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2009年6月 1日 (月)

音楽家の醸しだす雰囲気、立ち居振る舞い、印象と音楽

以前から思っていたことなのだが、その音楽家の本質的な性格などというものは誰にも分からないのだが、たとえば指揮者の体格、大柄、小柄、やせている、太っている、ハンサム、そうでもない、気取り屋、素朴、陽気、陰気、孤高で打ち解けない、ざっくばらん、知的、本能的、鷹揚、神経質、高尚、低俗、老人、若者、白人、有色人種、などというような目に見えたり、印象として感じられる部分と、その作り出す音楽から受ける印象というものが結構相関性があるのではないかと思ったりしている。

体格の大小、肥痩、老幼、男女、などの属性は主観がそれほど交じらないが、美醜や性格、個々の奏者との相性のようなものは、非常に主観的な要素の強いもので、それこそ何の根拠にもならず、むしろその音楽を受容するリスナー個人の印象が、聴く音楽の性格に対して何らかの先入観を与えているのかも知れないということも大いにあることなので、憶測の域を出ない。

また、ブラインドテストではないが、あまりよく知らない曲を聴くとした場合などで、たとえばベーム指揮の録音が間違ってカラヤンのCDケースに入っていて、よく確認もせずに聴いた場合には、カラヤンの少々気取った豪華な雰囲気が感じられてしまうこともあるかも知れないし、逆の場合では、カラヤンの録音をベームの写真を見て先入観をもって聴いたときには、謹厳実直な演奏だと思ったりもするかも知れないので、まったくの仮説ではあるし、相当自信もない。

昨日の日曜日の朝、『題名のない音楽会』で、金聖響がゲストで出演して、東京シティフィルを指揮して、ベートーヴェンの交響曲第5番の第1楽章を、司会の佐渡裕と一緒にあれこれと実験的な試みをしたのだが、最後に金自身が日本系の指揮者としては、現代オケを用いてのピリオドアプローチに取り組んでいることもあり、楽器配置や弦のヴィブラートの抑制など、金の解釈による第1楽章全曲を演奏して見せた。金自身、のだめの千秋のモデルとされるだけあり、いわゆるイケメン系であり、スリムで切れ味のいい指揮ぶりなので、奏でられる音楽も、そのように聞こえた(ような気がする。)目からの情報量は、聴覚、臭覚、味覚、触覚に比べて格段にボリュームが多いといわれているので、聴覚もその影響を免れることはないだろうし、演奏者の側にしても、老大家が、少ない棒の動きと眼力で(シューリヒトのごとく)指揮して出てくる音楽と、若手バリバリの指揮者が明快な棒捌きで、躍動感のある音楽を作ろうと煽るのでは出てくる音楽は当然違うだろうとは思う。

金指揮のベートーヴェンの第5の第1楽章は、1000回以上登場するという「運命のモチーフ」の各パートでの受け渡しが明快に表現されて、ピリオドアプローチらしい明晰な面白さが感じられ、結構関心した。ただ、コーダでのホルンの倍の音価(セルやライナー、ジンマンでは明瞭に聴こえる)でのモチーフは特に強調されることはなく、過ぎてしまったし、終結部直前の一瞬突然ピアノに音量を落としてから再度クレッシェンドするというのは、初めて聴く解釈であり、少し驚いた。才気煥発で、自信に満ちた若手バリバリの指揮者の音楽という印象を、映像と音の双方から受容した経験だったが、これがまったくの音だけの受容だったらどうだったか、我ながら結構興味深いものがある。

以前のこの番組でも素人指揮者大会が面白かったが、指揮台に立つ人次第で音楽が変わるというのは、確かにあることであり、数値化はとても無理だろうが、雰囲気、立ち居振る舞いのようなものが、奏でられる音楽に影響を与えるというのはあながち間違いではないかも知れないなどと、改めて思う。

こんなことをつらつら考えたのは、またもiTunesでの音盤整理が背景に少し絡んでいる。いわゆるジャケット写真(すでにCD時代ではジャケット=上着ではなく、単なるパンフレットの表紙なのだが、ついジャケット写真と呼んでしまう)をスキャナで取り込んで、曲目リストに添付することが可能なのだが、これまでこのブログを書く際にスキャンした画像などをフォルダから探してきて、読み込ませたリストに添付したりする作業を、音楽の取り込みと平行して始めたのだが、そのような視覚的なイメージが付加されるだけで、無味乾燥なアルファベットのリストに色が添えられ、聴こえる音楽も、イメージがないときよりも、個性的になったような気がしたということがあった。映像イメージと音楽というと、調性と色彩を結びつけたスクリャービンのような例もあるし、作曲家には調性ごとに色のイメージが浮かぶ人もいたというエピソードも聞いたことがあるので、聴覚と視覚の関係というのは相当デリケートな面白さがあるようだ。

余談だが、今日の夕刊(朝日)には、金聖響が、神奈川フィルを財政的に立て直すというような取り上げ方で、大きく紹介されていたが、私がいくつか読ませてもらっている神奈川フィルの演奏会評では、前音楽監督の現田茂夫の時にも神奈川フィルのコンサートは相当活況を呈していたようなので、その予備知識で今回の特集記事を読むと、少し記事の性格が金聖響へのヨイショ的な意図があるようにも感じられた。

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コメント

導入部分の考察は面白いですね。要するに、役者でも物書きでも同じと思うのです。例えばこうしてBLOGに書かれている事をあとで客観的に読むと、自身が日常社会の中で示している人間像と異なる事も多いかと思います。つまり、何処に本質的な性格があるかというと一概には言えないという事になるかと思います。少なくとも職業的な表現をしている者は、特に音楽家などの表現は肉体的なリズム感などと直接結びついているので、たとえ共同生活していてもそこではなかなか見えない本質的なものが「芸術表現」に表れていると見てもよいかと思います。

もしベームとカラヤンのモーツァルト解釈に大差がないとすると、そもそもそうした楽曲が演奏実践の歴史の中で演奏家個人の表現というものを必要としていないとも考えられます。但し、楽器が変われば音が変わるのは事実ですから、そもそも楽曲自体が歴史的演奏実践に依存している関係も忘れてはならないでしょう。

pfaelzerweinさん、愚考にお付き合いいただき恐縮です。本質的な性格がどこにあるかというのは私の愚見では棚上げせざるを得ない難問でして、特に音楽の指揮者においてはそれよりも外面的な容姿などが結構その音楽作りに影響しているのではないかという相当形而下の考察です。

ショルティのコワモテであのロボットのようなギクシャクした指揮から生まれる音楽が、非常にソリッドな感触で明快であり、陰翳や中間色を捨象しているように聴こえるとか、ジュリーニの優雅で紳士的な様子からあのようなカンタービレに満ち品格が高く聴こえる音楽が生まれるとか、才気煥発でナルシスティックな傾向があり、音楽表現の塊のようなカルロス・クライバーの指揮ぶりからあのような変幻自在で活気に満ちた音楽が生まれたとか、そのような類の世間話の一種のつもりでした。

カラヤンとベームの場合も、モーツァルトについては、それぞれ耳なじみになっており、その解釈や演奏の特徴もある程度記憶の片隅にあるのであまり適切な例ではないのですが、たとえば私があまり馴染みのない、R.シュトラウスのオペラなどを、たまたまジャケット写真を取り違えて聞くというような場合には、目からの情報が先入観になり、本来はベームの録音である方を豪華絢爛と感じ、逆にカラヤンの録音の方を質実剛健と感じてしまうことがあるのではないかという仮定の話で、このあたりまだまだ思いつきの域を出ないようなところがあります。

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