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2008年11月の22件の記事

2008年11月30日 (日)

11月の11番は ショスタコーヴィチの交響曲第11番『1905年』

Shostakovich_s11_barshai_2 ロシア革命史にはまったく疎いが、1904年に開戦した日露戦争で、ロシアが新興国大日本帝国に、特に日本海海戦で敗れ、ポーツマス条約により1905年講和が結ばれ、その間1905年にロシア第一次革命(血の日曜日事件戦艦ポチョムキンの叛乱)が起こったことは知っている。一昨年、その日本海海戦の旗艦だった戦艦三笠を見学に横須賀を訪れたが、ショスタコーヴィチの交響曲第11番は、この日露戦争が引き起こしたとも言える帝政ロシアの動乱を描いたものだと思うと、当時の敵国だった日本の国民としてもなんらかの縁があるように感じるから不思議だ。

映画『戦艦ポチョムキン』は、映画史上でもその技法の斬新さで有名なこともあり、以前モノクロームで無声の古めかしい映画だが、テレビ放送を見たことがある。そのときに使われていたのが、ショスタコーヴィチの交響曲が用いられていて(オリジナルというわけではないらしい)驚いたことを思い出す。

以前、この全集を買ったときに、『映画音楽風』の曲も作曲されているというような生意気なことを書いたが、その意味では、この曲と第12番の「1917年」及び交響曲第2番『十月革命に捧げる』がロシア革命に直接題材をとった「映画風」の曲のようだ。

まだ、この曲を真剣に向き合って聞いたことがまったくない、と言った程度でここで取り上げるのも気が引けてしまう。以前、ホームページ『音楽の茶の間』の方で、バルシャイの全集についていた英語パンフレットの解説を翻訳してみようと思って着手したことがあるが、その後PCを新調してOSがXPに変わり、98に付録されていたMSの簡略なホームページ作成ソフトが使えなくなりその代替のフリーソフトもいいのが見つからずホームページの更新が面倒になりそのままになってしまっている。今回は、CDを聴きながら、そのパンフレットを日本語にしてみようとも思っていたら、とうとう11月も晦日になってしまった。

簡単に意訳してみて、それを参照しながら聴いてみた。

交響曲第2番はロシア革命「10」周年(原文ではtwentieth となっているがこれはtenthのtypoだと思われる。1927年作曲だから)を記念して作曲。この第11番は、40周年記念の作品。第7交響曲の特徴と同じく、プログラム(標題)音楽であり、プロパガンダ音楽で、作曲者は各楽章に表題を付けそれは今でも残されている。しかし、ヴォルコフ(『証言』の作者)は、この曲が不成功に終わった1905年1月の革命に関係するのではなく、1956年のハンガリー動乱に関係するとみなしている。作曲者の息子マキシムも、初演前のリハーサルの時に『この曲のために彼らがあなたを絞首刑にしたら?』と尋ねている。

しかし、少なくとも表面的には標題音楽である。9曲の革命歌を含み、「映画的」な細部の描写によるペテルスブルクの血の日曜日のプログラムにしたがっている。もしヴォルコフが正しいとすれば、なぜハンガリーの歌やハンガリーのリズムやネヴァ川の土手ではなくブダペストの物語がないのか?

最終的な標題の結論が何であれ、この曲は第7、第8に見られる戦時スタイルへの後退だ。これは次の第12交響曲でも継続し、作曲家は第8弦楽四重奏曲でピークを迎える弦楽四重奏曲群に自分の個人的な信条を託すことに決めたようだ。

スコアは、フィンランド湾に面するDachaで1957年8月4日に完成。数週間後、作曲者とアレンジャーのメイエロヴィチ(Mikhail Meyerovich)により2台のピアノ版がモスクワ作曲家の家で演奏された。オーケストラによる公式な初演は、モスクワ音楽院においてラクリン(Nathan Rhaklin) の指揮により、革命40周年の式典の一部として演奏。ムラヴィンスキーによるレニングラードフィルによる初演はその4日後。数ヶ月以内にラクリン、ストコフスキー、クリュイタンスの録音が行われた。

楽章は、明確な始まりと終わりを持つが、続けて演奏される。これは映画的な傾向を加える。

開始楽章は『宮殿広場』という標題。典型的なショスタコーヴィチで、ゆっくりと始まり、寂れたザンクト・ペテルブルクの冷え冷えとした薄気味の悪い面を静かに描き出す。そして革命歌『聴け、聴け』と『囚人』を用いている。

第2楽章はスケルツォだが、第8交響曲のそれと共通して残忍な感じのもの。しかし以前の作品にあったような皮肉はない。これこそが、無辜の人々が皇帝の親衛隊によって銃撃されたあの日曜日の出来事の『絵』であり、『1月9日』と名づけられている。

「怒号」が死に絶えた後、ゆっくりした『レクィエム』が続く。これは民謡『あなたは犠牲者として倒れた』を執拗に展開するもので、この歌はレーニンの葬儀にも用いられた。これは、作曲者の最も感動的で直ぐに理解できる旋律的な創意の一つだ。

終楽章『警報』は、作曲者がこのようなプロパガンダ作品を終結させるのによく用いる典型的な肯定的なフィナーレである。それが何に見えるとしても、繰り返されるベルは継続的な闘争を要求する。

Palace Square : adagio 15:27
January 9th : Allegro-adagio-allegro-adagio 18:44
Eternal Memory : adagio
The Tocsin : Allegro non troppo-allegro moderato-adagio-allegro 14:17
Rudolf Barshai 指揮 WDR Sinfonieorchester
〔1999年5月3日/7日、ケルン・フィルハーモニー〕 Brilliant 6324/7

レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフと共産党政権が続き、アンドロポフなどの後に、ゴルバチョフによるペレストロイカによって、ソヴィエト社会主義共和国連邦が崩壊した。ほぼ20世紀を通じた100年間、社会主義・共産主義の理念による人工国家が存在し続けたという意味は、その崩壊から10数年経た今、一触即発の核兵器による地球破滅の恐怖を葬り去ったという効果はあるものの、現在の日本でも見られる格差社会、弱肉強食の世界は、社会主義の理念の地位の低下による影響の一つではあるまいかという感じもしている。ソ連や中国の負の側面がいまや多く語られてはいるが、自由主義圏が理想国家というわけでもなく、「自由」の名の下の無意味な競争が野放しになっているのも「自由主義」の大きな負の側面であり、現在起こっている「投資」の崩壊と、政府による救済は、「自由」のままではやっていけない人間の本性を示しているのかも知れないなどと、この映画的な音楽からいろいろ思ってしまった。

浅田真央 第30回NHK杯優勝、鈴木明子2位、中野友加里3位

昨夜は、7:30からのNHKのLIVE放送で第30回NHK杯女子フィギュアスケートのフリースケーティングを注目して見た。

2番手で滑った中野友加里は、アダン作曲バレエ『ジゼル』の曲に乗り、衣装もフランス?の村娘風のデザインで、悲恋と幻想のバレエを題材に、微笑みを絶やさずにほぼすべての要素をミスなくすべり切って思わず拍手をしてしまった。今日の朝刊を読むと、右足首などに故障を抱え万全な体調ではなかったようだが、すばらしい集中力で、かつての村主章枝の全盛時代の集中し切った演技に匹敵するような出来だった。

3番手は、昨年辺りから復帰したという鈴木明子。やはり朝刊によると一時期摂食障害でスケートができなかったというが、前日のショートプログラムに続いて、ジャンプでわずかなミスはあったものの、こちらも気合の入った素晴らしい演技だった。この時点で、万全な出来と思われた中野友加里を抜いてトップに立つ。(この選手は、昨年の全日本で5位に入った選手で、グランプリ初出場だが、相当の実力者。ジュニア時代から表現力には定評があったと解説の荒川静香女史が語っていた。)中野は2位以内でないと、グランプリファイナルの出場が自動的に決まらないので、ピンチに立たされた。

4番手は、フィンランドのローラ・レピスト。顔立ちや髪、目が東洋系を思わせる。昨年は世界選手権で見たような記憶がある選手だが、そのときに比べてジャンプが格段に上達していたように見受けられた(と書いたが、この選手は昨年の世界選手権でショートの21位からフリーで7位を取り、全体で8位に躍進した選手だった)。フリーでは、そのジャンプがもう一つ精度を欠き、減点もされ、この時点で3位。中野の2位は維持され、鈴木の3位以内は確定した。

5番手は、アメリカのアシュレー・ワーグナー。ショートでは2位で、この選手の出来次第で、中野のグランプリ・ファイナル行きが左右される。17歳で伸び盛り。しかし、やはりジャンプの精度を欠き点数が伸びない。しかし、昨日のリードにより、レピストを抜き、この時点で3位。

そして、最後に登場したのが、浅田真央。女子では国際大会初の2回のトリプルアクセル(前向きで踏み切り3回転し、後ろ向きで降りる3回転半ジャンプ)を成功させるかどうかが注目された。もちろん、優勝か2位でのグランプリ・ファイナル(12月に韓国で開催)への出場も。昨夜の爽やかなコスチュームとはがらっとイメージを変え、黒を身にまとっているためさらに大人の女性の風格が漂う。曲は、ハチャトゥリアンの『仮面舞踏会』。曲想が大きく変化する曲を使う選手の多い中、4分間ほぼ同じリズムの曲で、単調になるかと思いきや、まずは切れと高さが十分ある完璧なトリプルアクセルを決めた。非常にスピードがある滑りなのだろうが、滑りが大きくなったせいか、スポーティさよりも、キム・ヨナのスポーツをやっているというよりも重力を感じさせないバレエを舞っているような優雅さに近づいたようで、ジャンプの時も昨年のような「よいしょ」という一瞬のためがあまり見られず、一瞬無重力になったようなスムーズなジャンプになっているようだ。エレメントのつなぎの部分もまったく弛緩することなく見ごたえがある。2回目のトリプルアクセルは次のダブルとのコンビネーションを狙ったせいか、判定ではわずかの回転不足で完全なトリプルアクセルとはみなされなかったが、不足は本当に微妙なもので、果敢な挑戦に鳥肌がたった。もう最初のトリプルアクセル成功から会場はシーンとするよりもざわついてしまったようで、そういう意味ではどうだったのか、最後のきめのポーズ前でバランスを崩すという御愛嬌の場面もあったが、高得点での優勝が決まった。

これで、惜しくも村主がグランプリファイナルへの上位6人から漏れてしまったが、浅田、安藤、中野の日本の3名がグランプリファイナル進出を決めた。ライヴァルは、韓国のキム・ヨナ、カナダのロシェット、そしてイタリアのコストナーとなる。昨年は、キム・ヨナは故障を抱えていたが、今回は故障も癒え、また母国開催ともなるので、浅田、キムの同年齢の華やかな対決は非常に注目される。

ISUの公式スコアページはここで

なお、ショートプログラムで気になったカメラワークの違和感は、昨夜はそれを意識しながら見ていたが、いたって「普通」の出来で、競技を見る邪魔にはならなかった。勿論生放送でそのような「普通」を維持するには相当のプロフェッショナル性が必要ということは理解しつつ、それでも、最近の選手の技術の向上もあるのだろうが、複雑なステップの場面などでは、迷うような動きになる場合があり、その点各選手の動きの事前研究が更に求められるようにも感じた。また、スパイラルシークエンスの場面で、中野選手の笑顔をアップにするのもいいが、全体を見せながらアップにするというような工夫も必要ではないかと感じた。

追記:男子は、今日の5時からの放送があり、織田信成選手が見事に優勝を決めた。本人も意外と思うほどのフリーでの高得点だったが、果敢に4回転に挑戦し、着地後少しバランスを崩したが、回転は足りていたので、そのあたりが評価されたのだろう。また、後半にも難しいジャンプを入れていた。その前に滑ったアメリカの選手ジョニー・ワイアー(Johnny WEIR)も観客アピールは高かったが、後半にジャンプが少ないなどの点で、得点が素人目よりも伸びなかったようだった。

2008年11月28日 (金)

NHK杯フィギュア2008 浅田真央 ショートプログラム1位

先日のフランス杯の映像は見れなかったので、今シーズンの浅田真央の演技をライブで見るのは初めてだった。

驚いたのは、昨シーズン 世界チャンピオンになったときに比べて背がぐんと伸びたように見えたことだ。背が伸びたのもあるだろうが、非常にスリムになっていて、背中には背骨と肋骨が透けてみえるほどだった。顔の表情も少女の愛らしさがまだあった昨シーズンに比べて、メーッキャプの加減もあるのだろうが少し鋭くとがった印象に変わっていた。まあ、これは、彼女としては失敗だったフランス杯の2位の後で、グランプリファイナルへの出場権を掛けた試合、それも近年苦手としているショートプログラムの直前だったからかも知れない。

曲目は、ドビュッシーの『月の光』のオーケストラ編曲版。

この曲をストコフスキーが編曲している。ディズニーの『ファンタジア』(第1作)に惜しくも採用されず、DVDにその復元映像と音楽が収録されているのが、その編曲だ。CDで持っているのは、エリック・カンゼル指揮のシンシナチ・ポップス・オーケストラによる Transcription for Orchestra by Leopold Stokowski というテラークのアルバムで、今それを聴きながらこれを書いているが、どうも浅田真央のショートの編曲とこの編曲は違うようだ。

すらっとした手足の長い浅田真央が、この曲に乗って、非常にキレのあるジャンプと、凝りに凝ったシークエンスやステップ、スピンを次々に決めた。ほとんどミスらしいミスはなく、得点は64点と比較的高いものだった。(今シーズンは、ライヴァルのキム・ヨナが69点をマークしているというが。) 第2位は、ドイツ出身のアメリカのスケーター ワーグナー。第3位は、フィンランドの選手。第4位が日本の選手(リストの「ラ・カンパネラ」)で、第5位が中野友加里(ショスタコーヴィチの「ロマンス」)だった。なお、男子は謹慎が解けた織田信成がショートプログラムの第1位になっているという。

明日は、NHK杯のフリー演技。インタビューで「ミスをしたくない」と言ってたのが、気になる精神状態で、もっと攻めの姿勢を取った方がいいように思うが、是非がんばって欲しい。

追記:気のせいかはっきりしないが、今日のNHK杯の女子ショートプログラムは、夜7時半からの生放送だったのだが、いつもより競技のカメラワークが相当ぎごちなかったように感じた。浅田選手の時だけでなく、カメラの追尾が悪いのか選手が画面の中央に来なかったり、肝心のジャンプの時に画面からはみ出したり、ちょうどシークエンスの途中でカメラが切り替わったりしていた。画面の中央に来ないのは、横長テレビの普及に関係があるのだろうが、ディレクターが操作していると思われるカメラの切り替えはどうも稚拙ではなかったか?少なくとも、これだけの主催大会で、少し準備がおろそかだったのではなかろうか?

レオナルド・ダ・ヴィンチ作?『ラロックの聖母』

11月26日夜 フジテレビ で放送。「ザ・ベストハウス123」という番組。荒俣宏と茂木健一郎が出演。またもや新発見かと興味を抱いて見た。前半はこども達が宿題中だったのでビデオ録画しておいて途中9時半ごろから放送を見た。

「ラロックの聖母」と呼ばれる板絵。南仏のラロックという町の骨董店で発見されたらしい。

この番組では、日本のこの特別番組が新発見をして、科学鑑定やレオナルドの権威の鑑定を「今回」行ったように放送(演出)されていて、結構すごいと思っていたが、その後、ネットを調べていたところ、公式サイト?(寄付を募っているのが怪しいけれど)を見つけた。

http://laroque.exblog.jp/i2/ 

番組に登場した少し怪しげなおじさん三人はこの人たちだった。この人たちが、南仏からフィレンツェへアタッシュケースに入れてこの板絵を運び、ほっしゃんというコメディアンに手渡す場面が放送されていたのだった。

どうもこの手の番組はつい見てしまうが、この「公式サイト」らしきものを読むと、今回の番組は、まったくこのおじさん三人組の「発見・追求」を後追いしたもので、日本のテレビ局の独自の発見でも何でもないようだ。(番組の最初の方で、そのようなことわりがあったのかも知れないが。その部分はまだ見ていないのではっきりしたことは言えないけれど。)

ただ、このサイトの通りだとすると、発見も調査も既に10年以上も前から行われていたことであり、荒俣氏も茂木氏も、まったくとんでもない「演出」の片棒をかついだのではないだろうか?

また、このラロックの聖母や、レオナルドの母がアラブ人だったかも知れない説については、こちらのサイトで、既に2007年12月に紹介されていたほどで、知る人ぞ知る話題だったようだ。

どうも美術関係、特にレオナルドものは、このような過剰な「演出」が後を絶たないようで、私のような素人はすぐに騙されてしまう。ただ、ネット情報(これが必ずしも信憑性があるとは言えないが)により、検証ができてしまうのが、現代の情報化社会のいい面でもあり、困った面でもあるのだろう。

追記:今日、ビデオで前半を見てみた。一応、三人の男性がラロックという村の村長が経営する骨董屋(リサイクルショップ)で薄汚れた絵を(日本円で)3万円程度で購入したことは紹介されていた。だから問題は、その後の科学的な調査、鑑定の部分で、その過程は数年にわたる試行錯誤的なもので、それを今回の特別番組が自分たちの手柄のように「演出」したのが、少々問題だと思う。茂木や荒俣のコメントも、オリジナルの経緯に基づくものが多かったようなので、それが番組台本によるものだとすると、彼らもとんだトリックスターではないか?!

2008年11月26日 (水)

エスクァイア日本版 2009年1月号「指揮者のチカラ。」

先日、荒川線に乗りにいったときに、途中の東西線の車内吊りにこのエスクァイアの広告が下がっており、『生誕100年、帝王カラヤン後のオーケストラ音楽。』という副題がつけられた表題の特集号のようで、またインマゼールの指揮・演奏のオリジナルCD付きというのにも少し惹かれたが、結局その日には購入するのを忘れていた。

今日の帰宅時に、駅からの帰宅バスの時間に少し間があったので駅ビルの書店に立ち寄ったときにふと思い出し、探してみたところまだ平置きで2冊ほど並べられており、定価700円也で購入した。2006年にもクラシック音楽特集号を購入したのだが、ひどくスノッブな内容で鼻白んだ記憶があったので(そのときにもCDが付録で付いていたが気に入らなかった)、今回もあまり期待していなかった。そもそも2008年が生誕100年なのに、2009年1月号で生誕100年特集をするというのもないではないか!と思ってしまった。

まあ、この雑誌はいわゆる「お金持ち父さん」を対象としたもののようで、アルマーニだとか、カルティエだとかの広告満載、男性向けの香水まで特集されていて、普通なら買うようなものではないのだが、クラオタとして、「金持ち父さん」たち向けに現代オーケストラ事情がどのように語られているかの興味もあったことは確かだ。最近、音楽雑誌もFM放送からも情報を仕入れていないので、最新事情に疎くなっているので、その意味では面白かった。ただ、ソニー・フィルという企業のアマチュア・オーケストラがカーネギーホールでハーディングの指揮により公演したという「事件」のレポートは、凄いことではあるが、そこまでやるかというやっかみも半分感じてしまった。

なお、オリジナルCDは、インマゼールの多くのCDからの抜粋で、ボロディンの「だったん人」やJ.シュトラウス二世の「トリッチ・トラッチ・ポルカ」、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」から「金平糖の踊り」なども含まれていてサンプラーとしては結構面白いものだった。

2008年11月25日 (火)

2007年のBeaujolais を 2008年解禁日の翌日に飲む

このブログでも2005年、2006年はボジョレ(ボージョレ、ボジョレー、ボージョレー)・ヌーヴォーを飲んだことを書いたが、2007年は記録がない。昨年は飲まなかったのかも知れないし、記憶がはっきりしないが、塩尻か甲州の新酒を飲んだような気もする。

Pb250517_3 今年は不景気で先行きが不安なこともあり、2000円を越えるボージョレ・ヌーヴォーの値段を見て高いなと思い、11月20日の木曜日は購入しなかった。

それでも多少後ろ髪を引かれる思いでいたところ、翌日11/21の金曜日に某スーパーマーケットの酒類売り場に、ヌーヴォーではないボージョレが珍しく陳列されていて、Beaujolais Nouveau としては有名な Georges Dubœuf の2007年ものがVillageが1400円ほど、普通のが1000円弱で売られていた(ラベルを見たらサントリーの輸入)。

ボジョレーのヌーヴォーではないのというのは初めてだが、安い方を試しに購入して飲んでみた。

フランスワインを飲むときは、ボルドーの方が多いが、ブルゴーニュらしい爽やかな風味が感じられた。ただ、これでもやはり普通のボルドーに比べると高い感じがした。

2008年11月24日 (月)

都電荒川線に乗る

11月23日(日)勤労感謝の日、子ども達と都電荒川線に乗りに出かけた。

始点から終点までを乗ろうと、早稲田駅を目指した。東西線の早稲田駅を降り、都電の早稲田駅に向かう途中、早稲田大学の本部キャンパスがあり、少しキャンパス内を散策した。

推薦入試が早くも始まっており、特に女子高校生と父兄の姿を多く見かけた。構内のイチョウは銀杏を多く落としており、子ども達に言わせると異臭が漂うほどだった。木の根元には、天日干しすれば食べられそうな銀杏が大量に残っていたが、学生や教員は拾うこともないのだろうか?

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都電荒川線は、都内に唯一残ったいわゆる路面電車路線で、新宿区早稲田から豊島区、北区などを経由して荒川区の三ノ輪橋に至る生活路線。料金定額のバスと同じで、一区間でも全区間でも大人160円、こども80円。

早稲田駅
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車内の路線図
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江戸時代からの桜の名所、飛鳥山公園付近。ここは明治時代には渋沢栄一の大邸宅だったこともあるようで、渋沢庭園や記念館が残っていた。
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都電荒川車庫 これらは現役車両だが、隣に古い車両が保存展示されている小公園があった。
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終点 三ノ輪橋駅 の降車場 
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三ノ輪橋は界隈は下町の風情だった。駅そばのアーケード街で美味そうな肉まんを売っていたので熱々のを購入(220円)。後で調べると安井屋という佃煮屋さんだったらしい。横浜中華街のぶたマン500円に比べるとリーズナブルだが美味かった。また、常磐線のガード近くにあった手焼き煎餅の店桜せんべいでお土産を購入。これも帰宅後食したら美味かった。

帰路日比谷線の三ノ輪橋駅に向かう途中、狭い歩道を老若男女が自転車で我が物顔で疾走するのには危険を感じた。のんびりした下町のイメージが崩れて少し残念だった。

2008年11月23日 (日)

ラファエロ・サンティの『ひわの聖母』が修復 修復前の色は?

ニュース記事を見ていたら、「え~っと驚く大修復 ラファエロの傑作公開」というのが目に留まった。スポニチの記事だが、グーグルニュースで検索してみると元々は共同通信の配信したものだった。

今回大規模で、かつ、精密な修復が行われたとのことだが、余りに色彩が明るく美麗なのに驚いてしまった。記事写真では修復前とされるものも非常に鮮やかなのが不思議に思った。(記事の写真はこれ。)

というのも、もう10数年前の新婚旅行のツアー中にオプショナル・ツアーでフィレンツェを訪れたときに、ツアーの自由時間に本当に運良くウフィッツィ美術館にほとんど並ばずに入場できて(駆け足だったけれど)見学できのだが、最初の方のサンドロ・ボッティチェリの間で『ヴィーナスの誕生』や『プリマヴェーラ(春)』に見とれてしまい、その駆け足の最後の方で見逃してはならないとようやく見れたのが、このラファエロ・サンティの『ひわの聖母』だった。

ボッティチェリの絵の大きさには驚いたが、逆にラファエロの絵の小ささにも驚かされたものだった。そしてその画面のくすみ具合と、縦に見られる幾筋かの亀裂にも。(確かこの絵は、フィレンツェの水害に遭ったり、過激派によって強奪されたこともあったりで多難な運命の絵画ではなかったかと思うが、今回ネット検索ではこの絵についてはそのような経緯がヒットしないので、私の勘違いかも知れない。)

さて、今回の記事で、その破損の経緯についてよく分かったが、上記のリンクの修復前と修復後の写真に見られるように、修復前の状態はこれほど鮮やかでなく、亀裂もこんなにひどくなかったはずだと思い、探したところ以前の状態の画像が沢山見つかった。その中で、このCGFAのページの画像はクリアなもので、その状態は以前見たことのあるものに近い。

なお、その後、ローマからパリに行き、ルーヴルで『美しき女庭師』というニックネームの聖母子像なども見たが、こちらもこのような「修復」によって、抜けるような空の青さや輝くような肌の色、鮮やかな聖母マリアの赤い衣装も蘇るのだろうか?

そういえば、ローマではちょうどヴァティカンのシスティナ礼拝堂では、天井画のミケランジェロ・ブォナローティの大作、『天地創造』は「修復」が完了しており、それまでの絵画全集などで見られれたくすんだ色彩とは異なり、衝撃を受けるほど明るい色彩のものに「生まれ変わって」いたのを思い出す。壁画『最後の審判』は、ちょうど修復作業中で、工事現場のような白い布で覆われてしまっていたのは残念だった。その後の修復完了と公開は日本のテレビ番組でも特集が組まれて大きく取り上げられたのだった。

2008年11月22日 (土)

DECCA PIANO MASTERWORKS 50枚組ボックスセット

久しぶりにHMVのページを閲覧していたところ、カラヤンの38枚組みの交響曲集と並んで、デッカレーベルから発売の(ユニバーサルとしてドイツ・グラモフォンやフィリップスの原盤も含めて)50枚組みのクラシック音楽のピアノ名曲集のボックスセットが目に留まった。値段は「マルチバイ」をすれば何と約1万円。カラヤンの38枚組(約9千円)も、これまで聴く機会がなかったカラヤンのブルックナーの全集が含まれるなど垂涎ものでどうしようかと迷った。

今年は、DHMの50枚組みも買ったことだし(未だ半分程度しか聴いていない)、音盤の購入は少し控えようと思っていたが、DECCA PIANO MASTERWORKS (DPMとでもしようか?)の収録音盤を見たところ、以前から購入希望だったフリートリヒ・グルダの平均律クラヴィーア曲集全曲が含まれており、フィリップスの第1巻、第2巻別売りを購入すればそれだけで4000円程度になる計算だし、他にもこれまで持っていない楽曲のCDや聴いてみたい音盤も結構含まれていたこともあり、購入に踏み切った。

 購入前の私の注目は:
  ギレリスのベートーヴェンNo.27,28『ハンマークラフィーア』
  ルービンシュタインのブラームス第1協奏曲(メータ/イスラエルフィル)
  ムストネンのグリーグ協奏曲(ブロムシュテット/サンフランシスコ響)
  リヒテルのブラームス第1,2ソナタ
  リヒテルのハイドン ト短調H.XVI No.44 ト長調H.XVI No.40 変ロ長調HXVI No.41
              ハ長調H.XVI No.48 変ホ長調HXVI No.52
  ハスキルのモーツァルト 協奏曲第19、27(フリッチャイ)
  ルプーのシューベルト第16&18番
  シフのチャイコフスキー第1協奏曲(ショルティ/シカゴ響)

20日夜に注文したところ、今日22日の昼過ぎに佐川急便で届いた。前回のDHMの時と同じく大ぶりな外装箱にラップ巻されたこのボックスセットが箱の底面に糊付けされた梱包だったが、今回は糊付けが弱かったのか、到着時は外装の中でボックスが踊っている状態だったけれど、直ぐに開梱してみて確認したところ傷やへこみはなく一安心だった。(ただ、このような心配をしなくてはならないという面では、HMVは前回もそうだったが発送時と運送時の扱いに不安が残る。)

ボックスの中の紙ケースは厚みのあるものではなく、薄い紙質のものでこのようなのは初めてで驚いた。さすがに徹底的にコストダウンしてあるようだ。一応紙ケースと中身のCDの番号を照合して外装と中身の相違がないことも確認した。CDは、MADE IN THE EUで、DECCAのロゴのみで、ドイツ・グラモフォン、フィリップスはCD上には記載なし。CDの盤質は厚みもあり良好のようだ。

大作曲家の傑作がほとんどで作品としては耳なじみのものがほとんどだが、比較的馴染みの薄いドホナーニ(あの指揮者ドホナーニの祖父)の作品がシフの録音で収録されるなど、ユニークさもある。また、オネゲルやフランセの曲など聴いたことのない作品も収録されている。

なお、HMVのユーザーレビューにも書かれていたが、デッカの看板であるアシュケナージが含まれていない。またDGの同じくそれであるポリーニ、ツィメルマン(アルゲリッチは収録)やフィリップスのブレンデルが含まれていないのは、できるだけベストセラーとの重複を避ける編集方針だったのかとも思うが、一流レーベルの一流奏者の1990年代の比較的新しい録音まで含んだこのような音盤が一枚あたりたった200円程度で入手できるというのは、三大レーベルを持つユニーバーサルにしても、CDの売れ行きはそこまで悪いということなのだろうかと心配になる。まあ、コアなファンにしても新譜を買うことはめっきり減り、めぼしい旧譜やライブラリの欠落をこのようにネットで補ったりすることが多いので、メーカー側もそれに対応しているということなのだろうか。(このボックスセットのほか、ヴァーグナーのオペラ・楽劇バイロイト全集が超廉価で発売されたり、生誕100周年のカラヤンの音盤がやはりボックスで発売されたりしている。)

このDPMのディジタル・リマスターは今回新たに行われたのではないだろうが、数枚聴いてみたところ、高域が強調され過ぎたところのないマイルドな音の傾向であり、ただ、ピアノとしては粒立ちがよく、かつ透明感に影響するような音の粒子が細かいようで、聴き疲れしない音の状態が多いようで、個人的には好ましい。

P.S. 「平均律」にひとこと。先日、ブックオフで購入した中村紘子女史の『コンクールでお会いしましょう―名演に飽きた時代の原点』(中央公論社)を読んでいたら、律が率となっており、「平均率」と表記されていた。手書きの時代にこのような書き間違いをする人は少なかったと思うが、現代のPCでの入力では、多くがMSのIMEなどによるかな漢字変換を行っているため、ネットで検索してもこの手の間違いが多いようだ(自分も他の言葉では気づかずにやっているかも知れない)。MSのIMEで「へいきんりつ」と入力して変換すると「平均率」と出てしまう。ただ、音楽の専門家が旧約聖書とまで呼ばれる「平均律クラヴィーア曲集」を平均率とするのは、恥ずかしい。是非単語用例登録をつかって「へいきんりつ」と入力したら「平均律」と変換されるように予め設定しておくべきだろう。

2008年11月21日 (金)

小菅優 リスト『超絶技巧練習曲』全曲

Kosuge_liszt_etudes_2フランツ・リスト
 『超絶技巧練習曲集』全曲

第1曲:〈前奏曲〉 ハ長調 0:51
第2曲:イ短調 2:07
第3曲:〈風景〉 ヘ長調  4:35
第4曲:〈マゼッパ〉 ニ短調  7:13
第5曲:〈鬼火〉 変ロ長調 3:48
第6曲:〈幻影〉 ト短調  5:17
第7曲:〈英雄〉 変ホ長調  4:48
第8曲:〈狩り〉 ハ短調  5:02
第9曲:〈回想〉 変イ長調  9:57
第10曲:へ短調  4:31
第11曲:〈夕べの調べ〉 変ニ長調  9:43
第12曲:〈雪あらし〉 変ロ短調 5:31

 小菅優(ピアノ) 
<2002年8月3日-6日 ブラウンシュヴァイク シュタットハレでの収録>

アリス=沙良・オットのDG専属契約による第一弾のCDがこの『超絶技巧練習曲全曲』(20歳か19歳の時の録音)ということを聞き、小菅優のリストの『超絶技巧』を聞きなおしてみた。小菅19歳の時の録音。

この小菅のCDの入手前には、エフゲニー・キーシンによる選集 No.5,8,10,11,12を聴いていたが、よくピアノが鳴り響いた超絶技巧の展覧会という印象しか持てないでいた。つまり、従来からのよくあるリスト像のイメージは変わらなかった(2006年の記事)。

さらに、小菅の録音を聴くようになって、改めてキーシンの録音のヴィルトゥオーゾ振りが強く感じられ、曲そのものを味わうようりもキーシンの技巧を味わうものになっているのではないかと思えてきた。第8番の『狩り』を聴き比べると、キーシンの無造作にこの難曲を弾きこなす豪腕の冴えが聴けるのだが、曲そのものを味わうには小菅の方に分があるように思う。(キーシンのタイミング: No.5 3:14/ No.8 4:42/ No.10 4:51/ No.11 9:03 / No.12 4:50) 19歳の小菅の方が、曲を解釈し、演奏の上で設計をしているように感じられる。それに比べて、キーシン(1995年の録音なので、24歳の時だが)は、少し楽天的かも知れない。

なお、第12番は、キーシン盤では 原題の "Chasse-neige" を「雪かき」と訳している。これについて調べてみたところ、仏日翻訳では、『除雪(装置)』と表示され、neigeは雪で、Chasse だけだと狩猟と翻訳された。要するに 英語の snowploughのことで、道具としての『雪かき』のことらしい。むしろこれが、なぜ『雪あらし』と訳されるのか。想像では、粉雪を「雪かき」で片付けるように激しく吹く風(嵐)ということから『雪あらし』なのだろう。相当の意訳ではなかろうか?

さて、フジコ・ヘミング(日瑞ハーフ)のリストは非常に独特なものだが、日独ハーフのオットといい、小菅(少女の頃からヨーロッパで勉強)といい、これら日系女性ピアニストのリストへの傾倒には一種独特のものがあるように感じる(元々小菅は最初はショパンのエチュードで注目されたのだが)。

オットの演奏も、部分的に上記のリンクで聴くことができるが、指捌きは達者なものだし、ピアニシモからフォルティシモまでの幅広さも、曲を自分のものとして表現する能力にももちろん長けているようだ。つまみ聴きだけだが、キーシンや小菅の演奏に比べると、よりレガート重視で流れのよい演奏をするという印象を受ける。曲を通して聴いてみないと分からないが。演奏風景(ラ・カンパネラ)を見ると、アンコールだと思うが、非常に豪快な演奏を披露している。ディスクのものとは印象が異なる。なお、オットのホームページを見ると、既に2005年頃から日本での公演を行っているようだし、ヴァイオリニストのアラベラ=美歩・シュタインンバッハーにしてもやはり日本にも何度も来ているようで、日系人だけあり、日本へのプロモーションも盛んに行っているようだ。

さて、小菅の演奏は、全曲演奏としてよく考えられたもののようで、一曲一曲を比べると、必ずしも圧倒的な技の冴えや強烈さでは、特にキーシンには聴き劣りするものの、前述の通り、曲を把握し味わうためには非常に優れた演奏だと感じる。

五島みどりのパガニーニの『カプリース』全曲録音もそうだが、小菅のこの全曲も、現代の日本女性の少しアッケラカンとして凄さを象徴するかのようだ。

追記:2008/11/22  カテゴリーに「のだめ」を加えていて、そのことに触れるのをうっかり忘れていた。この『超絶技巧練習曲』は、マラドーナコンクールで演奏したり、後にライヴァルとなる孫ルイによるこの曲集の演奏に影響されて、パリ音楽院で指導教授のオクレール氏の前で初めて演奏を披露したときに「ベーベ(赤ちゃん)」と呼ばれるきっかけになった曲で、結構重要な役割を果たしている。「のだめ」の技術的な超絶性を印象付けるものとなっているようだ。 

2008年11月20日 (木)

源氏物語 千年紀  谷崎潤一郎、円地文子、『あさきゆめみし』

西暦1008年に当たる年号のことが、どうやら紫式部日記か何かに源氏物語と関係して記載されているとか何とかで、今年2008年が「源氏物語 千年紀」と「指定」されて、マスメディアなどでも取り上げられ、11/15(日)の22時から24時ごろまでNHK教育テレビでも特集が放送された。

源氏物語と言えば、谷崎源氏の薄紙でカバーされた美麗な全集が自宅の本棚に飾られていたりして、高校時代の古文の授業の時に参考にしたりしたが、結局第1巻程度で挫折。その後、新潮文庫の円地源氏も第1巻から2、3巻ほど買って読んだが、そこで終わった。唯一楽しめたのが、コミックの大和和紀『あさきゆめみし』。円地源氏もこのときに買ったのだったが、コミックの方は分かりやすく読みやすかった。ただ、源氏物語全巻をコミック化したのではないようで、今は手放してしまって読むこともできないが、結局テレビでのアニメ化はボツになり、アニメ監督によるオリジナルアニメの源氏になるらしい。

教育テレビの番組では、瀬戸内寂聴のパープルという筆名でのケータイ小説での現代風源氏物語には驚かされた。また、橋本治の『耀変 源氏物語』?の朗読は、朗読者の巧さもあるのだろうが、結構ショッキングだった。

2008年11月19日 (水)

亀山『カラマーゾフの兄弟』(光文社文庫)全5巻読了

読んでいる途中で、亀山東京外語大学学長のロシアからの勲章授与があったり、新聞に大々的な広告が出たり、『罪と罰』の新訳の発売が開始されたり、誤訳騒動が起こっていたことを知ったりして、少し読みのペースが落ちたが、第3巻から第5巻のエピローグ、生涯、解題まで一息に読み続けることができた。こういう内容だったのか。面白かった。

若者というよりも、どうも退職年齢の団塊の世代によく読まれているという話だが、どこまで本当なのか分からないものの、混迷の時代への指針を求めている雰囲気も感じられないではない。

第2巻では、次男イワンによる有名な『大審問官』の朗読と、その前に書かれたあまりにも『現代的』なイスラム教徒によるキリスト教徒への残虐行為(旧ユーゴスラビアを想起)、当時でのロシアでの児童虐待。このような現実を見て、それでも『汝の敵を愛せよ』と言い得るのかという切実な問い。異教徒である私でも、このように書くと少し震えが来るほどだ。

第3巻、第4巻は、思索的な第2巻と違って、それほど難しいことは考えずに、ストーリーを追うだけでも楽しめた。特に、『誤審』の章では、真犯人を知っている読者として、事実と食い違いを見せながらも、どのように検察官がもっともらしく、論理的にストーリーを組み立て、弁護人による論駁、情に訴える弁論によっても、先入観に捉われた陪審員たちの印象を覆すことはできず、ミーチャには有罪判決が下される。当時のロシアでは未だ公開裁判のような司法制度が開始されたばかりのようで、控訴・上告の制度はなかったらしい。冤罪、誤審という観点からも興味深いストーリーだった。

書かれざりし第2の小説について、亀山氏は大いに熱弁を振るっている。確かに、作者にとっての主人公アリョーシャは、現存する『カラマーゾフの兄弟』では、十分に描かれていないし、少年達、リーズ(リーザ)・ホフラコーワとの関係もこれから予断を許さないようにも思える。この第1の小説で完結とすると、そのような伏線が中途半端に放り出されたという感じを抱かせ、それらの持つ意味が不明という扱いになりがちだが、第2の小説を想定すると所を得る感じが確かにする。誤訳批判派は、どうもこの第2の小説の可能性を小さく見たいという意見が強いようで、その辺りに批判の根底もあるのかも知れないなどと思った。


少し、今回のカラマーゾフブームをネットで調べてみた。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20070724bk07.htm

新訳「カラマーゾフの兄弟」 売った「仕掛け」

今月完結したドストエフスキーの新訳『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫)が売れている。第1巻の11刷、7万1000部を筆頭に全5巻で累計23万部に達した。

好色で金に汚い父フョードル殺害をめぐるドミートリー、イワン、アレクセイの三兄弟の物語は、長い会話文やロシア特有の人名の複雑さで、なかなか読み通せない作品だ。なぜ、これほどの反響を呼んだのか。東京大学で22日に開かれたシンポジウム「ビバ!カラマーゾフ」で、東京外大の亀山教授が苦労の一端を明かした。

新訳出版の最初の障害は、自身の心理的抵抗感だった。1970年代に訳した原卓也、江川卓は教えを受けた世代にあたり、「新訳は先行訳を否定する面がある。どこかにやましさがあったが、読みやすさを心掛けた」と話す。

同じ19世紀ロシアの作家でも、チェーホフやトルストイは比較的読みやすい。ドストエフスキーの原文は逆接の接続詞や関係代名詞が多く難解だが、亀山訳はすいすいと頭に入る日本語に置き換え、東京大学の沼野充義教授は「驚くほど自然に読むことができる」と絶賛した。

先月出版された『21世紀ドストエフスキーがやってくる』(集英社)は、大江健三郎や加賀乙彦など作家や研究者らが文章を寄せ、日本文学に与えた影響の大きさが分かる。この本のため初めて『カラマーゾフの兄弟』(新潮社版、全3巻)に挑んだ金原ひとみは、上巻こそ3か月かかったが、中下巻は3日間で読み通した。「いろんな人の精神におぼれて、最後にちょっと息ができるような体験だった」と話す。世界の混沌(こんとん)を体現した魅力は現代も色あせていない。

亀山教授による『カラマーゾフの兄弟』というブランドイメージが、読者の知的好奇心を刺激した面もある。古典の名作文学を読み継ぐため、多少の「仕掛け」が必要なことも、今回の成功は実証した。(待田晋哉)(2007年7月24日  読売新聞)

「カラマーゾフの兄弟 翻訳 米川 江川」についてのgoogle検索。

http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLJ,GGLJ:2006-43,GGLJ:ja&q=%e3%82%ab%e3%83%a9%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%82%be%e3%83%95%e3%81%ae%e5%85%84%e5%bc%9f%e3%80%80%e7%bf%bb%e8%a8%b3%e3%80%80%e7%b1%b3%e5%b7%9d%e3%80%80%e6%b1%9f%e5%b7%9d%e3%80%80


亀山ブログというのもあるらしい。
http://karamazov08.blog17.fc2.com/

木下豊房(千葉大名誉教授、国際ドストエーフスキイ協会 Vice President)による誤訳批判
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost125.htm

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost120e.htm

http://homepage2.nifty.com/~t-nagase/kameyama.html

http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/20080713

国際ドストエーフスキイ協会

http://www.dostoevsky.org/
http://www.dostoevsky.org/links.html

カラマーゾフの兄弟 英訳

http://books.mirror.org/gb.dostoevsky.html

http://www.bibliomania.com/0/0/235/1030/frameset.html

『星の王子様』の翻訳問題

http://www.shoshi-shinsui.com/book-prince.htm


ドストエフ好きーのページ
http://www.coara.or.jp/~dost/1-9.htm

地下室の本棚 
http://homepage3.nifty.com/coderachi/index.html

 (翻訳の試みをされている方のサイト)

2008年11月18日 (火)

事件ファイル #18 喪われた王女を求めて ~ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」

事件ファイル #18 喪(うしな)われた王女を求めて ~ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」 依頼人 ディープ内藤   (高橋ひとみ) 職業 女流ミステリー作家

日曜日の夜放送されたものをビデオ録画し、月曜の夕食時に鑑賞。今回は野本由紀夫氏は登場しなかったが、番組最後のエンディングロールには、監修者として出ていたようだ。

出演:筧 利夫,  黒川芽以,  高橋ひとみ,  【演奏】野原みどり,  【VTR出演】作曲家…藤井 一興,  フランス文学者…鹿島 茂,  版画家…山本容子,  【語り】阪脩

ドラマとしてのストーリーは少しプアだった。寒いギャグが多かったり、変な効果音が使われたりで。

しかし、この6分ほどの小曲の謎には結構迫れていたように思う。ベラスケスの描いた王女マルガリータという説や、ルイ13世に嫁いだスペイン王女という説、ラヴェルがこの曲を捧げたアメリカ大富豪の娘にしてラヴェルの才能の高く評価したポリニャック大公妃ではないかという説。子ども好き、子どもっぽかったラヴェルがおとぎ話、メルヘンのお姫様をイメージしていたかも知れないとか、逝去した最愛の母の姿だとか。

音楽的には、ラヴェル自身が、形式的に見るものがないと語った24歳の若書きの作品でだが、変奏技法の一種のメタモルフォーゼ(変容)によって主題が、オクターブ上で奏でられ、次に16分音符の刻みが入った形で奏でられることで、「王女の主題」が様々に変容していくことから生まれる印象の変化。そして係留音。中間部主題で見られる空虚五度。中間部第2主題でのドリア旋法調の中世風な響きなど、ほんの6分強の小曲で、いつもムード音楽的に聞き流していた曲が面白く聴けるようになった。

ラヴェルが1922年に吹き込んだ録音が番組で使われたが、テンポは結構速く四分音符=70程度の速度だったようだ。(当初は54程度の指定だったらしい。)

なお、ラヴェル自身がオーケストラ曲に編曲しており、現在はそちらの方を聴く機会が多い。クリュイタンス/PCOの有名な録音や、小澤/BSOの録音。少し変わったところでは、セル/CLOの録音など、テンポ四分音符=54程度のゆったりとした音楽だった。その一方で、サムソン・フランソワは5分台の演奏時間なので60以上だと思うが、伸び縮みのある表情のある演奏で、これも逆説的だが、オーケストラよりも色彩を感じさせるものだった。

ラヴェルは、交通事故後、記憶力が減退し、晩年にはこの曲を聴いて「美しい曲だね。誰の作曲したものだろう」とつぶやいたという。若書きで、音楽の専門家には評価されず、自分では気に入らなかったという曲だが、音楽家以外の芸術家、一般大衆には好まれた曲で、今のその人気は続いている。

番組での模範演奏は、野原みどり氏。テンポは速めで、スクエアな感じの演奏だった。即物主義、非情緒的な演奏スタイルを意識的に取っているのだろうか。コーダの和音もフォルテでしっかり弾いていた。(フランソワはメゾフォルテ程度で余韻がある演奏だった。)

2008年11月17日 (月)

11月の第11番の候補

2008年は継続して、第何月の数字に因む第何番の曲を選んで、勝手なことを書き連ねているが、11月になるとさすがに有名曲の中から自由に選べるという感じではなくなってしまうような気がして、頼りになる「クラシックデータ資料館」の作品表にあたってみた。

勿論多くの作曲家にOp.11はあることだろうが、大作曲家の作品で第11番となると、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻と第2巻の第11番、モーツァルトのピアノソナタの第11番『トルコ行進曲付き』、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第11番『セリオーソ』、ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調Op.22。

ショパンには練習曲、前奏曲、ワルツ、ポロネーズ、マズルカ、夜想曲に第11番がある。連想からドビュッシーにも前奏曲集の第1、2巻の第11番、練習曲もある。リストも超絶技巧練習曲第11番変ニ長調「夕べの調べ(Harmoniers du soir)」やハンガリー狂詩曲第11番。パガニーニのカプリース第11番。フォーレの即興曲、舟歌、夜想曲。

ショスタコーヴィチには、交響曲第11番ト短調Op.103「1905年」、弦楽四重奏曲第11番ヘ短調Op.122がある。

チャイコフスキーでは『四季』の11月「トロイカで」があるがこれは禁じ手としよう。

複数聴き比べができるものはほとんどないが、ショスタコーヴィチの交響曲と弦楽四重奏曲のこのあたりの番号についてはじっくり聴いたこともないし、いい機会だからじっくり聴いてみようかと思っている。

2008年11月16日 (日)

浅田真央選手 フランス選手権惜しくも第2位

国際スケート連盟 ISU の 公式ホームページに採点表が出ていた。

ホームページ

SU Grand Prix - Trophée Eric Bompard Cachemire Paris, France   13 - 16 Nov Entries/Results

Starting Orders / Result Details

詳しい採点表はPDFファイルで見ることができる。

新世界女王のプレオリンピックシーズンの初戦は、苦いものになってしまった。

詳しい論評は Sports Navi の 伊藤みどりの記事

 

横浜市電保存館

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横浜の磯子区にある市電保存館に行ってきた。この2ヶ月ほどあまり体調がすぐれず、土日の遠出もしていなかったのだが、ようやく調子が戻りつつあるので、小雨模様の天気だったが、クルマで行ってきた。

大人100円、小中生50円。

左はNゲージ用のジオラマ。Nゲージの動力車を有料で走らせることもできる。


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横浜市の鉄道関係の立体地図。

光っている線は横浜線。


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HOゲージのジオラマ。横浜市電も古い街並みを走る。


Pb160413_3 吉村コレクションの鉄道模型が多数展示されている。


Pb160409_2 ありし日の市電の系統図。横浜市南部を縦横に走っている。最近また市電のようなLRT(Light Rail Transit)が見直され、欧州諸国の都市では未だに現役。国内でも広島などでは相当数が走行しているようだ。


P.S. アクセスログを見てみたところ、tenki.jpからのアクセスがあったようで、何かと思って辿っていったところ、日本気象協会の神奈川県の「みんなの気持ち」というページがブログのRSSを自動収集しているようで、そこにリンクが張られていたのだった。地名と天気がキーワードなのだろうか?「横浜 磯子区」「小雨模様」

久しぶりに「名曲探偵」の新事件簿が続く #18ラヴェル、#19サティ

そろそろ新事件簿を放送しないかとNHKの番組表を検索してみたところ、BS2では今日日曜日の夜2008年11月16日(日) 午後11:00~午後11:45(45分)に#18ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』、2008年11月23日(日)午後11:00~午後11:45(45分)サティ『三つのジムノペディ』を放送するようだ。

ところで、この番組の多分実質的なブレーン(監修者)と思われる玉川大学の野本准教授の『はじめてのオーケストラ・スコア スコアの読み方ハンドブック』という題名の本を書店の音楽コーナーで見つけた。立ち読みをしたのだが、番組でも取り上げられていたチャイコフスキーの『悲愴』の第4楽章の冒頭の第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの分奏の部分など「スコアか実演を見なければ気が付かない」点など触れていて結構面白そうだった。

テレビ番組では先日逝去したジャン・フルネの追悼番組が放映される。

2008年 11月17日 (月) 00:40~03:41 追悼 ジャン・フルネ  ラストコンサート」 11月17日(月) 00時40分30秒~02時52分00秒  1. 序曲「ローマの謝肉祭」作品9  ( ベルリオーズ作曲 ) 2. ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491   ( モーツァルト作曲 ) 3. 交響曲 第2番 ニ長調 作品73 ( ブラームス作曲 ) ピアノ : 伊藤 恵 管弦楽 : 東京都交響楽団 指 揮 : ジャン・フルネ [ 収録: 2005年12月21日, 東京文化会館 ] - 出 演 - 伊藤  恵 (ピアニスト) 岩野 裕一 (音楽評論家) 

とのことだ。

最近は、アニメーションの「のだめ パリ編」もまったく見ていないし、音楽は聴いていても記事にする気が減退していたりしている。

ちょっと気になったのは、新聞の紹介記事で知った 日系ドイツ人?アリス=沙良・オット という若い女性ピアニスト、彼女は「名門」ドイツ・グラモフォンと契約して、リストの『超絶技巧練習曲』でCDデビューしたという。(小菅優もソニーに『超絶技巧』を入れているが、彼女はショパンの『練習曲集』がドイツのフォノフォルムで絶賛されたのだった。)

ドイツ人と日本人を父母に持つアラベラ・美歩・シュタインバッハーという20代の若手の女流のことを以前記事にしたが、ここに来て父親が欧州人で母親が日本人という音楽家の活躍が目立つようだ。指揮者ではケント・ナガノは両親とも日系人?のアメリカ人だが、準・メルクルは父親がドイツ人、母親が日本人という生まれだったりする。

2008年11月15日 (土)

久しぶりにズーラシア 新デジカメの試し撮り

2008年2月12日 (火) ツシマヤマネコをナマで見る でズーラシアを訪れて以来久しぶりに動物達を見に行ってきた。

この間、中国から貸与されていたキンシコウが上海動物園にとうとう返却されたり、平面の大駐車場だった第一駐車場がなんだか狭苦しい二階建ての立体駐車場になったり、とうとう来年の春チンパンジー舎と森がオープンする計画になったりしていたようだった。

また、今回は先日購入したコンパクトデジカメの試し撮りも兼ねていた。

画像サイズは少し小さめに設定したのだが、このブログでは1枚あたり1M以上のサイズは投稿不可能とのことで、「縮小専用。」という画像サイズ簡易変換のフリーソフトでサイズを落とす作業が必要になってしまった。これまでは最高画質でも1.3Mだったので、通常では600Kほどの画像だけだったのだが、今回は少し画質を落とすくらでは1Mを簡単に越えてしまうのだ。

「縮小専用。」を通すとEXIF情報が出なくなってしまいつまらないが、今回撮影したいくつかの写真をアップしてコメントをつけてみる。

まずは、最大望遠7倍にデジタルズーム(画質を落とさずにトリミングで拡大するファインズーム)を掛けないもの。さすがにこれまでの3倍とは違いインドゾウの目の表情まで撮ることができた。

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次に最大望遠7倍にファインズーム1.78倍を掛けたもので約13倍。カンムリシロムク。前面のケージの格子がうまくぼけてくれて被写体の鳥にオートフォーカスがうまく合ってくれた。

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スマトラトラの睡眠風景。最大望遠7倍にファインズーム1.78倍を掛けたもので約13倍。

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ドゥクラングール。これはカンムリシロムクのときとは違って被写体にうまくピントが合わなかった。こういうときにマニュアルフォーカスがあればと思う。

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これは別のドゥクラングール。こちらはカンムリシロムクの時のように少しぼけてくれた。

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次は高速連射9コマ/秒で撮影した中の一枚。フンボルトペンギン達はみんな水に入り活発に泳いでいた。22枚連写。

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光学ズーム7倍のホッキョクグマとファインズームを掛けた(13倍)ときの差。

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アカカンガルーたち。広角寄りと13倍。

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ハッチに似た「おじさんカンガルー」のユーモラスな寝姿(13倍)

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この群れの中には須坂市動物園のおじさんカンガルー"ハッチ"とクララとの娘のキララがいたらしい。このズーラシアに貰われてきているとの情報がアマゾンセンターに貼り出されていた。

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動きのチョコマカしたアナグマを高速連写で撮った一枚。25枚連写。

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13倍のニホンザルのオス。この時期オサルのお顔もお尻も見事なほどの赤い色だ。

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先日読んだ鐸木『デジカメに1000万画素』はそれなりに面白かったが、批判の的である最新型の1000万画素のデジカメでも素人としてはそれなりに撮影ができるので、そう落胆したものではないと思った。画質や分解能も大事だが、日常に使うカメラとしては電池のもちが気になった。高速連写で100枚近い枚数を撮影し、全部170枚程度撮影したところ、フル充電(約5時間かかる)の電池がほぼ終わってしまった。後知恵だったが、カタログ記載の通り、オリンパスのこの機種は、電池面では相当弱いようだ。キヤノンあたりは、充電2時間で300枚程度の撮影可能となっている。次に買うときはこの項目は要チェックだ。

また、PC HP のnx6120はカードスロットから多くのメモリーを読み込めるが、どうもマイクロSDが読めないようなので、ドライバのアップデートがあるかどうかを見たところ、アップデートされていたのでインストールしてみたら、読み込みできるようになった。

ところで、今日の朝刊で、日本のお家芸であるデジタルカメラのグローバル市場での売れ行きが相当落ちていて、値段も暴落しており、キヤノンもソニーもオリンパスも利益が減少しているという経済記事が出ていた。技術の革新の反面の値崩れ減少というのが、現在の電気・デジタル機器の最大の問題だと思う。まとものコストダウンをやっていても、国際的に不安定な為替、労働コストの大小によって、まったく儲けが出なくなってしまうという構図はどうも釈然としない。世界がまったく同一水準の労働コストにならなければ、その意味で公正な競争というのは成り立たないのだろうとは思う。

2008年11月13日 (木)

小澤征爾氏が文化勲章受章、オバマ氏黒人系として初の米大統領へ

しばらくブログ記事を書くことから離れていたが、その間の大ニュースといえば、小澤征爾氏が文化勲章受章したこと、オバマ氏黒人系として初の米大統領に当選したことだろうか。

小澤氏の文化勲章は、指揮者としては朝比奈隆氏に次いで二人目らしい。「有色人種として初の」という形容詞が付くくらい多くの重要な音楽ポストに付いている。

オバマ氏は、いわゆる奴隷の子孫としての米国系アフリカ人ではないが、いわゆる有色人種だ。

僻みかも知れないが、やはりこの世界は白人中心なのだということを思い知る。

2008年11月 5日 (水)

デジカメを7年ぶりに買う またオリンパス

Pb0400712001年春に中国に2週間ほど出張したときに、成田空港のカメラ店で購入した愛機 OLYMPUS CAMEDIA D-460 ZOOM。
既に7年以上使用しているが、多少動きが鈍くなってきたところはあるが、相当の酷使にも耐えていまだに現役を続けている。

スペックは、最高1.3Megapixel といういまや携帯電話の付属カメラよりも劣る画素数ながら、結構色のバランスとピントのシャープさがあるようで、たまたま手ごろだと思って買ったものだが、なかなか気に入っているものだ。

Pb040080 今はほとんど使われなくなったフラッシュメモリーの形式、スマートメディアがこのカメラの記憶素子で、画素数が小さい分この64MBでも1280*960で約350KBの写真が150枚ほど撮れることになる。ただ、このカメラを購入したころは、ノートPCのハードディスクサイズがたった1.3GBしかなくて、プレインストールされているソフトを相当アンインストールしても空き容量が不足して、画像データをあまり保存できなかったことや、それよりも、パソコンにスマートメディアを読み込ませるのに、3.5インチフロッピーディスク型のアダプターが必要で、64MB程度の画像でもHDDに書き込むのに膨大な時間が掛かったこともあり、このスマートメディアを10枚以上購入して、整理したいたこともあった。

その後、現在のPCを購入して、スマートメディアなどが読めるマルチスロットから、以前のノートPCでは考えられないほど手軽に画像を読み出し、書き込みできるようになり、スマートメディアは一枚あれば充分になってしまっていた。

D-460だが、オリンパスの以前の機種(フィルムカメラの時代もオリンパスを愛用し、このスライド型のレンズケースシリーズを使っていた)によく使われていたスライド型のレンズケースの動きが最近鈍くなり、時にはレンズが出てこない(レンズケースが電源スイッチになっている)ことも起きるようになり、妻が子どもの学校の広報誌の写真撮影を頼まれたりしたこともあって、これでは少し不安だということで、7年ぶりにデジカメを買うことにした。

職場最寄の大型電器店に、帰路足を運び、展示されている実物をいろいろ触ってみたが、どれも一長一短。さすがに値段の高いものはそれなりの使い勝手のよさがあり、また廉価なものはどこかでコストをカットしているために、近くにあるより高価なものに比べると見劣りがするというように結構迷ってしまった。大手メーカーの美麗なカタログをもらってきて見比べても最新機能の紹介が主で、その機能自体どこまで実際に使えるものかは、試してみなければ分からず、結局は店頭での印象で選ぶことにした。(デジタル一眼レフは、妻の弟がペンタックスのK20Dという高級機を購入しており、夏休みに少し触ってみた。こういうのを使ってみると、やはり欲しいものの一つではあるが今回は家庭用を優先にして諦めた。)

店頭で最も欲しいと思わせたのは、RICOHのR10という機種で、広角28mmから望遠200mm(光学7.1倍ズーム)の能力を持ち、適度な大きさでホールド感もよく、欲しいと思ったが、実売4万円を越す店頭価格だったので、諦めた。コンパクトデジカメで光学7倍はなかなか凄くて、以前なら手ぶれのために使いこなせなかった高倍率も最近の手ぶれ補正能力のアップにより、手持ちでも結構使えるようになっており、探したところ、OLYMPUSの最新機種μ1060が目に付いた(PANASONIC のキミマロズーム 10倍もあったが、少し値段が高かった)。当初店頭価格で3万円を越えており、3万円が上限と思っていたので、ネットの代引きによる廉価購入も考えたが、アフターサービスも考えて近所の量販店を覗いてみたところ、いきなり11月に入って大幅値引きをしており、おまけもついて、3万円未満で購入できた。

Pb040001 これが、フィギュアの浅田姉妹がイメージガールを務めているオリンパスμシリーズの現在の最新機種になる。

D-460に比べると、厚さは1/2、幅は2/3、逆に液晶サイズは縦横とも2倍になる。この7年間のディジタル機材の小型化、ディスプレーの大型化がよく分かるようになっている。

まだ、本格的に撮影をしていないが、フルオートからシーン別最適撮影、少しマニュアル的な露出調整やISO感度調整などのモードが切り替えできるようになっている。少し撮影してみて気になるのが、女性のハンドバッグの中にでも入るようなコンパクトさのため、男性には少し軽く小さすぎるのかホールド感に乏しく、手ぶれ補正が入っていても少しブレ気味になるような気がする。これは慣れの問題かもしれない。また、画素数が10.0Megapixel ということで、画素数競争に追従しているせいか、逆に小さい画像にした場合の「見た目の解像度」が落ちているように感じられる。1Megapixel に落として撮影してもあまり変わらないので、無理な高解像度のせいではないかも知れないが。

なお、今更ながらだが、当然のごとく プリンタの PictBridge 対応なので付属のUSBコードとプリンタをつなげば、カメラの液晶モニターでの操作により簡単に写真印刷ができるのはさすがだし、おなじくPCにつなげば、外部ディスクとして認識され、画像のPCへの取り込みもいちいちフラッシュメモリーを抜かなくてもできるのはこれまた便利だ。(ちなみに、オリンパスは、xD-ピクチャーカードの推進メーカーだが、専用アダプタによってmicroSDも選択でき、今我が家のには2GBのmicroSDが入っている。)

なお、あまり液晶モニターが大きくて綺麗なもので、専用の保護シートを本日購入して貼り付けた。

p.s. 2,3ヶ月前から画像整理ソフトとしては、googleの無料Picasa2を使っている。プリンタ付属のHPディレクタ, Irfanview, Adobe Photoshop Album Mini などを使ってみたが、レタッチや印刷には少し不満があるが、アルバムとしての整理能力は格段に優れているようだ。

購入後の後知恵だが、朝日新聞土曜版で連載が終わった鐸木氏のデジカメのキモで印象深かった満月の撮影での高画素数デジカメが必ずしも解像度が高くないという情報を思い出した。これに反して結局高画素数で解像度のあまり高くないものを買ってしまったようだ。映像の受光部の大きさが解像度を決めるようで、オリンパスのこの機種はその意味では受光部が小さい部類のものだったようだ。これは失敗だった。 

μ1060のCCDサイズ:1/2.33型

比較的メーカーよりと思われるサイトでもこのような記事が読めた。 高画素=高画質は間違い? 撮像素子のサイズに注目するコンデジ選び コンパクトデジタルカメラ 2008/06/25 00:12

2008年11月 1日 (土)

HP製ノートPCのバッテリパックの自主回収

米国で加熱、発火、火傷の恐れがあると発表されたらしいが、今日の朝刊の企業広告欄に「自主回収」のお知らせが掲載されていた。HPのホームページでのお知らせはここ

「日本国内では約600個(世界では約74,000個)が該当すると算出しています。」とのこと。このバッテリーセルを製造したメーカーは、テレビニュースによるとソニーとのことだった。

関連して検索したところ、2008年10月31日 12時01分00秒 ソニー、過熱事故を受けてノートパソコン用電池10万個を自主回収へ とのニュースが見つかった。

ソニーの発表資料はこれ

バッテリーの種別はリチウムイオン電池とのことだ。

私のPCも機種としては対象製品に含まれていた。念のためにバッテリーを取り外してバーコードのロットナンバーの頭二桁を確認したが、該当品でなくてほっとした。

このPCを購入した直後にも同様のバッテリー不具合が報道された。

現在、省資源のためSANYO製のeneloopを10個以上愛用している。こちらはニッケル水素式の充電電池なので大丈夫とは思うけれど、いつどんな落とし穴があるか分からない。(三洋電機は、経営不振のため、旧松下電器・現パナソニックによって企業買収される見通しだという。このような優れた製品も開発しているのだが)

ちなみに、2006年09月30日 01時34分00秒 ノートPCやバッテリーを爆発炎上させない方法まとめ によると以下の通り。

  1. 互換性のないバッテリーや充電器は使わない
  2. 熱くなるので、ひざの上に乗せて使わない
  3. 気流が制限されるので、ソファー、ベッド、カーペットなどの上に置いて使わないこと
  4. 接続のゆるいバッテリーとの接触を維持するために何か金属を挟まないこと。例えばコインやカギ、宝石類。
  5. つぶしたり、穴を開けたり、極度の圧力をバッテリーに加えないこと
  6. 硬いところへ落下させないこと。衝撃で内部が壊れる可能性があるため。
  7. 熱い場所に置かない
  8. しめった場所で使わないこと。正常に動いているように見えても、ゆっくりと浸食されるため。
  9. バッテリーの充電や使用のガイドラインに従うこと

2や3あたりはうっかりするとやる可能性があるので気をつけたい。ただ、2のような制限は lap topというノートPCの別名 膝上コンピュータに反することだ。

 

『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳、光文社古典文庫版)の翻訳の読みやすさについて

光文社とえば、カッパブックスとかの実用的な出版社というイメージが強いが、このところこの『カラマーゾフの兄弟』の新訳が読みやすいという評判などで、急速にその印象が変わっているように思う。

我が家では、父が戦後の教養主義の影響を多大に受け、クラシック音楽関係の事典などの書籍も多く収集したが、本棚で果然異彩を放っているのが、河出書房版の米山正夫米川正夫訳の『ドストエーフスキー全集』の一そろいだ。私も高校生ぐらいの頃から、『罪と罰』『貧しき人々』『賭博者』『虐げられし人々』『地下生活者の手記』、そしてこの『カラマーゾフの兄弟』を手にとって見た。読んだと敢えて書かないのは、名作・傑作とされるそれらの作品が非常に難解であり、すんなりと、つまり物語りとして普通に理解できないという壁にぶつかり、多くの人々が傑作、名作として讃えているのに、未だ自分には内容的に高度過ぎて読みこなせないのだろうかと落ち込んだ経験があるからだ。大学になってからは、やはり主に工藤精一郎の新潮文庫版の『罪と罰』などを法学部生としての関心からも読んでみたが、そのストーリーの大まかな部分は理解できたとしても、なぜかすんなりと頭に入らず、むしろ江川卓の『謎解き罪と罰』などのエッセイが面白かったりした。その一方で、トルストイの『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などは、読書としてそれほどの難解さを感じずに、ストーリーにどっぷりとはまることができた。『戦争と平和』は、自分が読んだ小説の中でも、トップクラスに面白かった。

確か、近年、東京大学の学生が『カラマーゾフの兄弟』の書名も知らないというような少し眉唾的なマスコミ好みの調査?が話題になったことがあったと思うが、ちょうどその頃この亀山郁夫の新訳が話題になったのではなかっただろうか?その話題性もあっただろうか1年ほど前に第1巻を購入して読み始めたところ、今から20数年前に米山米川訳で読んだときに印象に残ったゾシマ長老の場面などが結構スラスラと読めて驚いた。

翻訳でも、文章でもそうだが、たった一字の書き間違い(typo)が、意味を理解しながら読んでいる支障になることがある。適当な例が直ぐに浮かばないが、先日も職場のメールで、何とかいう用語が誤変換されていて、前後関係から違和感があり、そこで突っかかってしまったことがあった。その言葉が誤変換だということがわかり、正しい言葉と置き換えてようやく前後の意味のつながりが理解できたのだが、翻訳ではこのような不自然な言葉(極端な例では誤訳)が結構多いようで、それが普通の意味での理解を妨げるケースが多いと思う。論理的な法律文書の翻訳でも、翻訳している本人は原文の意味を理解しているから多少不自然な日本語訳でも、先立つ原文の理解を前提として意味が取れるが、日本語訳しか読んでない人には意味が理解できないということは、自分の仕事の中でも結構あった。そこが翻訳の難しさでもあるように思う。以前『超訳』という言葉が流行ったことがあったが、日本語だけで読者が理解できるためには意訳に近い自然な日本語が必要なのだと思う。ただ、そこに古典としての原文の存在があり、語学学者や翻訳家からの批判も当然あるのだろうから難しいところだ。

この亀山訳にしても、これほど読みやすいということは、米山米川時代よりも原文の理解度が非常に上がっていて、翻訳者の中で十分にこなれていることもあるだろうし、日本語としての自然さと、前にあげた誤訳の少なさ(多いか少ないかは原文をまったく読む能力がないので定量的には分からないが、理解しにくいセンテンスが少ないことでそう思う)が重要だと思う。

以前も、確かカントの『純粋理性批判』やダンテの『神曲』の新訳が非常にこなれた日本語になっていて、難解だと思われていたのは実は翻訳上の難解さで、古典として読み次がれてきたものは、いかに内容を理解するのが難解だとは言え、意味不明の文章で書かれているわけではないことが喧伝されたことがあったように記憶しているが、今回の翻訳の例でも分かるようにドストエースフキーの難解さというイメージも、実は翻訳の難解さだったのかも知れないと思った。

また、以前若い頃に名作として奨められて読んだ川端康成の『雪国』が、読んだ当時にはまったく意味もわかっておらずただ目を通したに過ぎなかったのが、ある程度人生経験を積んでから改めて読んで見て、何を描き、どのような意味を持っているのかがそれなりに分かったように、何でもかんでも若い頃に名作を読めと言っても、天才と賞賛される作家が若いとは言え全精力を傾けて書いたような内容の濃い、『カラマーゾフ』のような思想的、哲学的な小説は、やはりある程度の幅広い知識や経験があってこそ内容を熟読玩味できるようにも思った。若い時代に高峰にチャレンジすることは重要だが、その場合にもルートもはっきりしないようなめちゃくちゃな藪漕ぎが必要な場合には、途中でへばってしまっても当然だし、相当な高峰でも、有能なガイド(翻訳家、教師)が付けば、その年齢、経験に応じて頂上までたどり着ける(完読)できるのではないかとも思った。

p.s. 第1巻で興味深かったのが、第3編 『女好きな男ども』の第3章『熱い心の告白 - 詩』において、長男のドミトリーがシラーの『歓喜に寄せて』(ベートーヴェンの第九の歌詞となっている部分とそうでない部分も)の一節を朗誦し、その中の 原語では Wollust と Wurm いう私が以前から興味を持っている単語について、ドミトリーが自らの性格、性癖を自嘲するかのように、まさにこの詩句が自分を示しているというようなことを弟のアレクセイに対してしゃべる部分があって驚いた(p.285前後)。ドストエースフキーの原文では、この部分はシラーのドイツ語のままなのか、それともロシア語で「翻訳」されたものなのか。『虫けらには好色をさずけ』と訳されている。

以下は、上記サイトからのコピー&ペースト

3. Freude trinken alle Wesen
生き物は皆、歓喜を飲む、

An den Brüsten der Natur,
自然の乳房によって。

Alle Guten, alle Bösen folgen ihrer Rosenspur.
善人も、悪人も皆、自然のバラのふみ跡に従う。

Küße gab sie uns und Reben,
自然は私達にくちづけとぶどう酒をくれた。

Einen Freund, geprüfut im Tod,
(そして)死のなかで試された一人の友を。 

注:モーツァルトの魔笛の試練を想起させる

Wollust ward dem Wurm gegeben,
官能的な快楽は虫けらに与えられ、

注:Wollsut は Freudeに対立する否定的な概念か?

Und der Cherub steht vor Gott.
そして智天使ケルビムは神の御前に立っている。

この連の訳が掲げられているが、どうも逐語訳ではないようだ。ドイツ語からロシア語、そして日本語という過程を辿ったのだろうか?

追記:2008/11/13

誤訳や誤記の問題についてこの記事で批判しているのに、この記事の「米川正夫」が「米山正夫」になっていたのに気がついた。慚愧に耐えない。客観性を持って、他人の文章を読むように推敲や誤字脱字のチェックが必要なのだが、自分の文章に対して客観的になれるのは一日以上経ってからなので、思いつきで投稿しているこのブログのようなものはどうも誤字、脱字、ミスが多い。「亀山郁夫」からの連想で、「米山」としていたようだ。なお「米山正夫」は、「リンゴ追分」などの作曲家だった。

なお、Amazon.co.jp のレビューに書かれていた誤訳騒ぎには驚いた。週刊新潮に掲載されていたというが、「ドストエーフスキイの会」というHPでの指摘だ。


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