Robert Schumann (1810-1856)
Symphony No.1 in B flat major, Op.38, "Frühling"
1. Andante un poco maestoso - Allegro molt vivace 11:35
2. Larghetto 7:37
3. Scherzo: Molto vivace 5:48
4. Allegro animato e grazioso 9:55
Rafael Kubelik / Symphonie-Orchester des Bayerischen Rundfunks
Recorded: May 1979, Herculessaal, München
手持ちのシューマンのCDをほぼiTunesへ取り込み終わった。ケンプの『子どもの情景』は、Decca Piano Masterworks にも収録されていたので、ダブりになるが、それもカウントしてちょうど1日(24時間)ほどになる。
iTunesの名前を並べ替えという項目に、たとえば上記の交響曲『春』の第一楽章ならば、Schumann038-01 というように入力しておき、シューマンのスマートプレイリストで、その項目でソートする(というのもiTunesで取得できる名前が同じ曲でも表記が様々なため簡単にソートできない)と、一応作品番号順に簡単に並べることができる。それによって、シューマン独特の一つのジャンルを集中的に作曲するという習癖を容易に確かめることができて面白い。
交響曲は、クーベリックがバイエルン放送交響楽団と録音した全集でほぼ満足してしまい、自分としても意外だが同曲異演盤を保有していない。また、結構愛好しているとか自分でも思い込んでいながら、これまでシューマンの交響曲をこのブログの記事に取り上げていなかったようだ。
さて、久しぶりに朝から晴れ上がり、ようやく春の訪れを感じられるようになってきた。ただ、2月に咲いた梅は、風雨と雪に叩かれて散ってしまったものも多く、野辺の雑草もまだ身をかがめているようで、緑色の若芽の姿はほとんど見ることができない。
この「春の交響曲」と呼ばれる作品だが、シューマンは当初 第1楽章 - 春の始まり、第2楽章 - 夕べ、第3楽章 - 楽しい遊び、第4楽章 - たけなわの春 というような表題を付けていたが、その後取り外したという。したがって作曲家の意志を尊重するのなら、『春』と呼ぶのは適当ではないのだろうが、それでも作曲家のインスピレーションが季節の『春』から来ているというのは疑いようのないことなので、それによることはあながち間違いではないだろう。
関東の春は、冬の寒さがそれほどでなく、快晴の日々が多いので、北国や山国ほど春の訪れを心待ちにするということが少ないように思う。それでも一進一退する季節の進みを感じるのは、精神的、肉体的には結構しんどいものがあるが、春の闌(たけなわ)が待ち遠しい。
信州の高冷地や北海道では、ちょうどヨーロッパの春と同じように、4月の終りから5月にかけて木の花では梅や杏や桜、草花では木の間に片栗や水芭蕉が一斉に咲き始め、それこそ生命の爆発のように劇的に景色が一変するという趣がある。シューマンの『春』の最初のファンファーレは、そのような春の開始を告げるもののように聞こえる。
クーベリック指揮のこの録音は、定評のあるもので、錯綜したシューマンのオーケストレーション(鳴りがよくないからと言って決して下手とは言えないとおもうのだが)を解きほぐし、特に対抗配置のヴァイオリンが効果があると思うが、比較的明快な音楽として提示してくれる傾向があると思う(あまり聴き比べをしていないので、断定的なことは言えないが)。
ただ、同じ春を題材にしている作品としては、シューマンの場合、よりデリケートで美しい歌曲集『詩人の恋』の第一曲"Im wunderschönen Monat Mai" (直訳すると、「驚異的に美しい月、五月に」 となる)があるので、少々この交響曲の場合、無理してスケールを大きくしたという作りの粗さが感じられることもある。確かに春は美しいだけでなく、乾燥し、強風が砂埃を舞い上がらせて埃っぽい季節でもあるのだが。
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