音楽に似合わず、非常に繊細な性格がうかがわれる。

Bydlo は、愛知県立芸術大学准教授の安原雅之氏により、あっさりと、「ポーランド語で牛のことです。」と片付けられていたのは少々安直だったように思う。NHK出版から作曲家の團伊玖磨が『追跡ムソルグスキー「展覧会の絵」』という本を出しているくらいなので、簡単に片付けるべきではなかったのではあるまいか? 参考ブログ: ombramaifu 展覧会の絵・ビドロ、参考記事: 「展覧会の絵」を聴く3・・・ヴィドロの謎(沼津交響楽団■コラム:「~を聴く」シリーズより)と対立する見解があるようで、このBydloの解釈にも大いに影響してくるものだから。

クーセヴィツキーがラヴェルに編曲を委嘱したのだが、初演は、パリのオペラ座(勿論ガルニエ)で行われたというのは知らなかった。ボストン響との1940年代のライヴ録音を持っているので、ボストン響で初演したのかと思っていたので意外だった。

この夏にサントリー・ホールで、生演奏を聴いてお気に入りになった曲なので、子ども達も熱心に見入っていた。デュトワの指揮N響のコンサートの収録が番組では用いられていたが、やはりナマの迫力は印象的だったらしく、小太鼓がよかったとか、トランペッターにとっては吹き甲斐があるだろうがしょっぱなは緊張するだろうねといっぱしのことを言っていて面白かった。ちょうど、デュトアの指揮モントリオール交響楽団のCDがあったので、少し聴いたが、うまかった。

参照:自己記事 2006年11月17日 (金) ムソルグスキー『展覧会の絵』を聴く

 

伯母満80歳で逝去

2008年7月 9日 (水) 病の回復を願い ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第15番を聴くで 病の平癒を祈った伯母が今朝6時に逝去したとの知らせを午後に受けた。

ここ数年年賀状のやり取りだけになっていて御無沙汰続きで顔をあわせることはなかったが、子ども時代に可愛がってもらった思い出もあり、喪失感を覚えている。

今朝起きる前の夢見が不思議だったが、ちょうどその頃、満80歳の長寿をまっとうしたのだろうと思 うと不思議な感じがする。冥福を祈りたい。

先日は知人の御母堂を偲んでコルボのフォーレ「レクィエム」を聴いたが、今晩は同じフォーレの「レクィエム」のオリジナル第2版(ガーディナー)を聴いて伯母を偲びたい。

2008年10月 5日 (日)

カラヤン/BPO チャイコフスキー 交響曲第6番『悲愴』(1976年録音)

Karajan_tchikovsky_4_5_6

チャイコフスキー  交響曲第6番『悲愴』 

カラヤン/ベルリン・フィル
 (交響曲第4番('76)、第5番('75)、第6番('76)、2枚組み)






以前のブラームスの2枚組み全集と同様、これも1970年代のDG録音を2枚組みにしたお徳用盤。中古店で昨年12月に入手。

これも余勢を駆って、これまで聴いてなかった第6番『悲愴』を聴いてみた。

カラヤンの『悲愴』(DG1964年録音、イエス・キリスト教会)は、中学高校時代の数少ない手持ちLPの中の一つとして、(針圧が比較的軽く、大切に扱ったため擦り切れてはいなが)「擦り切れるほど」聴いたもので、『悲愴』の刷り込みがこの録音。意識してはいても、第1楽章の展開部の開始を告げる痛烈な一撃には、毎回驚かされた。

今回、未聴だったのも、そのイメージと10年後のこの録音が違い過ぎるのではという杞憂も理由の一つだったが、勢いで、聴いてみた。

少しボリュームを大きめにしてステレオイアフォンで聴いたのだが、ブラームスの交響曲の時と同様、とにかく豪華な音響に圧倒されてしまった。ブラスセクションの力強く整然とした強奏も凄いし、弦楽器群の水も漏らさぬようなアンサンブルと磨かれた音色も凄かった。

生誕100周年ということもあり、アンチカラヤンも少しは丸くなり、私のように聴いてみて再評価をするリスナーもいるのではなかろうかとしばし思った。

確かにブラームスにしてもこのチャイコフスキーにしても、その楽譜という素材を調理して出てくる料理はどれも濃厚で豪勢なものになっており、それがカラヤン的なのだろうとは思う。絢爛豪華さだけが、音楽の魅力でないことは確かだが、その絢爛豪華さも簡単に作り出そうとしても作れるものではないことも確かだ。他の多くの演奏を聴いてきて、カラヤンの録音を聴いてみると、音楽を味わうよりも、圧倒されるという感を強く持つ。

カラヤンはチャイコフスキーの後期の交響曲をこのセット以外にも何種類も、それこそ驚くほどの数の録音を残しているが、その思い入れというものはどこにあったのか、他の番号の録音を聴いてもすべて自家薬籠中のものとしており、間然とするところがない。そこがルーチンワーク的でつまらないという意見も当然あるが、なぜここまでチャイコフスキーにこだわったのか。アルメニア系とも言われるその家系伝説も少しは関係があるのだろうか?

2008年10月 4日 (土)

「地球温暖化の原因は太陽の活動」説を否定 2007年7月

アクセスログを見ていて、先日書いた記事2008年9月17日 (水) この夏 太陽黒点が消えた! 地球寒冷化と太陽黒点 が検索されたリンク元を見ていたら、「地球温暖化の原因は太陽の活動」説を否定する新論文(1)  2007年7月 9日 という記事を見つけた。

続きは、「地球温暖化の原因は太陽の活動」説を否定する新論文(2) 2007年7月10日 で見ることができる。

Sloan教授とWolfendale名誉教授は、宇宙線と地球温暖化の関係をこのように精査した結果、この説はさまざまな角度から反証できるとの結論に至った。

とのことだ。そして、

だが、チームがどれだけ確実な根拠を示しても、一部の人にとってはこれは今や政治的な問題になっている。どれだけ根拠を示しても十分とは言えない。

ということで、科学的な真理の問題ではなく、一部の人(地球温暖化が人為的なCO2排出によるものではなく何らかの自然現象が原因であるいという説を支持する人々)が政治問題化していることが問題だ、と書かれていることが気になる。

スペンスマルクの壮大な仮説と、銀河系の中に生きる我々2008年9月29日 という記事の宇宙線と地球温暖化の関係につながるスペンマルク仮説とは真っ向から対峙するもののようだ。

Orfeo盤 交響曲第9番『合唱』 フルトヴェングラー&バイロイト(1951バイエルン放送音源)

Furtwaengler_bayreuther_beethoven9_ Beethoven Symphonie No. 9

Schwarzkopf, Hängen, Hopf, Edelmann

Chor und Orchester der Bayreuther Festspiele

Dirigent : Wilhelm Furtwängler

Live Recording 29, Juli 1951
(ORFEO C 754081 B)   


2007年12月27日 (木) 一般発売 交響曲第9番『合唱』 フルトヴェングラー&バイロイト(1951 バイエルン放送音源) を、DHM50枚組みのBOXを購入するときにマルチバイでようやく購入した。生活圏のCDショップではついぞ見かけなかったのだ。もう一枚のマルチバイが、改めて大感激したセル/CLO のブラームスの4番

このCDについては、ライヴ録音論争的な様相になっており、私は状況的にこのバイエルン放送音源盤がゲネラルプローベ(通しのリハーサル)だろうという意見に組していることもあり、2007年7月30日 (月)に フルトヴェングラー/バイロイト祝祭管の第九(東芝EMI盤) という記事を書いて、この盤との聞き比べを楽しみにしていたのだが、既に何度も聴いたEMI盤のようにメモをとりながら分析的に聴いて判定したいものだなどと考えていたこともあり、それが負担となって少々しんどく、つい未聴盤の最上位に祭り上げていてこれまでさわり程度しか聴かなかった。

マゼールの録音や、シベリウスの交響曲などを立て続けに聴いた先週に、気楽に聴いてみようと取り出して「さらっと」聴いてみた。

冒頭付近のSPの板起こしのような雑音には驚いたが、全体的には非常にクリアな録音状態で驚いた。

有名なEMI盤の録音とはいくつか異なる点もあるが、紛れもなく「有機的」というイメージが思い浮かぶフルトヴェングラーの音楽が刻印されていて、気楽な気分で聴いたのだが、EMI盤と同様に感激した。

特徴的なところでは、フィナーレの vor Gott ! でのフェルマータ部分でEMI盤にあったクレッシェンド(アクセント)的な音量の増加はない。また、フィナーレの最終部分は、EMI盤ほどではないが相当加速(アッチェレランド)しているけれど、最後までオーケストラは音量を失わずにアンサンブルも崩壊していない。

バックノイズというのか、雰囲気的には、少しざわつきが感じられるEMI盤に比べて、ORFEO盤の方が静謐な雰囲気を感じた。

EMI盤よりもクリアな音質でフルトヴェングラーの「バイトロイトの第9」を聴くことができるというのは、音楽ファンにとって非常にありがたいことだと思う。

なお、CDの冊子には独英仏語の解説も含まれているが、英語を斜め読みしてみてもこの音源がバイエルン放送の新発見のものだということは書かれていないようだった。

なお、この解説によると、第二次大戦後初のバイロイト音楽祭は、1951年7月29日の「午後8時」にこの第九交響曲の演奏によって始まったのだと書かれている。もしバイエルン放送の音源のテープの記録に時刻が記されていれば、その意味では決定的な証拠になるように思った。

また、当日フルトヴェングラーのバイロイト到着は遅れ、「ほとんどリハーサルの時間がとれなかった(and had had very little rehearsal time)ので、公衆には最後のリハーサルを傍聴することを許さなかった」とも書かれているので、当日の完全な通し練習が行われなかったことも考えられないではない。

CDの裏表紙には、ドイツ語で

Herausgegeben von den Bayreuther Festspielen.
Erste authentische, ungeschnittene Ausgabe des Konzertes vom Original-Bandmitschnitt des Bayerischen Rundfunks
Festspielhaus Bayreuth, 29, Juli 1951

と書かれていた。Bandmitschnitt というのが分かりにくいが、意訳すると

バイロイト音楽祭からの発表。バイエルン放送のオリジナルの録音テープによるこのコンサートの最初の、真正の、切断されていない版。1951年7月29日 バイロイト祝祭劇場。ということなので、「切断されていない」というのがEMI版を意識した文言であることは確かだろう。

2008年10月 3日 (金)

開き直って苦手な曲に挑戦 シベリウス 交響曲第5番 

Sibelius_symphonies_berglundシベリウス
 交響曲第5番 変ホ長調 作品82 
  パーヴォ・ベルグルンド指揮
  ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団
   〔1986年12月18&19日、ヘルシンキ文化ホール〕

 Ⅰ Tempo molto Moderato-Allegro molto 13:40
  Ⅱ   Andante mosso-quasi allegretto   8:00
 Ⅲ  Allegro molto       8:43

ここ何日間は記事を書かなかったが、閲覧をしたり、音楽を聴いていた。

少し吹っ切れた感じで、この際開き直ってこれまで「まともに」聴いていなかったシベリウスの第4番から第7番の交響曲を続けて聴いてみた。特に理解をしようとか、感想を持とうとかの意識を捨てて、とにかく聴いてみようと思って聴いてみた。

いわゆる理解の枠組みというか、ソナタ形式のような形式感というか、メロディーだとか、展開技法だとか、楽譜や解説書のようなとっかかりを梃子にして、「理解」をしてきたクラシック音楽だが、どうもそのようなやり方では、シベリウスには歯が立たないというか、その魅力を味わえないようだ、ということがうすうす予感(先入観)としてあったのが、今になってみれば分かるように思う。

特にまだ第4番は難曲で、理解ははるか、楽しめるところまで行っていない。ところが、続けて第5番を聴いてみたところ、こちらは、メロディーらしいメロディーがない4番とは違って、情景が浮かぶような比較的親しみやすいはっきりした楽想が聞こえてきて、意外といってはなんだが、結構楽しめる曲だった。形式感に戻ってしまうが、これなどは楽想の性格がはっきりしていることもあっていわゆるドイツ風を感じさせるものだった。しかし、演奏は清涼感・透明感のある響きで満たされ、非常に爽快な音響を聞かせてくれた。

第6番もそういう意味では比較的聞きやすかったが、第7番はまだまだという感じだった。

確か、パノラマシリーズにもカラヤン/BPOの第5番があったはずだと思い探してみたところ、収録されていた。

Sibelius シベリウス
 交響曲第5番 変ホ長調 作品82 
  ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
   〔1965年2月、イエス・キリスト教会、ベルリン〕

 Ⅰ Tempo molto Moderato-Allegro molto 9:32+4:41
  Ⅱ   Andante mosso-quasi allegretto   8:22
 Ⅲ  Allegro molto       8:58

余勢を駆ってこちらも聴いてみた。しかし、録音が比較的古いこともあるのだろうし、シベリウス解釈、シベリウス演奏史の問題もあるのだろうが、よりドイツ的に聞こえそうな録音という先入観は裏切られ、それほど形式感のある音楽には聞こえなかったの意外だった。

比較の対象にはなるまいが、初めて聴いた少年の頃、まったく理解も楽しめもしなかった『春の祭典』が今では楽しめる曲になっているということもあるのだから、シベリウスの第4番、第6番、第7番も気楽に聴きなおしてみようと思っている。

さて、今日は、仕事上でお世話になった方の御母堂が逝去されたという連絡を受けた。帰宅後、ずっと聴いていなかったフォーレの『レクィエム』(コルボ指揮ベルン交響楽団)のCDを静かに聴いている。ご冥福を祈りたい。

追記:2011/9/18(日)

「電網郊外散歩道 シベリウス「交響曲第5番」を聴く 2011年09月15日」 でカラヤン/BPOのEMI録音(1976年)を取り上げられていたのを拝見して、トラックバックを送らせてもらった。

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