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2012年5月30日 (水)

保元の乱の大義名分はどこにあったのだろうか?

5/27(日)の大河ドラマ『平清盛』に関連して、今回はドラマの脚本や演技ということよりも、平安時代の死刑をも忌み嫌った支配者層が、どのような大義名分を以て、武力抗争にまでいたったのだろうか、と疑問に思った。朱子学的な「大義名分論」はもちろん当時行われなかっただろうが、それに代わるような、自己の権威、権力の正当化の契機を、それぞれの陣営がどこに見出し、アピールしたのだろうか。いわゆる武力行使の正当化はどのようにして行われたのだろうか?

この乱により、いわゆる武者(むさ)の時代が幕開けになったのだから、おそらくそのような論考は出ているのだとは思うが、結構気になる。

日本の歴史で支配者層が武力で争った例としては、これ以前の飛鳥・奈良時代には天皇家や貴族層の勢力争いが武力によって決着を見た壬申の乱、薬子の乱、それより以前の大化の改新のクーデタ、それ以前の聖徳太子の若い頃の蘇我氏と物部氏の抗争(戦争)など、政治の中枢の支配権の争いが武力に頼ったことはそれなりにあった。しかし、そのような軋轢の解決方法を少なくとも支配者層においては、平安貴族たちは、保元の乱に至るまでは採用しなかったのではなかったか?

平氏、源氏が院政や摂関家に深く食い込んで、朝廷内での地位を高めていったのは、今回の清盛の父平忠盛でよく描かれてはいたが、それ以前にも八幡太郎義家や、さらにそれ以前の坂上田村麻呂もそれなりの地位にまで上ったのではなかったろうか?それでも、武力が直接政権奪取には使われなかったようだ。

古代の貴族政を脱して、中世の幕を開いた保元の乱ということが言えるのだろうが、このドラマでも描かれている、平氏による日宋貿易や、関東武士団による荒蕪地の開墾などによる農業生産力の上昇など武士団の経済的な上昇がその背景にあり、それに頼らざるを得なくなった堂上貴族たちが、その抗争にその力を用いたのだろう。

上皇とその弟の天皇の争い、藤原摂関家の関白と氏の長者である左大臣の争いを武力で決着しようと決断したのは誰なのだろうか?

参考になりそうなこのようなサイトを見つけた。保元から壇ノ浦まで

R0011600_2 (東京国立博物館 平治物語絵巻 六波羅行幸より)

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