6月3日の大河ドラマ『平清盛』を見て
保元の乱に決着が付き、左大臣頼長は矢を首に受け、奈良に避難していた父忠実の元に助けを求めに向かったが面会を拒否され、舌を噛んで自殺した。頼長がかわいがっていた白い鸚鵡が頼長死後に忠実の元に瀕死の体で舞い降りてきて、「父上、父上」と言葉を発して死ぬという学芸会的な描写がなされていて鼻白んだ。これではまるで「南極大陸」の犬たちの擬人化演技並みではなかろうか?
清盛と忠正の関係はこれまでの現代的大家族主義道徳の奨励に沿って描かれていた。清盛は忠正を匿い、助命するというストーリー。古代・中世の武士達の道徳・忠義観念がどのようなものだったかは知らないが、もっと殺伐としていたのではなかろうか?
一方の源氏側は、為義と義朝親子の断絶は強く描かれ、ただし為義が義朝の殿上人への昇進を陰ながら喜ぶという設定になっていた。保元物語では、義朝は、父為義と、兄弟たちの助命の願いを、平清盛が叔父平忠正の助命願いを行わなかったことにより同列とみなされて却下されると描かれている。このドラマでは、清盛を清廉潔白なヒーローとして描く最近の薄っぺらは大河の伝統に則って、上記のようなべた甘ドラマに堕してしまっているようだ。
崇徳上皇は哀れにも、藤原俊成(*)のみが随身するのみとなり、仁和寺で出家。(この部分見直したところ、俊成ではなく、教長という人物だった。)
戦後会議で、信西の進言により上皇は配流となり、敗軍の武士達は上皇への厳しい罰にバランスを取るように、死罪が申し付けられることになった。ただし、このバランスのとり方は妥当だったのだろうか?死罪を極力嫌ったとされる平安貴族たちの心境や忌避感にも変化が表れてきたのだろうか?そのあたりをもう少し知りたいと思わせた。
(*)追記:藤原俊成に関するホームページに以下のようにあるのを見つけた。
崇徳院主催の久安百首のメンバーに加えられ抜擢されてその部類に当たったが、後年「保元の乱」に敗れて讃岐の行宮に生涯を終えられた崇徳院は、崩御後特に俊成宛てに長歌を遺されていたことが判り、その恩顧の深さが知られよう。
再追記:歌人と知られる藤原俊成ではなく、同名の図書允俊成(ずしょのじょう、としなり)という人物がいたらしい。(保元物語)この人物が、悪左府頼長の南都落ちに付き従ったので、崇徳上皇の随身者と混同してしまった。もっとしっかり見なければだめだ。なお、歌人藤原俊成の方は、このドラマの最初の回の方にまだ若い貴族として登場していたらしい。
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