モーツァルト『フィガロの結婚』をつまみ聴き 文化の相互理解について考えた
昨年の1月頃に開始し、ちょうど今頃から熱中していたのだが、途中12月頃に中断していたiTunesへのCDの取り込みを1月末ごろから再開した。
最近、ようやくモーツァルトのオペラのCDを取り込み終えた。Gracenoteのトラック名が不完全なので取り込み時に訂正が面倒なため、後回しにしていたものだ。取り込んだのは、
なお、モーツァルト生誕200年(1956年)記念録音の10枚組みは既に取り込み済み。
まだ、『フィガロの結婚』ヴァルター(ワルター)指揮ヴィーン国立歌劇場(1937年ザルツブルクライヴ)が残ってはいる。
さて、このところ、耳なじみのない曲に挑戦したりしているので、久しぶりにおなじみの『フィガロ』のアリアを頭だしして何曲かをつまみ聴きしてみたところ、じーんと感動してしまった。特にケルビーノの2曲の青春のアリア。若かった頃には、親が懐メロを愛好するのが不思議だったが、それと同じような感覚を自分も持つようになったらしい。
それにしても、このように、18世紀末の西洋文化の精髄であるようなこれらの音楽作品と、その20世紀後半での「再現」演奏・歌唱を聴き、それを21世紀初めの極東人が心を振るわせるというようなことがあるのだが、逆に若い頃には感じなかったことだが、洋の東と西の相互理解はなかなか難しいように昨今思うようになっている。
否、むしろ、先月のヴァンクーヴァーオリンピックがきっかけで表面化したように、隣国同士の理解も難しいのも最近実感しつつある。自分の中で、楽天的な寛容さがどんどん消失してきているような気がしてならない。これは世界を覆うような大きな時代の雰囲気なのか、それとも多くの社会問題を山積している現代日本がかもし出している雰囲気なのか、それとも自分自身固有の問題なのだろうか?
イルカ問題(ドキュメンタリー映画"The Cove" 〔入り江という意味〕の米国でのアカデミー賞ドキュメンタリー部門賞の受賞)と、クジラ問題(シー・シェパードというオーストラリアやニュージーランドに本拠をおく反捕鯨団体による日本の調査捕鯨船への妨害行為で妨害船の船長が日本の海上保安庁に逮捕された)が相次いで世界的に報道されている。また、地中海、大西洋のクロマグロの絶滅を防ぐ名目でのクロマグロの国際取引がワシントン条約で禁止される恐れが高まっている(これに反対しているのは、日本、韓国、オーストラリアくらいらしく、欧米各国は禁止賛成とのことだ。)
突然のように巻き起こったトヨタへのバッシング問題と絡めると、このような大合唱には日本に住むものとしては被害者意識を持ってしまいがちだ。このような感覚が、第二次大戦前のABCD包囲網ではないが、日本の国際連盟脱退の頃にもあったのかも知れない、などと少し非歴史的で、論理性のないことも考えてしまう。ただ、これが島国的な僻み根性も入っているものではあると意識していても、「なぜ、日本だけが責められるのか?」という意識がわきあがってくる。
一方、米国、豪州、ニュージーランドという国々は、ものすごく粗雑に言うと、いわゆる英国人アングロ・サクソンが、先住民を追い払い建国した国なのだが、その英国人の動物愛護の歴史もそれほど古いものではないということも、先日も触れた『ロンドン 旅の雑学ノート』というエッセイを再読して驚いたことだった。
19世紀の英国人は、パブで犬にネズミ殺しをさせるショーを賭けをしながら楽しんでいたという。それ以前の時代には、牛や熊をつないでおき、それに闘犬を飛びかからせて弱らせるという牛いじめ、熊いじめが人気抜群の見世物であり、闘鶏は当然のように行われていた。また、貴族のスポーツといわれる「キツネ狩」は、元々害獣であるキツネを退治するのが目的だったというが、それをスポーツ(娯楽)にしてしまったのが彼らだ。さらには、犬を鉄串につなげた金属性の回転籠に入れて、その熱で犬が苦しがって籠を回してローストビーフを焼かせるという装置まであったという。キツネ狩りが今でも行われているのかは知らないが、現在ではそのような娯楽への反省や罪滅ぼしからか英国人は猛烈な動物愛護精神を発揮しているようだ。(ただ、その時代の英国人は、動物は愛護したかも知れないが、残酷な植民地政策を世界各地で繰り広げていて、本国はその収入で豊かだったということも忘れてはならないだろう。要するに動物は愛護したが、植民地の人間にはその精神は及ばなかったのだ。)
そして、かの国の船乗りたちは、ドードー(『不思議の国のアリス』にも登場)やオオウミガラスを大虐殺してついには絶滅においやった過去を持つ。オーストラリアでは、かつて1965年までは白豪主義(White Australianism)を唱え、先住民(アボリジニ)を差別し、タスマニア・デヴィルに不名誉なデヴィルなどという名前を付けて差別し、野生カンガルーをステーキとして食い、ニュージーランドではキウイ(鳥)を絶滅させてもいる。
そこに、アメリカ的な正義の世界への押し売り「など」が絡んで、いわゆる日本バッシング的な状況を呈しているようにも解釈しうる。
現在、オーストラリアはマルチ・カルチュラリズム(多様な文化を尊重する思想、多文化主義)が公的に唱えられているというが、それが全世界的に広められなければならないはずだ。もし、オーストラリアが、「野生カンガルーを狩猟して食肉にする」行為を映画に撮られて、全世界に「非難」を目的に公開されたらどう思うのだろうか?
伝統文化、固有文化というものは、他の独自性があるからこそ存在意義があるというところがあり、欧米的な世界観を世界中に及ぼそうとする昨今のグローバリズムの動きとは相反するものではある。主体が欧米諸国なので、彼らの「固有文化」があまり批判や非難の対象になることは少ないので、逆に彼らに「非難」「批判」される側の痛みが感じられないのではないかと想像する。
脱亜入欧が、明治以来の国是だった日本で、日本の江戸時代頃の西洋音楽に心を奪われている自分が言うのもなんだが、一方的な文化の輸入ではなく、相互作用、相互理解が健全な関係にとっては重要ではないか、と当たり前のことを考えてしまう。
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コメント
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読みはじめは「苦手なオペラ」の話かと思いましたら、凄く本質的なところまで展開しましたね。私なりに、解釈すると、モーツァルトのオペラの多層的な面がテーマになっているかと思います。
一つは、普遍的な感情表現、一つは、その抽象化された劇場的洗練、一つは、創作・芸術家としての表現意思と分けても良いかと思いますが、その各々の面が表層から深層へと重層化されているのではなく、丁度対位法的にお互いに影響しあっていると考えるべきかと思います。
最後の面こそが、フランス革命を経て啓蒙思想を体現した天才作曲家の所以です。つまり、まだ当時の多くの聴衆が気がついていなかった同時代の気風を芸術作品として結実させる行程にこの作曲家の天才があると思います。それがなされることではじめて、興行的成功へと導く劇場効果がもたされ、そうした表現を普遍化させ現在にまで受け継ぐものとしてしていると考えます。
さて、先日からベートーヴェンの版の問題やまたはnarkejpさんのブログでの美学のお話がありましたが、そこで「芸術の創作意思」を考える事は、創作家がそこでなし得ようとした啓蒙でしかないとするのはアドルノなどの考え方の基本にあるかと思います。
つまりです、ここからが特に日本での過去二百年に及ぶ音楽芸術の需要の問題となりますが、そのエポックこそは少なくとも芸術を通して人々が啓蒙され自覚と覚醒からよりよき人間とならなければいけないと言う基本理念があるとも言い替えられます。所謂音楽の内容ですね。日本人が履き違えている「情操教育」の一貫としてのそれは、ここで指摘された一つ目の層の普遍化された感情でしかありません。モーツァルトは近松門左衛門と同様に、そして二つ目の層の劇場効果までしか考えていなかったでしょうか?その先の三つ目の層が異なります。例えばベートーヴェンがトルコ行進曲をそこに交えてどのような効果を期待したのでしょうか?要するに日本の音楽愛好家はここからの本質的な内容に触れると急にアレルギー症状を示して拒絶反応を見せ、それをイデオロギーと称して自らを覚醒から切り離して自閉的に音楽で夢想をはじめます。
さて、それは上の現在世界で起きている社会問題への日本人の反応にも表れています。それは、近代を振り返る時に、上のような素晴らしい芸術や文化が享受された欧州社会でその啓蒙思想が動物愛護どころかナチのユダヤ人殺戮として「精華」を見るのです。その事実を前にして、我々は何をなせるかという課題でもあります。
例えば日本人が創作意思とその効果と結末を考えること無しにバッハをなんら穢れなく演奏して受容しようとしても、もしくは中共やイランが科学技術を平和利用すると言っても、それは容易に放っておけない事なのです。歴史的な経験があるからです。同じ過ちを繰り返すことなく、少なくとも少しでも良かれと思う方向へと進める世界観があり意思がそこにあります。
所謂多文化主義というのは、三つ目の面を敢えて無視して表層的に関連なく並置することであり ― つまり近代の遵法精神の基礎にもある啓蒙思想をそのまま放置することでもある、それを考えない無反省なティーレマンの音楽実践やリンリンのモーツァルトを放置しておくという市場経済の優先にそれが悪用され易いと私は考えます。
投稿: pfaelzerwein | 2010年3月17日 (水) 16:59
大変長文のコメントをいただきありがとうございます。私の元記事よりもさらに深く、さらに発展した議論を展開していただき恐縮です。
我ながら、このところ、過敏反応なのか、疑心暗鬼なのかはっきりわからないのですが、一連のような「日本バッシング」的な出来事が気になっていました。その最中に、感覚的に18世紀の西洋文化の精華に感動する自分とのギャップを、モーツァルトの音楽の懐メロ的な感激から思い起こされたのでした。
モーツァルトの多層性や啓蒙性、アドルノによる美学的な議論については正直言って知識、理解の及ばないところではありますが、とても深遠な意見をいただき、勉強になりました。
投稿: 望 岳人 | 2010年3月18日 (木) 22:11